邂逅編 第六話【子ども、帰り道を急ぐ】
地下へ続く階段は、家の外から想像できる深さをとうに越えていた。
亜呂の神火が、四人の足元を淡く照らす。
階段の壁は、途中から木ではなく煉瓦へ変わっていた。
湿った土の匂い。
古い油。
錆びた鉄。
その奥から、巨大なものがゆっくりと
動く音が聞こえる。
かち。
ごうん。
かち。
ごうん。
「家の下とは思えないね」
羅馬が囁いた。
「家の中だと思うからおかしい」
毒島は前を見たまま答える。
「ここが本当に、あの家の下なのかも分からねえ」
「では、どこなんでしょう」
亜呂が尋ねる。
「それを見に行ってる」
「毒島さんは、分からないことを全部そう言いますね」
「分かるまで考えても仕方ねえだろ」
「でも考えるんでしょう?」
「見てからな」
涅央が二人のやり取りを聞き、小さく笑った。
その声が地下へ吸い込まれていく。
階段を下り切った先には、巨大な石造りの空間が広がっていた。
天井は高く、神火の光では届かない。
煉瓦壁に沿って、何本もの蒸気管が走っている。
太い鎖。
歯車。
古びた滑車。
中央には、円形に組まれた巨大な機構が
鎮座していた。時計だった。
いや、時計に似せて造られた、何かだった。
人の背丈をいくつも重ねたほどの文字盤。
左右へ伸びる歯車群。
地中へ突き刺さる無数の軸。
文字盤には、時刻を示すものによく似た
目盛りが刻まれている。
その針が、ゆっくりと前へ進む。
あとわずかで次の目盛りへ届く。
その直前。
針は静かに向きを変え、元の位置へ戻っていった。
かち。
ごうん。
再び進む。
そして戻る。
同じ幅を、何度も往復している。
「壊れて止まってるわけじゃない」
羅馬が言った。
「ああ」
毒島は文字盤へ近づいた。
「進んで、戻る。それを繰り返してる」
「戻されているのでは?」
涅央が尋ねる。
「いや」
毒島は針の動きを見つめた。
「動きに無理がねえ。これは最初から、そう動くように造られてる」
工具箱を床へ置き、機構の下へ潜り込む。
亜呂が神火を掲げた。
歯車の軸には、青く濁った結晶が埋め込まれている。
「天礎石……」
「知ってるのか」
「神社の地下にも、古いものが少しだけあります。こんな使い方はされていませんが」
亜呂は炎を近づけた。
神火が、結晶から伸びる細い亀裂に沿って揺れる。
その光は床へ落ち、石の継ぎ目を伝って地下深くへ消えていった。
「この下を、何かが流れています」
「水か?」
「違います」
「じゃあ何だ」
「分かりません。でも……」
亜呂は床へ手をかざした。
「生き物の脈みたいです」
「地脈、か」
涅央が言った。
亜呂は頷く。
「たぶん」
毒島は結晶の表面を細い工具で削った。
青い粉が落ちる。
「軸受けになってる」
「軸受け?」
羅馬がしゃがみ込んだ。
「歯車の軸を支える部品だ。滑らかに回すためのな」
「天礎石を、そんな使い方に?」
「石炭の代わりに燃やすだけが能じゃねえらしい」
毒島は軸を指で押した。
歯車がわずかに動く。
その動きに応じて、文字盤の針も少しだけ前へ進んだ。だが、軸から手を離すと、針はゆっくりと元の位置へ戻った。
「やっぱり壊れてねえ」
「でも、針が戻っていますよ」
亜呂が言う。
「それが普通なんだろう」
毒島は機構全体を見上げた。
「こいつは時計じゃねえ」
羅馬も文字盤を見上げる。
「時計じゃない?」
「時刻を刻んでるんじゃない。地脈の動きを、針へ置き換えて見せてる」
「地脈の動き?」
「大地にも調子がある。流れが強まるとき、弱まるとき、向きが変わるとき。こいつは、その周期を測るための機械だ」
「昔の人が造ったのでしょうか」
涅央が尋ねる。
「造りは相当古い」
毒島は機構の一部を指した。
そこには、後から継ぎ足されたような蒸気管が接続されている。古い鉄とは、色も造りも違う。
「元からあった測定機へ、後の時代に蒸気設備をつないだらしい」
「誰が?」
「知らん」
「何のために?」
「それも知らん」
羅馬が頭上を見た。
「どうして、これがこの家の地下にあるんだろう」
毒島も、はるか上にあるはずの家を見上げた。
「それが一番分からねえ」
「何も分からないね」
「分からねえことは確実に減ってるだろ」
羅馬は少し考え、頷いた。
「確かに」
そのとき。
暗い機関室の奥から、鼻歌が聞こえた。
短い旋律。
何度も繰り返された、あの子どもの歌。
羅馬が顔を上げる。
「近い」
楽器を構え、同じ旋律を弦へ重ねる。
ぽろん。
音が巨大な機構へ吸い込まれた。
青い天礎石が淡く明滅する。
機関室の景色が揺れた。
煉瓦の壁へ、夕暮れの町並みが重なる。
◇
子どもが走っていた。
まだ幼い。
片手には、小さな風車を持っている。
息を切らしながら、何度も後ろを振り返っていた。
「鐘が鳴る前には帰れ」
男の声が聞こえる。
父親の声。
子どもの記憶の中に残っている言葉だ。
「分かってるよ」
子どもは誰もいない道へ答えた。
夕暮れの町。
古い木造家屋。
用水路。
小さな稲荷堂。
ここへ来る前、四人が古地図を頼りに歩いた町の
かつての姿だった。
子どもはいつもの路地を曲がろうとする。
しかし、道の先には板塀が立っていた。
工事中。
新しい蒸気管を敷くため、地面が大きく掘り返されている。
「通れない……」
子どもは立ち止まる。
空が赤く染まり始めていた。
遠くで鐘が鳴る。
一打。
子どもの顔へ焦りが浮かぶ。
「帰らなくちゃ」
別の道へ走る。
だが、その道も塞がれている。
見慣れた家並みの間に、知らない塀が立ち、昨日まであった小道が消えている。
町が、子どもの知らない形へ変わり始めていた。
「父ちゃんが待ってる」
子どもは稲荷堂の脇へ回った。
大人なら使わないような細い近道。
地面には、工事で外された石が積まれている。
その先。
土の下から青い光が漏れていた。
天礎石。
むき出しになった結晶が脈打つように明滅している。
ごうん。
地下から、巨大な歯車の音が響いた。
地面が揺れる。
子どもは立ち止まった。
手の中の風車が回る。
風はない。
それでも、激しく回っている。
「なに……?」
地中から白い蒸気が噴き出した。
板塀が倒れる。
石が崩れる。
子どもが腕で顔を覆う。
大きな音。
白い煙。
足元の地面へ亀裂が走る。
子どもの手から、風車が離れた。
ゆっくりと落ちていく。
地面の裂け目。
青い光。
暗闇。
「父ちゃん……」
声だけが残った。
「帰らなくちゃ……」
景色が消えた。
◇
羅馬は弦から手を離した。
機関室へ戻っている。
誰も言葉を発しない。
亜呂の神火が、小さく震えていた。
「今の子が……」
羅馬が暗闇を見る。
「帰ろうとしてたんだ、
でも、家まで辿り着けなかった」
毒島は歯車の下に落ちていたものを拾った。
木製の風車だった。
食卓に置かれていたものと同じ。
羽根の一部が欠けている。
羅馬が手を伸ばしかけ、止める。
「本物?」
「分からん」
毒島は風車を床へ戻さず、そっと工具箱の脇へ置いた。
「だが、さっきまではなかった」
涅央が巨大な機構を見上げる。
「父親の記憶も、ここにあります」
その声が、少しずつ変わっていく。
低く、疲れた男の声。
「遅いな」
涅央の視線の先へ、古い家が重なる。
◇
父親は食卓の前に座っていた。
二つの椀。
湯気の立つ夕餉。
戸口から差し込む夕日の色。
「道草でもしているのか」
男は子どもの椀へ目を向ける。
まだ温かい。
鐘が鳴る。
一打。
男は戸口を見る。
「もう暗くなるというのに」
立ち上がり、戸を開ける。
道には誰もいない。
戸を閉じる。
食卓へ戻る。
また鐘が鳴る。
また戸を開ける。
誰もいない。
「迎えに行けばよかった」
男は上着へ手を伸ばした。
「今からでも――」
その瞬間。
地下の測定機の針が戻った。
夕日の色が明るくなる。
湯気が元へ戻る。
父親は再び食卓へ座っていた。
「遅いな」
同じ言葉。
同じ姿勢。
同じ夕暮れ。
「道草でもしているのか」
鐘が鳴る。
戸を開ける。
誰もいない。
「迎えに行けばよかった」
上着へ手を伸ばす。
針が戻る。
「遅いな」
また最初から。
涅央は父親の背後に立っていた。
声をかけても届かない。
「この人は……」
涅央自身の声へ戻る。
「待ち続けたかったわけではありません」
亜呂が涅央を見る。
「迎えに行こうとしている」
「はい」
父親は何度も立ち上がる。
だが戸を出る前に、夕暮れの始まりへ戻される。
「この家が、待たせているんですか」
「違う」
毒島が言った。
往復する針を見つめている。
「この機械が戻してるんじゃねえ」
「でも、針が戻るたびに……」
毒島は機構の軸を見た。
「針が戻るのは、地脈が引いてるからだ。こいつは、それを示してるだけだ」
「では、どうして父親まで戻るのでしょう」
涅央が尋ねる。
毒島は頭上を見上げた。
「この家が、こいつを時計だと思い込んでるんじゃねえか」
「家が、思い込む?」
羅馬が聞いた。
「針が戻るたびに、時刻まで戻ったと思ってるんだろう」
測定機の針が前へ進む。
父親が上着を取る。
子どもが失われた道を走る。
針が戻る。
父親は食卓へ。
子どもは帰り道の始まりへ。
「親子が会えなかった夕暮れを、何度もやり直してやがる」
「二人を会わせるために?」
「そのつもりなんだろうな」
毒島は、重なって見える家と道を睨んだ。
「引き合わせようとしてる。だが、やり方を間違えてやがる」
「二人は、今どこにいるんでしょう」
亜呂が尋ねた。
涅央は目を閉じる。
「ここです」
「生きているという意味ではありませんよね」
涅央は答えられなかった。
代わりに、父親の記憶を見つめる。
羅馬は子どもの声へ耳を澄ませた。
「子どもは、あの事故から先へ進んでない」
毒島が言った。
「父親は?」
「家で、あの子を待ってる」
「では、事故の後もずっと……」
亜呂の声が小さくなる。
巨大な機構の傍ら。
朽ちた鉄板の陰に、古い木札が落ちていた。
毒島が拾う。
墨の文字は、ほとんど消えている。
かろうじて読める部分だけを、羅馬が覗き込んだ。
「……行方不明者?」
日付。
場所。
子どもの特徴。
その下に、後から書き加えられた短い一文。
捜索打ち切り。
さらに別の紙片。
年月を経た死亡記録。
父親の名。
亜呂が口元を押さえた。
子どもは帰らなかった。
父親は待ち続けた。
そして、二人とも、もう現世にはいない。
「魂が……」
亜呂は神火を見る。
「この家へ残ったんですね」
「未練が家を作ったのか」
羅馬が言う。
「あるいは、この家が未練を受け入れたのかもしれません」
涅央は父親の影を見る。
「今となっては、どこまでが親子の記憶で、
どこからがこの家の見せる景色なのか、
見分けられません」
家は親子の記憶を保存した。
父親の待つ食卓。
子どもの帰り道。
消えてしまわないように。
忘れられないように。
しかし、この家は地下の測定機を時計だと思い込んだ。
針が戻るたび、夕暮れも戻る。
父親は永遠に迎えへ出ようとする。
子どもは永遠に家へ帰ろうと走る。
同じ家の中にいながら、二人は決して会えない。
羅馬が弦を鳴らした。
ぽろん。
子どもの道と、父親の家が一瞬だけ重なる。
遠い道の先に、家の灯りが見えた。
父親が戸口へ立つ。
子どもが顔を上げる。
「父ちゃん」
「帰ってきたのか」
二人が一歩、互いへ近づく。
測定機の針が進む。
だが、地脈の流れが弱まると、針は再び戻り始めた。
家の灯りが遠ざかる。
子どもの道が崩れる。
「父ちゃん!」
「どこだ!」
二つの声が、再び離れていった。
亜呂は胸元へ神火を引き寄せた。
桜色の炎が、涙に滲んで見える。
「このままでは……」
声が震えた。
父親は、帰らない子どもを待ち続ける。
子どもは、辿り着けない家へ向かって走り続ける。
終わることも、立ち止まることもできない。
亜呂の瞳に涙が滲んだ。
「二人を、会わせてあげたい……」
誰もすぐには答えなかった。
巨大な歯車だけが、地脈の揺らぎに合わせて同じ動きを繰り返している。
毒島は頭を掻いた。
「仕方ねえな」
工具箱を足元へ置く。
「女の涙を見たまま、はい出来ませんでした、じゃ俺の沽券に関わる」
羅馬も楽器の弦へ指を置いた。
「このまま親子を見捨てたら、明日団子を食べるときに気まずいし……」
少しだけ笑う。
「なんとかするか」
涅央は亜呂の隣へ立った。
「僕の可愛い妹を、これ以上泣かせるわけにはいかないね」
亜呂が涙を残したまま、驚いて涅央を見る。
「いつから私が妹になったんですか?」
「今からです」
「勝手に決めないでください」
「では、異議は事件が終わってから聞きましょう」
涅央は父親の影へ目を向ける。
「今度こそ、この家の願いを叶えてあげましょう」
亜呂は三人の顔を見た。
毒島は機構を見ている。
羅馬は弦を確かめている。
涅央は、届かない父親の声へ耳を澄ませている。
誰も、できるとは言わなかった。
それでも、誰一人として背を向けてはいない。
亜呂は涙を拭い、神火を掲げた。
「皆さん」
炎が、桜色の光を取り戻す。
「お二人の魂を、会わせてあげましょう」
◇
毒島は巨大な機構の下へ潜り込んだ。
羅馬が、その背中へ声をかける。
「会わせられそう?」
「まだ分からん」
「格好いいことを言った後なのに?」
「うるせえ」
毒島は天礎石の軸受けへ光を当てた。
石そのものは古びている。
だが、機構は地脈の流れに従い、正しく往復を繰り返していた。
「壊れてはいないんでしょう?」
亜呂が尋ねた。
「ああ」
「では、何を直すんですか」
「直すんじゃねえ」
「針が一度だけ、戻らずに先へ進める道を作る」
「そんなことができるの?」
羅馬が尋ねる。
「機械だけならな」
「機械だけ?」
「こいつは地脈の流れを示してるだけだ。針を先へ進めたけりゃ、地脈そのものが先へ流れなきゃならねえ」
羅馬が床を見る。
その遥か下を、脈のような何かが巡っている。
「地脈を動かすの?」
「皇都全部じゃねえ。この家につながってる流れだけだ」
「でも、僕にそんなことができるのかな」
毒島は振り返らなかった。
「さっき、お前の音に天礎石が反応した」
羅馬は楽器を見る。
「音で流れを変えられる、と?」
「知らん」
「大事なところなのに?」
「やってみなきゃ分からねえ」
「毒島さんらしいね」
「褒めてねえだろ」
涅央が文字盤を見る。
「針を進めるだけで、二人は会えるのでしょうか」
「進めるだけじゃ駄目だ」
毒島は、父親の家と子どもの道を見る。
「針が次へ動く間に、二人を同じ場所へ連れてこなきゃならねえ」
「父親の声は、僕が引き受けます」
涅央が言った。
「この人を家の外へ連れ出します」
「私は、子どもの帰り道を照らします」
亜呂が神火を掲げた。
羅馬は楽器を抱え直す。
「僕は、地脈を動かせばいいのかな」
「無理に速くするんじゃねえぞ」
「じゃあ、どうすればいい?」
毒島は測定機の針を見た。
「こいつは同じ動きを繰り返してる。力ずくで押したところで、また元へ戻るだけだ」
「それじゃあ……」
羅馬は、子どもの鼻歌を思い出した。
何度も繰り返される、短い旋律。
いつも同じところで終わる歌。
「続きを聞かせればいいんだ」
「何?」
「この歌も、地脈も、同じところを繰り返してる」
「なら、歌に続きを作る。地脈が、その音を拾ってくれるかもしれない」
羅馬は弦へ指を置いた。
毒島が初めて手を止め、羅馬を見る。
「できるのか」
「今から考える」
「お前も大概だな」
「旅人だからね」
毒島は工具箱を開いた。
中から細い金属棒、留め具、ばね、小さな歯車を取り出す。
客へ渡した古時計と同じように。
元へ戻すのではない。
残っているものを使い、今できる形へ組み直す。
測定機の針が、再び前へ動き始める。
毒島は歯車の間へ工具を差し込んだ。
がん。
機構全体が震える。
蒸気管から白い煙が噴き出した。
「毒島さん!」
「まだ持つ!」
毒島は、針を戻す側の歯車へ留め具を噛ませた。
測定機が軋む。
針の動きが鈍り、いつもの位置で震え始めた。
「これで、地脈が次へ流れれば、針もその動きを拾える」
「戻らないの?」
「一度だけならな。だが、流れそのものを変えなきゃ、ここから先へは動かねえ」
いつもの夕暮れ。
その先の目盛りまで、ほんのわずか。
暗闇の向こうから、子どもの声がした。
「父ちゃん」
別の場所から、父親の声が響く。
「ここにいる」
二人の声は、まだ互いには届いていない。
しかし四人には、同時に聞こえた。
羅馬は目を閉じた。
子どもの鼻歌。
父親が待つ家。
地の底を巡る大きな脈。
それらすべての音を聞く。
繰り返されてきた旋律の最後。
いつも途切れていた、その先へ。
羅馬は指を動かした。
新しい音が、一つだけ生まれる。
ぽろん。
青い天礎石が、一斉に光った。
地下深くを流れる地脈が、羅馬の音へ応える。
大地の脈が、一度だけ強く打った。
どくん。
測定機の針が震える。
毒島は工具を握り直した。
「来るぞ」
亜呂が神火を掲げる。
涅央が父親の声を受け取る。
羅馬は、次の音へ指を置く。
針が、ゆっくりと動き始めた。
これまで一度も届かなかった、次の目盛りへ。
「次の刻へ進めるぞ」
第六話 了




