第19話:「涼音、見て! 貸切プール見つけたから泳ぐわ!」
第19話:「涼音、見て! 貸切プール見つけたから泳ぐわ!」
雨雲が通り過ぎた後の山道は、まとわりつくような高い湿度を保っていた。
未舗装の獣道を抜けた先、視界が唐突に開ける。
すり鉢状の山肌に囲まれた、巨大な人工の窪地。山奥のダム湖だった。
水面は周囲の木々のシルエットを吸い込み、コールタールのように黒く、そして波一つない完全な鏡面を形成している。湖畔に立つ錆びついた看板には、赤字で『遊泳禁止・死亡事故多発』の文字が掠れて残っていた。
倉田涼音は、チタンフレームの眼鏡を中指で押し上げた。
気圧計と湿度計のデータを確認するまでもなく、この空間の異常性は皮膚感覚が証明している。水辺特有の冷気ではない。液体そのものが意志を持ち、体温を持つ生物を水底へ引きずり込もうとする、濃密な死の引力。
だが、涼音は立ち止まることなく、前を歩く望月夏帆の右斜め後ろ十五センチの座標を正確にトレースし続けた。
首には、夏帆の汗をたっぷりと吸い込んだスポーツタオルが二重に巻かれている。涼音はタオルの結び目に顎を埋め、布地越しに夏帆の匂いと熱を肺の奥底まで吸い込みながら、完璧な論理の城壁を構築する。
——高湿度の環境下における、気道粘膜の乾燥防止。そして前衛の体温低下を防ぐための、後方支援としての随伴。
自分自身の鼓動が、眼前のダム湖の異様さではなく、タンクトップ越しに躍動する夏帆の肩甲骨にのみ反応している事実を、分厚い理屈の底に沈み込ませる。
「うおー、すっげえ広い水場! しかも完全貸切じゃん!」
夏帆の野太い声が、ダム湖の静寂を暴力的に打ち砕いた。
彼女の視界には、不気味な黒い水面も、警告の看板も入っていない。
夏帆は湖畔のコンクリートの護岸まで小走りで進むと、スポーツバッグを足元に放り投げた。
ナイキ・ショックスが、濡れたコンクリートをキュッと鳴らす。
「朝の有酸素運動の締めに、水泳マジで最高っしょ! 全身の筋肉に均等な負荷かけられるし!」
涼音は、夏帆の背後で水面を覗き込んだ。
黒い鏡のような水面。
そこには、蛍光イエローのジャージを着た夏帆の姿と、スーツ姿の自分の姿が映っている。
だが、涼音の背後に、もう一人。
色鮮やかな赤い着物を纏い、べっとりと白粉を塗った女の姿が、水鏡の中にだけはっきりと映り込んでいた。
ピチャッ。
水面を割って、赤い番傘がふわりと浮き上がった。
そのすぐ真横に、夏帆が数時間前に食べてポケットから落としたらしい、プロテインバーの銀色の包装紙がプカプカと漂っている。
「……空間の屈折率異常。あるいは、水底に堆積したメタンガスによる集団幻覚——」
涼音が理屈を口にするより早く、水温が急激に低下した。
チャプン、という微かな水音とともに、水面から真っ白に膨張した手が無数に突き出した。
遊郭から逃げ出し、このダム湖の底に沈められた花魁霊・夕霧と、その道連れとなった亡者たちの手。
数十本の手が、コンクリートの護岸を這い上がり、涼音の足首をガッチリと掴んだ。
ズルッ!!
強烈な引力。
涼音の身体が、抗う間もなく前傾し、真っ黒な水面へと引きずり込まれる。
声帯から悲鳴を上げる暇もなかった。
顔面から冷たい水に突っ込む。気管に生臭い泥水が一気に侵入し、肺胞が痙攣を起こす。
水底から、赤い着物を纏い、髪を振り乱した夕霧の顔が迫ってくる。水に溶けた白粉の下から、爛れた肉と剥き出しの歯列が覗く。
『クツジョク……ウラミ……』
三味線の音色に似た、骨の軋むような水泡音が鼓膜を直接叩く。
四方八方から白い手が伸び、涼音のスーツのジャケットを、ストッキングを、引き裂くような力で水底へ、水底へと引きずり下ろしていく。
酸素が断たれる。脳細胞が急速に死滅に向かう。
完全な死のプロセス。
だが、水面直下で目をカッと見開いた涼音の瞳孔に映っていたのは、迫り来る怨霊の凄惨な顔ではなかった。
水面の上。水際でジャージのジッパーに手をかけている、夏帆の足元。
自分と夏帆を繋ぐ、たった数メートルの物理的距離。
——離れる。
このままでは、私はあの特等席から排除される。
あの圧倒的な熱量が、私以外の空間で消費される。
ブチブチブチッ!!
涼音の脳内で、理性の配線が凄まじい音を立てて千切れた。
死への恐怖など存在しない。あるのは、所有物を奪われることへの、絶対零度の怒りと執着。
涼音は、水中で自らの足首に絡みつく無数の白い手に向かって、自らの両手を伸ばした。
引き剥がすのではない。
涼音は、自身の親指の爪を、自分の足首を掴んでいる亡者の手の甲の肉に、肉が裂け、骨に達するほどの異常な力で深く突き立てたのだ。
同時に、コンクリートの護岸の角に押し当てた自分の足の指先に全体重をかけ、護岸のわずかなヒビ割れに強引に足を固定した。
「…………!!」
気泡が口から漏れる。
この座標(夏帆の真下)から一ミリも動かない。
幽霊の群れが、涼音の狂気的な抵抗に直面し、一瞬だけ引きずり込む力を弱めた。
その時だった。
ジリリリリリッ!!!
水面の上から、ナイロン製のジャージのジッパーが一気に引き下げられる軽快な音が響いた。
水面の揺らぎ越しに、蛍光イエローのジャージが岸辺に放り投げられるのが見える。
現れたのは、肌に密着する黒のスポーツ用タンクトップ。水面の屈折越しでもはっきりとわかる、完璧に絞り込まれた腹斜筋と、大円筋の隆起。
夏帆の筋肉から立ち昇る凄まじい代謝の熱気が、水面の冷気を押し返し、水上を白い湯気で覆い尽くした。
「涼音、見て! 貸切プール見つけたから泳ぐわ!」
夏帆の、腹の底から響く野太い声が、水底の呪詛の重圧を物理的に粉砕した。
夏帆は左手にプロテインシェイカーを、右手にブラッドオレンジの光を放つ公式ペンライト『ヘラヴィック』を握りしめている。
彼女の網膜には、水際で蠢く無数の青白い手も、水面に浮いた赤い番傘も入っていない。
夏帆が見ているのは、「最高の負荷をかけられる、広大な自然のプール」だけだ。
夏帆が、コンクリートの護岸の縁で、陸上競技のような深い前傾姿勢をとる。
ナイキ・ショックスのスプリングが、踏み切りのために限界まで圧縮された。
『ドコマデモ……シズメ……!!』
夕霧の怨霊が、水底から夏帆へ向かって巨大な泥の髪の毛を伸ばそうとした、そのコンマ一秒前。
ダンッ!!!
コンクリートを蹴り砕くような爆音とともに、夏帆の肉体が空中へと射出された。
黒のタンクトップが風を切り、ブラッドオレンジのペンライトの光が、真っ黒なダム湖の水面に向かって、一直線の彗星のような軌道を描く。
——来る。
水際で耐え抜いていた涼音の眼鏡の奥の瞳が、落下してくる夏帆の圧倒的な熱源を捉え、狂気に満ちた歓喜の色を濃くした。




