第28話:「推しのドームツアー並みの超大型セット! 予算かかってんなー!」
第28話:「推しのドームツアー並みの超大型セット! 予算かかってんなー!」
深夜の山麓。樹海の入り口に隣接するその広大な土地には、昭和の終わりに閉園した巨大な廃テーマパークが広がっていた。
錆びついた入場ゲートを抜け、雑草に侵食されたアスファルトの順路を進む。
風が吹くたび、頭上で停止したままの巨大な観覧車が、金属の軋む重苦しい悲鳴を夜の森に響かせる。首の取れたマスコットキャラクターの立像が、暗闇の中で異様なシルエットを作っていた。
倉田涼音は、望月夏帆の右斜め後ろ十五センチの特等席を維持しながら、チタンフレームの眼鏡を中指で押し上げた。
自身の胸の奥で、心臓が不整脈のように激しく、そして重く打ち据えている。
短期間で数々の心霊スポットを巡り、極限の緊張状態を強いられ続けたことによる、自律神経の深刻なエラー。有酸素運動の疲労物質が血中に滞留し、急性の末端冷え性を引き起こしている。
涼音は荒くなる呼吸を薄い唇の間から吐き出しながら、冷え切った自らの指先をスーツのポケットに深く突っ込んだ。
——限界を超えた過労による、一過性の血行障害。
涼音は完璧な医学的見地から自らの身体的違和感を処理し、それ以上の思考のノイズを強制的にシャットアウトする。今はただ、目の前で躍動する夏帆のタンクトップから放たれる莫大な代謝熱だけが、涼音の視界のすべてだった。
『……ククク……愚カナ迷エルト羊タチヨ……』
突然、広場の中央で、空間そのものがひび割れるような音が鳴った。
アスファルトの地面から、ドス黒い炎が柱のように噴き上がる。
炎の中心に浮かび上がったのは、漆黒のローブを深く被り、両手に包帯を巻きつけた男の怨霊だった。黒炎霊・ルシフェル。
生前、己の妄想と黒魔術に傾倒するあまり、周囲から孤立し、自室で火を放った中二病の怨念。
ルシフェルが両手を広げると、足元のアスファルトに、血のような赤い光で描かれた巨大で複雑な魔法陣が浮かび上がった。
『……我ガ深淵ノ業火ニ焼カレ……永遠ノ虚無ヘト還ルガイイ……!!』
魔法陣の幾何学模様が回転し、黒い炎が意思を持った大蛇のように渦を巻き始める。
周囲の気温が、一気に氷点下へと叩き落とされる。炎であるはずなのに、放射されるのは純粋な呪いによる致死性の冷気だった。
涼音の脳内で、ランチェスターの第二法則に基づく広域殲滅兵器のシミュレーションが展開される。
魔法陣の有効半径は約三十メートル。退路はない。あの黒い炎(瘴気)に触れれば、細胞が瞬時に壊死し、精神ごと燃やし尽くされる。
涼音は激しい動悸を抑え込みながら、夏帆のジャージの裾を掴むために左手を伸ばしかけた。
「うおおおおっ! 推しのドームツアー並みの超大型セット! 予算かかってんなー!」
絶望的な魔法陣の展開を、夏帆の野太い歓声が真っ二つに叩き割った。
夏帆の視界には、死を招く魔法陣も、中二病の怨霊も入っていない。彼女の網膜に映っているのは、「アリーナ会場の中央に設置された、巨大なセンターステージ」だけだった。
「その黒い炎の特効、マジでアガるわ! MCの厨二感も、初期のコンセプトライブっぽくて最高にエモい!」
夏帆はナイキ・ショックスのソールをアスファルトに強く打ち付けた。
キュッ、ギチィッ!!
ショックスのコラムが限界まで圧縮され、強靭な大臀筋とハムストリングスの出力が、夏帆の身体を黒い炎のすぐ手前まで一気に射出する。
『……ナニ!? 我ガ地獄ノ業火ヲ恐レヌトイウノカ……!』
ルシフェルが驚愕に声を震わせ、魔法陣の回転速度を上げる。
黒い炎がさらに高く燃え盛り、広場全体を毒々しい光と影のコントラストで染め上げた。
涼音の眼鏡のレンズに、黒炎の明滅が鋭く反射する。
その強烈な光源の中で、夏帆はステップを止め、ふと振り返って涼音の方を見た。
夏帆の視線が、涼音の顔ではなく、足元のアスファルトへと向けられる。
黒い炎に照らされ、地面に長く伸びる二人の影。
夏帆の影は、アスファルトの上に濃く、はっきりと黒いシルエットを描いている。
だが。
隣に立つ涼音の影は、アスファルトのひび割れや小石の凹凸が透けて見えるほど、極端に薄く、希薄だった。
夏帆は、涼音を数秒間、ジッと見つめた。
タンクトップの肩甲骨の動きがピタリと止まる。
廃テーマパークに、冷たい風の音だけが吹き抜けた。
「……涼ねえね」
夏帆が、いつもの限界まで張り上げた声ではなく、ひどく真剣な、低いトーンで口を開いた。
涼音の心臓が、肋骨を突き破るほどの勢いで跳ね上がる。
見られた。自らの疲労が限界を超えている証左を。
「徹夜続きで顔色悪いし、マジでお疲れじゃん!」
ドンッ!!
夏帆の野太い声が、涼音の思考のノイズを完全に吹き飛ばした。
夏帆はスポーツバッグから取り出した、チョコレート味の分厚いプロテインバーを、涼音の顔面スレスレまで強引に突きつけてきたのだ。
「ちゃんとカロリー入れなきゃダメだって! ほら、アタシの特製プロテインバー、一口だけでも食いなよ!」
夏帆が涼音に固形物を押し付ける。
タンクトップ越しに伝わる、火傷しそうなほどの熱気。シトラスの香水と、莫大な生命力。
涼音は、突きつけられたプロテインバーの包装紙を見つめ、小さく息を吐き出した。
「……深夜の固形物の摂取は、胃腸への過度な負担となりますわ。さらに、貴女の汗が付着したパッケージからの直接摂取は、衛生管理の観点から絶対に許可できません」
涼音は氷のように冷ややかな声で理屈を並べ立て、プロテインバーを突き出してきた夏帆の手首を、自分の冷え切った指先でペシッと弾いた。
——固形物を嚥下し、胃で消化する。その生理機能が今の極限状態の身体に正常に働くのか。そんな余計な負荷をかける必要などない。
涼音は、夏帆の手首に触れた瞬間に伝わってきた強烈な熱だけを自らの掌に記憶させ、不機嫌そうに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「そっか! まぁ無理して食うことないか! その代わり、アタシが二倍動いてカロリー消費して、涼ねえねの分まで熱量上げるからさ!」
夏帆は全く気にする様子もなく、プロテインバーを自分の口に放り込み、豪快な咀嚼音を立てて噛み砕いた。
そして、ポケットから鎖の巻き付いた公式ペンライト『ヘラヴィック』を引き抜き、スイッチを入れる。
ブラッドオレンジの極彩色の光が、ルシフェルの黒炎を物理的に塗り潰すように輝き始めた。
「黒炎の特効えぐすぎ! アタシも全力で応えるわ!」
夏帆はナイキ・ショックスのバネを鳴らし、魔法陣のど真ん中へと、一切の躊躇なく飛び込んでいった。
涼音は、夏帆の右斜め後ろ十五センチの座標から、その圧倒的な光の背中を見つめていた。
この強烈な熱源の隣という特等席。それだけが、涼音の狂った心臓を動かし続ける、ただ一つの理由だった。




