第31話:「大自然のマイナスイオンやっば! 空気おいしすぎ!」
第31話:「大自然のマイナスイオンやっば! 空気おいしすぎ!」
午前四時。
富士の北西麓に広がる、約三十平方キロメートルに及ぶ広大な原生林。青木ヶ原樹海。
樹齢数百年を超えるヒノキやツガの巨木が、天蓋のように視界を完全に塞ぎ、夜明け前のわずかな月光すらも地表には一ミリも届かない。
足元は、過去の火山噴火によって流れ出した溶岩流が冷え固まり、無数の亀裂と空洞を生み出した玄武岩の岩肌だ。その上に、分厚い苔と腐葉土が何重にも堆積し、歩を進めるたびに、泥水をたっぷりと吸い込んだスポンジのような嫌な沈み込みを見せる。
倉田涼音は、左手に持ったスマートフォンの画面を、チタンフレームの眼鏡の奥から冷徹に見つめていた。
『圏外』。
アンテナのピクトグラムは完全に消失している。それだけではない。画面に表示させた電子コンパスの赤い針が、北を指すことを放棄し、まるで狂ったルーレットのように、ぐるぐると高速で回転し続けていた。
「……強力な磁気異常。地殻の玄武岩に含まれる磁鉄鉱の局地的な偏りによる、地磁気の乱れですわ。GPS衛星との通信途絶と合わせ、計器による現在地の特定は完全に不可能です」
涼音は淀みなく理屈を紡ぎながら、スマートフォンをスーツのポケットに滑り込ませた。
彼女の胸の奥では、心臓が不規則なリズムで激しく、そして重く打ち据えている。ドクン、ドクッ、ドクン。
数々の心霊スポットを連続で踏破し、極限の緊張状態を強いられ続けたことによる、自律神経の深刻なエラー。不安定な溶岩の足場を歩くたびに、右足の親指から鋭い痛みが脳天に突き抜ける。
額から冷や汗が流れ落ち、首筋を伝って高級なシルクのブラウスを冷たく濡らしていく。有酸素運動の疲労物質が血中に完全に滞留し、急性の末端冷え性を引き起こしていた。
涼音は、自身の両手の指先を目の前で軽く握り込んだ。
——視界が、ぼやける。
極端に濃い霧のせいだろうか。それとも、極度の疲労による視覚野のエラーか。自分の白い指先の輪郭が、周囲の薄暗い景色に溶け込むように、わずかに霞んで見えた。
涼音は小さく震える息を吐き出し、即座に脳内のフレームワークでその身体的違和感を処理する。
……過労による網膜の焦点調節機能の低下。加えて、低酸素状態が引き起こす一過性の視覚ノイズ。
涼音は冷え切った自らの手を強く握りしめ、前を歩く圧倒的な熱源——望月夏帆の右斜め後ろ十五センチの座標へと、痛む足を引きずりながら食らいついていく。
「うおー、大自然のマイナスイオンやっば! 空気おいしすぎ!」
夏帆の野太い歓声が、樹海の重苦しい静寂を物理的に粉砕した。
彼女の視界には、迷い込んだ者を二度と帰さない死の森のコンテクストなど一ミリも入っていない。
夏帆が認識しているのは、「未整備のトレイルランニングコース」であり、「都会では絶対に味わえない極上の森林浴スポット」だけだった。
「この湿度と冷気、マジで肺胞が洗われる感じするわ! 朝の有酸素運動には最高のロケーションじゃん!」
ズォォォォッ!!
夏帆の強靭な肺が、樹海に淀むカビと腐葉土の臭いを「極上のマイナスイオン」として一気に吸収していく。
黒のタンクトップから露出した肩甲骨が躍動し、全身の筋肉から立ち昇る莫大な代謝熱が、周囲の濃霧を押し返して白い湯気へと変えていく。
夏帆は22.5センチのナイキ・ショックスのソールで、苔むした倒木を軽々と飛び越えた。
キュッ、ギチィッ!!
ショックスのスプリングが強烈な反発音を鳴らし、夏帆はそのまま太いヒノキの枝に両手でぶら下がった。
「よっしゃ、この枝、太さもちょうどいいし強度もバッチリ! ちょっと懸垂挟んで広背筋に刺激入れとくわ!」
夏帆は、何者かが首を吊るためにかけたであろう、古く変色したナイロンロープがぶら下がる枝のすぐ真横で、完璧なフォームの懸垂を始めた。
広背筋と上腕二頭筋が盛り上がり、汗の粒がロープの結び目にポタポタと落ちていく。
『……カエレ……』
突然、風もないのに樹海全体の木々がザワワと揺れた。
木々の隙間、濃霧の奥深くから、数え切れないほどの白髪の老婆の顔が、空中にぼんやりと浮かび上がった。
甲州婆・トメ。かつてこの山深き限界集落で口減らしのために山に捨てられ、飢えと孤独の中で死んでいった老婆たちの怨念の集合体。
無数の老婆の顔が、夏帆と涼音を取り囲むように全方位から迫ってくる。
『……ココハ……生キタ人間ノ……クル場所デハ……ナイ……』
鼓膜を直接引っ掻くような、耳障りな呪詛の怨嗟。
周囲の気温が急激に氷点下へと叩き落とされ、足元のシダ植物がパリパリと凍りついていく。
涼音の脳内で、生存のための逃走経路の演算が展開される。
だが、磁場は完全に狂っている。前後左右、どの方向にも同じ木々が立ち並び、空間認識のフレームワークは完全に破綻していた。
極限の疲労で冷え切った涼音の膝が、カクンと折れそうになる。
老婆たちの怨念が放つ強烈な排他性が、涼音の心臓を物理的に握り潰そうと圧力をかけてくる。
「ハァッ! ハァッ! よし、二十回三セット完了!」
夏帆が枝から着地し、爽やかな汗を拭いながら満面の笑みを浮かべた。
彼女の視界には、無数の老婆の顔も、凍りつくシダ植物も入っていない。
「この森、マジでいいトレーニングスポットだわ! 木の間隔もステップの練習に最適だし!」
夏帆は、老婆の怨念の顔が密集している空間のど真ん中へ向かって、一切の躊躇なく突っ込んでいった。
ナイキ・ショックスが溶岩の岩肌を蹴り砕く。
夏帆は、空中に浮かぶ老婆の顔を「ラダートレーニング用のパイロン(障害物)」と誤認し、顔と顔の間を縫うように、凄まじいスピードでジグザグのステップを踏み始めた。
『……ヒィッ!?』
老婆の怨念の一人が、驚愕の摩擦音を漏らす。
自分たちを恐れるはずの人間が、大股の反復横跳びで自らの顔面スレスレを高速移動しているのだ。
夏帆の身体から放たれる莫大な体温と、強烈なシトラスの香水が、老婆たちの放つ呪詛の冷気を物理的に弾き飛ばしていく。
「空気抵抗を使ったアジリティ(敏捷性)トレーニング! 大自然の負荷、最高に効くわー!」
夏帆はステップを踏みながら、ポケットから取り出した『HELL/AVEN』の公式ペンライトを素早く振り回した。
ブラッドオレンジの極彩色の光が、濃霧を突き抜け、老婆たちのドロドロの顔面を毒々しく照らし出す。
「おばあちゃんたち、朝早くから散歩? 健康意識高くてマジリスペクトっすわ!」
夏帆の純度百パーセントの挨拶が、樹海の静寂に反響した。
呪い殺そうと現れた相手に対し、「早朝ウォーキングを楽しむ健康的なシニア層」という圧倒的な陽の解釈をぶつける。
怨霊たちの放つ陰湿な排他性が、夏帆の無意識のクオリアによって完全にへし折られ、空間の凍結がピタリと止まった。
涼音は、その光景を、右斜め後ろ十五センチの安全圏で、荒い呼吸を繰り返しながら見つめていた。
極度の過労。心臓の動悸。足の痛み。そして、指先の霞み。
あらゆる体調不良のシグナルが全身から発せられている。
——だが、そんなものはどうでもいい。
涼音のチタンフレームの眼鏡の奥で、漆黒の瞳孔が夏帆の背中だけを捉えて離さない。
夏帆の蛍光イエローのジャージが、老婆たちの怨念の霧を切り裂き、圧倒的な光を放ち続けている。
「……周囲の低水温および高湿度の霧による、著しい視界不良。前衛の進行ルートから外れることは、遭難のリスクを極大化させますわ」
涼音は、自身の限界を超えた体調不良を「濃霧による視界不良」という外的要因にすり替え、完璧な自己欺瞞の理屈を構築した。
そして、冷え切って感覚の薄れた右手の指先を、夏帆が通り過ぎたばかりの空間——夏帆の莫大な熱量が残留している空気の渦へと、そっと伸ばした。
自身の指先の輪郭が霞んで見えようとも、その空間の熱だけは、確実に皮膚に突き刺さってくる。
涼音は、夏帆が残した熱の軌跡を掬い取るように右手を強く握りしめ、狂ったように跳ね回る心臓の音を分厚い理屈の底に沈め込みながら、泥まみれのパンプスを引きずって、夏帆の背中へと音もなく滑り出していった。




