青龍編 第六話 『ベクトル』
青龍編
第六話 『ベクトル』
毒島が、その一文に目を留めたのは。
神興区の火災から、二日後のことだった。
机の上には、一冊の記録が置かれている。
百地から渡された、先日の住宅火災についての報告書だった。
怪異の関与が疑われる事案については、警邏隊と白詰草同盟の間でも必要に応じて情報が共有される。
今回の火災はすでに通常火災と判断されていたが、現場で羅馬が力を使ったことから、その部分について百地が写しを持ってきたのだ。
出火原因。
煮炊きの際の不注意。
焼損家屋、一棟。
怪異の気配、なし。
負傷者、なし。
児童一名を黒葛原ましろ副隊長が救出。
そこまでは。
毒島も、大して気にせず読み進めていた。
「……ん?」
指が止まる。
救助活動中の記録。
――羅馬の介入後、黒煙の流出方向が変化。
「…………」
その下。
――火勢に顕著な変化なし。
毒島は紙を持ち上げた。
もう一度読む。
煙の流れる方向が変わった。
だが。
炎は、ほとんど煽られていない。
「……変だな」
毒島は窓の外へ目を向けた。
工房の煙突から吐き出された白煙が、風を受けてゆっくりと横へ流れている。
風が吹けば、煙が流れる。
当たり前だ。
そして風が強くなれば。
煙は速く流れる。
布は大きく揺れ。
炎も強く傾く。
だが、報告ではそうなっていない。
「……本人に聞く前に」
毒島は立ち上がった。
「現場にいた奴だな」
◇
「はい。間違いありません」
警邏隊詰所。
毒島の問いに、ましろは頷いた。
「煙の流れが変わった時、火は?」
「ほとんど変わっていませんでした」
「風が急に強くなった感じは?」
「少なくとも、私にはありませんでした」
「煙の流れる速さは?」
ましろが少し考える。
「……急に吹き飛ばされた、という感じではありません」
「じゃあ?」
「向きが変わったんです」
毒島の目が僅かに細くなる。
「向きだけ?」
「そう見えました」
「中にいて分かったのか?」
「はい」
ましろは答える。
「煙が薄くなった時、炎の音や熱気が急に強まったような感覚はありませんでした。それに、隊士の話でも周囲の火勢に大きな変化はなかったそうです」
「なるほど」
毒島が顎へ手を当てる。
「ただ」
「ん?」
「煙が消えたわけではありません」
ましろは続けた。
「空き地の方へ流れていったんです」
毒島の指が止まった。
「……消したんじゃねえ」
「はい」
「流した」
「そう見えました」
「…………」
毒島は小さく息を吐いた。
「なるほどな」
「あの、毒島さん」
「なんだ」
「羅馬さんの力について調べているんですか?」
「まあな」
毒島は報告書を丸める。
「まだ何も分かっちゃいねえけど」
「……そうですか」
「そんな顔すんな」
「え?」
「別に、あいつを犯人に仕立てようってんじゃねえよ」
ましろが少しだけ目を見開く。
「むしろ逆だ」
毒島は背を向けた。
「何やってるか分かんねえから、好き勝手言われんだ」
そのまま詰所を出ていく。
ましろはしばらく、その背中を見送っていた。
◇
「羅馬」
「ん?」
「ちょっと来い」
その日の午後。
ひぐらしの店先。
羅馬は、ちょうど団子へ手を伸ばしたところだった。
「何?」
「実験する」
羅馬の手が止まった。
「嫌な響きだなあ」
「痛えことはしねえ」
「信用していい?」
「今回はな」
「今回はって言ったよね?」
「いいから来い」
羅馬は団子を見る。
毒島を見る。
もう一度、団子を見る。
「……あと一個だけ」
「駄目だ」
「なんで」
「お前、一個っつって二個食うだろ」
「信用ないなあ」
横で亜呂が小さく笑った。
「取っておきますよ」
羅馬が振り返る。
「ほんと?」
「はい」
「じゃあ行く」
「団子で動くな、お前は」
「大事なんだよ」
◇
毒島の工房には、すでに百地がいた。
「こんにちは、羅馬殿」
「あれ。百地さんもいる」
「本日は記録係です」
「まだ俺の調査、続いてるんだ」
「はい」
「そこは濁さないんだね」
「濁す理由がありませんので」
「相変わらずだなあ」
毒島が机を叩いた。
「始めるぞ」
机の中央には、小さな香炉。
そこから細い煙が立ち上っている。
その左右には、細い糸から吊るされた軽い羽根が数枚。
少し離れた場所には、小さな紙旗。
羽根も紙旗も、ごく僅かに同じ方向へ傾いていた。
「何するの?」
「簡単だ」
毒島が羽根を指す。
「今、この部屋にはごく弱い空気の流れがある」
羅馬が羽根を見る。
「うん」
「煙も同じ方向へ流れてる」
「うん」
「これを反対へ向けろ」
「風を?」
「違う」
「またそれ?」
「風を強くしろとも、新しく起こせとも言ってねえ」
毒島は煙を指した。
「今ある流れを、反対へ向けろ」
羅馬は首を傾げる。
「……まあ、やってみる」
《風見鶏の和音》へ手を添える。
弦が、小さく鳴った。
――ン。
煙が揺れる。
ゆっくりと。
今までとは反対の方向へ曲がり始めた。
同時に。
吊るされた羽根が、一枚。
また一枚。
静かに向きを変える。
紙旗も、反対側へなびいた。
毒島は黙って見ていた。
「……そのまま」
「うん」
羅馬が弦へ指を置いたまま待つ。
毒島は羽根へ目を近づけた。
向きは変わった。
だが。
羽根の傾き方は、先ほどとほとんど変わっていない。
「百地」
「はい」
「記録」
百地が筆を走らせる。
「流れる方向、反転」
「速さは?」
百地も羽根と紙旗を確認する。
「大きな変化は確認できません」
「だよな」
毒島が言う。
「羅馬。今度は右だ」
「右?」
「そうだ」
再び弦が鳴る。
煙。
羽根。
紙旗。
すべてが、ゆっくり右を向く。
大きくはためくわけではない。
煙が勢いよく吹き飛ばされるわけでもない。
ただ。
流れる方向だけが変わった。
「止めろ」
羅馬が指を離す。
すぐには戻らない。
少しの間、右へ流れ続け。
やがてゆっくりと、元の空気の流れへ馴染んでいった。
毒島は黙っている。
「……何?」
羅馬が聞いた。
「もう一回」
「まだやるの?」
「最後だ」
「ほんと?」
「多分な」
「多分なんだ」
◇
三度目の実験を終えると。
毒島は一枚の紙を机へ置いた。
一本の矢印を描く。
「羅馬」
「うん」
「ベクトルって知ってるか?」
「知らない」
「即答だな」
「知らないものは知らないよ」
「……まあいい」
毒島は矢印を指した。
「難しく考えんな」
羅馬が紙を覗き込む。
「流れってのは、二つの要素で見りゃいい」
「二つ?」
「どれくらい速く流れてるか」
毒島は矢印の長さを指す。
「それと」
今度は、その先端。
「どっちへ流れてるか」
「速さと向き?」
「そうだ」
毒島は、その隣へ同じ長さの矢印を一本描いた。
ただし。
向きだけが違う。
「この矢印で、その二つをまとめて表す。ベクトルってのは、まあ、そういうもんだ」
羅馬は紙を見る。
「矢印?」
「今はそれでいい」
「最初から矢印って言えばいいのに」
「専門用語には意味があんだよ」
「ふうん」
「分かってねえだろ」
「矢印なのは分かった」
「……もうそれでいい」
毒島は額を押さえた。
「で、今日の実験だ」
最初の矢印を指す。
「これが、お前が何もしてねえ時の空気の流れだとする」
次。
同じ長さで、方向だけ違う矢印。
「こっちが、お前が弄った後」
「うん」
「速さは、ほとんど変わってねえ」
「でも向きが違う」
「そうだ」
毒島の指が、矢印の先端へ移る。
「変わったのは、こっちだ」
「向き」
「ああ」
百地の筆が止まる。
毒島は羅馬を見る。
「お前、さっき何考えてた?」
「何って?」
「右へ向けた時だ」
「右へ流れればいいなって」
「風を起こそうとは?」
「別に」
「もっと速く流そうとは?」
「それも考えてないよ」
「……やっぱりか」
毒島は腕を組んだ。
「少なくとも、今まで俺たちが考えてたみてえに、ただ風を起こしてるだけじゃ説明がつかねえ」
「じゃあ何してるの?」
「流れの向きを変えてる」
羅馬が紙の矢印を見る。
「流す方向を変えてるってこと?」
「今んところは、そう見える」
「ふうん」
「“ふうん”じゃねえよ」
「いや、俺は今まで普通にやってたから」
「そこが面倒なんだよ!」
「俺のせい?」
「半分くらいな」
「残り半分は?」
「青龍」
「本人いないのに悪者にされてる」
「お前の中にいるだろ」
「そうだけどさ」
◇
「一つ、よろしいですか」
百地が筆を置いた。
「何だ」
「今回の実験で、確実に言えることはどこまででしょう」
毒島が百地を見る。
「……慎重だな」
「それが仕事ですので」
「嫌いじゃねえよ、そういうの」
毒島は机の上の記録へ目を落とした。
「まず」
香炉の煙。
羽根。
紙旗。
「羅馬が介入した時、流れの向きは変化した」
「はい」
「一方で、流れる速さには大きな変化が確認できなかった」
「はい」
「少なくとも今日の実験じゃ、羅馬が流れそのものを強めた証拠はねえ」
百地が頷く。
「つまり」
一度、言葉を切る。
「羅馬殿が単純に強い風を加えた、と考えるだけでは説明できない」
「ああ」
「ですが」
百地は続けた。
「それと、羅馬殿が怪異に関与していないことは別ですね」
羅馬が少し首を傾げた。
「流した先で、何か起きるかもしれないってこと?」
毒島が答える。
「可能性ならある」
「なるほど」
羅馬は意外なほど、あっさり頷いた。
「なら、それも調べないとね」
毒島が羅馬を見る。
「……お前」
「何?」
「もうちょっと嫌がれ」
「なんで?」
「自分の力のせいで何か起きてるかもしれねえって話だぞ」
「まだ分かってないんでしょ?」
「まあな」
「じゃあ、分かるように調べればいいじゃん」
「…………」
羅馬は紙の矢印を見る。
「俺が何かしてるなら、知っといた方がいいし」
毒島は暫く黙っていた。
「……そうだな」
「うん」
「だから勝手にどっか行くなよ」
「実験中に?」
「調査してる間だ!」
「そんな急にいなくならないよ」
羅馬は笑った。
毒島は、何も言わなかった。
◇
「もう一点」
百地が口を開く。
「まだあんのか」
「あります」
「言え」
「以前、羅馬殿を観察した際のことです」
羅馬が振り返る。
「あの静かな尾行の時?」
「はい」
「尾行は静かに行うものです」
「静かすぎたんだよ」
「その件についてです」
百地は毒島へ向き直った。
「怪異を前にした際、羅馬殿が意識して力を使うより先に、衣服の裾が動きました」
「ああ」
「羅馬殿は、その時何もしていないと話しています」
「本当にしてないよ」
羅馬も言う。
百地は続ける。
「白虎様は、四神の力が加護を受ける本人の意思とは無関係に働く場合があると仰っていました」
「……」
「この現象も、同じ可能性を考慮すべきでしょうか」
毒島は腕を組んだ。
暫く。
何も言わない。
「……同じものとして扱わねえ方がいいかもしれねえな」
百地が僅かに首を傾げる。
「と、申しますと?」
「今日やったのは、羅馬が“右へ流れろ”って意識してやった」
「うん」
羅馬が頷く。
「けど、百地が見たのは違う」
「はい」
「羅馬が何もしてねえのに、何かが起きた」
毒島は紙へ二本の線を引く。
「本人が意識して起こした現象」
一本。
「本人の意思と関係なく起きた可能性がある現象」
もう一本。
「別々に記録する?」
羅馬が尋ねる。
「当面はな」
「当面」
「あくまで仮説だ」
毒島は紙を指で叩いた。
「同じ仕組みかもしれねえし、まったく別のことかもしれねえ」
「俺の中って、結構ややこしいんだね」
「今さら気づいたのか」
「俺はもうちょっと単純だと思ってた」
「本人だけはな」
「失礼だなあ」
◇
「ところで」
羅馬が立ち上がった。
「もう終わり?」
「ああ」
「じゃあ団子食べてくる」
「お前、今の話聞いてたか?」
「聞いてたよ」
「結構大事な話だったぞ」
「分かってる」
羅馬は《風見鶏の和音》を肩へ掛けた。
「だから毒島が調べるんでしょ?」
毒島の動きが、一瞬止まる。
「……お前も考えろ」
「考えてるって」
「団子のことじゃねえぞ」
「それも考えてる」
「帰れ!」
「はいはい」
羅馬は笑いながら工房を出ていった。
扉が閉まる。
暫くして。
百地が言った。
「随分と信頼されていますね」
「誰が」
「羅馬殿が、毒島殿を」
「……知らねえよ」
「そうですか」
「その顔やめろ」
「どの顔でしょう」
「その顔だよ」
◇
夜。
工房には、毒島一人が残っていた。
机の上には。
火災報告。
百地の観察記録。
そして、今日の実験結果。
毒島は紙へ書き込んでいく。
流れの速さ――大きな変化なし。
流れる方向――明確な変化あり。
再現性――三度確認。
「……」
机の上には、何本もの矢印が並んでいた。
長さはほとんど同じ。
違うのは、向きだけ。
毒島は、その下へ書き込む。
――青龍作用仮説。
――流向干渉。
「……仮、だな」
鉛筆を置きかける。
そして。
止まった。
「……待てよ」
もう一度、矢印を見る。
今日、動いたもの。
煙。
羽根。
紙旗。
すべて、空気の流れに従っていた。
なら。
あの日。
百地が見た。
羅馬が何もしていなかった時に動いた、衣服の裾。
そして。
古い水路で、白虎が口にした言葉。
――ずっと留まってたものが、急に押し出されたみたい。
「…………」
毒島は鉛筆を取り直した。
紙の余白へ、一つの問いを書く。
――羅馬が向きを変えているものは、そもそも何だ?
風。
それだけなのか。
煙を運ぶ空気。
それだけなのか。
もし。
それ以外のものにも。
同じように“向き”があるのだとしたら。
「……分かんねえな」
答えはない。
窓の外。
夜の皇都では、幾本もの煙突から立ち上った煙が、風を受けて静かに流れていた。




