第17話:「そのノイズ、DJの選曲マジでイケてる! コール&レスポンスいくよ!」
第17話:「そのノイズ、DJの選曲マジでイケてる! コール&レスポンスいくよ!」
涼音の漆黒の瞳が、パーティションの奥に潜む怨念を真っ直ぐに射抜いた。
その絶対零度の視線に反発するように、フロアに並ぶ数十台の古いCRTモニターが、一斉に耳を劈くような高周波のコイル鳴りを響かせた。
キィィィィィィィン……ッ!!
劣化したコンデンサが焼け焦げる刺激臭が、カビの臭いを塗り潰す。
画面上の赤黒いノイズが、もはや液晶の枠を飛び越え、空間の空気に直接、狂ったテキストを印字し始めた。
『偽善者』『オ前モ化ケ物ダ』『ソノ女ノ熱ヲ貪ル寄生虫』。
それは、涼音が分厚い理屈の底に隠し続けてきた、どす黒い執着の言語化。ネット霊・ナナシは、対象の最も隠したい精神の急所を的確にハッキングし、空間全体に暴露していく。
涼音は、夏帆の頬からゆっくりと手を離した。
自分の内側にある醜悪な独占欲の正体を、この文字の群れによって夏帆の網膜に直接届けられてしまう。
指先から急速に温度が失われる。チタンフレームの眼鏡の奥で、涼音の呼吸が浅く、不規則に乱れた。
——見られたくない。
東大首席のプライドなど、どうでもよかった。ただ、目の前の圧倒的な熱源に、自分の狂気を悟られることだけは、何としても阻止しなければならない。
「ちょっとDJ! 文字化けのグリッチ演出はイケてるけど、高音ノイズ強すぎ! 涼ねえねが耳痛がってんじゃん!」
ドンッ、と。
蛍光イエローのジャージの背中が、涼音の視界を完全に遮断した。
夏帆は、涼音の前に立ちはだかり、空間に浮かび上がる呪詛のテキストを、自らの背中で物理的にブロックしたのだ。
彼女の目には、赤黒い文字の意味など一ミリも入っていない。フォントの明滅のスピードや、ノイズの波長を「アンダーグラウンドなクラブのサイバーパンク演出」として純粋に消費しているだけだ。
「もっと腹に響く低音ちょうだいよ! アガる選曲頼むわ!」
夏帆はスポーツバッグの奥から、推しのアイドルグループ『HELL/AVEN』の公式ペンライト『ヘラヴィック』を引き抜いた。
鎖が巻き付いた、鈍器のように重い十字架型のプラスチック。
カチッ!
スイッチを押し込んだ瞬間、ブラッドオレンジの極彩色の光が、廃ネットカフェの淀んだ暗闇を暴力的に切り裂いた。
夏帆は、ナイキ・ショックスのスプリングを軋ませ、最も近くにあったモニターに向かって、ヘラヴィックをフルスイングした。
ガシャァァァンッ!!!
硬質なアクリル画面が粉々に砕け散り、ブラウン管の内部が爆発音を立ててショートする。
飛び散るガラス片がブラッドオレンジの光を反射して、ミラーボールのようにフロアを乱舞した。
「クラッシュ演出、マジでパンクだね! ビート刻んでこーぜ!」
夏帆は割れたモニターの残骸を踏みつけながら、次々と隣のモニターをペンライトで粉砕していく。
鎖のジャラジャラ鳴る音と、ガラスが砕ける破壊音が、ナナシの放つ不快な高周波ノイズを、純粋な物理的打撃音によって完全に上書きしていく。
涼音は、夏帆の右斜め後ろ十五センチの座標で、呆然とその背中を見つめていた。
空間に浮かび上がっていた自分のコンプレックスを抉る呪詛のテキストは、夏帆が放つ莫大な運動エネルギーと光の明滅によって、ただの意味を持たない電子のゴミへと分解されている。
この女の隣にいる限り、自分の弱さすらも、物理的に粉砕されてしまうのだ。
『コワス……コワス……!!』
モニターを次々と破壊されたナナシの霊が、ついに実力行使に出た。
生き残っている画面のすべてから、コールタールのように黒く粘り気のあるノイズの腕が、何十本も這い出してきた。
無数の腕が、床に散乱するキーボードやマウス、ケーブルの束を空中に浮遊させ、夏帆の身体めがけて四方八方から射出する。
ポルターガイストによる全方位射撃。
「おっ、ハンズアップきたね! オーディエンスの熱量最高じゃん! コール&レスポンスいくよ!」
夏帆は、殺意を持って迫り来る無数の腕を「ライブで手を突き上げる観客」と完全に誤認した。
彼女は前傾姿勢のまま強靭な体幹を捻り、飛来するキーボードをペンライトで次々と弾き落としながら、暗闇の奥へ向かって野太い声で叫んだ。
「Say、HELL!!」
トンネルのような廃カフェに、夏帆の声が反響する。
だが、怨霊からのレスポンスは、重厚なデスクトップPC本体の投擲だった。
夏帆の死角、左後方から飛来した数十キロの質量。
夏帆が迎撃の体勢に入るには、コンマ二秒遅い。
ダンッ!
涼音の黒いパンプスが、水浸しのリノリウムの床を強く蹴った。
彼女は夏帆の左後方へ滑り込むと同時に、床に落ちていた分厚いハードカバーの漫画雑誌を拾い上げ、飛来するPC本体の角に向かって、テコの原理を利用して正確な角度で下から突き上げた。
ガツンッ!
質量とベクトルが衝突し、PC本体の軌道がわずかに上へ逸れ、夏帆の頭上数センチを通過して後方の壁に激突して砕け散った。
「……飛来物の質量と初速から算出した、軌道変更の最適解です。前衛のパフォーマンス低下を防ぐための、物理的バッファの提供ですわ」
涼音は無表情のまま、埃まみれの漫画雑誌を払い落とした。
完璧な理屈。だが、その息はひどく荒く、胸ポケットに忍ばせた夏帆のシルクのハンカチが、心臓の異常な鼓動に合わせて微かに震えている。
ふと、涼音の足元に、プラスチックの円筒形の物体が転がってきた。
夏帆が先ほどまで持っていた、毒々しい色のBCAAが入ったプロテインシェイカーだ。激しいステップの最中にスポーツバッグからこぼれ落ちたらしい。
涼音は、中指で眼鏡のブリッジを押し上げると、泥水に浸かる前にそのシェイカーを素早く拾い上げた。
容器の表面には、夏帆の手の温度がまだ生々しく残っている。
「Say、AVEN!!」
夏帆が、腕の群れをなぎ払いながら二度目のコールを叫ぶ。
涼音は、手の中のシェイカーの重みと、金属のブレンドボールの感触を確かめた。
「……空間の音響特性が著しく悪化しています。低周波ノイズの位相を打ち消すためには、人為的な逆位相のパルス音の連続発生が必要ですわ」
涼音は、誰も聞いていない空間に向かって、氷のように冷たい声で言い訳を構築した。
そして。
シャカッ、シャカカカカッ!!
涼音の両腕が、夏帆の叫びの残響に寸分の狂いもなく同調し、プロテインシェイカーを激しいリズムで振り鳴らし始めたのだ。
金属ボールが硬質プラスチックを叩きつける乾いた音が、ナナシの放つ陰鬱な電子ノイズを、完璧なパーカッションとして物理的に相殺していく。
東大首席の頭脳が、限界陽キャのオタクライブの伴奏を、全力でこなしている。
「おっ! 涼ねえねのパーカッション、マジでノリ最高! ビートピッタリじゃん!」
夏帆が振り返り、ブラッドオレンジの光の中で、汗と笑顔にまみれた顔で涼音に親指を立てた。
涼音はシェイカーを振る手を一切休めることなく、夏帆の放つ熱量の渦の中心へと、自ら進んで身を投じていく。
自身の行動原理が完全にバグり始めていることを自覚しながらも、涼音の口元には、自分でも制御できない、極めて微かな弧が描かれていた。




