第30話:「声張ってて良いね! その勢いで腹筋のコア鍛えようぜ!」
第30話:「声張ってて良いね! その勢いで腹筋のコア鍛えようぜ!」
『……ククク……愚カナ……! 我ガ結界ニ自ラ踏ミ入ルトハ……!』
廃テーマパークの広場。アスファルトに刻まれた巨大な魔法陣が、ルシフェルの嘲笑に合わせて心臓の鼓動のように赤黒く明滅した。
魔法陣の幾何学模様から噴き上がる黒い炎が、さらに高さを増す。周囲の気温が急激に低下し、アスファルトの表面に白い霜が張り付いていく。
ルシフェルが血塗られた包帯の巻かれた両手を天に掲げ、空間を震わせるほどの声量で呪詛の詠唱を開始した。
『開ケ、奈落ノ門ヨ! 罪深キ魂ヲ束ネ、絶望ノ螺旋ヘト——』
「うおー! この立ち位置のバミリ(目印)、めっちゃ分かりやすいね!」
ルシフェルの仰々しい呪文を、夏帆の野太い歓声が真っ二つに叩き割った。
夏帆は、呪詛のエネルギーが最も濃縮された魔法陣の中心——ルシフェルの目の前まで、一切の警戒なく踏み込んでいた。
彼女の視界には、アスファルトに浮かび上がる魔法陣の赤い光が、「ステージ上の立ち位置を示すバミリ」や「トレーニング用のポジショニングマーカー」として完全に変換されて認識されている。
『……ハ?』
呪文の詠唱を途中で折られたルシフェルが、空虚な眼窩を夏帆に向けた。
夏帆は蛍光イエローのジャージの膝を曲げ、アスファルトの魔法陣の中心に描かれた円の模様に合わせて、肩幅より少し広めにスタンスをとった。
キュッ、ギチィッ。
ナイキ・ショックスのコラムが限界まで圧縮され、強靭な大腿四頭筋が弾けるように収縮する。
夏帆は右手に持った『HELL/AVEN』の公式ペンライトをジャージのベルトの隙間にねじ込み、両手を頭の後ろで組んだ。
「お兄さん、声張ってて良いね! その腹の底からの発声、コア(体幹)がしっかりしてる証拠じゃん!」
夏帆は満面の笑みでルシフェルに向かって叫んだ。
『ナ……ナニヲ言ッテ……』
「その勢いで、腹筋のコア鍛えようぜ! ペア・ワークアウトの時間だ!」
夏帆はルシフェルの漆黒のローブの襟元をガシッと掴み、強引な力でアスファルトの魔法陣の上へと引き倒した。
『グワァッ!?』
数百年の怨念を持つ黒炎霊が、物理的な腕力によって背中から地面に叩きつけられる。
夏帆は倒れたルシフェルの足元に回り込むと、自らの両手でルシフェルの足首(に相当するノイズの塊)をガッチリとホールドし、自身の体重をかけて完全に固定した。
ジュゥゥゥゥッ!!
夏帆の掌から放たれる莫大な体温が、ルシフェルの冷え切った呪詛の霊体と衝突し、激しい水蒸気を噴き上げる。
「よし、ポジション完璧! 足はアタシがしっかり押さえてるから、安心して上体起こして! はい、イチ!」
『キ、貴様……我ガ呪イヲ……アババババッ!!』
夏帆がルシフェルの足首を強烈な力で固定したまま、野太い声でカウントを取り始めた。
ルシフェルは夏帆の腕のホールドから逃れようと必死に上体を起こすが、それがそのまま完璧な「シットアップ(腹筋運動)」のフォームとなってしまう。
「ニ! いいよいいよ、そのペース! アゴ引いて、おへそ見る感じで!」
『ハナセ……! 深淵ノ……炎……デ……ヒグッ!!』
「サン! 呼吸止めないで! 吐きながら上がる!」
夏帆のカウントに合わせて、ルシフェルは強制的に腹筋運動を繰り返させられる。
生前、暗い自室に引きこもって黒魔術の妄想に耽っていただけの中二病の少年に、アスリート並みのコアトレーニングに耐えられる基礎体力などあろうはずがなかった。
魔法陣から噴き上がっていた黒い炎が、ルシフェルの体力の消耗に比例して、シュルシュルと勢いを失っていく。
『ハァ……ハァ……ゼェ……ッ』
「シ! ゴ! まだまだいけるっしょ! そのMCの声量、全部筋肉の連動に変えてこーぜ!」
夏帆の容赦ないエールが広場に響き渡る。
ルシフェルの口から漏れるのは、もはや恐ろしい呪いの詠唱ではなく、純粋な筋肉疲労による情けない喘ぎ声だけになっていた。
魔法陣の縁から十五センチ離れた安全圏。
倉田涼音は、そのシュール極まりない光景を、チタンフレームの眼鏡の奥で無表情に見つめていた。
涼音の胸の奥で、心臓が早鐘のように激しく脈打っている。
ドクン、ドクン、ドクン。
血流が異常な速度で全身を駆け巡っているはずなのに、指先から足の先まで、氷水に浸かったように冷たかった。背筋を冷や汗が伝い落ちるのがわかる。
——過度のストレスと、深夜の急激な冷え込みによる、自律神経の完全な乱れ。
涼音は荒くなる呼吸を整えようと、スーツの胸元を左手で強く掴んだ。
『……モウ……ムリ……腹筋、チギレル……』
魔法陣の中心で、ルシフェルが白目を剥いてアスファルトの上に崩れ落ちた。
「お疲れ! ナイスファイト! コアの筋肉、完全にパンプアップしたっしょ!」
夏帆がルシフェルの足首を解放し、爽やかな笑顔で拍手を送る。
極限まで腹筋を追い込まれたルシフェルは、呪詛を維持するためのエネルギーを完全に使い果たしていた。
『……筋肉……痛……最高……』
ルシフェルは、謎の達成感に満ちた表情を浮かべ、黒いローブごと純白の光の粒子となって夜空へと昇華していった。
アスファルトに描かれていた赤い魔法陣も、風に吹かれた灰のようにサラサラと消え去っていく。
「っしゃあ! ウォームアップ完了!」
夏帆が立ち上がり、首をコキボキと鳴らしながら涼音の方へ駆け寄ってきた。
黒のタンクトップは汗で濡れ、シトラスの香水と莫大な熱量が、白い湯気となって夏帆の全身から立ち昇っている。
「涼ねえね、お待たせ! アタシ、めっちゃいい汗かいたわ!」
夏帆が涼音の目の前で立ち止まる。
涼音は、激しい動悸と全身の悪寒を完璧な無表情の裏に隠し、冷え切った自身の右手を、夏帆の汗ばんだ肩へと真っ直ぐに伸ばした。
ベチャリ。
涼音の冷たい掌が、夏帆の火傷しそうなほどの熱を持った皮膚に直接吸い付く。
「うおっ! 涼ねえね、手ぇめっちゃ冷た! 外気で冷えきっちゃった!?」
夏帆が驚いて目を丸くする。
「……心拍数の急激な上昇は、心筋への過度な負担となりますわ。現在の貴女の体表面温度は異常値を示しています。速やかなアイシングによる、強制的なクールダウンが必要です」
涼音は、震えそうになる声帯を理屈で完璧に統制し、氷のように冷徹な言葉を紡いだ。
だが、夏帆の肩に置かれた涼音の右手の指先は、アイシングという名目には到底そぐわないほどの異常な力で、夏帆の筋肉の隆起に深く、重く食い込んでいた。
夏帆の莫大な体温が、涼音の凍りついていた掌から、血管を伝って全身へと流れ込んでくる。
狂ったように鳴っていた涼音の心臓の音が、夏帆の熱を吸収することで、わずかに落ち着きを取り戻していく。
——この熱だけが、私の自律神経を正常に保つ、唯一の特効薬だ。
涼音はチタンフレームの眼鏡を中指で押し上げ、自分の体調不良のすべてを夏帆の熱量で塗り潰しながら、この特等席の絶対性を改めて自身の細胞に刻み込んでいた。




