第26話:「全力鬼ごっこの時間だ! アタシのステップ、捕まえられる!?」
第26話:「全力鬼ごっこの時間だ! アタシのステップ、捕まえられる!?」
トン、トン、トン。
無限にループする廃旅館の廊下の奥から、五色の糸で作られた古びた手毬が跳ねてくる。
木張りの床板を叩くその音は、一回転するごとに水気を帯び、やがて髪を振り乱した子供の生首へと姿を変えた。目と口を限界まで見開いた生首が、赤黒い血の軌跡を床に引きずりながら、猛スピードで望月夏帆の足元へと転がってくる。
同時に、廊下の両側を塞ぐ何十枚もの障子戸がカタカタと震え出し、和紙を突き破って、泥にまみれた無数の青白い子供の手が、夏帆と倉田涼音の進行方向を完全に塞ぐように伸びてきた。
座敷童・座敷丸による、空間の完全封鎖。
ポルターガイスト現象が物理的な質量を伴い、全方位からの圧殺を試みる。
涼音はチタンフレームの眼鏡を中指で押し上げ、脳内で回避ルートの演算を試みたが、三次元空間のすべてを埋め尽くす怪異の前に、生存確率は容赦なくゼロへと収束していく。
「うおおおおっ! 超ハードモードのアスレチックコースじゃん!!」
絶望的な空間の歪みを真っ二つに叩き割ったのは、夏帆の野太い歓声だった。
夏帆の視界には、血に濡れた生首も、迫り来る亡者の手も入っていない。彼女の網膜が捉えているのは、「極限の体幹とアジリティ(敏捷性)を試される、入り組んだ立体障害物」のみである。
「動く足場にトラップの壁! マジでテンションぶち上がるわ!」
夏帆は蛍光イエローのジャージの膝を深く曲げた。
22.5センチのナイキ・ショックスのかかとに内蔵された円柱状のスプリング(コラム)が、夏帆の体重と踏み込みの運動エネルギーを受けて限界まで圧縮される。
大臀筋、ハムストリングス、そしてふくらはぎへと強烈な収縮が伝播し、次の瞬間、爆発的な推進力となって夏帆の身体を斜め前方へと射出した。
迫り来る生首の真上。
夏帆は空中で身体を捻り、生首の頭頂部をスニーカーのソールでピンポイントに踏み抜いた。
グチャァッ!!
踏み台にされた生首が床板にめり込み、黒い霧となって霧散する。
夏帆はその反発力を利用してさらに高く跳躍し、廊下の両側から伸びる無数の青白い手の壁へと突っ込んでいった。
ポケットから引き抜かれた公式ペンライト『ヘラヴィック』。鎖が巻き付いた重厚な十字架型のプラスチックが、ブラッドオレンジの極彩色の光を放ちながら、怨霊の手の群れを次々と粉砕していく。
ガンッ! バキィィッ!
硬質な打撃音が響き渡り、砕け散った指の破片がネオンカラーに照らされて宙を舞う。
「全力鬼ごっこの時間だ! アタシのステップ、捕まえられる!?」
夏帆はそのまま壁面を三歩、四歩と蹴り上がった。
重力を完全に無視したウォールラン。強靭な腹斜筋が空中で姿勢を安定させ、天井の太い梁に片手でぶら下がると、体操選手のような大車輪の要領で勢いをつけ、さらに奥の暗闇へと猛スピードで飛翔していく。
『ヒィィィッ……!?』
天井裏に潜んでいた座敷童が、捕食者から逃げるような摩擦音を立てて廊下の奥へと逃げ去っていく。自分たちを恐れるはずの人間が、物理法則を凌駕するパルクールで空間を蹂躙しているのだ。
「待ってろオバケの子! アタシから逃げ切れると思うなよ!」
ドッシャアァァァン!! と、夏帆が蹴り破った襖の残骸が派手な音を立てて吹き飛び、シトラスの香水と汗の匂いを残したまま、蛍光イエローの背中は完全に見えなくなった。
涼音は、崩壊した廊下の真ん中で、一人立ち尽くしていた。
演算が追いつかない。夏帆の圧倒的なスプリント能力が、折れたヒールのパンプスを履く涼音の移動速度を完全に置き去りにした。
『右斜め後ろ十五センチ』の特等席からの、致命的なロスト。
急激に、空間の温度が低下していくのを感じる。今まで涼音の全身を包み込んでいた、あの火傷しそうなほどの莫大な熱量と、やかましいほどの足音が、周囲からすっぽりと抜け落ちてしまったのだ。
涼音は廊下の曲がり角で、崩れかけた土壁に右手を強く押し当て、荒くなった呼吸を整えるように肩を上下させた。
「…………っ」
カビと硫黄の臭いが、容赦なく肺に流れ込んでくる。
恐ろしいのは、蠢く座敷童の呪いでも、終わらない迷路でもない。
自分の視界から、あの圧倒的な熱源が消え失せてしまったという事実そのものが、涼音の理性の内壁をガリガリと削り取っていく。
——どこへ行った。誰の許可を得て、私の管理下から離れた。
「……前衛の突発的な機動による、一時的な座標のロスト。戦力分散は、局地戦における最悪の愚策ですわ」
涼音は、誰も聞いていない廃旅館の暗闇に向かって、氷のように冷たい声で完璧な言い訳を構築した。
だが、土壁に押し当てた涼音の右手は、爪が土に食い込んで白く強張っていた。
涼音の左手が、無意識のうちに自らのスーツの胸元へ伸び、内ポケットに深く滑り込ませた純白のシルクのハンカチを——先ほど夏帆の莫大な汗と熱をたっぷりと吸い込んだそれを、布地越しに強く握りしめた。
——熱。
ハンカチから伝わる、夏帆の確かな体温と、強烈なシトラスの香り。
涼音はそのハンカチの感触を、自らの冷え切った掌の皮膚から、骨の髄まで一滴残さず吸収するようにギリギリと指を食い込ませた。
チタンフレームの眼鏡の奥で、涼音の瞳孔が限界まで開いている。
自分の特等席を、ほんの数秒でも空けてしまったことへの、内臓が煮えくり返るような焦燥。
早くあの熱を取り戻さなければ。誰か得体の知れないモノ(幽霊)が、あの無防備な背中に触れてしまう前に。
ドンッ!!
廊下の遥か前方で、夏帆が天井の梁を蹴り砕く凄まじい反発音が響いた。
「そこだ! タッチ!!」
夏帆の野太い歓声。
その声の振動が、床板を伝って涼音の足裏を微かに震わせた。
涼音は壁からパッと手を離した。
もはや、体力的な疲労も、パンプスの歩きづらさも、どうでもよかった。
涼音は、夏帆の落下点へと向かって、最短距離の直線ルートを瞬時に弾き出した。
障子の残骸を蹴り飛ばし、崩れ落ちた床板を飛び越え、ただただ、あの眩しすぎる蛍光イエローの背中だけを目指して、狂ったような速度で駆け出す。
座敷童の怨念など、もはや視界の端のゴミにも等しい。
夏帆の右斜め後ろ十五センチ。
そこだけが、涼音にとって死守すべき、世界で唯一の絶対的な領土だった。




