第16話:「このコンカフェ、サイバーパンクでめっちゃ攻めてるね!」
第16話:「このコンカフェ、サイバーパンクでめっちゃ攻めてるね!」
剥き出しのコンクリート壁に、色褪せた『24H』のネオンサインが蜘蛛の巣のように張り付いている。
かつて街道沿いで営業していたであろう、巨大なネットカフェの廃墟。自動ドアのガラスは粉々に砕け散り、建物の奥からは、カビとホコリ、そして雨水で腐敗したカーペットの重苦しい臭いが這い出してきていた。
倉田涼音は、望月夏帆の左腕に自身の両腕を深く絡みつかせたまま、エントランスの暗闇へと足を踏み入れた。
ピチャリ、ポツリ。
雨漏りの音が、不規則なリズムで反響する。
夏帆の汗を限界まで吸い込んだスポーツタオルを首に巻きつけた涼音は、チタンフレームの眼鏡の奥で、無数の演算回路を起動させていた。
物理的な遮蔽物の確保。降雨による体温低下の阻止。ここまでは完璧な合理的判断だ。だが、この空間に足を踏み入れた瞬間から、足元を這い回るような微細な電子音が、涼音の聴覚を直接侵食し始めていた。
ジジ……ピーーーッ……ガガガッ……。
「うおー、内装めっちゃサイバーパンクじゃん! 配線むき出しとかセンス良すぎ!」
夏帆の瞳が、暗闇の中で輝いた。
彼女の視界には、朽ち果てたカウンターも、泥だらけの漫画の単行本も入っていない。
夏帆は涼音に腕を預けたまま、機嫌よく足取りを進める。ナイキ・ショックスが、水浸しのリノリウムの床をキュッ、キュッと鳴らす。
「個室ブースもめっちゃあるね! 涼ねえね、どの席にする?」
夏帆が指さした先、フロアの奥に広がる無数のパーティション。
その瞬間、電力が通っていないはずのフロア中のPCモニターが、一斉に青白い光を放って起動した。
ブツンッ!!
何十台ものモニターの明滅。
画面にはOSの起動ロゴではなく、赤黒いノイズ混じりのテキストが、滝のような速度でスクロールしていく。
『失敗作』『偽物の天才』『誰からも愛されない』『計算だけの空っぽな女』
涼音の呼吸が、物理的な手で首を絞められたようにピタリと止まった。
網膜に焼き付けられる文字の群れ。それは、東大主席という肩書きの裏で、涼音がずっと覆い隠してきた無意識下のコンプレックスそのものだった。
ネット霊・ナナシ。物理的な危害を加えるのではなく、対象者の精神の最も脆弱な部分をハッキングし、自己否定の底なし沼へと引きずり込む精神攻撃の怪異。
涼音のチタンフレームの眼鏡が、冷や汗で曇る。
『お前ハ、ただノ盾トシテ、ソノ女ニ縋ッテイルダケダ』
最大のモニターに表示されたその一文が、涼音の理性の城壁に決定的な亀裂を入れた。
——違う。これは生存戦略だ。合理的なリスク管理だ。
頭の中で反論を組み立てようとするが、言語中枢が完全に麻痺している。夏帆の腕をホールドしている両手の指先から、急速に血の気が引いていく。
自身の行動原理の根底にある、どす黒い自己欺瞞。それを真っ向から突きつけられ、涼音の膝がカクンと折れそうになった。
「うわっ、何このモニター! めっちゃ文字流れてるじゃん!」
夏帆の野太い声が、涼音の思考の真空地帯に暴力的に割り込んだ。
「これ、アレでしょ! DJイベントのVJ演出! このバグった感じの映像、マジで攻めてるわー!」
夏帆は、涼音の精神を削り取る呪詛のテキストを「アンダーグラウンドなクラブの極上サイバーパンク演出」と完璧に誤認していた。
彼女は涼音の腕のホールドを優しく振り解くと、スポーツバッグの中から、毒々しい色のBCAAが入ったプロテインシェイカーを取り出した。
カシャカシャカシャカシャッ!!
「そのノイズ、DJの選曲マジでイケてる! コール&レスポンスいくよ!」
金属のブレンドボールが内壁を叩く甲高い音が、ナナシの放つ陰鬱な電子ノイズを物理的に上書きしていく。
夏帆はモニターの群れに向かって、満面の笑みでシェイカーを突き上げた。
『チガウ……チガウ……!!』
モニターの文字が、激しい乱れを見せ始めた。
自分のもたらす絶望を「DJの選曲」などと解釈された怪異の、完全なるバグ。
画面の中から、赤黒いノイズが立体的な質量を持ち、ドロドロとした黒い影となって這い出してきた。影は床を這い、夏帆ではなく、膝から崩れ落ちそうになっている涼音の足首へと真っ直ぐに伸びてくる。
——精神崩壊のトドメ。
ドンッ!!
涼音の視界が、蛍光イエローの背中によって完全に遮断された。
夏帆だった。
彼女は涼音の前に立ちはだかり、迫り来る黒い影を、ショックスのソールで容赦なく踏み抜いた。
「おっと、VJのお兄さん、ステージから降りてきちゃダメっしょ! アリーナ席はアタシらが盛り上げるからさ!」
グチャリ。
影が踏み潰され、ノイズが悲鳴のような音を立てて霧散する。
その瞬間、夏帆の頬に、破裂した影の破片——真っ黒なヘドロのような粘液が、べっとりと付着した。
涼音の瞳孔が、極限まで収縮した。
夏帆の頬についた、他者の痕跡。自分ではない、得体の知れない存在が、この圧倒的な熱源の肌を汚したという事実。
涼音は無言で立ち上がった。
右のポケットからアルコール純度高めの除菌シートを引き抜く。
そして、夏帆の正面へと回り込み、彼女の顔を両手で挟み込むようにホールドした。
「おっ? 涼ねえね、どうしたの?」
「……顔面への有害物質の付着。経皮吸収および粘膜からの感染リスクが極めて高い状態です。緊急の滅菌処理を実行しますわ」
涼音の口調は冷徹で、抑揚がなかった。
だが、その指先の動きは、異常という言葉すら生ぬるいほどの執念を帯びていた。
右手に持った除菌シートで、夏帆の頬についた黒い粘液を拭き取る。汚れ自体は一瞬で落ちた。だが、涼音は手を止めない。
夏帆の頬の皮膚が赤く擦り剥ける寸前まで、ゴシゴシと、何度も何度も、異常なまでの力で摩擦を繰り返す。
——許さない。
私のモノに、触れるな。
私の盾に。私の熱に。私の……。
涼音の脳内で展開されていた完璧な論理の城壁が、音を立てて崩壊していく。
もはや「感染予防」という理屈すら、彼女の行動を覆い隠せていなかった。
涼音は除菌シートを投げ捨てると、今度は素手で、夏帆の赤くなった頬を両手で包み込んだ。
冷え切った涼音の指先が、夏帆の火傷しそうなほどの熱を貪欲に吸収していく。親指の腹で、夏帆の頬の輪郭を執拗になぞる。
「あはは! 涼ねえね、手がめっちゃ冷たくて気持ちいい! クールダウンに最高だね!」
夏帆は自分の顔面が異常な力でホールドされ、撫で回されていることの異様性に全く気づかず、目を細めて涼音の手のひらに頬を擦り寄せた。
「……ええ。急激な運動による顔面のほてりを鎮めるための、アイシング効果の促進ですわ。……これ以上の汚染は、わたくしが絶対に防ぎます」
涼音はチタンフレームの眼鏡の奥で、一切の光を宿さない漆黒の瞳を、モニターから這い出ようとする黒い影へと向けた。
その視線には、怪異に対する恐怖など一ミリも存在しない。
あるのはただ、自分のテリトリーを侵犯したモノに対する、絶対零度の殺意(独占欲)だけだった。




