第14話:「深夜のダッシュ勝負! アタシのショックスのバネ舐めんな!」
第14話:「深夜のダッシュ勝負! アタシのショックスのバネ舐めんな!」
キュッ、と濡れた旧道のアスファルトを硬質なゴムが擦る音が響く。
望月夏帆は、陸上競技のクラウチングスタートの姿勢をとり、地面に両手をついていた。ナイキ・ショックスのかかとに内蔵された円柱状のコラム(スプリング機構)が、夏帆の体重と踏み込みの力を受けて、限界まで圧縮されている。
大臀筋、ハムストリングス、そしてふくらはぎの筋肉が張り詰め、皮膚の下で血管が青々と脈打つ。
数メートル先。
黄色く濁った単眼ヘッドライトを光らせた特攻霊・リュウの大型バイクが、首の断面からドス黒い血の飛沫を噴き上げながら、フロントフォークを跳ね上げた。
クラッチを強引に繋ぐ爆音が、濃霧の峠道に轟く。
ドンッ!!
爆発的な推進力。
バイクのリアタイヤがアスファルトを削り取り、摩擦による白煙と焦げたゴムの悪臭を撒き散らしながら猛進する。
だが、その真横を、蛍光イエローのジャージが全く同じタイミングで並走していた。
「スタートダッシュ、ちょっと浮いた! でも巻き返すよ!」
夏帆の腕の振りが、乳白色の濃霧を真っ二つに切り裂く。
タンクトップの下で広背筋が躍動し、ショックスのスプリングがアスファルトから離れるたび、夏帆の身体は弓矢のように前方へ射出される。
バイクのメーターはすでに時速百キロメートルを超えようとしているはずだ。だが、夏帆の肉体は物理法則の枠を完全に踏み越え、単気筒エンジンの横をピタリとマークして走り続けている。
『ァァァァァァァァァッ!!』
首なしのリュウが、あり得ない光景に対する驚愕を示すように、首の断面を夏帆へと向けた。
真っ赤に焼けたマフラーから、致死量の呪詛を含んだドス黒い排気ガスが、並走する夏帆の顔面に向かって意図的に噴射される。
「夜中の山の空気、めっちゃマイナスイオン! 肺胞が活性化するわー!」
夏帆はそれを躱すどころか、真正面から肺いっぱいに深く吸い込んだ。
ズォォォォッ、という肺の駆動音が響く。呪いの排気ガスは、夏帆の細胞内で純粋な有酸素運動の燃料として完全に燃焼、消費されていく。
一方、スタート地点に取り残された倉田涼音。
彼女の網膜から、絶対的な安全圏である『夏帆の右斜め後ろ十五センチ』の座標が、異常な速度で遠ざかっていく。
チタンフレームの眼鏡の奥で、涼音の演算回路がショート寸前の熱を発した。
前衛の完全なロスト。それは戦場における後方支援の存在意義の喪失であり、死を意味する。
涼音は周囲の地形をスキャンした。ここは峠のヘアピンカーブ。前方のバイクと夏帆は、U字型のカーブの外周に沿って超高速で走っている。
ならば、内周の直線距離——傾斜角六十度を超える木々が生い茂る崖の斜面を一直線に降りれば、カーブの出口で確実に合流できる。
ガツン。
涼音は、足元の尖った岩肌に右のパンプスを打ち付けた。
バキリと嫌な音が鳴り、三センチのヒールが根元から折れて吹き飛ぶ。左のパンプスも同様に岩に叩きつけ、平らな靴底を強制的に作り出した。
「……最短距離での戦線復帰。兵站線の再構築ですわ」
冷徹な声とは裏腹に、涼音は高級なスーツの膝を泥だらけにしながら、崖のような斜面を滑り降り始めた。
剥き出しの木の根がストッキングを裂き、白い皮膚から血が滲む。小石が飛んで頬を掠める。だが、痛みなど一切感じない。
ただ、あの火傷しそうな熱量から切り離されたことへの、息が止まるほどの焦燥感と執着だけが、涼音の四肢を無意識に突き動かしていた。
斜面を転がり落ちるように下りきった先、ヘアピンカーブの立ち上がりのアウト側。
涼音が立ち上がると同時に、頭上のコンクリート擁壁から爆音が降ってきた。
ギュァァァァァァッ!!
崖の壁面を、リュウのバイクが垂直に走っている。
物理法則を無視した遠心力の暴力。怨霊のなせる業。
だが、その後ろを、夏帆が壁面を蹴りながら並走していた。
「コーナーワークえっぐ! 壁走りとか難易度高すぎっしょ!」
夏帆の右手に握られた『HELL/AVEN』の公式ペンライトが、ブラッドオレンジの極彩色の残像を描く。
全身から噴き出す汗の粒が、ネオンの光を反射して夜霧の中に散らばる。
ビュンッ!
夏帆とバイクが、涼音の目の前を壁面からアスファルトへと着地しながら通り過ぎた。
その瞬間、夏帆の首に巻かれていたスポーツタオルが、強烈な風圧に煽られて千切れ飛び、涼音の顔面へと直撃した。
バサッ。
顔面を覆う、冷たく湿った布地。
夏帆の汗と、ハイエンドなシトラスの香水の匂いが、濃縮された劇薬のように涼音の鼻腔を殴りつけた。
「っ……」
涼音の膝が、ガクンと折れそうになる。
心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打つ。
周囲の濃霧には、首なしライダーが撒き散らした生臭い瘴気が未だに充満している。
涼音は、顔に張り付いたスポーツタオルを振り払わなかった。
それどころか、両手でタオルの端をガッチリと掴み、自分の鼻と口に、隙間一つないほどに強く、深く押し付けたのだ。
「……急激な標高変化および、高濃度の有害物質の散布による低酸素状態です。これは……緊急避難的な、防毒フィルターを介した、酸素補給……」
震える唇で理屈を紡ぎながら、涼音は肺の底が空っぽになるまで息を吐ききり、そして、夏帆の体液と熱が染み込んだタオル越しに、強烈な深呼吸を繰り返した。
ズオォォォ、ズオォォォ、と。
怨霊の排気ガスなど一ミリも吸い込まない。この布に染み込んだ夏帆の匂いだけを、自らの血肉に直接溶かし込むように深く吸い込む。
眼鏡のレンズが、自身の激しい呼気で真っ白に曇る。
膝の擦り傷の痛みなど、この圧倒的なクオリアの前では完全に消失していた。
涼音は泥だらけのアスファルトの上にへたり込んだまま、他者の汗を染み込ませた布を顔に押し付け、狂ったように呼吸を繋いでいた。
『ギィィィィィィッ……!?』
「ラストスパート!! アタシの脚力、見せてやるよ!」
コーナーの出口。
夏帆のナイキ・ショックスが、ついにバイクのフロントタイヤを捉え、横に並んだ。
ブラッドオレンジの光が、リュウの首の断面を鮮烈に照らし出す。夏帆は走りながら、満面の笑みでリュウに向かってペンライトを突き出した。
「マジでいい走り! あんたのピッチ、最高にリスペクトっすわ!」
怨霊の駆動音が、一瞬だけ、高く澄んだ排気音へと変わった。
涼音は顔に押し当てたタオルの隙間から、ブラッドオレンジの光に照らされる夏帆の背中をじっと見つめていた。
——この熱は、絶対に手放さない。
涼音の指が、タオルの繊維が引き千切れるほどに強く、白く食い込んでいた。




