邂逅編 第七話【時計師、次の刻を作る】
「次の刻へ進めるぞ」
毒島の声が、地下機関室へ響いた。
巨大な測定機の針は、あの夕刻を示す位置で震えている。
歯車の間へ噛ませた留め具が、本来なら針を元へ戻す機構を、辛うじて押さえていた。
きし。
きし。
金属の軋む音が、四人の足元から伝わってくる。
「どれくらい持ちそう?」
羅馬が尋ねた。
「知らん」
「またそれ?」
「壊れる時が分かるなら苦労しねえ」
「時計師なのに?」
「こいつは時計じゃねえと、さっきから言ってるだろ」
「見た目は時計だけどね」
「お前まで家と同じ勘違いをするな」
毒島は工具箱を引き寄せた。
中から細い金属棒、ばね、留め具、小さな歯車を
取り出す。そして、その脇へ置いていた木製の風車を手に取った。
羽根の一枚が欠けている。
軸も歪んでいた。
「それを使うの?」
羅馬が聞く。
「壊しはしねえ」
毒島は風車の軸へ、細い金具を取りつけた。
「こいつは、あの子の記憶とつながってる。地脈へ働きかけるなら、使えるかもしれねえ」
「風車で測定機を動かすんじゃないの?」
「こんな小せえ風車一つで、あれが動くわけねえだろ」
「じゃあ、何のために?」
「お前の音を、こいつに拾わせる」
毒島は風車を軽く回した。
歪んだ軸が、かすかな音を立てる。
「お前の音を風車へ伝える。風車の振動を歯車へ渡す。測定機が地脈の変化を拾うための、きっかけにするんだ」
「なるほど」
「分かったのか」
「なんとなく」
「分かってねえな」
毒島は羅馬の楽器を見る。
「予備の弦はあるか」
「あるけど」
「一本寄越せ」
「切っていいか聞かないの?」
「聞く前に出せ」
「僕の物なんだけどな」
そう言いながらも、羅馬は荷物から細い弦を取り出した。
毒島は受け取ると、風車の軸と小歯車を結んだ。
弦が風車の振動を伝え、ばねがその力を一度だけ針へ渡す仕掛けだった。
亜呂が手元を覗き込む。
「それで、測定機が直るんですか?」
「直りゃしねえ」
毒島は金具を締めた。
「そもそも、こいつは壊れてねえ。本来なら戻る針を、一度だけ次の目盛りへ渡す」
「一度だけ?」
「ああ」
毒島は三人を見る。
「俺が、針が戻らねえように機構を支える。だが、その間に二人を会わせなきゃ意味がねえ」
羅馬は楽器を抱え直した。
「子どもの歌に、続きを作ればいいんだね」
「途中で止めるな」
「分かった」
毒島は涅央を見る。
「父親を戸口まで連れてこい」
「私が父親になるのではなく?」
「お前が代わりに出てきたら意味がねえだろ」
涅央は静かに頷いた。
「本人に歩いてもらいます」
毒島は最後に亜呂を見る。
「子どもの道を照らせ」
「はい」
「一つでも火が消えりゃ、道そのものが消えるかもしれねえ」
亜呂は胸元へ神火を引き寄せた。
「消しません」
毒島は巨大な測定機を見上げた。
「一度動かせば、何が起きるか分からん」
「親子の魂が消えるかもしれない」
羅馬が言う。
「家もな」
「僕たちも?」
「帰り道ごと消えるかもしれねえ」
羅馬は少し考えた。
「失敗したら、明日の団子代は毒島さん持ちで」
「帰れたらな」
「じゃあ、帰る理由が増えた」
「団子くらいで命を張るな」
「毒島さんは時計で張ってるじゃない」
「測定機だ」
「そこ、大事なんだね」
「一緒にするな」
亜呂が思わず笑った。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
毒島はそれを確かめるように一度だけ息を吐き、工具を握った。
「始めるぞ」
◇
羅馬が弦へ指を置いた。
子どもの鼻歌。
何度も聞いた、短い旋律。
最初の音を奏でる。
ぽろん。
地下機関室の煉瓦壁へ、夕暮れの道が重なった。
子どもが走っている。
板塀。
崩れた地面。
白い蒸気。
同じ場所を、何度も繰り返している。
「帰らなくちゃ」
子どもは息を切らす。
「父ちゃんが待ってる」
亜呂は道の端へ膝をついた。
両手を重ね、神火を灯す。
桜色の炎を一つ、地面へ置いた。
火は小さな灯籠のように、その場へ残る。
もう一つ。
さらに一つ。
塞がれた路地の脇。
崩れた石の上。
失われた道の代わりに、火の道が少しずつ伸びていく。
子どもが立ち止まった。
「この道……知らない」
亜呂の姿は、子どもには見えていない。
それでも亜呂は、優しく語りかけた。
「大丈夫です」
もう一つ、火を置く。
「帰る場所まで続いています」
子どもは桜色の炎を見る。
手には、欠ける前の風車。
「本当に?」
「はい」
亜呂は微笑んだ。
「あなたが帰るまで、消えません」
子どもは火の道へ足を踏み出した。
◇
涅央は父親の家へ入った。
食卓。
二つの椀。
竈の火。
父親は、いつもの場所へ座っている。
「遅いな」
子どもの椀を見る。
「道草でもしているのか」
涅央は父親の向かいへ座った。
「迎えに行くのでしょう」
父親は反応しない。
「もうすぐ帰る」
「いいえ」
涅央は静かに首を横へ振った。
「あなたは、迎えに行こうとしていた」
父親は戸口を見る。
鐘が鳴る。
「もう暗くなるというのに」
「だから、立ち上がった」
「迎えに行けばよかった」
「まだ行けます」
父親が上着へ手を伸ばす。
地下の針が戻ろうとする。
夕日の色が明るくなり始める。
「遅いな」
父親の姿が、食卓へ戻りかけた。
涅央は立ち上がる。
「その台詞は、もう終わりです」
父親の輪郭が揺れる。
「遅いな」
「いいえ」
「道草でも――」
「次は、あなたが言ってください」
涅央は戸口を指した。
「待つための台詞ではなく、迎えに行くための台詞を」
父親は、初めて涅央を見た
顔はまだ影に隠れている。
「私は……」
針が再び戻ろうとする。
涅央の声へ、父親の声が重なった。
「迎えに行かなくては」
涅央は首を横へ振る。
「その言葉を言うのは、私ではありません」
二つの声が、ゆっくりと離れていく。
やがて、父親の声だけが残った。
「迎えに行く」
男は自分の意思で立ち上がった。
上着を取り、戸口へ向かう。
◇
「来るぞ!」
毒島が叫んだ。
地下深くで、地脈の流れが強まる。
それを拾った測定機の歯車が、激しく回り始めた。
針が前へ進む。
だが次の瞬間、地脈の流れが引いた。
本来の動きに従い、歯車群が反対へ噛み合う。
針が元の目盛りへ戻ろうとする。
毒島は戻り側の歯車へ仮の歯車を差し込み、金属棒を押した。
ばねが縮む。
「羅馬!」
「分かってる!」
羅馬は演奏を続ける。
まずは、子どもの鼻歌をそのまま繰り返す。
道と記憶を、途切れさせないために。
子どもは神火の道を走っていた。
一つ目の火を越える。
二つ目。
三つ目。
その背後で、道が崩れていく。
「また置いていくのか」
羅馬の耳元で声がした。
これまで旅先で背中に残してきた、人々の声。
「帰ってこないんだね」
「また来るって言ったのに」
羅馬の指が、わずかに止まりかける。
弦の音が揺れた。
子どもの前で、神火が一つ消える。
「羅馬さん!」
亜呂が振り返る。
羅馬は目を閉じた。
「今度は……」
もう一度、弦を鳴らす。
「今度は、帰すために弾いてる」
音が力を取り戻した。
消えた神火が再び灯る。
子どもは走り続ける。
◇
父親は戸口へ向かっていた。
だが、食卓の後ろから無数の声が聞こえる。
「もう一度」
「遅いな」
「もうすぐ帰る」
「もう一度」
涅央の足元へ、台本が現れる。
同じ台詞だけが書かれている。
――もうすぐ帰ってくる。
父親の姿が、涅央へ重なり始めた。
腕。
声。
歩き方。
男の記憶が、涅央の中へ流れ込んでくる。
「もう一度」
涅央は台本を拾わなかった。
「これは、あなたの台詞です」
父親を見る。
「私が代わりに生きることはできません」
男の記憶を拒まない。
しかし、飲み込まれもしない。
「戸を開けるのは、あなたです」
父親の姿が、涅央から離れた。
男は自分の手で、戸へ触れる。
◇
亜呂の神火が、冷たく細くなった。
針が戻ろうとするたび、地下機関室を逆巻く風が神火を消していく。
並べた炎が、一つずつ失われていった。
子どもは立ち止まった。
道の先は暗い。
「家が見えない」
亜呂は両手で、最後の火を包む。
炎は今にも消えそうだった。
「ここにいます」
自分へ言い聞かせるのではない。
暗い道を走る子どもへ。
「あなたが帰るまで、私はここにいます」
火が揺れる。
「だから、消えません」
桜色の光が強くなる。
一つ。
また一つ。
消えた神火が、道の先へ戻っていく。
遠くに、家の灯りが見えた。
子どもの顔が明るくなる。
「父ちゃんの家だ」
「行ってください」
亜呂は涙を堪えながら笑った。
「もう少しです」
◇
巨大な測定機の内部から、声が響いた。
「直せるんでしょう?」
毒島の手が止まる。
「時計屋さんでしょう?」
歯車の奥へ、無数の壊れた時計が浮かび上がる。
動かない針。
欠けた歯。
切れたぜんまい。
直せなかった時計を抱えた人々の影が、歯車の奥に浮かんでいた。
「直せないんですか?」
「どうして直してくれないんです?」
「時計屋さんでしょう?」
過去の声が、歯車の音へ重なる。
毒島は工具を握り直した。
「黙ってろ」
戻り側の歯車を押さえる。
「今やってる」
工具が軋む。
金属棒が曲がる。
測定機の針が、次の目盛りへ近づく。
しかし、元へ戻ろうとする力はさらに強くなった。
毒島の足元が滑る。
「毒島さん!」
「持ち場を離れるな!」
亜呂を制し、毒島は肩で歯車を押した。
風車へ結んだ弦が震える。
風車の羽根が回った。
羅馬の音を受けて。
亜呂の火に照らされて。
涅央が引き出した父親の意志と重なって。
欠けた風車が全てを次の刻へつなごうとしていた。
「今だ!」
毒島が叫んだ。
◇
羅馬が奏でていた旋律が、
いつもの終わりへ近づく。
これまでは、そこで途切れていた。
そして再び、最初の音へ戻っていた。
だが、羅馬の指は戻らなかった。
子どもの歌が知らなかった、その先へ。
まだ誰も聞いたことのない音を、一つ重ねる。
ぽろん。
羅馬の周囲を風が巡った。
風は風車を回し、弦を震わせ、小歯車へ伝わる。
青い天礎石が一斉に光った。
地下深くを巡る地脈が、新しい拍子へ応える。
どくん。
大地の脈が、一度だけ強く打った。
亜呂の神火が、家まで一本の道を作る。
涅央の前で、父親が戸を開ける。
子どもが走る。
父親も外へ踏み出す。
測定機の針が、次の目盛りへ進む。
途中で止まる。
戻ろうとする。
「行け……!」
毒島は歯を食いしばった。
ばねが弾ける。
金属棒が折れる。
戻り側の歯車へ噛ませた留め具が、激しく軋む。
天礎石へ亀裂が走った。
青い光が地下機関室を満たす。
針が、ほんのわずかに前へ動く。
あと半分。
あと一息。
子どもの前で、最後の神火が揺れた。
父親が手を伸ばす。
「父ちゃん!」
「ここにいる!」
毒島は最後の力で歯車を押した。
かちり。
針が、次の目盛りへ届いた。
すべての音が止まった。
蒸気も。
歯車も。
鐘も。
鼻歌も。
◇
夕暮れの道と、父親の家が重なっていた。
戸口に男が立っている。
道の向こうに、子どもがいる。
二人は互いを見つめたまま、すぐには動かなかった。
長い間、父親は待ち続けた。
子どもは帰り続けた。
あまりにも長く離れていたため、本当に会えたことを理解できないようだった。
子どもが一歩近づく。
手の中には、小さな風車。
「遅くなって……ごめんなさい」
父親の肩が震えた。
子どもの前へ膝をつく。
手を伸ばし、小さな体を抱き締める。
「お帰り」
子どもは父親の胸へ顔を埋めた。
「ただいま」
風車が、二人の間でゆっくりと回った。
◇
空が変わり始めた。
沈みかけていた夕日が消える。
しかし、夜にはならない。
地平の向こうから、柔らかな光が差し込んでくる。
この家に、初めて朝が訪れた。
父親は子どもの手を取り、四人を見る。
今度は涅央を通さず、その声が全員へ届いた。
「ありがとう」
亜呂は涙を拭いながら、首を横へ振った。
「会えて、よかったです」
子どもは羅馬を見る。
「その歌、知ってる」
羅馬は楽器を抱え、小さく笑った。
「君が教えてくれたんだよ」
「そうなの?」
「うん。いい歌だった」
子どもは少し誇らしそうに笑った。
そして、亜呂の神火へ手を近づける。
「あったかい」
「帰る道の火です」
「もう、迷わない?」
「はい」
亜呂は頷いた。
「今度は、お父さんと一緒ですから」
父親と子どもは、朝の光へ向かって歩き出した。
家の外には、もう古い町も、塞がれた路地もない。
白く穏やかな道が続いている。
子どもが一度だけ振り返り、手を振る。
父親も、深く頭を下げた。
二人は朝の中へ消えていった。
◇
ごうん。
巨大な測定機が、最後に一度だけ鳴った。
文字盤へ亀裂が走る。
「崩れるぞ!」
毒島が工具箱を掴んだ。
煉瓦壁から砂が落ち、蒸気管が次々に停止する。
歯車は外れるのではなく、一つずつ、ゆっくりと動きを止めていった。
四人は階段へ走る。
食卓の部屋へ戻ると、椀は空になっていた。
竈の火も消えている。
父親の影はない。
子どもの鼻歌も聞こえない。
「戸は!」
毒島が叫ぶ。
羅馬が入口の戸へ手をかけた。
開く。
今度は廊下ではない。
夕暮れの路地が見えた。
「外だ!」
四人が戸を抜ける。
最後に羅馬が振り返った。
古びた家。
灯りの消えた窓。
戸口の前に、小さな風車が置かれている。
風もないのに、羽根が一度だけ回った。
「これは……」
羅馬が手を伸ばす前に、毒島が拾い上げた。
「預かる」
「持って帰っていいの?」
「置いていったんだろ」
「誰が?」
「さあな」
毒島は風車を工具箱へ入れず、手に持った。
「勝手に直すなよ」
羅馬が言う。
「俺の仕事だ」
「その子の物だよ」
「だから、預かると言った」
四人が路地を出た直後、背後で戸が静かに閉じた。
振り返る。
家は消えていた。
そこには、工場の煉瓦壁があるだけだった。
◇
皇都の鐘が鳴った。
一打。
毒島は懐から、自分の時計を取り出した。
秒針が一目盛り進む。
戻らない。
また一目盛り。
いつも通り、先へ進んでいく。
亜呂の神火は、いつもの桜色へ戻っていた。
涅央は耳を澄ませる。
「もう、聞こえません」
羅馬も静かに目を閉じた。
「歌も」
寂しさはあった。
けれど、あの二人が消えたのではないことを、四人は知っている。
待つ夕暮れを越えたのだ。
「あの家はどうなったんでしょう」
亜呂が尋ねた。
毒島は、手の中の風車を見る。
羽根は欠けたまま。
軸も歪んでいる。
それでも先ほど、確かに回った。
「消えてはないかもな」
毒島は歩き出す。
「ひとまずは、休んだらいいんじゃねえか」
◇
翌日。
みつば茶屋のいつもの卓には、四人が座っていた。
羅馬の前には四色団子。
毒島は茶を飲み、涅央は窓際で扇を広げている。
亜呂が新しい湯呑みを運んできた。
「妹、お茶をお願いします」
「それ、まだ続いていたんですか?」
涅央は涼しい顔をしている。
「事件は終わりましたよ」
「だからこそ、家族の絆を大切にしようかと」
「勝手に家族を増やさないでください」
毒島が団子を一本取った。
「昨日の異議を聞くんじゃなかったのか」
「異議は却下しました」
「聞く前に?」
「兄の権限です」
「そんな権限ありません」
羅馬が笑う。
「仲良さそうだね」
「どこをどう見たら、そうなる」
毒島が言う。
「今のやり取り」
「お前の目は当てにならんな」
茶屋に笑い声が広がる。
亜呂は、羅馬の前へ団子をもう一本置いた。
「これは?」
「昨日、ちゃんと帰ってこられたので」
「帰ってきたご褒美?」
「そういうことにしておきます」
羅馬は団子を手に取る。
「じゃあ、帰ってきてよかった」
何気ない一言だった。
亜呂は少しだけ目を伏せる。
「羅馬さんは、これからどこへ行くんですか?」
羅馬は卓上の『皇都観光案内』を開いた。
まだ印をつけていない場所が、いくつも残っている。
「もう少し、皇都を見てからかな」
「団子食ってるだけだろ」
毒島が言う。
「それも観光だよ」
「毎日同じ場所で観光する奴があるか」
「気に入った場所は、何度見てもいいんじゃない?」
亜呂は羅馬を見る。
「では、また来てくださいね」
羅馬は、初めてここを訪れた日と同じように笑った。
「うん。また来るよ」
今度の言葉は、風のように軽かった。
けれど、嘘ではなかった。
◇
数か月が過ぎた。
羅馬が再び旅へ出てから、皇都には夏が訪れていた。
みつば茶屋の軒先では風鈴が鳴り、開け放たれた窓から、白詰橋を行き交う人々の声が聞こえてくる。
いつもの卓には、毒島と涅央、ご隠居が座っていた。
卓上には四色団子。
一つだけ、誰も座っていない席がある。
毒島は団子を一本取り、窓の外を眺めた。
「今頃、あいつ、どこで何してるんだろうな」
亜呂は湯呑みを置く手を、ほんの一瞬だけ止めた。
「きっと、どこかで歌っていますよ」
そう言って微笑んだものの、その声にはわずかな寂しさが混じっていた。
涅央はそんな亜呂を見て、穏やかに笑う。
「心配しなくても、またひょっこり戻ってくるよ。団子を食べにね」
「そうですね」
亜呂は空いている席を見た。
「また来るよって、言っていましたものね」
先ほどよりも少しだけ明るい声だった。
毒島が団子を頬張りながら、にやりと笑う。
「おいおい。さては、あいつに惚れちまったか?」
「な、何を言ってるの! そんなんじゃ……」
亜呂の顔が、一瞬で真っ赤になった。
「ほっほ。若いっちゅうのは、いいものじゃのう」
ご隠居まで、からかうように笑う。
「ご隠居まで……ただ、無事ならいいなって思っただけで……」
亜呂は耳まで赤くして、逃げるように厨房へ隠れてしまった。
毒島たちの笑い声が、夏の茶屋に広がる。
厨房の奥で、亜呂はそっと窓の外を見た。
青い空。
白詰橋。
賑やかな皇都の町。
羅馬がどこにいるのかは分からない。
次に、いつ会えるのかも。
それでも、あの人は言った。
また来るよ、と。
「……でも、絶対に帰ってきてくださいね」
小さな声は、誰にも聞こえなかった。
そのとき。
開けた窓から、夏の風がふわりと吹き込んだ。
風は亜呂の頬を優しく撫で、道端に咲いていた白詰草の花びらを空へ舞い上げる。
亜呂は目を細めた。
遠いどこかで、弦が一度だけ鳴ったような気がした。
序章 邂逅編 了




