第18話:「モニター越しじゃなくてさ、面と向かってアツく語り合おうぜ!」
第18話:「モニター越しじゃなくてさ、面と向かってアツく語り合おうぜ!」
シャカッ、シャカカカカッ!!
倉田涼音の両腕が、完璧なメトロノームとなってプロテインシェイカーを振り鳴らし続ける。金属のブレンドボールが硬質プラスチックを叩く音が、廃ネットカフェの淀んだ空気を震わせた。
『ウルサイ……ウルサイ……!!』
生き残っている数台のCRTモニターから、赤黒いノイズが悲鳴のように噴き出した。
ネット霊・ナナシ。顔も名前も持たず、ただ安全なモニターの向こう側から他者の精神を削り取ることでしか自己を保てない矮小な怨念。
その脆弱な呪詛は、涼音が打ち鳴らす物理的なパーカッションと、望月夏帆のコール&レスポンスによって、空間の主導権を完全に奪われていた。
『オ前タチモ……ココデ……孤独ニ……!!』
ナナシが最後の力を振り絞り、最も巨大なメインモニターの液晶を内側から突き破った。
コールタールのように粘り気のある真っ黒なノイズの塊が、人間の上半身のシルエットを形成しながら、画面からドロリと這い出してくる。
顔面にあたる部分には、無数の「目」と「口」のアイコンだけが狂ったように明滅し、周囲の気温を氷点下まで引き下げた。
ギュンッ!
夏帆のナイキ・ショックスが、水浸しのリノリウムの床を強く蹴った。
逃げるのではない。
夏帆は、モニターから上半身を乗り出したナナシの怨霊に向かって、一直線に、そして一切の警戒なく距離を詰めたのだ。
「おっ、VJのお兄さん、ついにフロアに降りてきたね!」
夏帆はナナシの顔面からわずか十センチの距離まで踏み込むと、右手に持った『HELL/AVEN』の公式ペンライトを、怨霊の明滅する顔の真ん前に突きつけた。
ブラッドオレンジの極彩色の光が、真っ黒なノイズの輪郭を暴力的に暴き出す。
あまりの近さと熱量に、ナナシの霊体がビクッと硬直した。
「モニター越しじゃなくてさ、面と向かってアツく語り合おうぜ!」
夏帆は、怨霊の肩(に相当するノイズの塊)を、左手でガシッと力強く掴んだ。
ジュゥゥゥゥッ!!
夏帆の掌から放たれる莫大な体温と生命力が、ナナシの冷え切った呪詛のノイズと物理的に衝突し、激しい蒸気を吹き上げる。
『ア……アァ……!?』
「そんな暗いテキストばっか流してないでさ! アタシらのコールに合わせて、もっとデカい声出していこーぜ!」
夏帆はナナシの肩を掴んだまま、至近距離で弾けるような笑顔と野太いエールを叩き込んだ。
数百年間、安全なモニターの向こう側からしか他者と関わることができなかった孤独な怨霊。
そのパーソナルスペースの概念を、陽キャの物理的な距離の詰め方が完全に粉砕した。
言葉の暴力ではなく、純度百パーセントの肯定と熱量。
ナナシの霊体を構成していた赤黒いノイズが、夏帆の手のひらから伝わる熱によって、急激に純白の光の粒子へと変換され始める。
『……あ……あたたか……い……』
ノイズの中に紛れていた無数の目が閉じられ、歪んだ口のアイコンが、微かに微笑むような形に変わった。
次の瞬間、ナナシの巨体は完全に光の粒子となって弾け、廃ネットカフェの天井のひび割れから、外の雨雲へと吸い込まれるように消えていった。
ピチャリ、ポツリ。
雨漏りの音だけが、元の静寂を取り戻したフロアに響く。
涼音はシェイカーを振る手を止め、小さく息を吐いた。
完璧な浄化。モニターの残骸から放たれていた冷気は完全に消え去り、そこにはただの粗大ゴミの山が残されただけだった。
「ふーっ! マジでアツいセッションだったわ! 涼ねえね、パーカッション最高だったよ!」
夏帆が振り返り、涼音に向かって大きく手を振る。
その頬には、先ほどナナシのノイズを靴で踏み抜いた際に飛び散った、黒いヘドロのような粘液が、うっすらとこびりついたままになっていた。
涼音は無言で夏帆に歩み寄った。
黒のパンプスが、モニターのガラス片を踏み砕く。
涼音は右のポケットから、アルコール純度高めの除菌シートを引き抜いた。だが、今回はそれを急いで夏帆の頬に押し当てるようなことはしなかった。
涼音は夏帆の真正面に立つと、チタンフレームの眼鏡の奥の瞳で、夏帆の頬の汚れをじっと見つめた。
「お? 涼ねえね、どうしたの?」
「……動かないでください」
涼音は左手を伸ばし、夏帆の顎にそっと指先を添えた。
そして、右手で除菌シートを持つ代わりに、自分自身の親指の腹を、夏帆の頬の黒い粘液に直接押し当てたのだ。
スウッ、と。
ゆっくりと、過剰なほど丁寧に。涼音の白い親指が、夏帆の頬の汚れを拭い取っていく。
「わっ、冷た!」
「……微細な有機物の完全除去には、繊維による摩擦よりも、人体が持つ油分と水分を利用した物理的な吸着が有効な場合がありますわ」
涼音の口から、冷徹な理屈が紡ぎ出される。
だが、その指の動きは、汚れを落とすという目的を遥かに逸脱していた。
汚れはとうに涼音の親指に移っている。それなのに、涼音は夏帆の頬から指を離さず、火傷しそうなほどの熱を持った皮膚の感触を、自らの指の腹でじっくりと確かめ続けている。
——私の盾。私の熱。
他の誰かがつけた痕跡など、私がこの手で完全に上書きする。
涼音は夏帆の顎を支える左手の力をわずかに強め、夏帆の視線を自分から一ミリも逸らさせないように固定した。
「へー、そうなんだ! 涼ねえね、マジで何でも知ってんね!」
夏帆は自分の頬が、汚れを落とす以上の執拗さで撫で回されていることの異常性に全く気づかず、目を細めて嬉しそうに笑った。
涼音は、自分の親指の腹にこびりついた黒い粘液——ナナシの痕跡——を、誰にも見えない角度で、自分のスーツのズボンの生地に無造作に擦り付けて消し去った。
完璧な滅菌処理。そして、完全なる所有権の主張。
「さてと、雨も小降りになってきたし、そろそろ次のスポット行くか!」
夏帆がスポーツバッグを肩に担ぎ直し、廃カフェの出口へと向かって歩き出す。
涼音は自分の右手の親指を、そっと自身の唇の端に押し当てた。
そこに残る、微かな夏帆の熱。
涼音はチタンフレームの眼鏡を中指で押し上げ、狂ったように跳ね回る自身の心臓の音を完璧な理屈の底に沈めながら、夏帆の右斜め後ろ十五センチの特等席へと、音もなく滑り込んだ。




