第24話:「一面鏡張り! ダンスの振り付け確認に最適のスタジオじゃん!」
第24話:「一面鏡張り! ダンスの振り付け確認に最適のスタジオじゃん!」
深夜二時。ゲリラ豪雨が通り過ぎた後の湿気は、まとわりつくような不快な重さを持っていた。
深い森を抜け、旧街道の脇に突如として現れたのは、過剰な装飾が施された西洋の古城——バブル期に建設され、そのまま放棄された巨大なラブホテルの廃墟だった。
ツタに覆われた『シャトー・エデン』のネオンサインは割れ、エントランスにはカビと劣化した芳香剤の臭いが淀んでいる。
倉田涼音は、望月夏帆の右斜め後ろ十五センチの座標を、機械のような正確さでトレースしていた。
自身の高級なシルクのブラウスの袖口には、廃病院で拭き取った夏帆の汗と泥が、未だに濃密なシトラスの香水とともに染み込んでいる。涼音はその袖口を無意識のうちに自らの手首にきつく巻き付け、歩行の呼吸のリズムを、前を歩く夏帆の強靭な肺の駆動音と完全に同調させていた。
——外部環境の異常な湿度から、自身の気道粘膜を保護するためのフィルター機能の確保。
自らの鼓動が、廃墟の不気味さではなく、目の前で躍動するタンクトップの肩甲骨にのみ跳ね上がっている事実を、涼音は分厚い理屈の城壁の奥底へ沈み込ませる。
「うおー、すっげえゴージャス! 廃墟なのに無駄にシャンデリアとかあるじゃん!」
夏帆の野太い声が、ロビーの静寂を粉砕した。
彼女の視界には、剥がれ落ちた壁紙も、床に散乱する避妊具の残骸も入っていない。
夏帆はナイキ・ショックスのソールをキュッと鳴らし、迷うことなく最上階の奥、『ROYAL SUITE』と書かれた重厚な木製ドアを力任せに押し開けた。
二人が足を踏み入れた瞬間。
バァァァンッ!!
背後のドアが、不可視の暴力的な力によって叩きつけられるように閉ざされた。
ガチャリ、と物理的な鍵が勝手に回転する音が響く。
室内の温度が、急激に氷点下へと叩き落とされた。
涼音はチタンフレームの眼鏡を中指で押し上げた。
そこは、天井、壁、そして床の一部に至るまで、空間のすべてが鏡で覆い尽くされた異様な密室だった。
無限に続く合わせ鏡。どこを見ても、自分と夏帆の姿が幾重にも反復増殖している。
視覚情報がオーバーフローを起こす。空間識失調。
ピチャッ……。
鏡の奥深く、無限の反射の彼方から、水滴の落ちる音が鳴った。
涼音の真正面の鏡。そこに映る自分自身の背後から、血に汚れ、ボロボロに引き裂かれたウェディングドレスを着た女が、這うようにして近づいてくる。
執着霊・メリー。愛する者に裏切られ、この密室で自らの首を吊ったストーカーの怨念。
メリーの両手には、赤錆の浮いた手錠が握られていた。
『ズット……イッショ……。ダレニモ……ワタサナイ……』
鼓膜を直接撫でるような、粘り気のある女の声。
メリーの虚ろな眼球が、鏡越しに涼音を真っ直ぐに捉えた。
その瞬間、涼音の網膜に、合わせ鏡に映る『無数の自分自身』の姿が強烈に飛び込んできた。
どの涼音も、怯えているわけではない。ただ、隣に立つ夏帆の熱を放つ身体を、異常なほどの執念と、どす黒い独占欲に塗れた瞳で見つめ続けていた。
涼音の呼吸が止まる。
怨霊の『束縛』という呪詛と、涼音自身がひた隠しにしてきた『特等席への執着』が、鏡という増幅装置を介して致命的な共鳴を起こし始めていた。
「うおおおおっ! なにこれ! 360度全面鏡張り! 神スタジオじゃん!!」
極限の精神汚染の真っ只中、夏帆の歓喜の絶叫が、冷え切った空気を物理的に叩き割った。
夏帆はスポーツバッグを床に放り投げると、蛍光イエローのジャージのジッパーを一気に引き下げた。
「これなら前後左右、どこからでも自分のフォーム確認できる! アイソレーション(部位独立運動)の練習に最適すぎっしょ!」
夏帆はスマートフォンを取り出し、画面をタップした。
ドゥンッ、ドゥンッ、ドゥンッ!!
K-POPアイドル『HELL/AVEN』の最新曲。内臓を揺らすような重低音のディストピア風EDMが、密室の鏡張りの部屋に爆音で反響する。
キュッ、ギチッ!!
夏帆のナイキ・ショックスのスプリングが軋む。
彼女は鏡の真正面に立つと、首、肩、胸の筋肉を、人間離れした凄まじいキレとスピードで独立して動かし始めた。
怨霊の呪詛など、限界まで筋肉をコントロールする陽キャの視界には一ミリも入っていない。
『アァァァ……! ワタシノ……モノォォォッ!!』
自分の呪い空間を「ダンススタジオ」として消費されたメリーが、狂ったように絶叫した。
メリーの霊体が鏡の表面に浮き上がり、実体を持った両腕が、錆びた手錠を鳴らしながら夏帆の首筋へと伸びる。
夏帆の背後から迫る、永遠の束縛。
だが、夏帆はステップの反動を利用した完璧なダッキングで、手錠の軌道をコンマ数秒の差で物理的に躱し続けている。
「うおっ! 鏡の反響音エグい! ビートが直接筋肉に響くわー!」
夏帆はディストピア・ダンスの激しい振り付けのまま、腕を振り下ろし、メリーの伸ばした手錠をエルボーで豪快に弾き飛ばした。
ガンッ!! という硬質な音が響く。
涼音は、その光景を無表情のまま見つめていた。
夏帆の放つ莫大な熱量と、シトラスの香水が、EDMのビートに乗って涼音の全身を打ち据える。
鏡の中から、メリーが再び夏帆の腕を掴もうと、ドロドロに溶けた顔面を突き出してきた。
他者が。得体の知れないモノが、この熱源に触れようとしている。
ダンッ。
涼音の黒いパンプスが、夏帆のステップの合間を縫うように、一歩前へ踏み出した。
涼音は夏帆と鏡の真正面の間——わずか数十センチの隙間に、滑り込むようにして立ちはだかった。
そして、チタンフレームの眼鏡を中指で押し上げると、メリーの顔面が浮かび上がる鏡の表面に、自らの両手を『バンッ!!』と強く叩きつけた。
「おっ? 涼ねえねも一緒に踊る?」
「……光の乱反射による、視覚情報の著しいノイズです。前衛のフォーム確認を阻害する不純物は、物理的に排除しなければなりませんわ」
涼音の口から、氷のように冷徹な理屈が吐き出される。
だが、その瞳は、夏帆ではなく、鏡の奥にいるメリーの怨霊を真っ直ぐに射抜いていた。
ホラーの呪詛を遥かに凌駕する、絶対零度の殺意。
『ジャマ……スルナ……! ソイツハ、ワタシノ……!!』
「……認識の誤りですわ」
涼音は、鏡面に顔を近づけた。
そして、自らの深く熱い吐息を、ハァッ、と鏡に吹きかけた。
鏡の表面が、涼音の吐息で真っ白に曇り、メリーの顔面が完全に視界から遮断される。
「彼女の熱量は、すでにわたくしの管理下にあります。未認可の有機物が接触することは、衛生管理上、絶対に許されません」
涼音は曇った鏡の表面を、自らの指先で、背後で踊る夏帆のシルエットの形にだけ、執拗になぞって拭き取った。
夏帆の姿だけがクリアに映り、その周囲は涼音の吐息によって白く塗り潰されたまま。
それは、怨霊の「束縛」などという生ぬるい感情を完全に圧殺する、圧倒的なまでの「所有」の証明だった。
『…………ッ!!』
鏡の奥のメリーが、声にならない悲鳴を上げた。
自分より遥かに重く、狂気的で、理屈で完全武装された独占欲の圧力。ストーカー霊であるメリーの存在意義そのものが、涼音の無言のプレッシャーによって内側から圧壊していく。
ウェディングドレスの女は、逃げるように鏡の無限の奥行きの中へ後ずさりし、そのままガラスの破片のように砕け散って完全に消滅した。
「っしゃあ! 振り付け完璧に入った! 涼ねえね、鏡拭いてくれてありがと!」
夏帆がEDMの音楽を止め、汗だくの顔で満面の笑みを向けた。
涼音は鏡についた両手をゆっくりと下ろし、自分が夏帆の吐き出す二酸化炭素を、無意識のうちに肺の限界まで深く吸い込んでいたことに気づいた。
狂っているのは、空間ではない。
「……ええ。鏡面のクリアな視界の確保は、モニタリングの基本ですから」
涼音は振り返り、自身の内側でどす黒く渦巻く感情に完璧な蓋をしながら、夏帆の汗ばんだタンクトップの肩口のすぐ横、右斜め後ろ十五センチの座標へと、寸分の狂いもなく戻っていった。




