第22話:「アロマの香り強め! ここ、メディカル系の本格サウナっしょ!」
第22話:「アロマの香り強め! ここ、メディカル系の本格サウナっしょ!」
深夜の雨上がりの山道は、まとわりつくような高い湿度を保っていた。
ダム湖から数キロ離れた深い森の奥底。月光すら届かない密林の中に、三階建ての巨大な廃墟がコンクリートの墓標のようにそびえ立っている。
かつて結核患者を隔離し、非人道的な人体実験が繰り返されたという噂が絶えない、廃結核病棟。
倉田涼音は、望月夏帆の右斜め後ろ十五センチの座標を、寸分の狂いもなく維持しながら歩を進めていた。
ダム湖で剥がれた右足の生爪の痛みは、脳内の演算リソースから完全に除外されている。涼音の意識の九割は、前を歩く夏帆の背中——黒のタンクトップから露出した肩甲骨の躍動にのみフォーカスされていた。
夏帆の背中には、夕霧の呪いを打ち破った際に付着したわずかな泥水が乾燥し、白く粉を吹いている。
涼音は無意識のうちに右のポケットに手を入れ、アルコール純度高めの除菌シートを握りしめた。
——拭き取らなければ。私の盾が、見ず知らずの有機物で汚染されている。
指先が微かに震える。だが、不自然な接触は自己の行動原理(生存戦略)に矛盾を生じさせる。涼音はチタンフレームの眼鏡を中指で強く押し上げ、湧き上がる衝動を分厚い理屈の底に沈め込んだ。
「うおー、すっげえコンクリ打ちっぱなし! マジで無骨なデザインだね!」
夏帆の野太い声が、廃病棟の静寂を粉砕した。
エントランスの自動ドアはとうに砕け散り、内部からは消毒用アルコールとホルマリン、そして古い血が酸化したような強烈な悪臭が這い出してきている。
ギギギギギ……。
二人が足を踏み入れた瞬間、病棟の奥から、錆びついたストレッチャーの車輪が擦れる音が響いた。
気温が急激に低下し、吐く息が白く濁る。
廊下の両脇に並ぶ病室のドアが、一斉にガタガタと震え始めた。
狂気霊・ドクター。生前、完璧な手術に固執するあまり患者を次々と解剖台へ送った男の妄念が、空間の物理法則を書き換え始めている。
「……空間の密閉性が異常です。ホルムアルデヒドの残留濃度が致死量に達している可能性がありますわ」
涼音が冷静に事実を述べるが、夏帆の足は一歩も止まらない。
22.5センチのナイキ・ショックスが床に散乱するカルテの残骸を踏み砕く。
「いやいや涼ねえね、この匂い、マジでアロマの香り強めで最高じゃん!」
夏帆は深く息を吸い込み、充実感に満ちた声を上げた。
彼女の視界には、血まみれのストレッチャーも、蠢く病室のドアも入っていない。
「最近流行りのメディカル系本格サウナっしょ! 薬草ロウリュの匂い、マジで細胞が活性化するわー!」
夏帆の強靭な肺が、致死量の瘴気を「極上のサウナ用アロマ」として一気に吸収していく。
ズォォォォッ、という深い呼吸音。
限界まで追い込まれた筋肉から、莫大な代謝熱が放射され、廊下の冷気を白い湯気へと変換していく。
『……カンペキナ……カイボウヲ……』
手術室の二重扉が、音もなく開いた。
中から、血に染まった白衣を着た男——ドクターの霊が姿を現した。
男の顔面は手術用メスで縦横無尽に切り裂かれ、眼球の代わりに二つの黒い空洞がぽっかりと口を開けている。
ドクターが両手を広げると、廊下の空間がぐにゃりと歪んだ。
コンクリートの壁が、無数のホルマリン漬けのガラス瓶が並ぶ巨大な棚へと変貌し、足元のリノリウムが、血抜き用の溝が掘られた冷たいタイルの解剖台へと強制的に書き換えられていく。
空間の書き換え。認識のハッキング。
涼音の演算回路がショート寸前の警告を発した。逃げ道はない。この手術室の幻影に取り込まれれば、物理的に肉体を解体される。
「うおおおっ! 貸切の個室サウナキタ!!」
絶望的な空間変容の真っ只中で、夏帆は歓喜のステップを踏んだ。
ショックスのスプリングが鳴り、夏帆はドクターの目の前、解剖台へと変貌しかけている床のど真ん中に、あぐらをかいてドカッと座り込んだ。
「温度設定マジでストイック! これなら五分でバチバチに汗かけるわ!」
夏帆はスポーツバッグから、毒々しい色のBCAAが入ったプロテインシェイカーを取り出し、横に置いた。
そして、両目を閉じ、胡座をかいた膝の上に両手を置き、深い瞑想(サウナにおける整いプロセス)に入ったのだ。
『……メス……メスヲ……』
ドクターの霊が、困惑したように血まみれのメスを宙で震わせた。
解剖台に縛り付けられ、恐怖に叫ぶ患者を想定していた空間に、蛍光イエローのジャージを着た女が自ら座り込み、目を閉じてリラックスし始めている。
狂気のシナリオが、一切の計算を持たない陽キャのクオリアによって完全に停止させられた。
プシュゥゥゥゥゥッ!!
ドクターが怒りに任せ、室内のスプリンクラーから高濃度の毒ガス(瘴気)を一斉に噴射した。
緑色がかったガスが、夏帆の身体を包み込む。吸い込めば数秒で肺が腐り落ちる猛毒。
「ロウリュ(※毒ガス)熱すぎ! 限界突破してバチバチに整ってきたわー!」
夏帆は目を閉じたまま、ダラダラと大量の汗を流し、満面の笑みで毒ガスを肺いっぱいに吸い込んだ。
彼女の異常な代謝機能が、毒素を瞬時に汗として体外へ排出していく。解剖台の床に、夏帆の汗が水たまりを作っていく。
涼音は、夏帆の右斜め後ろ十五センチの座標で立ち尽くしていた。
毒ガスは夏帆の放つ莫大な熱量によって上昇気流に乗り、涼音の頭上を通り過ぎていく。絶対安全圏。
だが、涼音の視線は、夏帆の背中を流れる汗の軌跡に完全に釘付けになっていた。
黒のタンクトップが汗で肌に張り付き、肩甲骨の溝を伝って、一滴、また一滴と床に落ちていく。
他の誰かが彼女の身体に触れる前に、自分がすべてを拭き取らなければ。
涼音は右手の除菌シートを強く握りしめ、ゆっくりと夏帆の背後へと膝をついた。
「……高湿度の空間における、雑菌繁殖のリスクです。表皮の汗は、速やかに拭き取らねばなりませんわ」
涼音は氷のような声で呟きながら、除菌シートを持った右手を夏帆の背中へと伸ばした。
だが。
夏帆の背中に触れる寸前、涼音はピタリと動きを止めた。
除菌シート。
化学繊維とアルコールで構成された、無機質な工業製品。
これで、この圧倒的な熱量を拭い去ってしまっていいのか。
自分の手と彼女の肌の間に、人工物を介在させるべきなのか。
涼音は、ゆっくりと除菌シートを床に落とした。
そして、一切の躊躇なく、自らの素手のひらを、夏帆の汗ばんだ背中の中心、熱の発生源である脊椎の上に直接、ベタリと押し当てたのだ。
「おっ、涼ねえね? 一緒に整う?」
「……ええ。直接的な皮膚接触による、温度勾配の確認です。深部体温の異常な上昇は、熱中症のサインですから」
涼音は、自分の手のひらが夏帆の熱で火傷しそうになるのを感じながら、完璧な自己欺瞞の理屈を紡いだ。
夏帆の汗が、涼音の指の間にぬるりと入り込んでくる。
涼音はチタンフレームの眼鏡の奥で、ドクターの怨霊へ向かって、一切の光を宿さない漆黒の瞳を向けた。
——この熱は、私だけのものだ。
お前のメスなど、一ミリも入れさせない。
涼音は、自分の心臓の音が夏帆の背中に直接響くほどの異常な力で、その熱狂的な背中をホールドし続けた。




