邂逅編 第五話【迷い家、客を帰さない】
戸の向こうに、路地はなかった。
薄暗い廊下が、家の奥へまっすぐ続いている。
毒島は懐中時計を開いた。
長針は、音もなく逆へ進んでいた。
かちり。
一目盛り。
その音に応えるように、家のどこかで、もう一度だけ歯車が鳴った。
ごうん。
懐中時計よりも、はるかに重い音だった。
壁の向こう。
床の下。
あるいは、家そのものの奥深く。
羅馬は耳を澄ませた。
「今のも時計?」
「ああ」
毒島は懐中時計の蓋を閉じる。
「こいつじゃねえ。もっとでかい」
「どれくらい?」
「見なきゃ分からねえ」
「見たら分かるんだ」
「時計ならな」
毒島は開いた戸の蝶番へ手をかけた。
金具を揺らし、戸枠を指でなぞる。
どこにも仕掛けはない。
戸を一度閉じる。
再び開く。
やはり、向こうには廊下が続いていた。
「壊れているわけではないんですか?」
亜呂が尋ねる。
「戸としては壊れてねえ」
「でも、外へ出られません」
「それは家の問題だ」
「家も直せるの?」
羅馬が聞く。
「知らん」
毒島は立ち上がった。
「だが、時計が原因なら話は別だ」
「結局、時計なんですね」
涅央が微笑んだ。
「ほかに手掛かりがねえ」
毒島は廊下の奥を見る。
「ここに来てから聞こえた音は、全部、時を刻む音だ」
亜呂が手のひらに神火を灯した。
淡い桜色の炎。火はまっすぐ立たず、廊下の奥へ引かれるように細く傾いた。
「こちらへ進め、と言っているみたいです」
「素直に従っていい相手か?」
毒島が言う。
「分かりません」
「なら、気をつけろ」
「はい」
涅央は、開けても外へ続かない戸を見つめていた。
「この戸は、何度も開けられています」
羅馬が振り向く。
「分かるの?」
「見えるわけではありません。ただ……」
涅央は戸の取っ手へ触れた。
そっと目を閉じる。
「誰かが、外の道を確かめている」
その声が、少し遠くなる。
「まだ帰っていない」
戸を開ける。
誰もいない。
閉じる。
また開ける。
「今度こそ、帰っているかもしれない」
涅央は手を離した。
いつもの涅央の顔へ戻る。
「そんな思いが残っています」
亜呂が戸を見る。
「ずっと、ここで待っていたんですね」
「待っている」
涅央が静かに訂正した。
「まだ、終わっていません」
家の奥で、時計が鳴った。
ごうん。
先ほどより、少し近く聞こえた。
毒島が工具箱を持ち直す。
「行くぞ」
◇
廊下の床は、よく磨かれていた。
埃はない。柱にも、壁にも、長い年月を経た家にあるはずの傷みが見られない。
だが新しいわけでもない。
昔の姿のまま、古くなることだけを忘れたような家だった。廊下の右手には、閉じた襖が並んでいる。
一枚目を開ける。
六畳ほどの和室。
何もない。
二枚目も同じ。
三枚目も。
「全部同じ部屋だね」
羅馬が言った。
「畳の擦れ方まで同じです」
亜呂が部屋の隅を見る。
涅央は襖を一枚ずつ眺めた。
「誰も使っていなかった部屋ではありません」
「何で分かる」
毒島が尋ねる。
「人がいた気配があります」
「誰の?」
「分かりません」
涅央が三枚目の襖を閉じる。
「でも、ここには思い出がありません」
羅馬が首を傾げた。
「使われていたのに?」
「暮らしていたのではなく、通り過ぎただけなのかもしれません」
毒島は襖の敷居を確かめた。
「同じ部屋じゃねえ」
「違うの?」
「釘の位置が違う。木目も少しずつ違う」
「では、似た部屋が三つ?」
「そう見せてるだけかもしれねえ」
「家が?」
「ほかに誰がいる」
そのとき、一番奥の襖の向こうから、食器の触れ合う音がした。
かたり。
続いて、味噌汁の匂いが漂ってくる。
四人は顔を見合わせた。
毒島が襖へ手をかける。
「待ってください」
亜呂が神火を近づける。
炎は細く震えたが、消えはしなかった。
「大丈夫だと思います」
「思う、か」
「分かるとは言ってません」
「正直で結構だ」
毒島が襖を開けた。
◇
低い食卓があった。
二つの椀から、白い湯気が上っている。
竈には赤い火。
焼き魚の焦げた香り。
あの時、舞台に現れた家、そのままだった。
涅央が部屋へ入る。
「ここです」
食卓の前で足を止める。
一つは大人の椀。
もう一つは、小さな子どもの椀。
箸も短い。
椀の脇には、木で作られた風車が置かれていた。
羅馬がしゃがみ込む。
「まだ温かい」
「触るな」
毒島が言った。
「触ってないよ」
「触ろうとしただろ」
「どうして分かったの?」
「手が伸びてた」
羅馬は手を引っ込める。
「毒島さんは、すぐ時計に触るのに」
亜呂が言う。
「時計は俺の仕事だ」
「では、風車は羅馬さんの仕事かもしれません」
「何の仕事だ」
「風を起こす仕事?」
「僕はそんな仕事をしてたのか」
「今、決まりました」
「勝手に決めるな」
涅央が笑いかけたが、すぐ食卓へ視線を戻した。
「冷める前に帰ると言った」
その言葉だけが、静かにこぼれた。
羅馬たちが涅央を見る。
涅央は食卓の前へ膝をつく。
椀には触れない。
「だから、まだ片づけてはいけない」
「誰が言ってる」
毒島が聞く。
「昨日の人です」
「見えるのか?」
「いいえ」
涅央は目を閉じた。
「昨日より、少し遠く感じます。でも、ここには同じ思いが残っています」
亜呂が子どもの椀を見る。
「帰ってくると信じている」
「信じているというより……」
涅央は言葉を探した。
「帰ってこないという考えが、まだないんです」
誰もすぐには答えなかった。
竈の火が、小さく音を立てる。
ぱち。
その瞬間、風車が回った。
風はない。
それでも羽根は、ゆっくりと一度だけ回転した。
羅馬が見る。
「僕は触ってないよ」
「分かってる」
毒島は風車ではなく、部屋の隅に置かれた小さな時計を見ていた。針は止まっている。
「また同じ時刻ですか?」
亜呂が尋ねる。
「ああ」
毒島は懐中時計を隣へ置いた。
双方の針が、同じ夕刻を示している。
ただし、懐中時計だけが、わずかに震えていた。
「この家の時計は、全部ここで止まってる」
「全部?」
「少なくとも、今まで見たものはな」
毒島は置時計の裏蓋を開ける。
歯車は動いていない。
ぜんまいも切れている。
「壊れてる?」
「とっくにな」
「それなのに、さっき音がした」
「こいつじゃねえ」
毒島は床を見る。
「もっと下だ」
ごうん。
また、家の奥で音がした。
今度は床板が、わずかに震えた。
◇
食卓の部屋を出ると、廊下は左へ曲がっていた。
先ほどまで、曲がり角などなかったはずだった。
「増えたね」
羅馬が言う。
「家が?」
「道が」
「同じことだ」
毒島は柱へ小さな傷をつけた。
工具箱から細い錐を取り出し、斜めに一本。
「印ですか?」
亜呂が尋ねる。
「戻ってきたときに分かる」
「戻ってくる前提なんだ」
「迷い家だからな」
四人は廊下を進んだ。
角を曲がる。
短い階段を上る。
また廊下。
正面に襖。
毒島が開ける。
低い食卓。
二つの椀。
竈の火。
元の部屋だった。
「早かったね」
羅馬が言う。
「笑うところじゃねえ」
毒島は柱を見る。
先ほど傷をつけた場所に、印はなかった。
「違う部屋?」
亜呂が尋ねる。
「分からん」
「毒島さんが分からないと言うの、珍しいですね」
「分からねえものを分かったと言う方が間抜けだ」
涅央は食卓へ近づいた。
「少し違います」
「どこが?」
羅馬が聞く。
「湯気が減っています」
確かに、先ほどより椀の湯気が薄い。
窓の外も、少し暗くなっている。
それ以外は同じ。
羅馬が風車を見る。
羽根の向きが変わっていた。
「さっき回ったからかな」
「触るなよ」
「まだ何もしてないって」
再び部屋を出る。
今度は右へ進む。
廊下の突き当たりに戸がある。
開ける。
また食卓。
二つの椀。
竈。
窓の外はさらに暗くなっていた。
「三回目ですね」
亜呂が言う。
竈の火も、最初より弱い。
子どもの椀からは、もうほとんど湯気が上がっていない。涅央が胸元へ手を当てる。
「焦っています」
「誰が」
「待っている人が」
涅央は窓の外を見る。
「暗くなっていく」
部屋の隅。
大人が座るはずの場所に、人影があった。
顔は見えない。
背を丸め、戸口を見ている。
亜呂の神火が青白く細くなる。
毒島が一歩前へ出た。
その瞬間、灯りが消えた。
◇
「動くな」
暗闇の中で、毒島の声がした。
誰も答えない。
「亜呂」
返事はない。
「涅央」
静寂。
「羅馬」
どこか遠くで、弦が鳴った。
ぽろん。
灯りが戻る。
毒島は、自分の時計店に立っていた。
壁一面の時計。
作業台。
工具。
棚に並ぶ修理待ちの品。
すべて見慣れたものだった。
ただし、音がない。
何十個もの時計が、一つ残らず止まっている。
毒島は作業台へ近づいた。
そこには、古い懐中時計が置かれている。
傷だらけの銀の蓋。
動かない針。
裏蓋を開ける。
歯車は欠け、ぜんまいは切れ、軸は曲がっていた。
「直せるんでしょう?」
背後から声がした。
毒島は振り返らない。
「誰だ」
「時計屋さんでしょう?」
「見りゃ分かる」
「なら、直してください」
毒島は時計を手に取った。
部品の一つ一つを確かめる。
同じ部品は、もう作られていない。
新しいものと交換すれば、形は戻せる。
だが、それはこの時計ではなくなる。
「元通りにはならねえ」
声が答える。
「それでは意味がない」
「意味を決めるのは、お前じゃねえ」
「直せないんですか?」
「直せねえものもある」
店内の時計が、一斉に音を立てた。
かちり。
すべての長針が一目盛り戻る。
「時計屋なのに?」
「時計屋だからだ」
毒島は懐中時計を作業台へ置いた。
「できることと、できねえことくらい分かる」
「では、何ができるんです?」
毒島は答えなかった。
代わりに工具箱を閉じる。
金具の音が、店内へ響く。
「それを探してんだよ」
止まった時計の間を、低い弦の音が通り抜けた。
ぽろん。
時計店の壁に、細い亀裂が走った。
◇
亜呂は、みつば茶屋に立っていた。
暖簾は下ろされている。
囲炉裏の火は消え、卓上には冷めた茶が残っている。
誰もいない。
「羅馬さん?」
返事はない。
「毒島さん」
静かな店内に、自分の声だけが響く。
「涅央さん?」
亜呂は外へ出ようとした。
戸を開ける。そこには、また同じ茶屋がある。
空席。
冷めた茶。
消えた火。
亜呂は手のひらへ神火を灯す。
炎は生まれた瞬間、細くなり、消えた。
もう一度。
また消える。
何度灯しても、火は残らない。
誰も帰らない茶屋。
迎える者だけが残された場所。
亜呂は両手を重ねた。
その中へ、もう一度火を灯す。
小さな火だった。
今にも消えそうに揺れている。
「ここにいます」
亜呂は火へ向かって言った。
「聞こえています」
火が細くなる。
亜呂は手を閉じない。
「帰ってきたら、ちゃんと分かります」
小さな炎を、両手で風から守る。
「だから、消えません」
遠くで、弦が鳴った。
ぽろん。
神火が、桜色の光を取り戻した。
◇
涅央は舞台に立っていた。
客席には、男が一人だけ座っている。
顔は暗くて見えない。
涅央の手には台本。
開く。
そこには、一行しか書かれていなかった。
«もうすぐ帰ってくる。»
涅央は台詞を読む。
「もうすぐ帰ってくる」
男が言う。
「もう一度」
涅央は繰り返す。
「もうすぐ帰ってくる」
「もう一度」
「もうすぐ帰ってくる」
「もう一度」
何度語っても、幕は下りない。
客席の男は、同じ姿勢で座っている。
「もう一度」
涅央は台本を見た。
文字が滲んでいる。
それでも、同じ言葉しか書かれていない。
「もうすぐ――」
涅央は口を閉じた。
「もう一度」
男が言う。
涅央は台本を閉じる。
「いいえ」
客席の影が揺れた。
「もう一度」
「この台詞は、私のものではありません」
「もう一度」
「私が何度語っても、あなたの芝居は終わらない」
涅央は舞台の端へ歩く。
「誰かの人生を演じることはできます」
閉じた台本を胸へ添える。
「でも、代わりに生き続けることはできません」
客席の男が立ち上がった。
「もう一度」
涅央は首を横へ振る。
「これは、あなたの台詞です」
遠くで、弦が鳴った。
ぽろん。
舞台の幕が、初めて動いた。
◇
羅馬は、見知らぬ宿の一室にいた。
窓辺には自分の楽器。
床には旅の荷物。
机の上には、各地の観光案内が積まれている。
どこにでもありそうな宿だった。
けれど、どこの町なのか分からない。
羅馬は戸を開ける。
廊下の向こうから、声が聞こえた。
「もう行くのかい」
振り返っても、誰もいない。
別の声。
「次はいつ戻るんだ」
また別の声。
「今度は、もう少しいてくれよ」
羅馬は廊下を歩く。
左右の戸が、一つずつ開いていく。
知らない食堂。
知らない宿。
知らない町の小さな家。
それぞれの部屋から、誰かの声がする。
「また来るって言ったのに」
「忘れたのかい」
「帰ってこないのか」
羅馬は立ち止まった。
「僕は旅人だよ」
誰へともなく言う。
「ずっと同じ場所にはいられない」
声が返る。
「帰らないんだね」
「帰らないんじゃない」
羅馬は、自分の楽器へ手を伸ばした。
「また歩き出すだけだ」
「同じことだよ」
羅馬の指が止まる。
本当に同じだろうか。
旅立つことと、帰らないこと。別れを告げることと、待つ者を残すこと。
自分はどこかへ戻ったことがあっただろうか。
また来ると言った場所へ、どれだけ戻っただろう。
廊下の奥から、子どもの鼻歌が聞こえた。
聞き覚えのある、短い旋律。
羅馬は楽器を抱える。
一本の弦を、その旋律へ重ねた。
ぽろん。
知らない声が止まる。
もう一度。
ぽろん。
廊下の奥で、桜色の火が灯った。
◇
音は、家の中を通り抜けた。
毒島の時計店を。
亜呂のみつば茶屋を。
涅央の舞台を。
幻の壁に、細い亀裂が走る。
毒島は工具箱を持ち上げ、その亀裂へ向かって歩いた。
亜呂は神火を掲げ、音の聞こえる方へ進んだ。
涅央は閉じた台本を置き、舞台袖へ下りた。
次の瞬間。
四人は、再び食卓の部屋に立っていた。
竈の火は弱い。
窓の外は、すっかり暗くなっている。
子どもの椀から、湯気は消えていた。
「みんな、いるね」
羅馬が言う。
「見りゃ分かる」
毒島は答えたが、その声にはわずかな安堵が混じっていた。亜呂は羅馬の楽器を見る。
「今の音、羅馬さんですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「僕は弾いた。でも、どこまで届いたのかは分からない」
「聞こえました」
涅央が言う。
「舞台の外から呼ばれたように」
「俺のところにも来た」
毒島は壁際の時計を見る。
「お前が鳴らした瞬間、止まってた時計が全部動いた」
羅馬が毒島を見る。
「逆に?」
「ああ」
毒島は羅馬の楽器へ視線を移した。
「お前が鳴らすと、家が動く」
部屋の空気が少し変わった。
羅馬は否定しなかった。
「そうみたいだね」
「皇都へ来る前にも、こんなことはあったのか」
「ここまでのことはない」
「じゃあ、自分が何をしてるかも分かってねえ」
「うん」
羅馬はあっさり認めた。
「分かっていたら、たぶん旅なんてしていないよ」
毒島は何も言わず、羅馬を見た。
疑うというより、壊れ方の分からない時計を見る目だった。
「お前が来てから、こいつは動き出した」
「毒島さん」
亜呂が割って入った。
「違います」
「何が違う」
「羅馬さんの風と、この家の気配です」
亜呂は手のひらへ神火を灯す。
火は家の奥へ引かれ、細く青白くなる。
羅馬が一歩近づく。
風が、わずかに彼の衣を揺らした。
神火は桜色の光を取り戻す。
「この家は、火をどこか遠くへ連れていこうとします」
亜呂は炎を見つめた。
「過去へ引き戻すように」
そして羅馬を見る。
「でも羅馬さんの風は、火をこちらへ戻してくれます」
毒島が亜呂へ向き直る。
「間違いないか」
「はい」
亜呂は迷わなかった。
「羅馬さんは、この家とは違います」
毒島はしばらく黙っていた。
やがて羅馬へ向く。
「すまん」
羅馬が目を瞬く。
「もう信じるの?」
「亜呂がそう言った」
「ずいぶん信頼してるんだな」
「見える奴が違うと言うなら、俺より正しい」
亜呂が少しだけ照れたように目を伏せる。
毒島は続けた。
「ただし、お前が無関係って話でもねえ」
「それは僕もそう思う」
羅馬は楽器の弦へ触れた。
「この家は、僕の音を知ってる」
「逆かもしれません」
涅央が言う。
「羅馬さんの音が、この家の中に残っていた何かを知っているのかも」
「どっちでも同じだ」
毒島は壁を見る。
「つながってるなら、使える」
「ずいぶん雑な結論ですね」
「役に立つかどうかが分かれば十分だ」
その時、羅馬の触れていた弦がひとりでに鳴った。
ぽろん。
壁の中から、重い歯車の音が返る。
ごうん。
食卓の背後にある壁が、ゆっくりと左右へ割れた。
土壁の向こうに、地下へ続く階段が現れる。
家の外観からは考えられないほど、深い階段だった。
下から冷たい風が吹き上げてくる。
その風には、油と鉄の匂いが混じっていた。
「家の下に、こんなものが……」
亜呂が神火を階段へ向ける。
炎は激しく揺れた。
毒島は耳を澄ませる。
地下の奥。
巨大な機械が動いている。
歯車。
鎖。規則正しく、しかしどこか欠けた音。
こち。
ごうん。
こち。
ごうん。
「時計だ」
毒島が言った。
「かなりでかい」
階段の下から、子どもの声が聞こえた。
「帰らなくちゃ」
羅馬が顔を上げる。
「今の、聞こえた?」
「何がですか?」
亜呂が尋ねる。
涅央は別の方向を見ていた。
「まだ帰ってこない」
父親の声。
子どもは帰ろうとしている。
父親は待っている。
同じ家の中にいるはずなのに、二つの声は届いていない。
毒島は懐中時計を開いた。
針は、あの夕刻を指したまま止まっている。
「下に行くぞ」
毒島が階段へ足をかける。
「また迷うかもしれないよ」
羅馬が言った。
「今度は道が一本だ」
「家が増やさなければね」
「そのとき考える」
涅央が続く。
亜呂も神火を掲げる。
羅馬は最後に食卓を振り返った。
二つの椀。
大人の椀からは、まだわずかに湯気が立っている。
子どもの椀は、もう冷めていた。
風車の羽根が、一度だけ回る。
羅馬は何も触れず、階段へ向かった。
四人が地下へ下り始める。
その背後で、食卓の前に男の影が座った。
顔は見えない。
男は冷めた子どもの椀を見つめ、静かに呟いた。
「遅いな」
第五話 了




