第20話:「この水圧、筋肉にめっちゃ良い負荷! バタ足で追い込むよ!」
第20話:「この水圧、筋肉にめっちゃ良い負荷! バタ足で追い込むよ!」
ドッシャアァァァァァァンッ!!!
真っ黒なダム湖の静寂が、規格外の物理的質量によって粉砕された。
望月夏帆の肉体が水面に激突し、巨大な水柱が上がる。ブラッドオレンジの公式ペンライト『ヘラヴィック』の強烈な光が、コールタールのように澱んだ水中に射し込んだ。
水底から伸びていた夕霧の巨大な泥の髪の毛は、夏帆のダイブの破壊的な水圧と衝撃波によって、あっけなく千切れ飛ぶ。
同時に、倉田涼音の足首を掴んでいた無数の白い手も、直上から叩きつけられた水流の乱れによって強引に引き剥がされた。
「ぷはっ! 水温マジでちょうどいい! 最高のクールダウンじゃん!」
夏帆が水面から顔を出し、プロテインシェイカーを持つ左手を高く突き上げた。
水中で暴れたせいで、黒のタンクトップが皮膚に完全に密着し、鍛え抜かれた大胸筋と腹直筋の輪郭が浮き彫りになっている。
涼音は、しがみついていたコンクリートの護岸から、ゆっくりと力を抜いた。
水面で水飛沫を上げる夏帆の姿を前にして、この非常事態の処理は完全に後回しにされていた。
夏帆は左手にシェイカー、右手にペンライトを持ったまま、全く沈む気配を見せない。
両手が塞がっている状態での立ち泳ぎ。常人ならば数秒で肺に水が入り溺死する状態だ。
だが、夏帆の両脚は、水中でスクリュープロペラのように異常な駆動音を立てていた。強靭な大腿四頭筋とハムストリングスが生み出す、圧倒的な推進力の巻き足(立ち泳ぎの立ち足)。
水面が夏帆の足元で激しく渦を巻き、怨霊の漂う死の水域を、完全な「トレーニングプール」へと変容させている。
『……オノレェェェ……!!』
夕霧の顔面が、水面スレスレに再び浮かび上がった。
赤い着物が水中で毒々しく広がり、数え切れないほどの白い手が、今度は夏帆の両足首を水底へと引きずり込もうと一斉に群がった。
怨霊の執念。数百人の亡者の質量。
夏帆の身体が、一瞬だけ水面下へ沈みかける。
「おっ! 急に水圧上がった? いいねいいね、足首にウェイト巻いた状態でのウォーターワークアウト! これマジで大臀筋に効くわー!」
夏帆は亡者たちの手を「トレーニング用の高負荷ウェイト」と誤認し、全く怯むことなく、逆に足の動きを加速させた。
バシャバシャバシャバシャバシャッ!!!
夏帆の強烈なバタ足が始まった。
ナイキ・ショックスのスプリング機構を内蔵したスニーカーが、水中で暴力的な水流を生み出す。
夏帆の足首にしがみついていた亡者たちの手が、強烈なキックの反動で次々と顎を蹴り上げられ、顔面を粉砕され、水底へと蹴り返されていく。
『アガガガッ……!?』
夕霧が放った泥の髪の毛も、夏帆の蹴り出すスクリューのような水流に巻き込まれ、すべて千切れてただのゴミと化した。
「まだまだ! ペース落とさないよ! 追い込んでこーぜ!」
カシャカシャカシャカシャッ!!
夏帆が左手のプロテインシェイカーを激しく振り鳴らす。
金属ボールの音が水面で反響し、さらに右手のペンライトのブラッドオレンジの光が、黒い水面に巨大な波紋を映し出した。
『アイシテ……アイシテイタノニ……!! ウラギッテ……ワタシヲ……!!』
夕霧が、顔面の溶け落ちた皮膚を震わせながら、悲恋の呪詛を水面に撒き散らした。
遊郭で信じた男に裏切られ、このダム湖に沈められた過去。そのドス黒い記憶が、音波となって涼音の鼓膜に届きかける。精神を汚染し、同調圧力で脳を破壊する呪い。
「そのエモいMC、めっちゃ響くわ! ライブ中盤のバラード前の語りって感じで最高!」
夏帆の野太い声が、夕霧の呪詛のコンテクストを完全にへし折った。
夏帆はバタ足を休めることなく、満面の笑みで夕霧に向かってヘラヴィックを突き出した。
「でもさ、そんな過去の恨みつらみばっか気にしてたら、コルチゾール出まくってマジで筋肉分解しちゃうよ! アンタも一緒に泳いで代謝上げよーぜ!」
涼音は、コンクリートの護岸に身を寄せたまま、水面の狂騒をチタンフレームの眼鏡の奥で静かに見下ろしていた。
涼音は首に巻きつけていた夏帆のスポーツタオルをゆっくりと解き始めたのだ。
夏帆が他の存在——たとえそれが怨霊であっても——と物理的に接触し、熱量を消費している。
その事実が、涼音の胃の腑をどす黒い何かで満たしていく。
涼音は、解いたタオルを両手で強く握りしめ、水際ギリギリまで身を乗り出した。
そして、水面でバタ足を続ける夏帆の頭上から、そのタオルを、夏帆の首筋めがけてバサリと被せたのだ。
「おわっ!?」
突然視界を布で覆われ、夏帆の動きが一瞬止まる。
涼音は無表情のまま、タオルの両端をガッチリと掴み、夏帆の首を絞め上げるような形——いや、彼女の頭部を自分の胸元へ強引に引き寄せる形で、全体重を後ろにかけた。
「……長時間の低水温環境における、急激な体温低下のリスクです。これ以上の浸水は、心室細動を引き起こす可能性が極めて高い。速やかな陸上への引き上げと、保温処理を実行しますわ」
涼音の口から、氷のように冷たく、完璧な理屈が紡ぎ出される。
だが、その腕の力は、人命救助という目的を完全に逸脱していた。
夏帆の濡れた黒髪と、熱い首筋が、タオルの上から涼音の鎖骨に直接押し付けられる。水飛沫とともに、夏帆の強烈な体温とシトラスの香水が涼音の皮膚を焼く。
「ごぼっ……涼ねえね!? ちょ、苦しっ……!」
「……気道の確保よりも、深部体温の維持を最優先とするプロトコルですわ。動かないでください」
涼音は夏帆の抗議を完全に無視し、タオルの端をさらに強く引き絞った。
水面下で夕霧の怨霊がポカンと口を開けてその光景を見上げていることなど、涼音の視界には一切入っていない。
——この熱は、私だけのものだ。
水の中で他のモノに触れさせるくらいなら、私がこの手で、彼女の呼吸ごとすべて管理する。
涼音はチタンフレームの眼鏡の奥で、一切の光を宿さない漆黒の瞳を、水底の怨霊へと冷ややかに見下ろしながら、夏帆の頭部を自らの胸元へ、異常なまでの力で拘束し続けた。




