邂逅編 第三話 【役者、知らぬ台詞を語る】
皇都歌舞伎座の舞台には、客のいない昼間にも独特の匂いがある。
白粉。
古い板。
油を染み込ませた綱。
幕の裏に溜まった埃。
そこへ、灯りをともす天礎灯のわずかな熱が混じる。舞台の中央に立つ涅央は、閉じた扇を胸元に添え、静かに目を伏せていた。
白と淡い藍を重ねた稽古着の袖が、足元へ柔らかく垂れている。
「涅央さん。始められますか」
舞台袖から声が飛ぶ。
涅央は目を開いた。
先ほどまでの柔らかな微笑みは消えている。
「いつでも」
声まで変わっていた。
低く、鋭く、旅の果てに仇を追い詰めた男の声。
この日の稽古は、数日後に始まる春興行の演目だった。
故郷を焼かれた浪人が、長い旅の末に仇と相まみえる。血と義理と許しを描いた、皇都でも人気の芝居である。
涅央が演じるのは、復讐に身を捧げた浪人。
舞台上の涅央は、普段の彼とはまるで別人だった。
背筋。
呼吸。
扇を刀に見立てて構える指先。
視線一つで、そこに存在しない敵を客席へ見せる。
「我が父母、我が里――その無念、今こそ晴らす」
共演者が木刀を構える。
二人の足が板を踏む。
乾いた音が歌舞伎座に響いた。
一歩。
二歩。
涅央が身を翻す。
長い袖が白い弧を描いた。
「待ってください」
突然、涅央が言った。
相手役の男が動きを止める。
「どうした?」
涅央は答えなかった。
構えていた扇を、ゆっくりと下ろす。
視線は相手ではなく、誰もいない客席へ向けられていた。
薄暗い座席の中央。
空席ばかりのはずの場所を、じっと見つめている。
「涅央さん?」
舞台袖から声がかかる。
涅央の唇が動いた。
「火を……絶やしてはいけない」
声が、また変わっていた。
先ほどまで演じていた浪人とも違う。
老いてはいない。
だが、疲れている。
何日も眠らず、同じ場所を見つめ続けた男の声だった。
「家の灯りが消えていたら、あの子が迷ってしまう」
共演者たちが顔を見合わせる。
「涅央、それは何の台詞だ?」
涅央は聞いていない。
ゆっくりと舞台の端へ歩く。
「もうすぐ夕暮れだ」
客席の奥を見つめたまま、呟く。
「迎えに行かなくては」
舞台袖で、小さな音がした。
かちり。
開演時刻を知らせるために置かれた古い時計。
長針が、一目盛りだけ戻っていた。
「止めろ」
座頭の声が響いた。
稽古の拍子木が鳴る。
涅央の肩が、わずかに揺れた。
客席を見ていた瞳へ、ゆっくりと光が戻ってくる。
「……あれ?」
涅央は自分の手を見る。
下ろした扇。
途中で止まった殺陣。
静まり返った舞台。
「どうしました?」
「それはこちらの台詞だ」
相手役が木刀を下ろす。
「今のは何だ」
「今の?」
「火を絶やすなとか、迎えに行くとか」
涅央は、しばらく相手の顔を見た。
「私が言ったんですか?」
場の空気が変わった。
誰かが冗談だろうと笑いかけたが、最後まで声にならなかった。涅央の顔に浮かんでいるのは、芝居ではない戸惑いだった。
「覚えていないのか」
「浪人が仇へ斬りかかるところまでは」
涅央は額へ手を当てる。
「その後は……」
瞼を閉じる。
何かを探すように、浅く息を吸った。
「匂いがしました」
「匂い?」
「焼けた木の匂いです」
誰も答えない。
「それと、夕餉の匂い」
涅央は舞台の端を見た。
そこには板張りの床しかない。
「椀が、二つありました」
胸元を押さえる。
「誰かを待っていたような……」
言葉が途切れる。
涅央はすぐにいつもの微笑みを取り戻した。
「役へ入りすぎたのかもしれません。お騒がせしました」
「そんな入り方をする役じゃないだろう」
「新しい解釈ということで」
「台本を変えるな」
「叱られてしまいましたね」
涅央は困ったように笑う。
だが、扇を持つ指先が、ほんの少し震えていた。
◇
「時計が逆へ動いた?」
毒島は、店先に立つ歌舞伎座の使いを見上げた。
「はい。一目盛りだけですが」
「ぜんまいは」
「巻いたばかりです」
「落としたか」
「誰も触れておりません」
毒島は返事をせず、作業台に広げていた部品へ布をかけた。
「見に行く」
工具箱を手に取る。
店を出ると、隣の軒先を掃いていた男が声をかけた。
「今日は歌舞伎見物かい、時計屋さん」
「仕事だ」
「その格好で舞台に上がるのか」
「上げられても断る」
「悪役なら似合いそうだ」
毒島は聞かなかったことにして歩き出した。
◇
みつば茶屋の前を通りかかったところで、毒島は足を止めた。暖簾の内側に、昨日皇都へ着いたばかりの旅人が見える。羅馬は窓際の席で、観光案内を広げていた。
卓上には四色団子。
「また食ってるのか」
毒島が入口から声をかける。
羅馬は顔を上げた。
「昨日とは別の日だからね」
「そういう問題か?」
「今日は道を間違えずに来られた」
「茶屋へ戻ってきただけだろ」
「成長は小さなところから始まるんだよ」
奥で茶を淹れていた亜呂が笑った。
「毒島さん、お仕事ですか?」
「歌舞伎座の時計が妙な動きをしたらしい」
亜呂の手が止まる。
「妙な動き?」
「針が一目盛り戻った」
昨日、みつば茶屋の古時計で聞いた音。
囲炉裏の火。
羅馬の弦。
遅れて響いた鐘。
三人の間に、短い沈黙が落ちた。
羅馬が観光案内を閉じる。
「見に行くの?」
「ああ」
「僕も行こうか」
「何でだ」
「昨日は僕の楽器も鳴った」
毒島は、壁際に立てかけられた羅馬の楽器を見る。
「だから来い」
「今、自分から言ったんだけど」
「気が変わる前に立て」
「ずいぶん勝手だな」
「旅人なんだろ。予定くらい空いてる」
「旅人にも予定はあるよ」
「団子を食う以外に?」
羅馬は皿を見る。
残りは一本。
「食べ終わってからでもいい?」
「置いてけ」
「それは困る」
亜呂が皿を紙へ包み始めた。
「道中で食べられるようにしますね」
「助かるよ」
「甘やかすな」
「毒島さんにも包みましょうか?」
「いらねえ」
「では二本とも羅馬さんに」
「一本寄越せ」
羅馬が笑う。
「やっぱり好きなんじゃないか」
「歩きながら食うためだ」
「団子は団子だよ」
「うるせえ」
「はいはい、包みましたから。行きますよ、二人とも」
「お前も行くのか?」
毒島が意外そうに亜呂を見た。
「二人だけだと心配ですから」
「お店はどうするの?」
羅馬が店内を見渡しながら尋ねる。
「和歌ちゃんにお願いしました」
「歌舞伎座へ行きたいだけじゃねえのか」
毒島が意地の悪い笑みを浮かべた。
「今日は一番人気の役者さんが稽古に出るそうだから、亜呂さんも見たいんじゃない?」
羅馬は『皇都観光案内』の歌舞伎座特集へ目を落としながら言った。
「遊びに行くんじゃねえんだぞ」
「分かっていますよ。さあ、行きましょう」
亜呂に急かされ、毒島は参ったように髪を掻いた。
「やれやれ。じゃあ、行くか」
ゆっくりと立ち上がり、工具の入った道具箱を肩へ掛ける。亜呂は割烹着を外すと、きれいに畳んで店の奥へ置いた。包んだ団子を小脇に抱え、和歌へ振り返る。
「じゃあ、和歌ちゃん。あとをよろしくね」
そうして三人は、皇都歌舞伎座へ向かった。
◇
昼の皇都歌舞伎座は、夜とは違う顔をしていた。
表の提灯にはまだ火が入っておらず、入口には興行を知らせる幟だけが並んでいる。
それでも、格式ある建物の佇まいは変わらない。
大屋根。
彫り物の施された梁。
正面に掲げられた大看板。
羅馬は足を止め、見上げた。
「観光案内より大きいな」
「建物を紙と同じ大きさで描く奴はいねえ」
「そういう意味じゃないよ」
「分かってる」
「分かってて言うんだ」
「早く来い」
舞台袖へ案内されると、涅央は化粧前の椅子へ腰掛けていた。
すでに稽古着から普段の装いへ戻している。
白と藍を基調とした着物。
金糸の模様が入った長い袖。
手には閉じた舞扇。
毒島を見ると、柔らかく微笑んだ。
「来てくださったんですね」
「時計はどれだ」
「ご挨拶より先に時計ですか」
「お前を見に来たんじゃねえ」
「相変わらずですね」
涅央の視線が、亜呂へ移る。
「亜呂さんも」
「心配になってしまって」
「大丈夫ですよ。少し台詞を忘れただけです」
「知らない台詞を話したと聞きました」
「伝わるのが早いですね」
涅央は苦笑した。
その目が、羅馬へ向く。
「それで、こちらは?」
「昨日、皇都へ来た羅馬さんです」
亜呂が紹介する。
涅央は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「涅央です。こちらの舞台で役者をしています」
「羅馬です。旅をしています」
「おや」
涅央は羅馬の後ろにある楽器を見た。
「楽師でも?」
「旅先で弾くくらいです」
「では、亜呂さんが拾ってきた旅芸人ですね」
「拾ってません」
亜呂がすぐに否定した。
「僕も拾われた覚えはないな」
「本人同士がそう言うなら、違うのでしょう」
「話を増やすな」
時計を調べ始めた毒島が言う。
涅央は羅馬へ近づき、興味深そうに顔を見る。
「皇都はいかがですか」
「まだ団子と路面電車しか見ていないけど、悪くないよ」
「それは皇都の半分ほどを見ましたね」
「団子の割合が大きいんだ」
「大切な文化ですから」
「気が合いそうだ」
「そうですね」
「甘味の話で意気投合するな」
毒島の声が飛ぶ。
羅馬と涅央が同時にそちらを見る。
「毒島さんも食べていたじゃないですか」
亜呂が言う。
「何でお前まで話を戻す」
「大切な事実ですから」
「時計の話をしろ」
毒島は古い置時計の裏蓋を開けた。
ぜんまいを確かめる。歯車を指で送り、軸の揺れを見る。
油の状態。
歯車の噛み合わせ。
振り子。
脱進機。
どこにも異常はない。
「壊れてないんですか?」
亜呂が尋ねる。
「少なくとも、逆に動く壊れ方はしてねえ」
「そんな壊れ方があるの?」
羅馬が聞く。
「普通はない」
「普通じゃないなら?」
「それを調べてる」
毒島は針を正しい位置へ戻し、ぜんまいを軽く巻いた。時計は動き始めた。
こち。
こち。
一定の間隔で音を刻む。
涅央が、その音を聞いていた。
「何か思い出すか」
毒島が尋ねる。
「いいえ」
涅央は答えたあと、少し考えた。
「ただ……」
「ただ?」
「あの声は、急いでいました」
「声を聞いたのか」
「自分の口から出た声です」
舞扇を持つ手が、わずかに強くなる。
「けれど、私の声ではなかった」
羅馬が涅央を見る。
「誰かの役を演じた感覚?」
「似ています」
涅央は舞台を振り返った。
「役に入るとき、自分とその人物の境目が薄くなることがあります。何を見て、何を恐れ、何を願うのか。それが、自分の中へ流れ込んでくる」
「今もそうだった?」
「いいえ」
涅央は静かに首を横へ振った。
「私は、あの人を知りません」
そのとき、羅馬の楽器が鳴った。
低く、短い音。
誰の指も弦へ触れていない。
全員が楽器を見る。
「また鳴った」
羅馬が振り返り、弦へ手を触れる。
「切れてもいない。緩んでもいないな」
毒島が楽器を見た。
「昨日と同じか」
「よく似ている」
涅央は黙ったまま、羅馬の楽器を見つめていた。
「どうしました?」
亜呂が尋ねる。
「いえ……」
涅央は目を伏せた。
「どこかで聞いたような気がしただけです」
◇
夕刻が近づくにつれ、舞台の上へ斜めの光が差し込んできた。
毒島は時計を調べ続けている。
故障は見つからない。
羅馬は楽器の弦を一本ずつ確かめたが、切れも緩みもなかった。
亜呂は舞台袖の灯りへ目を向けていた。
天礎灯の下に置かれた小さな火皿。
火が、先ほどから妙に細い。
「寒いですか?」
涅央が亜呂へ尋ねた。
「少しだけ」
「風が入っているのでしょうか」
窓は閉じている。
幕も動いていない。
それでも火は、どこかへ吸い込まれるように傾いていた。亜呂は胸元へ手を当てる。
冷たい。
火が消えようとしているのではない。
遠くへ連れていかれようとしている。
そんな感覚だった。
「毒島さん」
亜呂が呼ぶ。
毒島が顔を上げた。
同時に、舞台上の天礎灯が消えた。
暗闇。
誰かが息を呑む。
「動くな」
毒島の声が響く。
次の瞬間、灯りが戻った。
だが、そこは先ほどまでの舞台ではなかった。
板張りの床の上に、小さな家の一室が重なっている。
古びた畳。
低い食卓。
二つの椀。
隅には竈があり、赤い火が燃えている。
舞台装置ではない。
薄く透けながらも、確かにそこにある。
食卓の前には、男の影が座っていた。
顔は見えない。
戸口だけを見つめている。
涅央が一歩、前へ出た。
「遅いな」
男の声が、涅央の口から出る。
亜呂が振り返る。
「涅央さん?」
「もう暗くなるというのに」
涅央の瞳は、目の前の誰も見ていない。
「迎えに行けばよかった」
男の影が立ち上がる。
涅央も同じように立つ。
歩き方。
肩の落とし方。
戸口へ伸ばす手。
二人の動きが重なる。
羅馬の耳へ、かすかな旋律が届いた。
子どもの鼻歌。
遠く、家々の向こうから近づいてくるような、
短い歌。
「聞こえる」
羅馬が呟く。
「何が?」
毒島が時計を見ながら尋ねる。
「子どもの歌」
「どこからだ」
「分からない」
羅馬の楽器が、その旋律へ応えるように鳴った。
ぽろん。
涅央が息を呑んだ。
「その歌です」
羅馬が振り返る。
「知ってるの?」
「先ほど、あの家の中にいたとき――外から聞こえていました」
涅央は戸口の向こうへ顔を向ける。
「帰ってきたのか」
影の声に、わずかな喜びが混じる。
その瞬間、亜呂の火が大きく揺らいだ。
消えかける。
だが羅馬の周囲を風が巡ると、炎は一度だけ明るく息を吹き返した。
桜色の縁を持つ火が、涅央へ向かって伸びる。
亜呂は羅馬を見た。
彼の風は冷たくない。
家の中から流れてくる気配とは、まるで違う。
毒島の声が響いた。
「時計を見ろ」
古時計の長針が動いている。
進むべき方向とは逆へ。
かちり。
一目盛り。
そこで止まった。
舞台上の家も、男の影も、煙のように薄れていく。
「待て」
涅央が手を伸ばす。
それが涅央自身の言葉なのか、男の言葉なのかは分からなかった。
影が消える。
食卓。
二つの椀。
竈の火。
すべてが舞台の板へ溶けていった。
あとには、夕刻の光だけが残った。
涅央の膝が崩れる。
羅馬がすぐに腕を支えた。
「大丈夫?」
「……はい」
涅央は息を整えながら、消えた家のあった場所を見る。
「今度は、覚えています」
「何を見た」
毒島が尋ねる。
「誰かが、待っていました」
「誰を?」
涅央は首を横へ振る。
「分かりません」
しばらく沈黙したあと、静かに続ける。
「でも、あの人はまだ、帰らないことを知らない」
舞台袖の奥から、乾いた拍手が一つ響いた。
もちろん。ご隠居が怪異の外側から見守り、杖の一打で皆を現実へ引き戻したことが自然に伝わるように整えました。
舞台袖の奥から、乾いた音が一つ響いた。
ぱちん。
拍手ではない。
杖の先が、床板を打った音だった。
その一打に呼応するように、舞台の空気が震える。
羅馬は、深い水の底から浮かび上がるような感覚に襲われた。
涅央を支えていた腕へ、急に重さが戻る。
薄く霞んでいた客席の輪郭が、鮮明になる。
亜呂も大きく息を吸った。
「……今のは」
全員が客席の最後列を振り返る。
杖を傍らへ立てかけ、一人の老人が座っていた。
長い白髪を後ろで束ね、口元には穏やかな笑みを浮かべている。
「いやはや」
老人はゆっくりと立ち上がった。
「昼の稽古とは思えぬ、見事な舞台じゃった」
「ご隠居様?」亜呂が驚いたように言う。
「いつからいた」
毒島が尋ねる。
「初めからじゃよ」
「なら声をかけろ」
「せっかく皆、気持ちよく眠っておったのでな」
「寝てたのか」
「おぬしらがな」
羅馬の表情が変わる。
「眠っていた……僕たちが?」
「眠りというより、夢の中へ足を踏み入れておった、と言った方が近いかの」
ご隠居は舞台へ目を向ける。
そこにはもう、男の影も、二つの椀も、竈の火も残っていない。
「もう少し深く入り込んでおれば、呼び戻すのに骨が折れたじゃろう」
毒島が眉を寄せた。
「今の音で戻したのか」
「少しばかり、戸を叩いただけじゃよ」
「少しばかりで済む話か」
「戻れたのじゃから、よいではないか」
老人――ご隠居は、杖をつきながら舞台へ近づいてくる。
亜呂が驚いた顔をした。
「ご隠居様、どうしてこちらに?」
「涅央の稽古を見に来たのじゃ。春興行の前に、一度くらいはな」
「今のことも見ていたんですか」
ご隠居は目元を細めた。
「目は閉じておったが、見てはおったよ」
「それ、眠っていたのと何が違うんですか」
「大事なものは、目を開けておらずとも見えるものじゃ」
亜呂は分かったような、分からないような顔をした。
ご隠居は古時計の前で足を止める。
毒島が開けた裏蓋。
正常な歯車。
一目盛りだけ戻った針。
老人の表情から、笑みが少しだけ消えた。
「涅央」
「はい」
「今の男は、何と言っておった」
涅央は目を伏せた。
「火を絶やしてはいけない、と」
「ほかには」
「もうすぐ夕暮れだ。迎えに行かなくては」
ご隠居はしばらく黙った。
杖の先で、舞台の板をもう一度、静かに叩く。
ことり。
「ご存じなんですか?」
亜呂が尋ねる。
「知っておる、と言えば嘘になる」
ご隠居は時計へ目を落とした。
「じゃが、同じような話を古い記録で読んだことがある」
「時計が逆へ動く話か」
毒島が聞く。
「時計だけではない」
ご隠居は客席を振り返った。
先ほどまで家が重なっていた舞台。
誰かが座っていたはずの食卓。
羅馬にだけ聞こえた、子どもの歌。
「亡くなった町の灯がともり、消えた家が姿を現す。残された声が道を歩き、会えぬ者を待ち続ける」
羅馬が尋ねる。
「幽霊?」
「それほど単純なものではなさそうじゃ」
ご隠居は懐から古い懐中時計を取り出した。
蓋を開く。
その時計は正しく時を刻んでいる。
「戻ったのは、時そのものではない」
「じゃあ、何が戻った」
毒島の問いに、ご隠居は静かに答えた。
「時の中に刻まれ、消えずに残ったものじゃよ。声も、景色も、人の想いもな」
夕刻の鐘が鳴り始める。
一打。
二打。
歌舞伎座の壁を震わせ、皇都の町へ広がっていく。
「昔の人々は、これを――」
ご隠居は、止まった古時計を見た。
「返り刻と呼んだ」
最後の鐘が鳴る。
その音が消えたあと。
誰もいない舞台の上で、子どもの足音が一度だけ響いた。
第三話 了




