第27話:「冷え性ヤバくない!? アタシの熱、分けてあげるから!」
第27話:「冷え性ヤバくない!? アタシの熱、分けてあげるから!」
ドンッ!!
天井の太い梁を蹴り砕く凄まじい反発音が、廃旅館の歪んだ大広間に反響した。
空中の軌道を直角に捻じ曲げ、望月夏帆の身体が弾丸のように落下する。
その真下。腐り落ちた畳の上を、四つん這いになった泥まみれの子供——座敷童の座敷丸が、摩擦音を立てながら猛スピードで逃げ惑っていた。
『ヒィィッ……! コナイデ……!』
生前、大人たちに理不尽に間引きされ、床下に埋められた童の怨念。本来ならば、迷い込んだ人間を永遠の迷路に閉じ込め、恐怖で泣き叫ばせるための絶対的な捕食者であるはずだった。
だが、頭上から迫り来る蛍光イエローのジャージは、怨霊の呪詛など一ミリも介にせず、ただ純粋な「鬼」として物理的な質量を伴って降ってきた。
「そこだ! タッチ!!」
夏帆の右手が、逃げ惑う座敷丸の小さな背中(に相当する泥の塊)を、バァンッ! と豪快な音を立てて叩いた。
『……エ?』
座敷丸の動きが、ピタリと止まる。
大広間に充満していた、空間を歪ませるポルターガイストのノイズが、嘘のように静まり返った。
夏帆はナイキ・ショックスで畳に着地すると、ショックスのコラムで衝撃を完全に吸収し、満面の笑みで親指を立てた。
「っしゃあ! アタシの勝ち! アンタ足速いね! マジでいいステップだったわ!」
座敷丸は、叩かれた自分の背中を、信じられないものを見るような目で見つめた。
数百年間、この冷たい床下で一人きりだった。誰も自分に触れようとはしなかった。
それを、圧倒的な熱量を持った人間が、ただの「遊び」として全力で追いかけ、泥にまみれるのも構わずに素手で触れてきたのだ。
『……アソ……ンダ……。イッショニ……』
座敷丸の泥にまみれた顔が、ぽろポロと崩れ落ち、その下から、あどけない子供の無邪気な笑顔が浮かび上がった。
次の瞬間、座敷丸の身体は、蛍の光のような温かい光の粒子となって、天井の隙間から夜空へと吸い込まれるように昇華していった。
後には、静寂を取り戻したカビ臭い大広間と、夏帆の荒い呼吸の音だけが残された。
「ふーっ! 最高のインターバルトレーニングになったわ! また一緒に鬼ごっこして遊ぼうぜ!」
夏帆が誰もいない虚空に向かって手を振った、その時だった。
ガタンッ!
大広間の入り口の障子が引き剥がされ、倉田涼音が転がり込むようにして姿を現した。
黒のパンプスは泥にまみれ、スーツの膝は白く汚れている。チタンフレームの眼鏡の奥で、涼音は激しく肩を上下させ、酸素を求めて肺を駆動させていた。
激しいスプリントによる、極限の疲労。
心臓が肋骨を内側から叩き割るのではないかというほど、狂ったような速度で脈打っている。
涼音は、大広間の中央で光を放つ夏帆の背中を視界に捉えた瞬間、その場にへたり込みそうになる膝を、強靭な理屈で無理やり固定した。
——見つけた。私の、絶対的な熱源。
——だが、身体の異常な冷えは何だ。
涼音は、自身の両手の指先が、氷のように冷たく強張っているのを自覚していた。
血液が末端まで巡っていない。有酸素運動の直後であるにもかかわらず、体温が急激に奪われている。
涼音は、小さく震える息を吐き出しながら、脳内に完璧なフレームワークを展開する。
……極度の疲労と、この廃旅館の異常な湿度が引き起こした、自律神経の乱れ。急性の末端冷え性だ。それに伴う血行不良が、この耐え難い寒気を生み出しているに過ぎない。
涼音は自己の身体的違和感を、完璧な医学的・物理的理由によって脳内で論破し、冷え切った指先をギュッと握り込んだ。
「おっ! 涼ねえね、追いついたね! アタシの勝ちだよ!」
夏帆が振り返り、汗だくの笑顔で涼音に向かって駆け寄ってきた。
黒のタンクトップからは、凄まじい代謝熱が白い湯気となって立ち昇っている。
夏帆は涼音の目の前まで来ると、涼音の様子を見て少しだけ目を丸くした。
「あれ、涼ねえね、めっちゃ顔色悪いよ? 疲れた?」
言うが早いか、夏帆は無造作に左手を伸ばし、涼音の右の手首をガシッと力強く掴んだ。
ジュゥゥゥゥッ!!
触れた瞬間、夏帆の掌から放たれる莫大な体温が、涼音の凍りついていた皮膚の表面を一気に焼き焦がした。
「うおっ!? 冷え性ヤバくない!? 手ぇ、氷みたいじゃん!」
夏帆が目を丸くして叫ぶ。
「……急激な無酸素運動による、末梢血管の収縮ですわ。加えて、この建物の劣悪な環境が体温調節機能を——」
涼音の冷徹な言い訳は、最後まで続かなかった。
夏帆が涼音の右手を引っ張るようにして自身の胸元へ引き寄せると、そのまま一歩踏み込み、涼音の背後に回り込んだのだ。
そして。
「はい、強制ウォームアップ! アタシの熱、分けてあげるから!」
ギュッ!!
夏帆の両腕が、涼音の背中から腹部へと回り込み、涼音の華奢な身体を背後から完全に、そして力強く抱きしめた。
夏帆の汗ばんだタンクトップ越しの腹筋が、涼音の背骨に直接押し付けられる。
シトラスの香水と、限界まで燃焼した筋肉の匂い。
圧倒的な質量と、炉心のような体温が、涼音の背面すべてを覆い尽くした。
「ちょっ……!?」
「いいからいいから! 筋肉の熱伝導率ナメんなよ! すぐにあったかくなるからさ!」
夏帆は涼音を背後からホールドしたまま、自分の頬を涼音の肩口にスリスリと押し付けた。
涼音のチタンフレームの眼鏡がズレる。
涼音の頭の中で、感染症予防、パーソナルスペースの侵害、ランチェスターの法則、あらゆる論理的防壁が、この暴力的なまでの熱の奔流の前に、音を立ててメルトダウンを起こしていく。
「……不衛生です。汗を大量に含んだ衣服との密着は、細菌繁殖の温床となり、極めて不快——」
涼音は口では完璧な拒絶の言葉を紡いでいた。
だが、夏帆の腕を振り解こうとするはずの涼音の両手は、自身のお腹に回された夏帆の熱い腕の上にそっと重ねられ、その筋肉の隆起を、指の腹でじっくりと確かめるように、深く、重く食い込んでいた。
一ミリたりとも、逃げようとしていない。
それどころか、涼音は夏帆の腕のホールドに自らの全体重を預け、冷え切った自身の背中を、夏帆の熱い胸板にさらに強く押し付けていた。
——熱い。うるさい。苦しい。
——でも、この圧倒的なノイズこそが、私の特等席だ。
涼音は夏帆の腕に自らの指を絡ませたまま、深く、深く息を吸い込んだ。
夏帆のシトラスの香りが、冷え性で凍りついていた肺の奥底まで、濃密な劇薬のように満たしていく。
廃旅館の静寂の中、夏帆の「あったかいっしょ!」という無邪気な笑い声と、涼音の狂ったような心臓の鼓動だけが、重なり合って響き続けていた。




