第15話:「コーナーワーク完璧! アンタの走り、マジでリスペクト!」
第15話:「コーナーワーク完璧! アンタの走り、マジでリスペクト!」
乳白色の濃霧が、ブラッドオレンジの極彩色に切り裂かれる。
峠のヘアピンカーブの出口。遠心力がすべてをアウト側へと投げ出そうとする暴力的Gの渦中で、望月夏帆の身体はアスファルトスレスレまで深く沈み込んでいた。
ギュァァァァァァッ!!
特攻霊・リュウの乗る大型バイクが、物理法則を無視した車体の倒し込みでカーブの頂点を通過する。
首の断面から噴き上がるドス黒い血の飛沫が、カーブのアウト側へと円弧を描いて飛び散る。崖下へ道連れにしようとする怨念の重力が、夏帆の細い足首にまとわりつく。
だが、夏帆の右足——ナイキ・ショックスが、濡れたアスファルトを抉るように踏み抜いた。
かかとに配置された円柱状のコラムが、夏帆の全体重と遠心力を真正面から受け止め、限界まで圧縮される。
そして、爆発。
強靭な大臀筋と腹斜筋が、跳ね返るスプリングの推進力をコンマ一秒のロスもなく前方へのストライドへと変換する。
「コーナーワーク完璧! 遠心力に負けないその体重移動、マジで体幹仕上がってんね!」
夏帆の咆哮が、バイクの爆音を物理的に上書きした。
夏帆はインベタのラインを完璧にトレースし、首なしライダーの車体とミリ単位の距離で並走状態に入る。
右手に握った公式ペンライト『ヘラヴィック』を、並走するバイクの黄色い単眼ヘッドライトに向かって真っ直ぐに突き出した。
「でも、立ち上がりの加速はアタシの勝ちだわ! 」
夏帆の太ももが弾け、トップスピードがさらに一段階引き上げられる。
バイクのフロントカウルを、蛍光イエローのジャージが完全に抜き去った。
『…………!』
リュウの首の断面から噴き出していた血の飛沫が、ピタリと止まった。
怨霊の駆動音を響かせていたエンジンから、不意に、ひどく甲高く澄んだエキゾーストノートが鳴り響く。
誰もいない深夜の峠道。孤独に死の淵へ他人を引きずり込むための暴走。
それを、隣を自らの足で走る少女が「完璧な体重移動」「最高のリスペクト」と称賛し、純粋なスプリントの競争相手として真っ向から打ち破った。
リュウの右腕が、ハンドルから離れた。
血まみれの革ジャンに包まれた腕が、夏帆の背中へ向かって、ゆっくりと親指を立てる(サムズアップ)。
次の瞬間、バイクの車体とリュウの身体が、真っ白な朝陽を乱反射する光の粒子へと分解された。
生臭い排気ガスと血の臭いが、山の澄んだ空気の中へ綺麗に溶けて消えていく。
「っしゃあ! ゴール!!」
夏帆はペンライトを天に向かって振り上げ、アスファルトの上で大きく跳躍した。
着地の衝撃を膝で吸収し、荒い呼吸を繰り返しながも、その顔には限界まで肉体を追い込んだ後の至上の笑みが浮かんでいる。
カチャン。
ヘアピンカーブのアウト側、泥だらけの路面。
倉田涼音は、顔に押し当てていた夏帆のスポーツタオルを、ゆっくりと下げた。
チタンフレームの眼鏡の奥、一切の感情を排した瞳が、朝陽に照らされる夏帆の姿を精密にスキャンする。
怨霊の完全な消失。霊的脅威の排除。
しかし、涼音の心臓は、異常な警報を鳴らし続けていた。
顔を覆っていたタオルから離れた瞬間、肺の中に流れ込んでくる外の空気が、ひどく冷たく、無味乾燥で、耐え難いほどの欠落感をもたらしたからだ。
「ふーっ! 涼ねえね、見た!? アタシのコーナーリング!」
夏帆が、肩で息をしながら小走りで涼音の元へ戻ってくる。
タンクトップから露出した肌は汗で光り、莫大な熱を放ち続けている。
「……ええ。力学的な限界値を超えた、極めて非合理な挙動でした。貴女の危機管理能力は破綻しています」
涼音は冷徹な声で事実だけを述べ、アスファルトから立ち上がろうとした。
だが、自らヒールをへし折ったパンプスは、重心の移動を極端に阻害する。
ぐらり、と涼音の身体が前方に傾く。
計算された軌道。
「おっと、危ない!」
夏帆が反射的に左腕を差し出す。
涼音は、その汗ばんだ腕を避けることなく、自らの両腕でガッチリとホールドし、全体重を預けた。
シルクのブラウス越しに、夏帆の上腕二頭筋と前腕の隆起が、涼音の胸元に直接食い込む。
火傷しそうなほどの体温と、強烈な脈拍。
涼音は、握りしめていた夏帆のスポーツタオルを返すことなく、そのまま自分の首にぐるぐると二重に巻き付けた。結び目を強く引き絞る。
「ちょ、涼ねえね? そのタオル、アタシの汗でビショビショだけど」
「……高地特有の急激な気温低下です。頸動脈を保温するための、防寒具として徴用しますわ」
涼音は眼鏡を中指で押し上げ、夏帆の腕を抱え込んだまま、一歩たりとも離れようとしない。
他者の汗を限界まで吸い込んだ布を、自身の最も太い血管に密着させる。夏帆の匂いが、涼音の脳髄を直接麻痺させていく。
「それに、足元の物理的支柱を喪失し、歩行機能が著しく低下しています。移動のための補助機関として、貴女の腕を利用させていただきますわ」
「あはは! まったくもう、涼ねえねは理屈っぽいなー! いいよ、しっかり掴まってな!」
夏帆は全く疑う様子もなく、涼音の体重を強靭な体幹で軽々と支えた。
涼音は夏帆の腕に胸を押し付けたまま、夏帆の右斜め後ろ十五センチという特等席に、寸分の狂いもなくピタリと収まる。
——これは生存戦略だ。
負傷した兵の、合理的な資源利用。
激しく脈打つ自身の心臓の音を、涼音は首に巻いたタオルの圧力で無理やり押さえ込んだ。
ポツリ。
涼音の眼鏡のレンズに、大粒の水滴が落ちた。
山の天候の急変。見上げると、朝陽を隠すように、どす黒い雨雲が急速に空を覆い始めている。
「うわ、雨降ってきた! 車もエンストして動かないし、どうしよっか」
「……最寄りの人工建造物までの徒歩での移動。雨水を凌げる遮蔽物の確保が最優先です」
涼音は夏帆の腕を抱く力を、さらに一段階強く締め上げた。
車という密室は失われたが、今この瞬間、夏帆と自身の距離は物理的にゼロである。これ以上の最適解は存在しない。
「あ! そういえばさっきスマホで調べた時、この峠下りたところに、めっちゃサイバーパンクで攻めてるコンカフェがあるらしいんだよね!」
夏帆が空いた右手でスマートフォンの画面をタップする。
表示されているのは、窓ガラスがすべて割れ、壁面に無数の配線が血管のように剥き出しになった、巨大なネットカフェの廃墟の画像だった。
レビュー欄には『PCの電源が入っていないのに文字が浮かぶ』『自分の悪口が画面いっぱいに表示される』という、典型的な精神攻撃系スポットの記述が並んでいる。
「コンカフェ……? 営業許可など下りているはずのない、完全なる廃屋ですが」
「オーナーの趣味全開の退廃的内装っしょ! 雨も強くなってきたし、そこで休憩しよ!」
ザーッ、とゲリラ豪雨が斜面を打ち始める。
涼音は夏帆の腕に自身の身体を完璧に癒着させたまま、雨に濡れるのも構わず、ゆっくりと首を縦に振った。
「……雨天による体温低下のリスク回避。目的地として了承しますわ」
「よし、行くぞー! ペース合わせるから、ゆっくりでいいからね!」
夏帆のシトラスの香水と、雨に濡れたアスファルトの匂いが混ざり合う。
涼音は首に巻いたタオルに顎を埋め、夏帆の圧倒的な熱量をただ一人で独占しながら、次なる狂気の地へと歩みを進めた。




