↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
からくり道中浪漫譚―白詰草異聞―  作者: ロマリアス
青龍編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/35

青龍編 第七話 『白兎』

第七話 白兎


 その噂が仁虎の耳に入ったのは、朝のことだった。

「……仁虎組から、ですかい?」

 商人の男は、困り果てたように何度もうなずいた。

「へ、へえ。そう名乗っておりました。若い衆が三人ほどで……この辺りを守ってやっているんだから、月々これだけ払え、と」

 差し出された紙には、金額が書かれている。

 決して払えない額ではない。

 だが、一度払えば終わる額でもない。

 仁虎は紙を見たまま、黙っていた。

 横にいた若い衆が声を荒らげる。

「親分! 俺らじゃありませんぜ!」

「分かってる」

 低い一言だった。

 それだけで、若い衆は口を閉じた。

 商人がおそるおそる続ける。

「断った店は、品物を壊されたとも聞きました。しかも……」

「何だ」

「その……必ず仁虎親分の名を出すそうで」

 仁虎の眉が、わずかに動いた。

 金が欲しいだけなら、名前など何でもいい。

 むしろ偽名を使った方が足はつかない。

 それなのに。

 わざわざ仁虎組を名乗る。

 わざわざ仁虎の名を残す。

「……何軒だ」

「私が知っているだけで、四軒ほど」

 仁虎はしばらく考えてから、顔を上げた。

「分かった。もう払う必要はねえ」

「しかし……」

「俺がそう言った」

 商人は目を瞬かせた。

 やがて、深く頭を下げる。

「……ありがとうございます」

 男が帰ったあと。

 仁虎は腕を組んだまま、部屋の隅へ目を向けた。

「宇佐美(うさみ)」

「はいはい」

 柱にもたれていた少女が、面倒そうに顔を上げた。

「調べればいいんでしょ」

「まだ何も言ってねえ」

「その顔で分かるって」

「どんな顔だ」

「面倒事を人に押しつける顔」

「誰が面倒事だ」

「どうでもいいんだけどさ」

 宇佐美は柱から背を離した。

「四軒。場所教えて」

     *

 一軒目。

 二軒目。

 三軒目。

 宇佐美は店主たちの話を聞きながら、ほとんど質問をしなかった。

 男は何人だったか。

 いつ来たか。

 どちらから来て、どちらへ帰ったか。

 何を言ったか。

 どこに立っていたか。

 どちらの手で金を受け取ったか。

 そんなことを、時々ぽつりと尋ねるだけだった。

 四軒目を出たところで、宇佐美は足を止めた。

「……変だな」

 被害に遭った店はいずれも、大通りから一本外れた場所にある。

 人目は少ない。

 だが、客は多い。

 噂が広まるには、ちょうどいい。

「金だけなら、もっと楽な店あるじゃん」

 宇佐美は通りを振り返った。

 三人組の人相は店によって多少違っていた。

 だが、共通することがある。

 仁虎組について、中途半端に詳しい。

 仁虎の名を知っている。

 普段、若い衆がどの辺りを巡回しているかも知っている。

 組の紋まで用意している。

 なのに。

「……うちの人間のことは、ちゃんと知らない」

 宇佐美は口に放り込んだ金平糖を噛んだ。

 かり、と小さな音がした。

「誰かに教わった?」

 その日の夕方。

 宇佐美は、一軒の乾物屋の向かいにいた。

 屋根の上。

 瓦の陰へ身体を伏せている。

 暮れかけた通りへ、三人の男が現れた。

 店へ入る。

 しばらくして、一人だけ出てきた。

 懐が、入る前より僅かに膨らんでいる。

「……見つけた」

 宇佐美が立ち上がる。

 男が角を曲がる。

 宇佐美は屋根を走った。

 音はほとんどない。

 男が振り返る。

 その時にはもう、宇佐美は軒下へ身を隠している。

 また歩き出す。

 宇佐美も動く。

 人の流れ。

 店先。

 荷車。

 道端で話す職人たち。

 そのすべてを使いながら、一定の距離だけは崩さない。

 やがて男は大通りを離れた。

 古い町家が並ぶ一角。

 一軒の空き家らしい建物へ入っていく。

「……そこか」

 宇佐美は屋根の上から、その家を見下ろした。

     *

 月が高くなった頃。

 裏口の前に、宇佐美はしゃがんでいた。

 細い道具を錠へ差し込む。

「……古いな」

 指先をわずかに動かす。

 かちり。

「終わったよ」

 誰も聞いていないのに、小さく呟いた。

 扉を開く。

 中へ入り。

 静かに閉める。

 廊下には灯りがない。

 奥から、男たちの話し声。

 宇佐美は壁際を進む。

 一歩。

 二歩。

 床板の癖を見る。

 踏めば鳴る場所。

 沈む場所。

 古い釘。

 木目。

 そのどれもが、道しるべになる。

 角へ差しかかったところで。

 足音。

「……?」

 宇佐美が止まった。

 予定より早い。

 しかも、一人ではない。

「おい、酒まだ残ってたか?」

「さっきお前が全部飲んだろ」

 男が二人。

 こちらへ来る。

 宇佐美は一度だけ周囲を見た。

 部屋。

 襖。

 天井。

 梁。

 次の瞬間。

 鉤縄が音もなく梁へ掛かる。

 身体を引き上げる。

 二人の男が真下を通った。

「帳面、二階だったよな」

「ああ」

 宇佐美の目が僅かに細くなる。

 二階。

 ――目的と同じ場所。

 二人はそのまま階段を上がっていった。

「……面倒」

 宇佐美は梁の上で呟いた。

 だが、帰らない。

 男たちの足音。

 扉の開く音。

 話し声。

 そして。

 しばらくして、一人が階段を降りてきた。

 もう一人は二階に残った。

「最悪」

 宇佐美は音もなく床へ降りた。

 予定を変える。

 正面から二階へは行けない。

 なら。

 外から行けばいい。

     *

 縁側から裏手へ回る途中。

 古い居間があった。

 部屋の中央に、囲炉裏。

 火は落ちている。

 長い間使われていないのだろう。

 白っぽい灰だけが、静かに積もっていた。

 宇佐美の足が止まる。

「…………」

 灰を見る。

 ほんの一瞬。

 その表情が強張った。

 指先が、僅かに固くなる。

「…………」

 やがて。

 宇佐美は囲炉裏から目を逸らした。

 何も言わない。

 そのまま、裏手へ向かった。

     *

 二階の窓。

 外壁に指を掛け。

 音を立てずに身体を持ち上げる。

 中を見る。

 男が一人。

 机へ向かい、帳面を眺めている。

「……」

 宇佐美は待った。

 男が欠伸をする。

 立つ。

 部屋を出る。

 階段の方へ。

 宇佐美は窓から滑り込んだ。

 机。

 帳面。

 封蝋。

 そして、見覚えのある紋。

「……趣味悪」

 仁虎組の紋を模した印だった。

 よく出来ている。

 遠目なら分からない。

 宇佐美は引き出しを開ける。

 一冊の帳面。

 被害店舗の名前。

 金額。

 日付。

 そして。

 まだ被害に遭っていない店の名前まで並んでいる。

「……やっぱり」

 ページをめくる。

 そこには、金を取ること以上に奇妙な指示が書かれていた。

 ――仁虎組の名を必ず告げること。

 ――拒んだ店には、仁虎の名を残すこと。

 ――人目のある場所では、組の紋を隠さぬこと。

 宇佐美の目が細くなる。

「金じゃない」

 仁虎組がやったと思わせたい。

 仁虎組を恐れさせたい。

 仁虎という男の名を、汚したい。

「……恨みか」

 宇佐美は道具袋から紙を出した。

 必要な箇所だけを写していく。

 あと二行。

 その時。

 階段が鳴った。

「…………」

 足音。

 戻ってくる。

 宇佐美は筆を置いた。

 写しを見る。

 墨が乾いていない。

「……ちょっと待ってよ」

 帳面を元へ戻す。

 引き出し。

 印。

 紙。

 机の上。

 入った時の状態を頭の中で再現する。

 足音が近づく。

 一歩。

 二歩。

 宇佐美は写しを折れない。

 擦れば墨が滲む。

 証拠が読めなくなる。

「……」

 窓を見る。

 まだ間に合う。

 宇佐美は紙を片手に持ったまま、窓枠へ足を掛けた。

 扉が開く。

「ん?」

 男が部屋へ入る。

 机を見る。

 窓を見る。

 閉まっている。

「……気のせいか」

 男は頭を掻いた。

 その外。

 軒下。

 宇佐美は片手だけでぶら下がっていた。

 もう片方の手には。

 乾ききっていない写し。

「…………重」

 小声で呟く。

 墨が乾くまで。

 宇佐美はそのまま耐えた。

     *

 翌朝。

 仁虎の前へ、一枚の紙が置かれた。

「ただの騙りじゃなかった」

 仁虎が紙を取る。

「どういうことだ」

「最初から、仁虎組の評判落とすつもりでやってる」

「証拠は」

「そこ」

「現物は?」

「置いてきた」

 近くにいた若い衆が目を丸くする。

「え? 盗ってこなかったんですかい?」

 宇佐美がそちらを見る。

「なんで?」

「なんでって、証拠なら持って帰った方が……」

「なくなったら逃げるでしょ」

「……あ」

「今なら向こうは、誰にもバレてないと思ってる」

 宇佐美は紙を指で叩いた。

「次に金取りに来たところ押さえて、同時に根城へ入ればいいじゃん。帳簿も偽の印も、全部そこにあるんだから」

 若い衆は黙った。

 仁虎が紙から目を上げる。

「間違いねえか」

「うん」

「全部見たんだな」

「見た」

「そうか」

 それだけだった。

「場所は?」

 宇佐美が答える。

 仁虎はすぐに若い衆へ指示を出した。

 一人が、少しためらう。

「親分。その……念のため、もう一度誰かに確認させますかい?」

 仁虎が振り向いた。

「何をだ」

「いえ、宇佐美が見たってのは分かりますが……」

「こいつが見たっつってんだ」

 仁虎は言った。

「なら間違いねえ」

「…………」

 宇佐美は仁虎を見る。

 仁虎はもう、次の指示を出していた。

 特別なことを言ったつもりなどないらしい。

 宇佐美も、何も言わなかった。

「宇佐美」

「何」

「後は俺らがやる」

「まだ手伝えるけど」

「寝ろ」

「まだ朝なんだけど」

「夜通し動いてただろうが」

「…………」

 宇佐美が自分の顔を触る。

「なんで分かるの」

「顔見りゃ分かる」

「……どうでもいいんだけどさ」

 小さく息を吐く。

「そういうとこだけ、妙に鋭いよね」

「だけって何だ」

 その時だった。

「仁虎くーん」

 奥から声がした。

 白い小さな虎が、廊下の向こうから歩いてくる。

「お腹空いた」

「さっき食っただろ」

「さっきはさっきだよ」

 白虎が部屋へ入り――。

 宇佐美と目が合った。

「…………」

「…………」

 宇佐美がしゃがむ。

「……何?」

「触っていい?」

「いいけど」

 宇佐美の両手が伸びた。

 わしゃわしゃわしゃ。

「わっ! ちょっと!」

「……かわいい」

「宇佐美ちゃん! 僕、白虎だよ!?」

「知ってる」

「神獣だよ!?」

「知ってる知ってる」

 宇佐美が前脚を見る。

「肉球ある?」

「敬ってよ!」

 仁虎が額を押さえた。

     *

 その日の夕方。

 旅籠ひぐらしの食卓には、いつもより少し多く膳が並んでいた。

「あら。宇佐美ちゃん、珍しいわね」

 奏々世が笑う。

「仁虎さんと一緒に来るなんて」

「連れてこられただけ」

「飯食うぞっつったら付いてきただろうが」

「お腹空いてたから」

「はいはい」

 奏々世は楽しそうに宇佐美の前へ膳を置いた。

「今日はたくさん食べてね」

「……どうでもいいんだけどさ」

 宇佐美が膳を見る。

「多くない?」

「夜通しお仕事だったんでしょう?」

「……誰に聞いたの」

 奏々世が首を傾げる。

「聞いてないわよ?」

「じゃあなんで」

「顔を見れば分かるもの」

 宇佐美がゆっくり仁虎を見る。

「何だ」

「同じこと言われた」

「俺と一緒にすんな」

「なんでそっちが嫌そうなのよ」

 向かいから笑い声がした。

 亜呂だった。

「お疲れさまです、宇佐美さん」

「亜呂」

「仁虎さんから聞きました。大変なお仕事だったそうですね」

「大したことじゃないよ」

「でも、一人で入り込んで、誰にも気づかれずに証拠を見つけたんですよね?」

「まあ」

 亜呂の目が少し輝く。

「すごいですね」

「…………」

「どうしたんですか?」

「……どうでもいいんだけどさ」

「はい?」

「亜呂って、そうやって誰でも褒めるの?」

 亜呂は少し考えた。

「いいえ?」

「え」

「本当にすごいと思った時だけです」

「…………」

「だから、すごいです」

「……そう」

 宇佐美は味噌汁へ視線を落とした。

 その耳が少しだけ赤いことには、誰も触れなかった。

「宇佐美ちゃん」

 足元から声。

「ん?」

 白虎が宇佐美の膳を見上げている。

「それ、お肉?」

「そうだけど」

「おいしそうだね」

「…………」

 宇佐美は肉を一切れ取った。

「はい」

「ありがとう!」

「おい」

 仁虎がすぐに気づく。

「やるな。甘やかすな」

「一個くらいいいじゃん」

「さっきも食わせてただろ」

「……一個だけ」

 白虎が言った。

「三個だよ」

「言わなくていいの!」

 亜呂が口元を押さえる。

 奏々世も笑っていた。

「宇佐美って、白虎には優しいんだね」

 羅馬だった。

「は?」

「だって、自分のお肉あげてる」

「余ってたの」

「まだ食べてないのに?」

「…………」

「余ってるかどうか、まだ分からなくない?」

「うるさいな」

「そう?」

「そう!」

 羅馬は不思議そうに首を傾げ、自分の膳へ戻った。

 しばらくして。

 ふと。

 宇佐美の箸が止まる。

 羅馬の膳を見る。

 ご飯はほとんどない。

 味噌汁もない。

 煮物も食べ終わっている。

 なのに。

 焼き魚だけが、ほぼ手つかずで残っていた。

「……羅馬」

「ん?」

「それ嫌いなの?」

「何が?」

「魚」

「好きだよ」

「いや、残ってるじゃん」

「最後に食べるから」

「なんで?」

 羅馬は、少し不思議そうな顔をした。

「一番好きだから」

「…………」

 宇佐美が箸を置いた。

「好きだから最後?」

「うん」

「なんで?」

「最後に一番好きなものを食べたら、いい気分で終われるでしょ」

「…………」

 宇佐美が魚を見る。

 もう湯気は立っていない。

「でもさ」

「うん」

「それ、最初より冷めてるよね」

「…………」

 羅馬も魚を見る。

「……そうだね」

「一番好きなものを」

「うん」

「わざわざ一番冷めた状態まで待って食べてるってこと?」

「…………」

 羅馬は考えた。

 かなり真剣に考えた。

「……確かに」

「馬鹿じゃないの!?」

「そうかも……」

「…………」

 宇佐美の顔が、僅かに曇る。

「……いや、そこで傷つけとは言わないけどさ……」

「別に? 傷ついてはないよ?」

「傷つけ!」

「なんで!?」

 亜呂が吹き出した。

「ふふっ……」

「亜呂、笑ってる場合じゃないから」

「す、すみません」

「羅馬、前からこうなの?」

「はい。ずっとです」

「誰か教えてあげなよ!」

「でも、羅馬さん、いつも嬉しそうだったので……」

「優しさの方向間違ってるでしょ!」

 奏々世が笑いながら茶を注ぐ。

「じゃあ羅馬さん。今日は冷めきる前にいただいたら?」

「そうする」

 羅馬が魚へ箸を伸ばす。

 宇佐美がじっと見る。

「……食べるんだ」

「冷める前に」

「今まで何年そうしてたの?」

「覚えてないなあ」

「人生の無駄じゃん」

「そうかもね」

「だから少しは傷つけって!」

 白虎が下から言う。

「宇佐美ちゃん」

「何」

「なんで羅馬くんに傷ついてほしいの?」

「お前もそっち側か!」

 食卓に笑い声が広がった。

 宇佐美は不満そうに口を尖らせた。

 けれど。

 奏々世に差し出された二杯目の飯は、結局きれいに平らげた。

     *

 夜。

 秘乃湯。

 暖簾はもう下ろされていた。

「……はぁ」

 番台にいた幽解夏が、入口を見る。

「また来たのかい」

「疲れた」

「見りゃ分かるよ」

「じゃあ入れて」

「もう閉店だよ」

「知ってる」

「知ってて来るんだから質が悪いねぇ」

 そう言いながら。

 幽解夏は立ち上がった。

「奥」

「ん?」

「今日は足と肩だろ。薬草変えてある」

「…………」

 宇佐美が幽解夏を見る。

「何だい」

「別に」

「なら早く入りな」

「はいはい」

     *

「はぁぁぁ…………」

 湯船の中。

 宇佐美は肩まで湯に沈んでいた。

 薬草の匂い。

 湯気。

 静かな水音。

「……生き返る」

 夜通し動き回った身体から、ようやく力が抜けていく。

「やっぱ、ここ最高……」

 目を閉じる。

 ちゃぷん。

「…………?」

 宇佐美が目を開いた。

 誰かが入ってくる。

 幽解夏だった。

「――っ!?」

 宇佐美が勢いよく沈む。

「がぼがぼがぼ……!」

「何してんだい」

 宇佐美が顔を出した。

「ち、ちょっと! なんで入ってくるの!」

「んん?」

 幽解夏が面倒そうに眉を上げる。

「あたしが、あたしの店の風呂に入って何が悪いんだい?」

「いや、それは……」

「しかも閉店後だよ」

「う……」

 宇佐美が視線を逸らした。

「それ言われると……」

「文句があるなら営業時間に来な」

「仕事だったの」

「知ったこっちゃないねぇ」

 幽解夏はそう言いながら、少し離れたところへ腰を落ち着けた。

 二人並んで湯に浸かる。

「…………」

「…………」

 宇佐美は妙に落ち着かない。

 一方の幽解夏は、いつも通りだった。

「何だい」

「何が」

「さっきから落ち着きないねぇ」

「別に!」

「そうかい」

 また沈黙。

 湯気が静かに漂う。

 宇佐美は天井を見上げた。

「……ねえ」

「ん?」

「あたしも……大きくなるかな」

 幽解夏が横を見る。

「何が?」

「…………」

 宇佐美が少しだけ固まる。

「……なんでもない」

「何だい、変な娘だねぇ」

「うるさいな……」

 幽解夏が小さく笑った。

 それから、ふと宇佐美を見る。

「あんたが仁虎のところに来てから、もう二年も経つんだねぇ」

「……急に何」

「十五だったろ」

「まあ」

「最初は手のつけられない、跳ねっ返りの生意気娘だったのに」

「ちょっと」

「人の話は聞かない」

「聞いてた」

「聞くだけ」

「…………」

「すぐ噛みつく」

「誰が犬よ」

「そういうところだよ」

「うるさいな……」

 幽解夏は湯船の縁へ頭を預けた。

「それが今じゃ、仁虎の右腕とまで言われるようになるとはねぇ」

 宇佐美が黙る。

「……言われてるだけだよ」

「そうかい?」

「頼まれたことやってるだけ」

「その仕事を任せられるようになったんだろ」

「…………」

「今日だって、また一人で面倒なことやってきた顔してるじゃないか」

「顔で分かるって、今日三人目なんだけど」

「そりゃ分かるよ」

「そんな分かりやすい?」

「分かりやすいねぇ」

「……最悪」

 幽解夏が笑う。

「口では何とでも言えるからねぇ」

「何それ」

「別に」

「絶対なんかあるじゃん」

「知ったこっちゃないねぇ」

「ずる」

 宇佐美は口元まで湯へ沈んだ。

 ぶく、と小さな泡が出る。

 しばらくして。

 幽解夏が言った。

「だから、大きくなったじゃないか」

 宇佐美が顔を上げる。

「……え?」

「あんたがさ」

「…………」

 宇佐美は幽解夏を見る。

「……そっち?」

「何だと思ったんだい」

「なんでもない!」

「変な娘だねぇ」

「うるさい!」

 宇佐美はまた湯へ沈んだ。

 今度は鼻の下まで。

 少しして。

「……幽解夏」

「ん?」

「来週も来ていい?」

「駄目って言ったら?」

「来る」

「じゃあ聞くんじゃないよ」

「……まあ、いいか」

 湯気の向こうで。

 宇佐美が、ほんの少しだけ笑った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。