邂逅編 第四話【旅人、迷い家へ入る】
「返り刻、ねえ」
羅馬はその言葉を口の中でもう一度転がした。
夕刻の鐘は、すでに鳴り終えている。
誰もいない皇都歌舞伎座の舞台には、先ほどまで重なっていた古い家の痕跡など、どこにも残っていなかった。
低い食卓も。
二つの椀も。
戸口を見つめていた男の影も。
ただ、床板の一枚が、踏まれたようにわずかに軋んでいる。
毒島は古時計の前へ座り込み、戻った長針を睨んでいた。
「名前は分かった」
裏蓋を閉めながら言う。
「で、どうすれば止まる」
ご隠居は、舞台の端へ腰を下ろした。
「知らん」
「……は?」
「そこまでは記録に残っておらん」
「役に立たねえな」
「年寄りに多くを求めるでない」
「知ってそうな顔をして出てきただろうが」
「顔は生まれつきじゃ」
涅央が小さく笑った。
先ほどまで顔色を失っていたが、いつもの柔らかな表情へ戻りつつある。
「その記録には、ほかに何が?」
「消えた町の灯が戻る。亡き者の声が巷に満ちる。在らぬ家へ入った者が、帰らぬことがある」
亜呂が眉を寄せた。
「帰らぬことがある?」
「そのままの意味じゃろう」
「ずいぶん曖昧な記録ですね」
「昔の書き物は、肝心なところを隠すのが好きでな」
毒島が鼻を鳴らす。
「書いた奴も分かってなかっただけじゃねえのか」
「それもある」
ご隠居はあっさり認めた。
羅馬は、家が現れた舞台を見つめた。
「涅央さんが見た家は、本当に昔ここにあったのかな」
「歌舞伎座が建つ前の地図を調べれば分かるかもしれません」
亜呂が答える。
涅央は舞台の端へ目を落とした。
「いいえ」
「何か分かるんですか?」
「あの家は、ここにはありませんでした」
全員が涅央を見る。
「どうして分かる」
毒島が尋ねた。
「窓の外に、細い道が見えました。道の向こうには井戸があって、その先を子どもたちが走っていた」
「歌舞伎座の周りにも道はある」
「鐘の聞こえ方が違いました」
涅央は耳へ手を添えた。
「ここより、もう少し遠い。川の流れる音もしたように思います」
「思います、か」
「私の記憶ではありませんから」
涅央は困ったように微笑む。
「確かなことは言えません」
毒島は時計を工具箱へ収めた。
「なら、家があった場所を探す」
「今からですか?」
亜呂が外を見る。
空はすでに紫色へ沈み始めている。
「夜に見つけた家へ入る方が危ねえだろ」
「見つけても、入るつもりなんですね」
「時計が中にあるならな」
羅馬が笑った。
「やっぱり、時計なんだ」
「ほかに何を見る」
「家とか、人とか」
「人は勝手に喋る。時計は喋らねえ」
「さっきは喋ってたようなものじゃない?」
毒島が羅馬を睨む。
「お前は黙ってろ」
「それは無理かな」
「だろうな」
涅央が二人を見て、少しだけ安堵したように息を吐いた。
◇
翌朝。
毒島時計店の戸を開ける前から、店の外には三人の客が待っていた。
「時計が壊れた」
「うちもだ」
「夕方になると、針が戻るんです」
毒島は黙って三人の顔を見た。
「順番に入れ」
一つ目は、商家の掛け時計。
二つ目は、工場勤めの男が使っている懐中時計。
三つ目は、幼い娘の目覚まし時計だった。
作られた年代も、仕組みも違う。
掛け時計は古いぜんまい式。
懐中時計は舶来品。目覚まし時計には、小さな天礎石が使われている。
毒島は一つずつ裏蓋を開け、歯車を確かめた。
どれにも、致命的な故障はない。
「いつ戻った」
三人へ尋ねる。
商家の主人は答えた。
「昨日の夕暮れだ」
工場勤めの男も頷く。
「鐘が鳴る少し前だった」
娘の母親は、不安そうに時計を抱えた。
「この子が、知らないおじさんに“早く帰れ”と言われたって」
毒島の手が止まる。
「どこで」
「白詰橋の向こうです。古い路地の近くで」
「おじさんはどんな姿だった」
「聞いても、よく覚えていないと言うんです。ただ、家の前に立っていたと」
三人が帰ったあとも、毒島は店の時計を見つめていた。卓上には、三つの針の位置を書き写した紙。
どれも、ほぼ同じ夕刻を指している。
「偶然じゃねえな」
呟いたとき、戸口から声がした。
「おはようございます」
亜呂だった。
手には包みを抱えている。
「朝餉を持ってきました」
「頼んでねえ」
「食べないつもりですか?」
「あとで食う」
「それは食べない人の言い方です」
亜呂は勝手知ったる様子で店へ入り、作業台の空いている場所へ包みを置いた。
「羅馬さんと涅央さんも、みつば茶屋へ来ています」
「何であいつらまで」
「羅馬さんは朝から団子を食べに」
「またか」
「涅央さんは、昨日見た家について思い出したことがあるそうです」
毒島は紙をまとめ、工具箱へ入れた。
「行くぞ」
「朝餉は?」
「持ってけ」
「はい」
亜呂は少し得意そうに包みを持ち直した。
◇
みつば茶屋へ着くと、羅馬は本当に団子を食べていた。
「朝から甘いものか」
毒島が言う。
「朝だから甘いものなんだよ」
「どういう理屈だ」
「僕にも分からない」
「分からねえなら言うな」
涅央が湯呑みの向こうで笑う。
「昨日も同じような会話をしていましたね」
「こいつが同じことをするからだ」
「旅には習慣が必要だから」
「それを習慣にするな」
亜呂は朝餉の包みを毒島の前へ置いた。
「食べながら聞いてください」
「子どもじゃねえ」
「子どもなら、もう少し素直です」
毒島は何か言い返そうとしたが、包みから漂う焼き魚の匂いに負け、黙って箸を取った。
涅央が卓上へ古地図を広げる。
ご隠居から借りたものだった。
「昨夜、少し思い出しました」
地図の一角を指す。
「家の近くには、井戸がありました。それから、小さな稲荷堂」
「川の音もしたと言ってたな」
毒島が魚を食べながら尋ねる。
「はい。大きな川ではありません。用水路かもしれません」
亜呂が現在の地図を並べる。
「井戸も稲荷堂も、今はありませんね」
「ここに工場が建ってる」
羅馬が指でなぞる。
かつて細い路地が続いていた場所を、現在は蒸気管と工場の塀が塞いでいる。
「歌舞伎座からは少し離れてる」
「白詰橋の向こうだ」
毒島は今朝の客の話を伝えた。
亜呂の表情が曇る。
「子どもが、知らない人に早く帰れと言われた……」
涅央は目を伏せた。
「同じ人かもしれません」
「まだ決めつけるな」
「はい」
毒島は古地図を手元へ引き寄せる。
地図の端に、ご隠居の筆で書き込みがあった。
薄い墨で、短く記されている。
«夕刻、在らざる家を見る者あり。
土地の者、迷い家と称す。»
羅馬が読み上げた。
「迷い家」
「聞いたことがあります」
亜呂が言う。
「山や深い森で、突然現れる家ですよね。中の品を持ち帰ると幸運になるとか」
「入った者が戻らないこともある」
毒島が続ける。
「そっちはあまり知られてませんね」
「都合のいい方だけが広まるもんだ」
涅央は地図を見つめていた。
「昨日見た家も、迷い家なのでしょうか」
「同じ家ならな」
羅馬が尋ねる。
「見つけたら、入るの?」
亜呂と涅央が毒島を見る。
毒島は焼き魚の骨をきれいに皿の端へ寄せた。
「時計が中にある」
「やっぱり、それなんだ」
「ほかに理由がいるか」
「帰れなくなるかもしれないよ」
「時計を置いて帰る方が気分が悪い」
「職人って大変だな」
「旅人よりましだ」
「僕は帰る場所を決めなくてもいいからね」
何気なく言った羅馬の言葉に、亜呂が一瞬だけ目を向けた。
羅馬自身は気づかず、地図を眺めている。
「では、行きましょう」
涅央が立ち上がった。
「今日の夕刻、あの場所へ」
毒島が頷く。
亜呂も迷いなく立つ。
「父さんには、少し遅くなると伝えておきます」
「怒られない?」
羅馬が聞く。
「心配はされます」
「同じじゃないか」
「少し違います」
「そういうもの?」
「そういうものです」
◇
午後、四人は白詰橋を渡った。
空はまだ明るい。
川面には蒸気船が行き交い、橋の上を路面電車が鐘を鳴らしながら通り過ぎる。
人々の声。
荷車の音。
魚を焼く匂い。
昨日までと変わらない皇都の日常。
だが橋を渡り、工場区へ近づくにつれて、涅央の歩みが遅くなった。
「どうした」
毒島が尋ねる。
「この辺りです」
「何が」
「道です」
目の前には煉瓦造りの工場の壁が続いている。
道などない。
涅央は壁の向こうを見るように目を細めた。
「ここを曲がれば、井戸がありました」
毒島が古地図を開く。
涅央の指す場所には、確かに細い道が描かれている。
「合ってる」
「本当に?」
羅馬が地図を覗き込む。
「昔はここに路地があった」
「今は壁だけだね」
「町が変わったんだ」
毒島は壁へ手を当てた。
煉瓦は新しい。
工場が建ったのは、そう昔ではないらしい。
涅央が歩き出す。
壁に沿って進み、次の角を曲がる。
「この先に、稲荷堂が」
そこには蒸気管の太い支柱が立っていた。
古い石の土台だけが、雑草の間から覗いている。
亜呂はしゃがみ込み、土台へ触れた。
「ここに祠があったみたいです」
指先に、小さな火を灯す。
淡い桜色の神火。
いつもなら温かな火が、今日は青白く細い。
「冷たい」
亜呂が呟く。
羅馬が近づくと、火は一度だけ明るくなった。
亜呂は何も言わず、その変化を見つめた。
やがて夕暮れが近づく。
工場の汽笛が鳴り、帰宅する職工たちが大通りへ流れ始めた。四人は旧町区の端にある、細い路地の前へ辿り着いた。
「地図には載ってない」
羅馬が現在の地図を確かめる。
建物と建物の間。
人一人がようやく通れるほどの隙間。
昼間に通ったときには、板塀で塞がれていたはずだった。今は、その奥へ道が続いている。
「さっき、ここに道はあったか?」
毒島が尋ねる。
「ありませんでした」
亜呂が答える。
涅央は路地の奥を見つめた。
「この道です」
風が止まった。
工場の音も、人々の声も、急に遠くなる。
羅馬の耳へ、かすかな鼻歌が届いた。
子どもの声。
短い旋律を、何度も繰り返している。
「聞こえる」
羅馬が言った。
「また歌か」
毒島が尋ねる。
「昨日と同じだと思う」
「どこから」
羅馬は路地の先を指した。
「あっち」
四人は細い道へ入った。
一歩進むたび、背後の町の音が薄れていく。
両側の煉瓦壁は、いつの間にか古い板塀へ変わっていた。足元の石畳も消え、湿った土の道になる。
亜呂が振り返った。
「橋が見えません」
来たはずの道の向こうには、薄暗い路地が続いているだけだった。
「戻るか?」
毒島が尋ねる。
亜呂は前を見る。
「いいえ」
涅央も頷いた。
「家は、この先です」
羅馬は鼻歌を追って歩く。
曲がり角を一つ。
さらに一つ。
路地の奥に、灯りが見えた。
古びた一軒家。
低い瓦屋根。
軒下には小さな風車が吊られている。
戸口から、夕餉の匂いが漂っていた。
味噌。
炊きたての米。
少し焦げた魚。
涅央の呼吸が止まる。
「昨日の家です」
亜呂の神火が、細く揺れた。
毒島は懐中時計を取り出す。
長針が逆へ動いている。
かちり。
また一目盛り。
「始まった」
毒島が呟く。
家の中から、足音が聞こえた。
ゆっくりと、戸口へ近づいてくる。
四人は息を潜めた。
戸が、内側から開く。
薄暗い土間。
その奥に、男の影が立っている。
顔は見えない。
男は四人を見ていなかった。
羅馬の肩越しに、誰かを探しているようだった。
「お帰り」
低く、優しい声だった。
羅馬が振り返る。
誰もいない。
薄暗い路地には、夕暮れの名残だけが漂っていた。
もう一度家へ顔を向けると、男の姿も消えている。
開いた戸の奥から、時計の音だけが聞こえた。
こち。
こち。
毒島が一歩、土間へ入る。
「毒島さん」
亜呂が呼び止めた。
「時計がある」
「それだけで入るんですか?」
「それだけで十分だ」
羅馬が苦笑した。
「帰れなくなるかもしれないのに」
「外にいても何も分からねえ」
毒島は振り返らない。
涅央がその後へ続いた。
「私も行きます」
亜呂も神火を手に、戸口へ進む。
「羅馬さんは?」
羅馬は路地の奥を見た。
子どもの鼻歌は、家の中から聞こえている。
「ここまで来て、外で待つのも変だからね」
羅馬が最後に家へ入り、戸へ手をかける。
閉める前に、もう一度だけ外を振り返った。
誰もいない路地。
消えかけた夕暮れ。
遠くで皇都の鐘が鳴っている。
戸を閉める。
鐘の音が途絶えた。
羅馬は念のため、もう一度戸を開いた。
外へ出るつもりではない。
ただ、そこに路地があることを確かめたかった。
戸の向こうに、路地はなかった。
薄暗い廊下が、家の奥へまっすぐ続いていた。
その先で、子どもの鼻歌が聞こえる。
毒島が懐中時計を開く。
長針は、音もなく逆へ進んでいた。
かちり。一目盛り。
その音に応えるように、家のどこかで
もう一度だけ歯車が鳴った。
第四話 了




