第25話:「うおー、すっげえ広いアスレチック施設! テンションぶち上がる!」
第25話:「うおー、すっげえ広いアスレチック施設! テンションぶち上がる!」
甲州の最深部。夜の闇に沈む山肌にへばりつくようにして、その巨大な木造建築はそびえ立っていた。
バブル崩壊とともに放棄された廃温泉街の中心、全階層が迷路のように入り組んだ巨大旅館。
エントランスの床板は腐り落ち、壁紙の裏からは硫黄とカビ、そして古い血が酸化したような錆の臭いが、どす黒い冷気となって吹き出している。
倉田涼音は、チタンフレームの眼鏡を中指で押し上げ、自身の脳内に空間認識のフレームワークを展開した。
デカルト座標系に基づく三次元マッピング。歩数と歩幅から現在地を割り出す自律航法。
だが、旅館の奥へと足を踏み入れた途端、涼音の演算回路は深刻なバグを吐き出し始めた。
ペタッ。ペタペタペタッ。
終わらない板張りの廊下の奥から、裸足の子供が駆け回るような湿った足音が反響している。
座敷童・座敷丸。かつてこの宿で間引きされ、床下に埋められた童たちの無念が集合体となったポルターガイスト。
廊下の両脇に無限に続く障子戸に、泥にまみれた小さな手形が、内側から次々とバンッ! バンッ! と叩きつけられていく。
直線距離の概念が破綻している。歩いても歩いても同じ景色がループし、空間そのものが歪んで出口が完全に消失していた。
ギシッ、メキッ。
狂った空間の中で、前を歩く望月夏帆が、ナイキ・ショックスで床板を踏みしめるたび、腐りかけた木材が重力と質量に耐えかねて悲鳴を上げる。
夏帆のタンクトップから立ち昇るシトラスの香水と、強烈な筋肉の代謝熱。彼女の存在だけが、この異常な空間における唯一の絶対的な『物理的現実』としてそこにあった。
涼音は、夏帆の右斜め後ろ十五センチの座標をコンマ一ミリの狂いもなくトレースすべく、黒のパンプスを的確に運んでいく。
『アソボ……イッショニ、アソボ……!!』
鼓膜を直接撫でるような子供の声が響いた直後。
廊下の天井裏から、数十枚の朽ちた畳が、巨大な刃物のように回転しながら夏帆の頭上へと降り注いできた。
座敷丸の物理的干渉。質量を持ったポルターガイストの嵐。
全方位からの圧殺。涼音の脳内で生存確率が急激にゼロへと収束していく。
「うおー、すっげえ広いアスレチック施設! テンションぶち上がる!」
夏帆の野太い歓声が、廃旅館の陰湿な空気を真っ二つに叩き割った。
彼女の視界には、血に濡れた手形も、迫り来る畳の刃も入っていない。
夏帆が認識しているのは、「極限の反射神経を試される、無限の障害物コース」だけだった。
キュッ、ギチィッ!!
夏帆が深く腰を落とし、ショックスのスプリング機構を限界まで圧縮する。
大臀筋とハムストリングスが弾け、夏帆の身体が弾丸のように斜め前方へと射出された。
落下してくる畳の表面を、スニーカーのソールで垂直に蹴り上げる。強靭な体幹を活かした壁走り(ウォールラン)。そのまま空中で身体を捻り、隣の障子の桟を掴んで三次元的な跳躍を見せる。
「マジで立体的なコース設定! 障害物パルクールには最適すぎっしょ!」
夏帆は宙を舞いながら、ポケットから取り出した公式ペンライト『ヘラヴィック』のブラッドオレンジの光で、暗闇の廊下を毒々しく照らし出した。
『ヒィィッ……!?』
座敷丸の子供の声が、驚愕の摩擦音に変わる。
自分たちを恐れ、泣き叫ぶはずの人間が、大歓声を上げながら物理法則を無視したステップで空間を跳ね回っているのだ。
「全力鬼ごっこの時間だ! アタシのステップ、捕まえられる!?」
夏帆は天井の梁を蹴り、座敷丸の気配が潜む廊下の奥へと、猛烈なスピードで突っ込んでいった。
ドッシャアァァァン!! と、夏帆が蹴り破った襖の残骸が派手な音を立てて吹き飛ぶ。
涼音は、夏帆が飛び去った廊下の真ん中で、一人立ち尽くしていた。
演算が追いつかない。夏帆の圧倒的な身体能力が、涼音の想定する移動ベクトルを完全に凌駕している。
『右斜め後ろ十五センチ』の特等席からの、完全なロスト。
その事実が、涼音の内側に、座敷童の呪いよりも遥かに恐ろしいパニックを引き起こした。
——どこへ行った。
涼音の視線が、床板の一点に釘付けになった。
夏帆が先ほど、壁走りの踏み切りに使った床の木材。
強烈な摩擦によって表面がわずかに焦げ、黒いタンクトップから飛び散った汗の雫が、木目に染み込んでいる。
ダンッ。
涼音は駆け寄り、その床板の上に両膝をついた。
そして、一切の躊躇なく、自らの両手のひらを、夏帆の靴底が削った焦げ跡の真上に、ベタリと押し当てたのだ。
「……前衛の急激な三次元移動による、一時的な座標のロスト。残留熱源と摩擦痕からの、進行ベクトルの逆算を試みます」
涼音は、誰も聞いていない廃旅館の廊下で、氷のように冷たい声で完璧な言い訳を構築した。
だが、床板に押し当てた涼音の両手は、異常な力で白く強張っていた。
床板から伝わってくる、夏帆の莫大な質量の残滓。火傷しそうなほどの、圧倒的な熱。
涼音はその熱を、自らの冷え切った掌の皮膚から、骨の髄まで一滴残さず吸収するように、ギリギリと木板に指を食い込ませた。
チタンフレームの眼鏡の奥で、涼音の瞳孔が限界まで開いている。
自分の特等席を、ほんの数秒でも空けてしまったことへの焦燥。
この熱だけが、彼女にとってのただ一つの真理だった。
「待ってろ、オバケの子! 次はアタシが鬼だからな!」
廊下の遥か奥から、夏帆の野太い笑い声と、床を蹴り砕くスニーカーの反発音が響き渡る。
涼音は床板からゆっくりと手を離すと、掌に残った微かな焦げ跡と汗の匂いを、無意識のうちに自分のスーツの胸元へ強く押し付けた。
そして、狂ったように跳ね回る自身の心臓の音だけを頼りに、暗闇の廊下へと音もなく滑り出していった。




