第21話:「アンタ、すっげえ綺麗じゃん! アタシと一緒に写真撮ろ!」
第21話:「アンタ、すっげえ綺麗じゃん! アタシと一緒に写真撮ろ!」
倉田涼音の鎖骨に、望月夏帆の熱い呼気が直接叩きつけられる。
水飛沫とシトラスの香水、そしてダム湖の生臭い泥の匂いが混ざり合う。涼音はコンクリートの護岸に両膝をついたまま、水面から顔を出した夏帆の首に巻きつけたタオルを、さらに強く、自らの胸元へと引き寄せていた。
夏帆の顔面からわずか三十センチ下の水面。
そこには、赤い着物を纏った花魁霊・夕霧の顔が、ぽかんと口を開けたまま浮かんでいた。
水底へ引きずり込もうとした獲物が、突然、自分以上の異常な引力(執着)を持つ人間に陸へ強引に拘束されている。数百年の怨念のプロセスが、完全にエラーを起こしてフリーズしていた。
「ぷはぁっ! ちょ、涼ねえねマジで力強いって! アタシの体幹でも引っ張られるわ!」
夏帆は左手のプロテインシェイカーで水面を叩きながら、涼音の腕のホールドから豪快に顔を抜いた。
タオルの結び目が解け、涼音の腕の中に一瞬の真空状態が生まれる。涼音の指先が、喪失感から微かに痙攣した。
ザバァッ!
夏帆が、立ち泳ぎの巻き足の推進力を利用して、水面から上半身を大きく乗り出した。
右手に握った公式ペンライト『ヘラヴィック』のブラッドオレンジの光が、夕霧の溶け落ちた顔面を至近距離で暴力的に照らし出す。
『……ミナイデ……』
光に当てられた夕霧が、反射的に自分の顔を隠そうと、泥だらけの袖で頬を覆った。
遊郭で美貌を誇りながらも、裏切られ、顔を潰されて水底に沈められた過去。その容姿への絶望こそが、彼女をこのダム湖に縛り付けている呪いの核だ。
だが、限界まで筋肉を追い込む陽キャの視界には、怨霊のトラウマのコンテクストなど一ミリも入っていない。
「うおっ、その赤い着物めっちゃ水映えするじゃん! しかも肌白っ!」
夏帆の野太い声が、ダム湖の静寂を粉砕した。
「水圧の負荷で全身引き締まってるし、マジでアンタ、すっげえ綺麗じゃん! 水中ウォーキングの効果エグいね!」
夏帆はペンライトの光で夕霧の顔を隈なく照らしながら、食い気味に絶賛した。
爛れた肉も、剥き出しの歯列も、夏帆の目には「極限まで無駄な脂肪を削ぎ落とした、アスリートの究極のカット(筋肉の筋)」としか認識されていない。
『……え……?』
夕霧の顔を覆っていた袖が、ゆっくりと下ろされた。
数百年間、誰にも肯定されず、化け物として恐れられ続けてきた自分。その容姿を、圧倒的な生命力と熱量を持った少女が、至近距離で「すっげえ綺麗」と手放しで賛美しているのだ。
「アタシらと一緒に写真撮ろ! このロケーション、絶対バズるって!」
夏帆は左手のシェイカーをスポーツバッグの上に放り投げると、ジャージのポケットからスマートフォンを取り出し、インカメラを起動した。
そして、自分と、夕霧の顔が画角に入るように腕を伸ばす。
「はい、チーズ!」
カシャッ!!
スマートフォンの強烈なフラッシュが、ダム湖の暗闇を白く飛ばした。
フラッシュの光の中で、夕霧の溶け落ちていた顔が、淡い光の粒子に包まれながら、本来の艶やかな花魁の造形へと再構築されていく。
『……ありがとう……ござりんす……』
鈴を転がすような、美しい声。
夕霧の身体は、赤い着物ごと桜の花びらのような光の粒子となって、夜空へと舞い上がっていった。
湖畔を満たしていた息苦しい死の引力が、嘘のように霧散する。水面は、ただの静かなダム湖のそれへと戻っていた。
「よっしゃ、いい写真撮れた! 涼ねえねも後で送るね!」
夏帆が、水からザバーッとコンクリートの護岸へと這い上がってきた。
全身から水滴を滴らせながら、満足げにスマートフォンの画面を覗き込んでいる。
涼音は、コンクリートに両膝をついたまま、無言で立ち上がった。
涼音の視線は、夏帆のスマートフォンに向けられていた。
画面の中で、夏帆と、見ず知らずの女(怨霊)が並んで写っている。
自分の知らないところで、自分以外の存在が、この圧倒的な熱源に賛美され、隣に並び、記録として保存されたという事実。
「……データの即時削除を推奨しますわ」
涼音の口から、氷のように冷ややかな声が落ちた。
「お? なんで? めっちゃエモい写真なのに」
「……光学機器による未知の有機物の撮影は、デジタルデータへの呪詛の混入リスクを伴います。端末の基盤を物理的に破壊される可能性がありますわ」
涼音は淀みなく理屈を構築しながら、右のポケットからアルコール純度高めの除菌シートを引き抜いた。
そして、夏帆の真正面へと回り込み、彼女の顔を両手でガッチリとホールドした。
「わっ、また除菌?」
「ええ。水生微生物による、顔面の深刻な汚染が確認されました。これより、表皮の完全な滅菌処理を実行しますわ」
涼音は除菌シートを夏帆の頬に押し当て、異常な力でゴシゴシと擦り始めた。
だが、その視線は夏帆の頬ではなく、水底の怨霊が消えていった湖面へと、真っ直ぐに向けられていた。
——ただの霊障に、美醜などありません。
——そして、貴女の隣の特等席は、私が管理する空間です。
涼音は、除菌シートで夏帆の頬が赤くなるまで執拗に摩擦を繰り返した後、シートをポイと湖の中へ投げ捨てた。
そして、今度は素手で、夏帆の濡れた黒髪を両手で優しく掻き上げたのだ。
冷え切った涼音の指先が、夏帆の熱い頭皮の感触を貪欲に吸収していく。
「……頭部からの急激な放熱を防ぐための、物理的な保温処置ですわ」
「あはは! 涼ねえね、手が冷たくて気持ちいい! クールダウンに最高!」
夏帆は自分の頭部が異常な力でホールドされていることの異様性に全く気づかず、目を細めて涼音の手のひらに擦り寄った。
涼音は、夏帆の頭を抱え込んだまま、自らの胸の奥で狂ったように脈打つ心臓の音を、完璧な理屈の底に深く沈み込ませた。
湖畔の静寂の中、夏帆の体温とシトラスの香水だけが、涼音の肺の隅々まで独占的に満たし続けていた。




