第12話:「ウチらで一緒に走って熱量上げよ! 青春ダッシュいくよ!」
第12話:「ウチらで一緒に走って熱量上げよ! 青春ダッシュいくよ!」
コールタールのような暗闇の中、アスファルトを削る不快な摩擦音が反響している。
エンストした大型SUVのヘッドライトは完全に沈黙し、開け放たれた運転席のドアから、地下水と腐乱した肉の入り混じった冷気が車内へと雪崩れ込んできた。
倉田涼音は助手席に座ったまま、空を切った自分の両手を見つめていた。数秒前までそこにあったはずの、強靭な腹斜筋の感触と、火傷しそうなほどの熱。それが唐突に奪われたことによる、演算不可能な焦燥。
涼音はチタンフレームの眼鏡を中指で押し上げ、ロックを解除して助手席のドアを開けた。
黒のパンプスが、濡れた旧道トンネルのアスファルトを踏みしめる。
前衛の行動ベクトルを至近距離でモニタリングすることは、後方支援の基本原則。特等席の放棄は生存確率を低下させる。完璧な理屈を脳内に展開しながら、涼音は夏帆の背中を追った。
数メートル先。
四つん這いになったギャル霊・ミカが、首を真横に九十度折れ曲げたまま、凄まじい速度で這い寄ってきていた。
アスファルトに擦り付けられた左半分の顔面からは、黒ずんだ頭蓋骨と歯列が剥き出しになっている。白濁した右眼球が、憎悪と寂寥を煮詰めたような濁った光を放っていた。
『おいて……いかないで……ウチも……』
孤独を呪う嬌声が、トンネルのコンクリート壁に乱反射し、逃げ場のない音圧となって涼音の鼓膜を圧迫する。
急激に大気中の酸素濃度が低下したかのような息苦しさ。何百トンという怨念の質量が、物理的な重力となってのしかかる。
だが、その絶望の重力を、極彩色の光が真っ二つに切り裂いた。
カチッ。
望月夏帆が右手に握った公式ペンライト『ヘラヴィック』の、ブラッドオレンジのネオン。
蛍光イエローのジャージを揺らし、黒のタンクトップ姿の夏帆は、迫り来る怨霊に向かって、陸上のスプリント競技さながらの低い前傾姿勢をとった。
「ウチらで一緒に走って熱量上げよ! 青春ダッシュいくよ!」
夏帆の瞳は、歓喜の光に満ちていた。
死の恐怖も、呪いの理不尽さも存在しない。彼女の網膜に映っているのは、孤独な怨霊ではなく、「一緒に深夜の走り込みに付き合ってくれる、熱いトレーニング仲間」だけだった。
ギチッ、ギギチッ……!
夏帆の足元で、22.5センチのナイキ・ショックスのヒールコラムが、限界まで圧縮される重い音が鳴った。
大臀筋からハムストリングス、そしてふくらはぎへと、莫大なエネルギーが充填されていく。
『いっしょに……シネ……!!』
ミカが、残った右手を夏帆の足首に向けて大きく突き出した。
触れられれば、その瞬間に体温を奪われ、暗闇の底へ引きずり込まれる。
パンッ!!!
破裂音が、トンネル内に轟いた。
怨霊の指先が夏帆のスニーカーにかかるコンマ一秒前。圧縮されたショックスのスプリングが解放され、爆発的な推進力となって夏帆の身体を前方へと射出した。
アスファルトを蹴り砕くような、完璧なスタートダッシュ。
「ほらほら! スタート遅れてるよ! しっかり腕振って!」
夏帆はブラッドオレンジのペンライトを振りかざしながら、トンネルの奥へ向かって猛烈なスピードで駆け出した。
ミカの怨霊が、ゴキゴキと関節を鳴らしながら、四つん這いのまま後を追う。
トンネル内を、二つの影が疾走する。
圧倒的なスピード。夏帆の腕の振りが空気を切り裂き、広背筋の躍動がタンクトップ越しに汗の飛沫を撒き散らす。
ミカは呪いの力で並走しようとするが、夏帆の純粋な筋肉によるトップスピードが異常すぎて、伸ばした手がどうしても届かない。
『まって……おいて……いか……』
「ピッチ落ちてる! 顎上がってるよ! 下向かないで前見て!」
夏帆の野太いエールが、トンネル内に響き渡る。
ミカの呪詛の声が、徐々に変化し始めていた。
他者を呪い殺すための怨嗟の声が、純粋なスプリントの負荷による息切れに塗り替えられていく。
『……ハァ……ッ……ハァッ……!』
死者であるはずの怨霊が息を上げている。
孤独ではない。前を走る背中があり、自分を呼ぶ声がある。共に限界まで肉体を追い込み、同じ空間で熱量を共有している。
数百年間、トンネルの暗闇で一人ぼっちだったミカの絶望が、夏帆の理不尽なまでの生命力によって、強制的に「青春の汗」へと変換されていく。
「見えた! ゴールそこっしょ! ラストスパート!!」
夏帆がペンライトを前方に突き出した。
漆黒のトンネルの先に、半円形の白い光——出口の朝陽が見えてきた。
夏帆のストライドがさらに伸びる。スニーカーのソールが摩擦で焦げる匂いが、カビと血の臭いを完全に上書きした。
ミカの怨霊が、四つん這いの姿勢から、ゆっくりと二本足で立ち上がった。
顔の左半分の欠損が光の粒子に包まれ、本来のギャルの造形を取り戻していく。
彼女はもう、誰かを呪うために手を伸ばすことはなかった。ただ、前を走る夏帆の隣に並ぶために、全力でアスファルトを蹴った。
「っしゃあ! 同時ゴール!!」
夏帆とミカが、並んでトンネルの出口を駆け抜けた。
強烈な朝の陽光が、二人を包み込む。
ミカの身体は、限界まで走り抜いた爽快感のまま、汗のようにきらきらと輝く光の粒子となって、青空へと溶けていった。
「ふーっ! マジでいいペースだったわ! お疲れ!」
夏帆はトンネルの出口で膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返しながら、誰もいない虚空に向かって親指を立てた。
完全な浄化。
ただのダッシュ勝負による、物理的な除霊。
コツン、コツン。
涼音の黒いパンプスが、夏帆の背後十五センチの距離でピタリと止まった。
涼音はエンストした車から、未開封のミネラルウォーターのペットボトルを手にして歩いてきていた。
「おっ、涼ねえねも走った? いい汗かいたっしょ!」
「……わたくしは、後方からの戦況確認と、補給物資の運搬を担っていただけです」
涼音は無表情のまま、チタンフレームの眼鏡を中指で押し上げ、持っていたペットボトルを夏帆に向けて差し出した。結露した水滴が、ペットボトルの表面を冷たく滑り落ちている。
「お、マジ助かる! 喉カラカラだったんだよね!」
夏帆が屈託のない笑顔で、ペットボトルを受け取ろうと右手を伸ばす。
彼女の指先が、ボトルのプラスチックに触れた瞬間だった。
涼音は、自分の手を離さなかった。
それどころか、ボトルの表面を滑らせるようにして、自分の冷たい指先を、夏帆の熱く汗ばんだ指の間に、ゆっくりと深く絡みつかせたのだ。
「え?」
「…………」
夏帆が不思議そうに首を傾げる。
だが、涼音は視線を夏帆の首筋に固定したまま、絡めた指に力を込めた。
冷たいペットボトルを間に挟んだまま、涼音の指と夏帆の指が、パズルのピースのように隙間なく密着する。
夏帆の指から伝わる、異常なほどの体温と、生命の鼓動。
それを自分の冷え切った指先で、一滴残さず吸収し、封じ込めるように。
三秒。五秒。十秒。
奇妙な沈黙が、朝の光の中に落ちた。
「……涼ねえね? ボトル、開けてくれるの?」
「……急速な水分補給は、胃腸への負担を増大させます。まずは、冷えたボトルを介して掌の表面温度を低下させ、深部体温の上昇を抑える。冷却効率を最大化するための、接触面積の確保ですわ」
涼音の口から、澱みない理屈が紡ぎ出された。
完璧なまでの自己欺瞞。
冷やすためではない。この女の熱を、自分だけのものとして独占したい。トンネルの中で、見ず知らずの怨霊と並走し、熱量を共有したことへの、名状しがたい焦燥と嫉妬。
それを拭い去るためには、こうして物理的に指を絡ませ、自分の存在を彼女の皮膚に刻みつけるしかなかった。
「おー! なるほど、そういう冷却法もあるんだ! あっつーい身体に冷たいの、マジで気持ちいいわ! ありがと!」
夏帆は全く疑うことなく、指を絡められたまま、嬉しそうに目を細めた。
涼音は、自身の心臓が、限界までスプリントをこなした直後のように激しく脈打っているのを自覚していた。
これは衛生管理でも、冷却処理でもない。
自分は、この熱源に致命的なまでに執着している。
その事実を頭の片隅で理解しながらも、涼音はチタンフレームの眼鏡の奥で冷ややかな視線を保ち、さらに指先の力を強めた。朝の澄んだ空気の中、ペットボトルの水滴が、二人の絡み合った指を濡らしながら地面へと滴り落ちていた。




