邂逅編 第一話 【時計師、茶屋へ行く】
皇都の東側に広がる職人町では、朝が早い。
鍛冶場から響く槌の音。
木材を削る鉋の音。
染物屋の軒先で、濡れた布を絞る音。
細い路地の頭上には、工房と工房を結ぶ蒸気管が渡されている。ところどころに取り付けられた圧力弁が、白い息を短く吐き出していた。
古くから受け継がれてきた職人の技と、天礎石を用いた新しい機械。
二つの時代が肩を並べるこの町では、昨日まで存在しなかった道具が今日には生まれ、百年使われてきた道具が今日も変わらず誰かの手に握られている。
その一角に、周囲の店より少しだけ間口の狭い工房があった。
軒先の看板に記されているのは、ただ四文字。
――毒島時計店。
店内には、大小様々な時計が所狭しと並んでいる。
柱時計。置時計。懐中時計。
舶来品もあれば、皇都の職人が組み上げた和時計もある。あるものは正確に針を刻み、あるものは少し遅れ、またあるものはとうに役目を終えていた。
無数の歯車が奏でる規則正しい音の中で、ひときわ大きな声が上がった。
「三日前に直してもらったばかりだぞ!」
作業台の前に立つ恰幅のよい男が、懐中時計を握りしめている。
「それが今朝になったら、また止まってやがる。これのどこが修理だ!」
作業台の向こう側で、毒島は小さな歯車を摘まみ上げていた。
細い眼鏡の奥にある目は、怒鳴り続ける客ではなく、指先の部品だけを見ている。
黒い髪は寝癖のように跳ね、着物の袖は無造作にたすきで留められていた。指先には油が染み込み、爪の脇には金属粉が残っている。
「聞いてるのか!」
「聞いてる」
毒島は歯車を光へ透かした。
「三日前に直した。昨日までは動いてた」
「だから、今朝止まったと言ってるんだ!」
「なら三日間は動いたんだろ」
「そういう話じゃない!」
客は懐中時計を作業台へ叩きつけた。
積まれていた小さな螺子が跳ねる。
毒島の眉が、わずかに動いた。
彼は懐中時計を手に取ると、蓋を開けた。
耳元へ近づけ、竜頭を二度巻く。
しかし、時計は沈黙したままだった。
「ほらみろ。壊れてるじゃねえか」
「壊れたんじゃねえ」
「何?」
「寿命が来たんだ」
毒島は裏蓋を開き、内部を客へ向けた。
「ここの歯が減ってる。軸も歪んでる。
前に開けたときから分かってた。
長くは持たねえって言ったはずだ」
「聞いてないぞ、そんな話!」
「言った」
「いつだ!」
「預かったときだ」
「お前、時計をいじりながら一人で
ぶつぶつ喋ってただろうが!
あれを説明したとは言わん!」
毒島の手が、ほんのわずかに止まった。
思い返せば、確かにそうだったかもしれない。
客が何か喋っている横で裏蓋を開け、内部を 眺めながら「長くは持たねえな」と呟いた。
顔を見て伝えた覚えはない。
「……聞こえなかったのか」
「聞こえるように言え!」
「耳が遠いんじゃねえか」
「お前の声が小さいんだ!」
客の言い分にも一理ある。
毒島はそう思ったが、口には出さなかった。
「とにかく、同じ型の部品はもう作られてねえ。軸も限界だ。諦めて新しいのを買いな」
「買い替えられるものなら、とっくにそうしてる!」
客の声が、一瞬だけ揺れた。
「こいつは親父の形見なんだ。金が惜しくて怒ってるんじゃねえ」
毒島は、手の中の懐中時計へ視線を落とした。
真鍮の外蓋は、何度も磨かれた跡がある。傷だらけではあるが、粗末に扱われてきた品には見えない。
「だから、お前なら何とかできると思って持ってきたんだ。それが三日で止まったんじゃ、腹も立つだろうが!」
「……だったら、最初にそう言え」
「言ったところで直せるのか?」
「直せねえものは直せねえ」
「ほら見ろ!」
「だが、動かさずに残す方法ならある」
客の勢いが止まった。
「何?」
「中身をこれ以上傷めないように固定する。外蓋の傷も整えられる。時計としては死ぬが、形見として残すことはできる」
「それを先に言え!」
「聞かれなかったからな」
「お前という奴は……!」
客は頭を抱えた。
毒島は懐中時計を作業台へ置くと、小さな木箱を引き寄せた。
「置いてけ」
「直せないんじゃなかったのか」
「時計としてはな」
「金は取るのか?」
「当たり前だ」
「またすぐ壊れたらどうする!」
「もう動かさねえんだから壊れようがない」
「その言い方が腹立つんだ!」
「なら持って帰れ」
客は懐中時計と毒島の顔を、交互に見た。
やがて、大きく息を吐く。
「……頼む」
「ああ」
「今度は、いくらかかるか先に言えよ」
「帰る前にな」
「今言え!」
しばらくして、客はなおも文句を呟きながら店を出ていった。
戸口をくぐる直前、一度だけ振り返る。
「本当に、きれいに残せるんだろうな」
「余計に触らなきゃな」
「お前に預けるんだから、お前が触るんだろうが!」
「早く帰れ」
「この偏屈時計屋め!」
ぴしゃり、と戸が閉まった。
それからしばらく、店内には時計の音だけが残った。
ちく、たく。
ちく、たく。
ちく、たく。
毒島は、客が残していった懐中時計を見た。
修理を受けたとき、もっと分かるように説明しておけば、あれほど揉めることもなかったのだろう。
もっとも、相手が黙って時計を落としたことまで、こちらの責任にされてはたまらない。
「……ったく」
客が叩きつけた拍子に散らばった螺子を、一つずつ拾い上げる。
怒鳴り声が聞こえていたのだろう。向かいの指物師が、開いた窓からこちらを覗いていた。
「また客と喧嘩か、毒島!」
「喧嘩じゃねえ。説明だ」
「お前の説明は、いつも喧嘩に聞こえるんだよ!」
「仕事しろ、爺さん」
「お前もな!」
窓が閉まる。
毒島は鼻から息を吐いた。
作業台の上には、修理を待つ時計がまだ五つ置かれている。壁際には、部品の届いていない柱時計が二つ。奥の棚には、分解したまま手をつけていない小型のからくり人形まであった。
いくらでも仕事はある。
毒島は作業台へ向き直りかけ――やめた。
「……茶でも飲みに行くか」
たすきを外し、暗い色の羽織を引っかける。
店先の札を「営業中」から「少し留守」に裏返し、引き戸へ手をかけた。
そのときだった。
かちり。
背後で、小さな音がした。
毒島が振り返る。
店内には、所狭しと時計が並んでいる。音の出どころなど、簡単には分からない。
「……?」
一つひとつへ目を走らせる。
どれも変わらず動いている。
止まっていたものは、止まったままだ。
毒島はしばらく耳を澄ませていたが、やがて肩をすくめた。
「古い時計ばかり置いてりゃ、妙な音もするか」
工房を出て、戸を閉める。
店内には再び、規則正しい時の音だけが残った。
◇
職人町の通りには、すでに一日の活気が満ちていた。荷車を引く男が声を上げ、その脇を自転車に乗った郵便配達が通り過ぎる。鍛冶屋の軒先では赤く焼けた金属が打たれ、道の反対側では蒸気義手をつけた職人が、細い指を一本ずつ調整している。
煙突の合間を縫うように、白い蒸気が青空へ昇っていった。毒島は懐へ両手を入れ、通りを歩いていく。
「毒島さん!」
声をかけてきたのは、提灯屋の少年だった。
手には壊れた小さな目覚まし時計がある。
「これ、直せる?」
毒島は立ち止まり、時計を受け取った。
裏蓋を指で押し、軽く振る。
中で何かが転がる音がした。
「螺子が一本外れてるだけだ」
「ほんと?」
「ああ。昼過ぎに持ってこい」
「いくら?」
「その辺の掃除でもしてろ」
「それでいいの?」
「店の前が汚え」
「毒島さんの店の前だけ?」
「通り全部だ」
「多いよ!」
「なら銭を持ってこい」
少年は少し考え、時計を抱きしめた。
「掃除する!」
「最初からそう言え」
少年は嬉しそうに駆けていった。
その背を見送り、毒島は再び歩き出す。
職人町を抜けると、道は緩やかな下り坂になる。
遠くから、路面電車の鐘が聞こえた。
赤茶色の車体が交差点を曲がり、火花を散らしながら皇城方面へ走っていく。
通りの向こうには白詰橋。
その先の裏通りに、みつば茶屋がある。
毒島は路面電車には乗らなかった。
歩いた方が早いわけではない。
ただ、狭い車内で見知らぬ者と肩を寄せ合うのが嫌いなだけだった。
◇
みつば茶屋は、皇都の裏通りにひっそりと店を構えている。大通りに面した立派な店ではない。
広い庭があるわけでも、豪華な看板が掲げられているわけでもない。それでも昼時になれば、近所の商人や職人、買い物帰りの者たちが自然と暖簾をくぐる。
店先には小さな三つ葉の紋。
軒下には季節の花が飾られ、開け放たれた戸口からは、茶の香りと団子を焼く甘い匂いが漂っていた。
毒島が暖簾を上げる。
「いらっしゃいませ!」
明るい声が、すぐに飛んできた。
淡い桜色の着物に、白い前掛け。短い髪には、白詰草をあしらった髪飾りが揺れている。
盆を手にした亜呂が、毒島の顔を見て笑った。
「あ、毒島さん。いらっしゃいませ」
「茶」
「はいはい。いつものですね」
「あと団子」
「今日は素直ですね」
「何がだ」
「いつもは頼んでいないふりをするじゃないですか。私が置いたから仕方なく食べる、みたいな顔をして」
「頼んでねえ日に勝手に出してるのは、お前だろ」
「でも、残したことはありませんよね?」
「食い物を粗末にするのが嫌いなだけだ」
「そういうことにしておきます」
亜呂は楽しそうに笑い、奥へ戻っていった。
毒島は窓際の席へ腰を下ろした。
店内には、近所の老婆が二人。
仕事の途中らしい飛脚が一人。
隅の席では、帳面を広げた商人が茶をすすっている。
誰も毒島を気に留めない。
怒鳴る客もいなければ、修理を急かす者もいない。
湯の沸く音。
茶碗の触れ合う音。
客たちの穏やかな話し声。
毒島は椅子へ深く座り直した。
ほどなくして、亜呂が盆を運んできた。
「お待たせしました。熱いので気をつけてくださいね」
湯気の立つ茶と、焼き目のついた四色団子が置かれる。毒島は団子を見た。
「一本多くねえか」
「今日は少し疲れた顔をしてますから」
「いつもと同じだ」
「毒島さんは、そう言うと思いました」
「勝手に増やすな」
「では、下げますか?」
亜呂が団子へ手を伸ばす。
毒島は皿をわずかに引き寄せた。
「客に出したものを下げるな」
「はいはい」
亜呂は嬉しそうに笑った。
毒島は団子を一本取り、口へ運んだ。
表面は香ばしく、中は柔らかい。ほのかな甘みが、
濃い茶によく合う。
亜呂は毒島の向かいへ立ったまま、その様子を見ている。
「何だ」
「美味しいですか?」
「普通だ」
「それ、毒島さんの言葉では『すごく美味しい』って意味ですよね」
「勝手に訳すな」
「では、次から本当に普通のを出しますね」
「これは普通じゃねえのか」
「ふふ」
亜呂は返事をせず、空いた盆を抱え直した。
そのとき、店の奥から何かが倒れる音がした。
ことり。
「あら?」
亜呂が振り返る。
「どうした」
「ちょっと見てきます」
奥へ消えた亜呂は、しばらくして一つの置時計を抱えて戻ってきた。木枠の古い時計だった。文字盤の硝子には細かな傷があり、振り子は止まっている。
「棚の上で倒れていました」
「見せろ」
毒島は時計を受け取り、耳を近づけた。
音はしない。裏側の留め具を外し、中を覗く。
「ずいぶん古いな」
「私が小さい頃からあります。お店を始める前からあったと聞きました」
「止まったのはいつだ」
「もう何年も前ですよ。直しても動かないので、飾りにしていたんです」
錆びた歯車。
折れたぜんまい。
動くはずのない振り子。
時計としては、とうに役目を終えている。
「棚が傾いてんじゃねえか」
「そうでしょうか」
「あとで何か噛ませとけ。また落ちるぞ」
「分かりました」
毒島が裏蓋を閉じた、そのとき。
かちり。
小さな音がした。
止まっていた長針が、ほんのわずかに動いた。
進むべき方向とは逆へ。
毒島は文字盤へ顔を近づけた。
しかし、針はもう動かない。
「どうかしました?」
亜呂は見ていなかったらしい。
「いや」
毒島は時計を返した。
「古い時計だと思っただけだ」
「直せそうですか?」
「無理だな。中身が死んでる」
「やっぱりそうですか」
「飾るなら、落ちねえ場所に置け」
「はい」
亜呂は時計を抱え、奥へ戻っていく。
毒島はしばらくその背を見ていたが、やがて茶碗へ手を伸ばした。
古い時計だ。
歯車の噛み合わせがずれ、針が動くことくらいある。
そう考えることにした。
「毒島さん」
奥から亜呂の声がする。
「何だ」
「お団子、もう一本いりますか?」
「いらねえ」
「本当に?」
「……一本だけだぞ」
「はい!」
元気な返事が戻ってくる。
毒島は湯気の向こうで目を細めた。
皇都は今日も騒がしい。
時計は壊れ、客は怒鳴り、子どもは物を落とす。
茶屋では娘が勝手に団子を増やす。
少なくとも今のところは、それだけだった。
◇
その頃。
皇都の外れに架かる鉄橋を、蒸気列車が渡っていた。黒煙が青空へ長く伸び、車輪の音が川面に響く。列車は汽笛を鳴らし、皇都駅を目指して進んでいく。
客車の窓際。
旅装の男が、一冊の小冊子を眺めていた。
表紙には、太い文字でこう記されている。
『皇都観光案内』
男の指が、開かれた誌面の一角で止まる。
そこには、小さな茶屋の絵と、串に刺された四色の団子が載っていた。脇には、白詰草の髪飾りをつけた娘が、明るく笑っている。
男は団子の絵をしばらく眺めた。
それから小冊子を閉じ、窓の外へ目を向ける。
遠くに、皇都の町並みが見え始めていた。
列車が、もう一度汽笛を鳴らす。
旅人を乗せたまま、蒸気と祈りの都へと
近づいていった。
第一話 了




