第29話:「黒炎の特効(ファンサ)えぐすぎ! 写真撮ろ、涼ねえね!」
第29話:「黒炎の特効えぐすぎ! 写真撮ろ、涼ねえね!」
ゴォォォォォッ……!!
廃テーマパークの広場を埋め尽くすように、黒炎霊・ルシフェルの呪詛が荒れ狂っていた。
アスファルトに刻まれた幾何学的な魔法陣から、致死性の冷気を持った黒い炎が竜巻のように立ち昇る。炎は意思を持った蛇のようにうねり、周囲の空間から酸素と熱を根こそぎ奪い取っていく。
その黒炎のど真ん中に、望月夏帆は単身で突っ込んでいた。
ナイキ・ショックスが、呪いで凍りついたアスファルトを力強く踏み砕く。
夏帆の右手に握られた『HELL/AVEN』の公式ペンライトが、ブラッドオレンジの光跡を残しながら、迫り来る黒炎の蛇を次々と物理的に弾き飛ばしていく。
『ナゼダ……! ナゼ我ガ深淵ノ炎ガ、貴様ノ肉体ヲ燃ヤシ尽クサヌ……!?』
黒いローブを被ったルシフェルが、自身の呪詛が全く通用しない事実を前に、驚愕の声を上げた。
当然だ。夏帆の網膜には、中二病の怨霊が放つ『地獄の業火』など一ミリも映っていない。彼女の視界にあるのは、「ドームツアーのクライマックスで噴き上がる、最高にテンションのアガる特効(特殊効果)」だけだった。
「この炎の熱量、マジでライブ感あって最高! アタシの基礎代謝も限界突破しそう!」
夏帆の強靭な筋肉から、莫大な代謝熱が白い湯気となって立ち昇る。
黒炎の冷気は、夏帆の放つ物理的な熱量によって相殺され、彼女の身体に届く前に単なる水蒸気へと変換されていく。
倉田涼音は、魔法陣の縁ギリギリの安全圏——夏帆の右斜め後ろ十五センチの座標で、その光景を見つめていた。
チタンフレームの眼鏡のレンズに、黒い炎の明滅と、夏帆のブラッドオレンジの光が激しく反射している。
涼音の胸の奥で、不規則な心拍が重く、苦しく打ち据えていた。
極度の過労による自律神経の乱れ。血行不良が引き起こす、全身の異常な冷え。
涼音は小さく震える唇を噛み締め、スーツのポケットの中で両手を固く握りしめた。
——この程度の体調不良で、私の演算回路は停止しない。
「よっしゃ、このエモいセットで自撮りしとこ!」
夏帆が突然ステップを止め、ジャージのポケットからスマートフォンと折りたたみ式の自撮り棒を取り出した。
怨霊との死闘(?)の最中だというのに、彼女の行動原理は常に『今、この瞬間の熱狂を記録すること』に最適化されている。
「涼ねえね! こっち来て! 一緒に撮ろ!」
夏帆が、自撮り棒を構えたまま、左手を涼音の方へ大きく伸ばした。
涼音の脳内で、危険信号が鳴り響く。
あの黒い炎の中は、強烈な呪詛の磁場が展開されている。未認可の領域。そこに足を踏み入れれば、ただの過労では済まないダメージを身体に受ける可能性がある。
だが、涼音の身体は、理屈の制止を完全に無視して前へ出た。
夏帆が伸びた手で、涼音のスーツの肩を強引に引き寄せる。
ガツン、と涼音の華奢な身体が、夏帆の熱いタンクトップに横からぶつかる。
シトラスの香水と、莫大な生命力。
火傷しそうなほどの体温が、涼音の冷え切った身体に直接流れ込んでくる。
涼音の呼吸が、一瞬だけ止まった。心臓の動悸が、夏帆の胸から伝わる強い脈拍と完全に同調していく。
「はい、チーズ!」
カシャッ!!
スマートフォンのフラッシュが、黒炎の暗闇を白く飛ばした。
その直後。
夏帆がスマートフォンの画面を確認し、不思議そうに首を傾げた。
「あれ? なんかこの写真、バグってない?」
涼音は、夏帆の肩に抱き寄せられたまま、チタンフレームの眼鏡越しにその画面を覗き込んだ。
涼音の右手の指先が、無意識のうちに夏帆のジャージの裾を強く握りしめた。
……光学機器の故障。
……強力な磁場による、CMOSセンサーの致命的なエラー。
涼音は、脳内にありったけの物理学と電子工学の知識を動員し、画面の異常性を演算する。
「……強力な電磁波の干渉による、画像処理エンジンのエラーですわ。この空間の異常な磁場が、デジタルデータにノイズを乗せただけです」
涼音は、氷のように冷たく、完璧な理屈を紡ぎ出した。
自分の声が、少しだけ震えていることには気づかないふりをした。
「そっか! まぁ、こういうエモいフィルターかかったみたいな写真も、アンダーグラウンド感あって逆にいいっしょ!」
夏帆は全く気にする様子もなく、ケラケラと笑い飛ばした。
そして、自撮り棒をポケットに突っ込むと、涼音の肩を抱いていた左手を離し、再び怨霊の方へと向き直った。
特等席の熱が離れる。
涼音は、夏帆のジャージの裾を掴んでいた指を、白くなるほど強く握りしめたまま、その場から一歩も動かなかった。
「お兄さん! 最高の特効ありがと! 今度はアタシの番だね!」
夏帆がブラッドオレンジのペンライトを高く掲げ、ナイキ・ショックスのバネを鳴らす。
涼音は、自分の顔がぼやけたスマートフォンの画面の残像を脳内から完全に消去し、ただただ、目の前で躍動する熱源の背中だけを、チタンフレームの眼鏡の奥から、どす黒い執着に塗れた瞳で見つめ続けていた。




