第13話:「霧の中からバイク!? ゲリラ開催の深夜イベントキタ!」
第13話:「霧の中からバイク!? ゲリラ開催の深夜イベントキタ!」
大型SUVという強固な鉄の密室を失った二人の足元を、旧道特有のひび割れたアスファルトが削っていく。
トンネルを抜けた先に待っていたのは、山肌を縫うように走る峠のヘアピンカーブだった。
標高の上昇に伴い、乳白色の濃霧がゲリラ豪雨のように視界を完全に塗り潰している。視程はわずか六十センチ。ガードレールは数十年前の土砂崩れでひしゃげたまま放置されており、一歩足を踏み外せば、高低差四十メートルの崖下へと直滑降する地形だ。
倉田涼音は、チタンフレームの眼鏡を中指で押し上げた。
レンズに付着した霧の粒子が、視界の歪みをさらに加速させる。大気中の水分量が異常だ。鼻腔を突くのは、高山の澄んだ空気ではなく、ヘドロと鉄錆、そして微かな血の臭い。
涼音は、前を歩く望月夏帆の右斜め後ろ十五センチの座標を、コンマ一ミリの狂いもなく維持し続けていた。
夏帆の黒いタンクトップから放たれる莫大な体温だけが、この凍りついた空間における唯一の絶対的な道標だ。先ほどのペットボトル越しに指を絡ませた右手のひらには、未だに火傷しそうなほどの熱がこびりついている。
涼音はその右手をスーツのポケットに深く突っ込み、自身の指の腹を親指の爪で強く押し込むことで、脳内を占拠しそうになる非合理的な熱を強制的にシャットアウトした。
ブォォォォォン……。
ルルルルルルルルッ……。
不意に、濃霧の奥底から、内臓を直接震わせるような重低音が響き始めた。
エンジンの排気音。しかし、内燃機関がガソリンを爆発させる音ではない。人間の喉仏をミキサーにかけてすり潰し、拡声器で一万倍に増幅させたような、おぞましい怨嗟の駆動音だ。
黄色く濁った単眼のヘッドライトが、霧を裂いて現れた。
カウルがひび割れ、車体の至る所に赤黒い肉片がこびりついた大型バイク。
跨がっているのは、黒い革ジャンを着た男——いや、首から上が存在しない、断面からドス黒い液体を噴き出し続ける『特攻霊・リュウ』だった。
ジュゥゥゥゥゥゥッ。
首の断面から溢れ出た液体が、真っ赤に焼けたマフラーに滴り落ち、焦げた肉の悪臭を放つ白煙となって周囲に立ち込める。
バイクは減速することなく、涼音たちの周囲を円を描くように旋回し始めた。
物理法則の完全なる破綻。バイクはアスファルトの上だけでなく、傾斜角六十度を超える山肌の壁面や、崖下の虚空すらもタイヤで蹴り、遠心力を無視して走り続けている。
旋回の半径が、徐々に狭まっていく。
狙いは一つ。空間識失調を引き起こし、三半規管を狂わせ、ガードレールのない崖下へと二人を誘導し、突き落とすこと。
涼音の脳内で、ゲーム理論におけるミニマックス法が瞬時に展開される。
相手の取り得るあらゆる軌道ベクトルに対し、生存確率が最大となる移動ルートの算出。だが、結果はすべてエラーを吐き出した。三次元を無視して旋回する質量に対し、二次元の歩行しかできない人間の回避ルートは存在しない。
完全なる手詰まり。パンプスの中で、涼音の足の指が硬直する。
「ウオオオッ! 霧の中からバイク!? ゲリラ開催の深夜イベントキタ!!」
絶望的なエキゾーストノートを真っ二つに切り裂いたのは、夏帆の野太い歓声だった。
彼女の視界には、首なしライダーの凄惨な姿も、崖下の死の淵も一切入っていない。
「この濃霧、ドライアイスのスモーク演出マジで金かかってんな! エンジン音の重低音、キックのビートとして最高にアガるわ!」
夏帆は、怨霊の呪詛を「深夜のシークレットマラソン大会を盛り上げるペースメーカーの演出」と完全に誤認していた。
彼女はスポーツバッグを乱暴にアスファルトへ放り投げるとその場で深く腰を落とし、大臀筋とハムストリングスのダイナミック・ストレッチを開始した。
ギチッ、ギチチッ!
22.5センチのナイキ・ショックスのコラムが、夏帆の踏み込みに合わせて強烈な反発音を鳴らす。
全身の筋肉から白い湯気を吹き出しながら、夏帆は首のない怨霊に向かって、満面の笑みで右手の親指を立てた。
「ペースメーカーのお兄さん、ナイス排気音! アタシのピッチ、しっかり引っ張ってよ!」
『ァァァァァァァァァッ!!』
首なしライダーの首の断面から、声帯を持たないはずの咆哮が噴き上がった。
愚弄された怨霊の怒りが、バイクのフロントタイヤを跳ね上げさせる。リュウはウィリーの体勢のまま、マフラーから致死量の毒素を含んだ黒い排気ガスを、夏帆の顔面めがけて一気に噴射した。
黒煙が、散弾銃のように夏帆の気道を直撃する軌道を描く。
吸い込めば、肺胞が瞬時に壊死する呪いのガス。
ダンッ!!
涼音の黒いパンプスが、アスファルトを強く蹴った。
戦力集中における『特等席』からの、突発的な離脱。
涼音は夏帆の正面へと回り込むと同時に、夏帆のタンクトップの胸ぐらを両手で強引に掴み、そのまま自分の身体の方へと暴力的なまでの力で引き寄せた。
「おわっ!?」
夏帆の顔面が、涼音の首筋から鎖骨のあたりに、ガツンと音を立ててめり込む。
涼音は夏帆の頭部を両腕で完全にホールドし、自身の高級なシルクのブラウスの生地に、夏帆の鼻と口を密着させるように強く押し付けた。
直後、二人の背中を黒い排気ガスが吹き抜けていく。
背中のスーツ生地が、酸を浴びたようにチリチリと焼け焦げる嫌な音が鳴った。
「もごっ……涼ねえね!? ど、どうしたの急に!?」
「……高濃度の不完全燃焼ガスです。肺胞への深刻なダメージを防ぐため、わたくしの衣服の繊維を、物理的な防毒フィルターとして代用させますわ」
涼音の口から、氷のように冷たく、完璧な合理性を持った理屈が吐き出された。
だが、夏帆の後頭部を抱え込む涼音の両腕には、頸椎を固定するかのような、防毒マスクの代用という目的を遥かに逸脱した異常な力がこもっていた。
シルクのブラウス越しに、夏帆の熱い呼気が涼音の鎖骨の皮膚に直接吹きつけられる。夏帆の汗の匂いと、強い生命力が、涼音の肺の奥底まで一気に侵入してくる。
——見せない。吸わせない。触れさせない。
この圧倒的な熱源の気道を満たすのは、怨霊の吐き出す呪いなどであってはならない。
涼音は、自分の胸元に押し付けられた夏帆の顔の感触を、網膜の裏側に焼き付けるように深く目を閉じた。自身の心臓が、バイクのエンジン音を掻き消すほどの爆音で、夏帆の頬に直接打ち付けられている事実すら、今の涼音にとっては完璧な生存戦略の一部だった。
「もごもご……涼ねえね、めっちゃいい匂いするけど! でも、有酸素運動の前は、大気中の酸素いっぱい吸い込まないと!」
夏帆は、涼音の細い腕のホールドを、広背筋のわずかな収縮だけであっさりと抜け出した。
涼音の腕の中に、一瞬で冷たい霧の空気が流れ込む。
喪失感。涼音の指先が、空を掴んだまま微かに震えた。
「よっしゃ、ウォーミングアップ完了!」
夏帆はポケットから『HELL/AVEN』の公式ペンライトを取り出し、カチリとスイッチを入れた。
ブラッドオレンジの極彩色の光が、首なしライダーの黄色いヘッドライトの光を物理的に塗り潰す。
「深夜のダッシュ勝負っしょ! お兄さん、アタシのショックスのバネ舐めんなよ!」
夏帆が、陸上のクラウチングスタートの姿勢をとる。
バイクのエンジンが、受けて立つとばかりに狂ったような咆哮を上げた。
涼音は空を切った両手をゆっくりと下ろし、胸元に残る夏帆の呼気の熱をシルクの布地越しに指先で押さえ込みながら、静かに、ひどく冷ややかな視線を怨霊へと向けた。




