邂逅編 第二話 【旅人、団子を食べる】
皇都中央駅へ入る蒸気列車は、到着のずいぶん前から速度を落としていた。
車輪が鉄路の継ぎ目を踏むたび、客車の床が規則正しく揺れる。
窓の外を流れていた田畑は、やがて煉瓦造りの倉庫へ変わり、その向こうには無数の屋根と煙突が見え始めた。
低い町家の間を、蒸気管が縫うように走っている。
遠くには尖塔を持つ洋館。
さらにその奥には、白壁に囲まれた皇城。
古い寺社の屋根と、黒煙を吐く工場の煙突が、同じ空の下に並んでいた。
「ずいぶん大きな町だな」
窓際の男が呟いた。
名を、羅馬という。
年の頃は二十五ほど。旅塵のついた羽織の下に動きやすい着物をまとい、足元には使い込まれた旅袋が置かれている。袋の脇からは、布に包まれた弦楽器の柄が覗いていた。
羅馬の手には、一冊の小冊子がある。
表紙には『皇都観光案内』。
駅へ近づくまでの間に、もう何度も開いていた。
皇城。
中央市場。
皇都歌舞伎座。
白詰草同盟本部。
そして、みつば茶屋。
誌面には、湯気の立つ茶と、四つの色をした団子が描かれている。
その隣には、白詰草の髪飾りをつけた娘が、明るく笑っていた。
羅馬は団子の絵を見る。
「まずは、ここかな」
皇城より先に団子。
旅人として正しい順番かは分からなかったが、少なくとも腹は正直だった。
列車が長い汽笛を鳴らす。
窓の外から入り込んだ風が、小冊子の頁をぱらぱらとめくった。
一瞬だけ、立入禁止と記された白詰大神宮跡の頁で止まる。羅馬が目を向けるより先に、風は再び頁を動かした。
開かれたのは、みつば茶屋の案内だった。
「……やっぱり、こっちか」
羅馬は小さく笑った。
蒸気列車は白い煙を吐きながら、皇都中央駅の構内へ滑り込んでいった。
◇
中央駅は、人で溢れていた。
列車を降りる者。
これから乗り込む者。
荷物を運ぶ赤帽。
客を呼ぶ人力車夫。
天井の高い駅舎には、汽笛と人声と靴音が重なって響いている。大時計の下では、待ち合わせらしい人々が何人も立っていた。
羅馬は流れに押されながら改札を抜け、ようやく駅前へ出た。そこで足を止める。
「これは……」
正面には広い大通り。
その中央を、架線から火花を散らす路面電車が走っている。車道には人力車と荷馬車が行き交い、歩道沿いには洋風の商館と木造の店が隙間なく並んでいた。
看板。呼び込み。蒸気笛。鐘の音。
山村や宿場町を歩いてきた羅馬にとって、皇都の賑わいは少々激しすぎた。
「案内には、分かりやすい町だと書いてあったんだけどな」
小冊子を開く。
地図によれば、中央駅から路面電車に乗り、みつば茶屋前で降りればよいらしい。
羅馬は停留所へ向かった。
ちょうど到着した電車へ乗り込み、車掌に銭を渡す。
「みつば茶屋前まで」
「この車は大手門行きだよ」
「……違う?」
「反対側だね」
「そうか。ありがとう」
羅馬は乗ったばかりの電車から降りた。
発車の鐘が鳴る。
窓際の子どもが、不思議そうに羅馬を見ていた。
羅馬は笑って手を振る。
子どもも手を振り返した。
「旅人さん、茶屋町なら向こうだよ」
停留所で荷籠を抱えていた老婆が、反対側を指さした。
「助かります」
「観光案内を逆さに持ってるから分からないんだよ」
羅馬は手元を見る。
確かに地図が逆だった。
「なるほど」
「なるほどじゃないよ」
老婆は呆れた顔をしたあと、声を上げて笑った。
◇
正しい電車へ乗り直してからも、みつば茶屋までは少し歩いた。羅馬は急がなかった。
中央市場の前では、魚屋が銀色の魚を高々と掲げている。道具屋の軒先では、天礎石を動力にした小さな扇風機が、勢いよく首を振っていた。
路地の奥からは鍛冶の音が聞こえ、川沿いでは荷を積んだ蒸気船が白い煙を吐いている。
歩くたびに、違う匂いがした。
炭の匂い。
焼き魚の匂い。
油と鉄の匂い。
その間に、ときおり線香や花の香りが混ざる。
羅馬は何度か足を止めた。
知らない町へ来たとき、まず見るのは立派な建物ではない。
道端で話す人々。
店先を掃く者。
遊びながら帰る子ども。
その町で暮らす人の顔を見る。
それが羅馬の旅の仕方だった。
「お兄ちゃん、旅の人?」
白詰橋のたもとで、毬を持った少女が尋ねてきた。
「ああ。今日着いたばかりだよ」
「どこ行くの?」
「みつば茶屋」
「亜呂ちゃんのところだ!」
少女は嬉しそうに橋の先を指さした。
「あの角を曲がって、三つ葉の看板があるところ!」
「ありがとう」
「団子おいしいよ!」
「それを目当てに来たんだ」
「食いしん坊だ!」
少女は笑いながら走り去っていった。
羅馬は観光案内へ目を落とす。
「地図より、町の人に聞く方が早いな」
そう呟きながら角を曲がる。
風が、通りを柔らかく抜けていった。
◇
みつば茶屋は、観光案内に描かれていた姿よりも、ずっと小さかった。
けれど、不思議と見落とすことはなかった。
軒下には季節の花。
戸口には白い暖簾。
看板に描かれた三つ葉が、風に揺れている。
開け放たれた入口からは、温かい茶の香りと、団子を焼く甘い匂いが漂ってきた。
羅馬は小冊子の絵と、目の前の店を見比べた。
「ここだな」
暖簾を持ち上げる。
「いらっしゃいませ!」
明るい声が飛んできた。
羅馬は思わず足を止めた。
淡い桜色の着物。
白い前掛け。
短い髪に揺れる、白詰草をあしらった髪飾り。
盆を抱えた娘が、こちらへ笑顔を向けている。
羅馬は手元の観光案内を開いた。
誌面の娘を見る。
目の前の娘を見る。
もう一度、誌面を見る。
「……あ」
「どうかしました?」
「案内に載っていた人だ」
娘――亜呂は目を丸くした。
それから少し恥ずかしそうに笑う。
「まだ、あれが配られてるんですね」
「本人だったんだ」
「一応、本人です」
「絵より、ずいぶん若く見える」
「またまた!褒めても何も出ませんよ!」
「それは困るな 茶も出ないとなると」
奥の席から、鼻で笑うような音が聞こえた。
窓際の卓に、一人の男が座っている。
黒い羽織。
跳ねた髪。
細い眼鏡。
卓上には茶と、食べかけの四色団子。
毒島だった。彼は羅馬を一度見たあと、興味を失ったように茶をすすった。
羅馬は空いている席へ向かおうとした。
「旅の方ですか?」
亜呂が尋ねる。
「ああ。今日、皇都へ着いたばかり」
「ようこそ、皇都へ」
その言葉は、観光客へ向けた決まり文句には聞こえなかった。亜呂は本当に、自分がこの町へ来たことを歓迎しているらしい。
羅馬は軽く頭を下げた。
「ありがとう」
「こちらへどうぞ。お荷物も置けますよ」
案内されたのは、入口に近い席だった。
旅袋を壁際へ置き、布に包んだ楽器が倒れないよう立てかける。
亜呂の視線が、楽器へ向いた。
「楽師さんですか?」
「そんな立派なものじゃないよ。旅先で弾くくらい」
「歌も?」
「ときどき」
「聴いてみたいです」
「団子がおいしかったら、一曲くらいは」
「それでは、いちばん美味しいのをお持ちしますね」
亜呂が笑う。
「注文は?」
「観光案内に載っていた団子を」
「みつば団子ですね」
「四つ色の」
「はい。お茶もお付けしますか?」
「お願いします」
亜呂は注文を繰り返し、奥へ入っていった。
羅馬は店内を見渡した。
大きな店ではない。
けれど、どの席にも長く使われてきた跡がある。
柱には子どもの背丈を測ったらしい傷。
棚には形の違う湯呑み。
窓辺には小さな花。
誰かが客を迎えるために整えたというより、ここへ来る人々と一緒に形を変えてきた場所に見えた。
「ずいぶん眺め回すな」
不意に、毒島が言った。
羅馬はそちらを見る。
「初めて来た場所だから」
「茶屋なんて、どこも似たようなもんだろ」
「そうかな」
「茶があって、団子がある」
「なら、あなたも団子目当て?」
「違う」
毒島は即答した。
羅馬は卓上の皿を見る。
串が二本、きれいに空になっている。
「そうは見えないけど」
「勝手に出された」
「残さず食べたんだ」
「食い物を粗末にするのが嫌いなだけだ」
「なるほど」
羅馬が頷く。
毒島の眉間に皺が寄った。
「何だ」
「いや。案内には載ってなかったけど、この店には面白い人もいるんだなと思って」
「誰が面白い人だ」
「毒島さん、お客様に絡まないでくださいね」
奥から亜呂の声が飛んできた。
「絡んでねえ」
「そう聞こえました」
「会話だ」
「毒島さんの会話は、たまに喧嘩に聞こえるんです」
「今日二度目だぞ、それを言われるのは」
羅馬は小さく笑った。
毒島が睨む。
「何がおかしい」
「町の人も同じことを言うんだなと思って」
「余計なことを覚えるな」
ほどなくして、亜呂が盆を運んできた。
「お待たせしました」
湯気の立つ茶。
そして、四つの色をした団子。
白。淡い緑。桜色。薄い金色。
焼き目のついた団子から、香ばしい匂いが立っている。
「きれいだな」
「季節と、皇都の四つの願いを表しているんですよ」
「四つの願い?」
「それは――」
「説明すると長いぞ」
毒島が横から言う。
「毒島さん」
「腹が減って来たんだろ。先に食わせてやれ」
「それもそうですね」
亜呂は素直に引き下がった。
羅馬は串を手に取る。
一口かじった。
表面はわずかに香ばしく、中は柔らかい。
色ごとに、ほんの少し味が違う。
羅馬はゆっくり飲み込んだ。
「どうですか?」
亜呂が期待するように見ている。
「うん」
「うん?」
「この団子を最初に選んだのは正解だった」
亜呂の顔が明るくなる。
「よかったです!」
「皇城は後回しでいいな」
「それは観光協会の方に怒られそうですね」
「団子の方が大事だ」
毒島が小さく鼻を鳴らした。
「それには同意する」
羅馬は毒島を見る。
毒島は茶碗へ目を落としたまま、聞かなかったふりをしている。
そのときだった。
開け放たれた戸口から、風が一筋入ってきた。
暖簾が揺れる。
羅馬の羽織の裾が、かすかに持ち上がる。
窓辺の花が一斉に同じ方角を向いた。
囲炉裏の火が、ふっと細くなる。
亜呂が振り返った。
火は消えなかった。
逆に、風を受けたはずの炎が、呼吸をするように一度だけ明るく膨らんだ。
淡い桜色の光が、火の縁に混じったように見えた。
亜呂は首元へ手を当てる。
「どうした?」
毒島が気づいた。
「いえ……」
亜呂は羅馬を見た。
羅馬は団子を食べている。
自分が何かを起こした様子はない。
「少し、風が入っただけです」
「火の近くに紙を置くなよ」
「はい」
亜呂はそう答えたが、しばらく羅馬から目を離さなかった。冷たい気配ではなかった。
神火が警戒したわけでもない。
むしろ炎は、遠くから知っているものの声を聞いたように揺れた。
だが、なぜそう感じたのか、亜呂自身にも分からない。
「亜呂さん?」
羅馬が首を傾げる。
「顔に何かついてる?」
「いえ。何でもありません」
亜呂は笑った。
その笑顔を見て、羅馬もそれ以上は尋ねなかった。
◇
「宿は決まってるのか?」
しばらくして、毒島が尋ねた。
羅馬は最後の団子を食べ終え、茶をすすっていた。
「まだ」
「決めずに来たのか」
「着いてから探そうと思って」
「観光案内には宿も載ってるだろ」
「路面電車の方向を間違える案内だから、少し信用を失ってる」
「お前が地図を逆さに持ってただけじゃねえのか」
羅馬は黙った。
毒島が眼鏡の奥から見る。
「逆さだったのか」
「少しだけ」
「地図に少しだけ逆さなんてあるか」
「旅の仕方は人それぞれだよ」
「迷子の言い訳だな」
亜呂が笑いながら、茶を注ぎ足した。
「この近くに、旅籠がありますよ。大きくはありませんけど、女将さんが親切です」
「それは助かる」
「後で道を書きますね」
「口で教えるだけでいいよ」
「地図を逆さにする人には、口で説明した方が危ないだろ」
毒島が言う。
「毒島さん、今日はよく喋りますね」
「そいつが妙なことばかり言うからだ」
「あなたも十分、妙だけど」
「お前に言われたくねえ」
羅馬と毒島の視線が合う。
どちらからともなく、わずかに口元が緩んだ。
亜呂は二人を見比べる。
「仲良くなれそうですね」
「どこを見てそう思った」
「今のやり取りです」
「目が悪いんじゃねえか」
「毒島さんよりはいいです」
「俺は時計の部品が見える」
「人の気持ちは見えないのに?」
「余計なもんまで見る必要はねえ」
羅馬が思わず笑う。
「ほら、やっぱり仲良くなれそうです」
亜呂は羅馬へ顔を向けた。
「羅馬さんも、そう思いませんか?」
「どうだろう」
羅馬は毒島の不機嫌そうな顔を見て、もう一度笑った。
「僕にも分からない」
「分からねえなら笑うな」
毒島が吐き捨てるように言った。
茶屋の中に、穏やかな笑い声が広がった。
羅馬は茶碗を両手で持ち、立ち上る湯気を眺めた。
皇都へ来る理由が、はっきりあったわけではない。
風向きが変わった。
ただ、それだけだった。
旅を続けていれば、そんなことは何度もある。
町へ入り、何人かと言葉を交わし、数日経てばまた次の土地へ向かう。
ここも、そうなるはずだった。
けれど羅馬は、茶屋の柱や、窓辺の花や、向かいで不機嫌そうに団子を食べる時計師を見た。
そして、客が帰るたび、
「気をつけていってらっしゃい」
と声をかける亜呂を見た。
帰る場所を持つ人へも。
持たない人へも。
同じように。
「また来てもいいかな」
羅馬が何気なく言った。
亜呂は不思議そうに瞬きをした。
「もちろんです」
「まだ店を出てもいないぞ」
毒島が言う。
「先に確認しておこうと思って」
「追い出されるようなことをするつもりか」
「そういう予定はないけど」
「なら聞く必要ねえだろ」
亜呂が笑う。
「いつでも来てください」
そして少しだけ言葉を改めた。
「お帰りになるまで、何度でも」
羅馬はその言葉を聞き、窓の外へ目を向けた。
午後の光が、白詰橋の方角から差し込んでいる。
風がまた、暖簾を揺らした。
「それなら、また来るよ」
羅馬はそう答えた。
◇
店の奥。
棚の上に置き直された古い時計は、静かに止まっていた。
折れたぜんまい。
錆びた歯車。
動くはずのない長針。
茶屋の誰も、そちらを見ていない。
羅馬が湯呑みを卓へ置いた。
ことり。
ほとんど同時に、古時計の内部で音がした。
かちり。
長針が、一目盛りだけ動く。
進むべき方向とは逆へ。
その瞬間、囲炉裏の火がわずかに揺れた。
そして羅馬の傍らに立てかけられた弦楽器が、誰も触れていないのに、ごく低い音を一つだけ響かせた。
羅馬が振り返る。
「今、何か鳴った?」
亜呂も店の奥を見る。
毒島だけが、ゆっくりと茶碗を置いた。
しばらく耳を澄ませる。
だが、二度目の音はしなかった。
「古い店だからな」
毒島はそう言った。
誰に聞かせるでもなく。
「妙な音くらいする」
窓の外では、皇都の時計塔が午後の刻を告げていた。鐘の音が町へ広がる。
その最後の一打だけが、ほんの少し遅れて、もう一度聞こえた。
第二話 了




