第23話:「デトックス完了! 汗流したらマジでスッキリするよね!」
第23話:「デトックス完了! 汗流したらマジでスッキリするよね!」
シューゥゥゥゥッ……!!
天井のスプリンクラーから噴き出す緑色がかった毒ガス(瘴気)が、廃結核病棟の手術室を完全に満たしている。
視界は数センチ先すらも緑の靄に遮られ、吸い込めば肺胞が瞬時に壊死する高濃度の呪い。
だが、その空間の中央。解剖台へと変貌した冷たいタイルの上だけは、望月夏帆が放つ莫大な代謝熱によって、強烈な上昇気流が発生し、毒ガスを物理的に押し返していた。
「ぷはぁーっ! ロウリュの温度、マジで限界突破してるわー!」
夏帆は解剖台の上で胡座をかいたまま、目を閉じて深く息を吐き出した。
黒のタンクトップは汗で完全に肌に密着し、額から滴る汗が、まつ毛を伝ってタイルの溝へとボタボタと落ちていく。
夏帆の背後には、倉田涼音が膝をついていた。
涼音の両手は、除菌シートという人工物の壁を捨て去り、夏帆の汗ばんだ背骨の上に直接、ベタリと押し当てられている。
火傷しそうなほどの熱。夏帆の深呼吸に合わせて背中が膨らみ、収縮するたび、涼音の指の間に夏帆の汗がぬるりと入り込んでくる。
『……ナゼ……メスガ……ハイラナイ……』
狂気霊・ドクターが、空虚な眼窩をひくつかせながら、血まみれのメスを宙で震わせた。
手術という名の人体破壊を完遂するためには、対象が恐怖で硬直し、冷や汗を流して解剖台に縛り付けられていなければならない。
だが、目の前の女は、自ら解剖台に座り込み、最高のサウナ空間として全身の毛穴から大量の老廃物(汗)を排出している。
毒ガスは「アロマロウリュ」として深呼吸で消費され、恐怖という概念そのものが筋肉の代謝プロセスによって解体されていた。
ドクターの狂気的な完璧主義が、夏帆の無計算のクオリアの前でエラーを吐き出し始める。
「よっしゃ! 水分補給して、もう一セット追い込むか!」
夏帆がカッと目を開き、横に置いていたプロテインシェイカーを掴んだ。
キャップを開け、毒々しい色のBCAAを一気に喉へ流し込む。
ゴクッ、ゴクッ、と力強い嚥下音が手術室に響く。
夏帆はシェイカーを置くと、そのままの勢いで解剖台の上に立ち上がった。
ナイキ・ショックスが、血抜き用の溝が掘られたタイルを力強く踏みしめる。
「おっ、ドクター! アウフグース(熱波)のサービス、マジで最高だったわ!」
夏帆は、血に染まった白衣を着て呆然と立ち尽くすドクターに向かって、満面の笑みで右手の親指を立てた。
『……アウフ……グース……?』
「熱風の循環、マジで完璧だった! デトックス完了! 汗流したらマジでスッキリするよね!」
夏帆の純度百パーセントの感謝が、ドクターの脳(に相当する怨念の核)を直撃した。
人を切り刻むことしか知らなかった狂気の完璧主義。それが、極限まで肉体を追い込んだ者だけが到達できる「デトックス完了の爽快感」への称賛として、強引に上書き変換されていく。
『……スッキリ……』
ドクターの手から、血まみれのメスが滑り落ちた。
カラン、と乾いた音を立てて床に転がったメスは、光の粒子となって消滅した。
続いて、ドクターの顔面に刻まれていた無数の切り傷が、蒸気を上げるように塞がっていく。
ドクターの空虚な眼窩から、毒ガスではない、透明な涙がこぼれ落ちた。
彼は深く一礼すると、白衣ごと真っ白な光の粒子となって、天井へと吸い込まれるように消えていった。
プシュン、と。
スプリンクラーからの毒ガスの噴射が止まった。
空間を覆っていた緑の靄が晴れ、コンクリートの壁とリノリウムの床が、元の廃病院の姿へと戻っていく。
「ふーっ! 整ったー! 涼ねえねもいい汗かけた?」
夏帆が振り返り、背後で膝をついたままの涼音に満面の笑みを向けた。
涼音は、虚空を見つめたまま、両手を宙に浮かせた状態だった。
夏帆が立ち上がったことで、掌から突然熱源が失われた。指先にこびりついた夏帆の汗だけが、異常なほどの冷たさを持って急速に気化していく。
——失われた。
——私の熱が。
涼音のチタンフレームの眼鏡の奥で、瞳孔が小さく収縮した。
「……発汗による急激な水分喪失。および、気化熱による深部体温の致命的な低下が懸念されます」
涼音は、無表情のまま立ち上がった。
折れたパンプスのヒールによる痛みを完全に無視し、一歩、また一歩と夏帆へと歩み寄る。
「お? 涼ねえね、どうしたの?」
涼音は夏帆の真正面に立つと、おもむろに自分のスーツのジャケットのボタンを外し、脱ぎ捨てた。
下から現れたのは、汗ばんだ夏帆のタンクトップとは対照的な、純白のシルクのブラウス。
涼音は、その高級なブラウスの袖口で、夏帆の額から滴る汗を、直接、力強く拭い始めたのだ。
「ちょ、涼ねえね!? 服汚れちゃうって! アタシ、さっきの泥水も被ってるし!」
「……清潔な布地による、物理的な水分の吸着が最優先です。除菌シートのアルコール成分は、開いた毛穴に過剰な刺激を与え、細胞組織を破壊する可能性がありますわ」
涼音の口から、澱みない理屈が紡ぎ出される。
だが、その指の動きは、汗を拭き取るという目的を遥かに逸脱していた。
ブラウスの袖が夏帆の汗でぐっしょりと濡れ、黒い泥汚れが付着していく。だが、涼音は手を止めない。
額から頬へ、そして首筋へ。
夏帆の強烈な脈拍を感じる頸動脈の真上を、涼音は自らのブラウスの袖越しに、何度も何度も、異常なまでの力で撫で回す。
——他のモノの汚れなど、私がすべて吸収する。
——この圧倒的な生命力は、私というフィルターを通してのみ、この世界に存在することを許される。
涼音の脳内で展開されていた完璧な論理の城壁は、もはや彼女の暴走する独占欲を隠しきれていなかった。
夏帆の汗を限界まで吸い込んだブラウスの袖が、涼音の手首に冷たく、そして重くへばりついている。
「あはは! 涼ねえね、マジで綺麗好き超えてお母さんみたいじゃん! ありがとね!」
夏帆は自分の首筋が、異常な力でホールドされ、撫で回されていることの異様性に全く気づかず、目を細めて嬉しそうに笑った。
涼音は、夏帆の首筋からゆっくりと手を離した。
そして、夏帆の汗と泥で汚れきったブラウスの袖口を、無意識のうちに、自分の唇の端へとそっと押し当てたのだ。
布越しに伝わる、強烈なシトラスの香水と、莫大な体温の残滓。
涼音はチタンフレームの眼鏡を中指で押し上げ、自身の内側で狂ったように跳ね回る心臓の音を深く飲み込みながら、夏帆の右斜め後ろ十五センチの特等席へと、再び音もなく滑り込んだ。




