青龍編 第五話 『めがね熊猫』
青龍編
第五話 『めがね熊猫』
昼下がりの神興区は、いつもと変わらぬ賑わいを見せていた。
軒先からは煮炊きの匂いが漂い、往来では荷車の車輪が石畳を鳴らしている。
「すみません、そこ。もう少し端へ寄せてもらえますか」
黒葛原ましろが、通りの中央で荷下ろしをしていた商人へ声を掛けた。
「あっ、すみません副隊長!」
「人が通れなくなっていますから。荷下ろしが済んだら、すぐお願いしますね」
「へい!」
いつもの巡察。
いつもの町。
そのはずだった。
「――火事だ!」
遠くから声が上がった。
ましろが振り返る。
家々の屋根の向こうから、黒い煙が立ち上っていた。
「凛堂さん!」
「見えてる!」
凛堂が駆け出す。
「全員、行くぞ!」
警邏隊の面々が一斉に後を追った。
◇
燃えていたのは、住宅街の一角にある木造家屋だった。
台所側の壁から炎が這い上がり、すでに軒下へ回り始めている。
「桶を回せ!」
凛堂の声が飛ぶ。
「隣へ燃え移らせるな! 風下の家にも水を掛けろ!」
「はい!」
近隣の者たちも加わり、井戸と火元の間を桶が行き交っていた。
「火元は?」
「台所です! 煮炊きの最中に目を離した隙、近くにあった布へ燃え移ったようです!」
「怪異の気配は?」
「なし!」
「よし、通常火災だ。消火を続けろ!」
泣き崩れている女がいた。
「私が……私が目を離したから……」
傍らの者に支えられながら、燃える家を見上げている。
ましろが駆け寄った。
「中に、まだ誰かいますか?」
女が顔を上げる。
「子どもが……!」
「お子さんが?」
「二階で昼寝をしていて……! 私、台所から火が出て、慌てて外へ出て……それで……!」
女の顔から血の気が引いた。
「私が……あの子を置いて……!」
ましろはその肩へ手を添えた。
「今は、ご自分を責めないでください」
「でも……!」
「お子さんは?」
「七つです……!」
ましろが立ち上がる。
「必ず連れて戻ります」
「ましろ!」
凛堂がこちらを向いた。
「二階に子どもが一人残っています。私が行きます」
凛堂は炎の回り方を見た。
「煙がもう二階へ上がってる。無理はするな」
「はい」
ましろは眼鏡を外し、近くの隊士へ渡した。
「預かってください」
「副隊長!」
口元を布で覆う。
そして迷うことなく、燃える家へ飛び込んだ。
◇
「聞こえますか!」
返事はない。
煙。
ただひたすらに煙だった。
視界がほとんど利かない。
「いたら返事をしてください!」
ぱちぱちと木材が爆ぜる。
炎の唸り。
その向こうから。
「……ごほっ」
ましろが顔を上げた。
「聞こえた……!」
階段を上がる。
二階へ着いた途端、さらに濃い煙が押し寄せた。
「どこですか!」
「……おかあ……さん……」
「大丈夫! 今行きます!」
声は近い。
けれど見えない。
右か。
左か。
手を伸ばしても、煙の向こうには何もない。
「もう一度、声を出してください!」
「……ごほっ……」
「くっ……」
ましろ自身も咳き込んだ。
煙が目に染みる。
あと少し。
声は、すぐそこにあるのに。
◇
「まだ出てこないのか!」
家の外。
凛堂が二階を睨んでいた。
「副隊長、まだ中です!」
「子どももか?」
「はい!」
その時、人垣の後ろから一人の男が顔を出した。
「何があったの?」
肩から《風見鶏の和音》を提げている。
羅馬だった。
「火事だ!」
隊士の一人が答える。
「まだ中に子どもがいる!」
「ましろさんは?」
「救助に入ってる!」
羅馬の表情が変わった。
「……ましろさんが?」
燃える家を見る。
玄関から吐き出される黒煙。
二階の窓からも煙が溢れている。
羅馬は中へ飛び込もうとはしなかった。
代わりに、じっと煙を見た。
流れ。
出口。
周囲の人の位置。
家の反対側には、人のいない空き地がある。
「……あっちなら」
《風見鶏の和音》を抱え直す。
「煙だけ、向こうへ抜ければいい」
指先が弦に触れた。
――ン。
小さな音が鳴った。
風が生まれた――ようには見えなかった。
炎は、ほとんど揺れない。
火勢も変わらない。
なのに。
家を覆っていた黒煙だけが、ゆっくりと横へ引かれていった。
まるで見えない道筋を与えられたように。
人のいる通りを避け、隣家を避け、空き地の方角へ。
「……煙が」
隊士が呟く。
羅馬は何も答えず、弦へ指を添えたまま流れを見ていた。
やがて、指を離す。
小さな響きが消えた。
それでも煙は、すぐには元の流れへ戻らなかった。
しばらくの間。
同じ道筋を辿るように、空き地の方へ流れ続けている。
「……?」
羅馬が、ほんの少しだけ眉を寄せた。
だが。
すぐに燃える家へ視線を戻した。
◇
二階。
「……?」
ましろが顔を上げた。
煙が動いている。
目の前を覆っていた黒が、横へ流れていく。
一瞬。
視界が開いた。
部屋の隅。
小さな影がうずくまっている。
「……いた!」
ましろが駆け寄った。
子どもは床へ伏せ、泣きながら咳き込んでいた。
「大丈夫!」
「……おねえ……ちゃん……」
「もう大丈夫ですよ」
ましろは子どもの身体を確認する。
意識はある。
立たせて歩かせるより、背負った方が早い。
子どもへ背を向けてしゃがんだ。
「お姉ちゃんがお外まで連れていくからね。背中に乗れますか?」
「……うん」
震える身体が背中へ乗る。
「そう。しっかり掴まって――」
だが、子どもは煙でほとんど目を開けられない。
肩を探して伸ばした煤だらけの両手が、
ぺたっ。
ましろの顔を掴んだ。
「わっ!」
「……!」
「そこはお姉ちゃんの顔だよ。もっと腕を肩に回して……」
ましろが子どもの腕を導く。
「そう! しっかり掴まってね!」
「……うん!」
「よし。行くよ!」
立ち上がる。
煙が薄くなった廊下を、出口へ向かって走った。
◇
「出てきた!」
誰かが叫んだ。
炎と煙の向こうから、ましろが姿を現す。
背中には子ども。
「ましろ!」
凛堂が駆け寄った。
「子どもを!」
ましろが膝をつく。
すぐさま隊士が子どもを受け取った。
「救護へ!」
「はい!」
凛堂がましろの前に立つ。
「お前……」
一瞬だけ、言葉が止まった。
煤だらけの顔。
焦げた衣服。
荒い呼吸。
「……怪我は」
「ありません。少し煙を吸っただけです」
「そうか」
凛堂が、ごく小さく息を吐いた。
ほんの一瞬。
それだけだった。
「よくやった」
「……はい」
「今は休め」
すぐに踵を返す。
その途中。
凛堂の視線が止まった。
少し離れたところに、《風見鶏の和音》を抱えた羅馬がいる。
羅馬も視線に気づいた。
凛堂は、ほんの一瞬だけ羅馬を見る。
何も言わない。
そのまま前を向く。
「西側の火を止めろ! 隣家へ回すな!」
再び、隊長代理の声が現場へ響いた。
◇
しばらくして、ようやく火勢が弱まった。
家屋は大きく焼けたが、隣家への延焼は食い止められている。
「隊長代理」
隊士が凛堂のもとへ駆けてくる。
「何だ」
「焼け出された一家ですが……家はもう、住める状態ではありません」
凛堂が焼けた家を見る。
「今夜の宿は?」
「それなら手配できます。食事と着替えも。ただ、その後の住居については……」
「分かってる」
凛堂は即答した。
「まず今夜の寝床を確保しろ。食事と着替えもだ」
「はい」
「その先は、俺が上と掛け合う」
隊士が少し驚く。
「住居の支援を、ですか?」
「家が焼けたからって、明日から勝手に生きろじゃ話にならんだろ」
「……承知しました」
隊士が頷く。
「あとは……母親ですが」
少し離れたところ。
母親は救護を受ける子どもの傍らに座り、何度もその手を握っていた。
「かなり自分を責めています」
「出火原因の確認は必要だ」
「はい」
「だが、今日はいい」
凛堂が母子を見る。
「今は子どものそばにいさせてやれ」
「承知しました」
◇
「副隊長」
「あ、ありがとうございます」
先ほど眼鏡を預けた隊士が戻ってきた。
ましろは眼鏡を受け取り、掛け直す。
その顔には、子どもの両手が残した煤が黒々とついていた。
ちょうど両目の周囲を囲むように。
「……お姉ちゃん」
救護を終えた子どもが、ましろを見ていた。
「ん? どうしたの?」
子どもは眼鏡を掛けたましろの顔を、じっと見る。
そして。
「……めがね熊猫」
「…………え?」
その横で。
「……ぷっ」
羅馬が吹き出した。
「羅馬さん?」
「いや……ごめん」
「何ですか?」
子どもが、今度は楽しそうに笑った。
「えへへっ。めがね熊猫!」
「え?」
ましろが自分の頬へ触れる。
指先に煤がついた。
「……?」
羅馬は完全に笑いを堪えている。
「羅馬さん!」
「ご、ごめんって……!」
その時。
「おいで!」
少し離れたところから母親が呼んだ。
「あっ」
子どもが振り返る。
それから、ましろへ向き直った。
「じゃあ行くね! お姉ちゃん!」
「はい」
子どもは笑った。
「ありがとう!」
一瞬。
ましろの表情が柔らかくなる。
「……はい」
微笑んだ。
「もう煙の中には入っちゃ駄目ですよ」
「うん!」
子どもは母親のもとへ戻っていった。
母親がその身体を強く抱き締める。
ましろは、その姿をしばらく見送った。
「ほら」
「え?」
羅馬が手ぬぐいを差し出していた。
「これで顔拭きなよ」
「……すみません」
ましろが受け取る。
「洗って返します」
「いや、いいよ! 適当に捨てといてよ」
「駄目です!」
「え?」
「ちゃんと綺麗にして返しますから」
「いや、本当にいいって」
「駄目です!」
「……はい」
羅馬が折れた。
◇
救護の者に付き添われ、母子がその場を離れていく。
ましろは黙って、その背中を見ていた。
「……もっと早く」
「ん?」
羅馬が横を見る。
「あと少し早く見つけていれば……あの子は、あれほど煙を吸わずに済みました」
羅馬は少し考えた。
「うん」
ましろが振り向く。
「それはそうだと思う」
「……」
予想していなかった答えだったのか。
ましろが僅かに目を見開く。
「でも」
羅馬は続けた。
「ましろさんが見つけなかったら、もっと遅くなってた」
「それは……」
「できなかったことを考えるのは、大事だと思う」
羅馬は焼けた家を見る。
「でも、できたことまで無かったことにしなくていいんじゃない?」
ましろは黙った。
「私は副隊長です」
「うん」
「もっと早く判断できていれば――」
「さっきさ」
羅馬が言った。
「みんな、ましろさんの名前呼んでたよ」
「……私の?」
「うん」
羅馬は何でもないことのように続ける。
「怖い時に名前を呼びたくなる人って、役職じゃ決まらないんじゃないかな」
「……」
「ましろさんが来たら大丈夫だって、みんな思ってるんだと思う」
そして。
「俺もそう思ったよ」
「……」
ましろが止まった。
「どうしたの?」
「……羅馬さん」
「ん?」
「そういうこと、あまり気軽に女性へ言わない方がいいですよ」
「え?」
本気で分からない顔をしている。
「なんで?」
「なんでって……」
ましろが言葉に詰まった。
「……男前すぎます」
「俺が?」
「そういうところです!」
「どういうところ!?」
羅馬は最後まで分かっていなかった。
◇
その夜。
ましろは自室で、一枚の手ぬぐいを洗っていた。
水の中で何度も揉み、煤の跡を落としていく。
「……まだ少し残ってますね」
もう一度。
丁寧に洗う。
絞る。
しわを伸ばし、部屋の片隅へ干した。
「これで……大丈夫でしょう」
少し離れて確認する。
羅馬は、捨てていいと言っていた。
『いや、いいよ! 適当に捨てといてよ』
「……駄目です」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
「借りたものは、ちゃんと返すんです」
灯りを落とした。
布団へ入る。
目を閉じる。
『俺もそう思ったよ』
「……」
目を開ける。
もう一度閉じる。
『怖い時に名前を呼びたくなる人って、役職じゃ決まらないんじゃないかな』
「…………」
寝返りを打つ。
『俺もそう思ったよ』
「…………っ」
ましろは頭まで布団をかぶった。
「~~~~っ!」
しばらくして。
そっと顔を出す。
「……何なんですか、あの人は……」
視線を動かす。
月明かりの中。
洗った手ぬぐいが、静かに揺れている。
「…………」
ましろは再び布団へ潜った。
◇
数日後。
茶屋。
「羅馬さん」
「ん?」
団子を口へ運ぼうとしていた羅馬が振り返った。
ましろが立っている。
「これ、お返しします」
「何?」
差し出されたものを見て、羅馬が気づく。
「ああ。あれか」
手ぬぐいを受け取る。
広げる。
「……」
「何ですか」
「いや」
裏返す。
もう一度見る。
「前より綺麗になってない?」
「気のせいです」
「ほんとに洗ったんだ」
「当然です」
「ほんとに良かったのに……」
「貸し借りはしない主義なので!」
「そんな主義ある?」
「あります!」
「そっか」
羅馬は笑った。
「うん。ありがとう」
ましろは首を振った。
「お礼を言うのはこちらです」
少しだけ頭を下げる。
「ありがとうございました」
「俺、煙流しただけだけどね」
「その“だけ”がなければ、私はあの子を見つけられませんでした」
「そっか」
「はい」
「じゃあ、どういたしまして」
そこへ亜呂が盆を持ってやってきた。
「ましろさん、お茶どうぞ」
「ありがとうございます」
「団子もどうぞ」
「ありがとうございます」
羅馬が盆を覗き込んだ。
「俺のは?」
「ありますよ」
「よかった」
「羅馬さん、そればっかりですね」
「団子は大事だよ」
「この前も三皿食べてたじゃないですか」
「三皿は食べてない」
「食べました」
「二皿半」
「半って何ですか」
「最後の一個、亜呂が食べたから」
「私の分だったんです!」
「じゃあ二皿と四分の三くらい?」
「増えてますよ」
「細かいなあ」
「羅馬さんが適当すぎるんです」
ましろは湯呑みを手にしたまま、二人を見る。
特別なことをしているわけではない。
ただ、いつものように話しているだけなのだろう。
亜呂は遠慮なく羅馬へ小言を言い。
羅馬も、気にした様子もなく返す。
そのやり取りが妙に自然だった。
「……なるほど」
ましろが小さく呟いた。
「ん?」
羅馬が振り向く。
「何が?」
ましろは湯呑みを口元へ運んだ。
「いえ」
一口。
そして、ほんの少し笑った。
「何でもありません」




