第11話:「暗闇ライブ? 推しの重いペンラ(※ヘラヴィック)の出番っしょ!」
第11話:「暗闇ライブ? 推しの重いペンラ(※ヘラヴィック)の出番っしょ!」
大型SUVの速度計の針は、時速八十キロメートルを指し示している。
だが、倉田涼音の三半規管は、車体が泥の沼に沈み込んでいくような、強烈な減速のGを感じ取っていた。
アクセルペダルは床まで踏み抜かれている。V6エンジンのシリンダーが爆発的な回転数を記録し、排気音がトンネルのコンクリート壁に反響しているにもかかわらず、風景の流れる速度が明らかに遅い。
物理法則の破綻。摩擦係数の異常な増大。
涼音は、チタンフレームの眼鏡を中指で押し上げた。レンズの向こう側、完全な漆黒に塗り潰された旧道トンネルの壁面を、あり得ないモノが車と並走していた。
ギャル霊・ミカ。
四つん這いになった女の顔の左半分は、アスファルトで削り取られ、黒ずんだ頭蓋骨と歯列が剥き出しになっている。首は真横に九十度折れ曲がり、白濁した右眼球だけが、窓ガラス越しに車内の二人を凝視し続けていた。
ギギギギギギギッ……!!
車のルーフから、鋭利な金属で引っ掻くような音が鳴り響く。
ペタッ。ペタッ。ペタペタペタッ。
フロントガラスに、後部座席の窓に。血と泥に塗れた無数の手が次々と張り付き、タイヤの回転を、物理的な怨念の質量で強引に押さえ込もうとしている。
車内の温度計が、警告音とともに一桁の数字を叩き出した。
『ウチらと……いっしょに……いよ……?』
車載スピーカーから流れるK-POPアイドル『HELL/AVEN』の重低音EDMを突き破り、鼓膜に直接粘りつくような、若い女の嬌声が響いた。
孤独。暗闇。誰かと繋がりを持たなければ自己が崩壊してしまうという、強迫観念に似た同調圧力。
涼音の喉の奥がカラカラに干上がり、指先が凍傷に似た痛みを訴え始める。何百トンという怨念の質量が、車両を完全な密室の棺桶に変えようとしている。
「おっ、ここでビート落としてくる?」
絶望的な減速の中、運転席の望月夏帆が、不満どころか歓喜に満ちた声を上げた。
彼女の視界には、窓を埋め尽くす血塗られた手形も、並走する頭蓋骨剥き出しの女の姿も入っていない。
「暗闇ライブ? 演出神すぎでしょ! なら推しの重いペンラ(※ヘラヴィック)の出番っしょ!」
ウィィィン。
夏帆の左指がパワーウィンドウのスイッチを押し込んだ瞬間、涼音が先ほど確保した「完全な気密性」が強制解除された。
運転席の窓が全開になる。
むせ返るようなカビと血の臭い、そして細胞を内側から破壊するような冷気が、暴風となって車内に吹き込んだ。
「……物理的障壁を開放するのは、生存戦略において——」
涼音の論理的な制止は、夏帆の野太い歓声に完全に掻き消された。
「アリーナ席も一緒に盛り上がろーぜ!!」
夏帆は右足のスニーカーでアクセルを限界まで踏み込んだまま、左手に握った鎖巻きの十字架型公式ペンライト『ヘラヴィック』を、開け放たれた窓の外へ向かってフルスイングした。
ブラッドオレンジの極彩色ネオンが、コールタールのような暗闇を暴力的に切り裂く。
車と並走していたミカが、開いた窓から車内へと、泥だらけの両腕を伸ばしてきた。夏帆の首筋を絞め上げ、一緒に暗闇の底へ引きずり込もうとする確かな殺意。
ガンッ!! ギンッ!!
夏帆は、迫り来る怨霊の腕を、ヘラヴィックの重厚なプラスチック部分で次々と叩き落とした。
怨霊の骨が砕ける硬質な音が響くが、夏帆の顔にあるのは、「熱狂的なファンとハイタッチを交わしている」という純度百パーセントの笑顔だけだ。
「いいねいいね! その手伸ばしてくる感じ、めっちゃ熱量伝わってくるわ!」
夏帆が窓枠に身を乗り出し、さらに激しくペンライトを振り回す。
黒のタンクトップの下で、広背筋と大円筋が凄まじい出力を生み出し、汗の粒がブラッドオレンジの光を反射して飛び散った。
涼音は、自分のシートベルトのバックを弾き飛ばすように外した。
そして、助手席から運転席の夏帆へ向かって身を乗り出し、彼女のタンクトップの腰回りを、背後から両手でガッチリとホールドした。
「……遠心力による車外放出リスクを低減させるための、質量アンカーとしての役割ですわ」
涼音の口から、冷徹な理落ちる。
完璧な自己欺瞞。
両手のひらから伝わる、夏帆の腹斜筋の異常な硬さと、火傷しそうなほどの体温。シトラスの香水と汗の匂いが、冷気で凍りついていた涼音の肺の奥底を直接焦がしていく。
息が詰まる。だが、涼音は夏帆の腰を掴む手の力を、さらに強く締め上げた。
『なんで……アタシだけ……おいてくの……!』
運転席側から攻めあぐねたミカが、今度は助手席側の窓——涼音のすぐ真横——に張り付いた。
ガラスを透過し、半分削れ落ちた頭蓋骨と、腐肉の垂れた口元が車内へ侵入してくる。生乾きの泥の臭いが涼音の鼻先を掠めた。
だが、涼音は夏帆の腰から手を離さなかった。
彼女は無表情のまま、チタンフレームの眼鏡を中指で押し上げると、右のポケットからアルコール純度高めの除菌シートを引き抜いた。
そして、そのシートを自分の右の拳に幾重にも巻き付ける。
「……無菌空間への異物混入は、衛生管理上、絶対に許されません」
涼音は、夏帆の腰を左手でホールドしたまま、シートを巻き付けた右拳を、助手席の窓から侵入してきたミカの鼻柱に向かって、最短距離で叩き込んだ。
ゴキリッ。
冷徹な物理的打撃。除菌シート越しに、怨霊の腐った軟骨が砕け散る感触が伝わる。
ミカの顔面が弾き飛ばされ、助手席の窓から外へと引き剥がされた。
「おっ、涼ねえねもノッてきたね! そのリズム感、マジで最高!」
夏帆が振り返り、涼音に向かって眩しすぎる笑顔を向けた。
涼音は、ミカの顔面を殴りつけた右手を即座に引き戻し、再び夏帆の腰を両手で抱え込んだ。除菌シートはそのまま床に投げ捨てる。
この熱源に群がるノイズは、すべて物理的に排除する。
それは生存のための合理的な防衛行動だ。この車という密室の中で、夏帆の体温と匂いを独占し続けるための、計算し尽くされた戦略に過ぎない。
ズズン……、プスプスプスンッ。
その時、SUVのV6エンジンが、ついに異常な質量と重圧に耐えきれず、完全に沈黙した。
計器類の光がフッと消え、車内が完全な漆黒に包まれる。唯一の光源は、夏帆が握りしめているブラッドオレンジのペンライトだけとなった。
タイヤの回転が止まり、旧道トンネルの中央で、車両は完全に停止した。
窓の外では、ミカの怨霊がゆらりと立ち上がり、再びこちらへ向かって歩みを進めようとしている。
退路ゼロ。動力の喪失。
涼音の頭の中で、生存確率のメーターが音を立てて崩れ落ちていく。
「あーあ、車壊れちゃったかー」
だが、夏帆は全く意に介する様子もなく、運転席のドアハンドルに手をかけた。
「じゃあ、ウチらで一緒に走って熱量上げよ! 青春ダッシュいくよ!」
バァンッ、と夏帆が運転席のドアを蹴り開ける。
涼音は、自分の両手が夏帆の腰から離れていくのを感じながら、大きく乱れた呼吸を隠すように、暗闇の中で深く息を吸い込んだ。




