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からくり道中浪漫譚―白詰草異聞―  作者: ロマリアス
青龍編

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青龍編 第四話 『白虎の答え』

青龍編

第四話 『白虎の答え』


 皇都の外れ。

 古い石組みの水路沿いに、悲鳴が上がった。

「誰か! 誰か来てくれ!」

 石垣の隙間から、黒い靄が噴き出している。

 煙ではない。

 風に流されるでもなく、地を這うように広がりながら、通りにいた人々の足元へまとわりついていく。

「げほっ……!」

「母ちゃん……!」

 咳き込んだ女が膝をついた。

 隣では、幼い子どもがうずくまっている。

 少し離れた場所では老人が壁にもたれ、浅い呼吸を繰り返していた。

「下がれ!」

 怒鳴り声が響いた。

 人垣を割るように仁虎が駆け込んでくる。

 その肩には、小さな白虎が乗っていた。

「動ける奴は水路から離れろ! 子どもと年寄りを先に出せ!」

 仁虎は迷わず、うずくまっていた子どもを抱き上げた。

「おい。聞こえるか」

「……うん」

「なら大丈夫だ。あっちまで行け」

 子どもを母親へ渡す。

 その間にも、黒い靄は石畳の上を広がっていく。

「仁虎くん」

 肩の白虎が、低い声を出した。

 いつもの軽さがない。

「あ?」

「これ、吸わない方がいいよ」

「見りゃ分かる」

「そうじゃなくて」

 白虎は肩から飛び降りた。

 小さな身体が、石畳へ降り立つ。

 その青白い瞳は、魔瘴気そのものではなく、その奥――古い水路の石組みへ向けられていた。

「……変だな」

「何がだ」

「これ、ここで生まれたんじゃない」

 仁虎が眉を寄せる。

「どういう意味だ」

 白虎は鼻先をわずかに上げた。

 何かの匂いを探っているようにも、目に見えないものを辿っているようにも見える。

「どこかから流れてきた」

「流れてきた?」

「うん」

 白虎は水路の奥を見つめた。

「ずっと留まってたものが、急に押し出されたみたいな感じ」

 その瞬間だった。

 ごぼり、と。

 水路の底で何かが鳴った。

「下がれ!」

 仁虎が叫ぶ。

 石組みの隙間から、一際濃い魔瘴気が噴き上がった。

 黒い奔流が壁のように持ち上がる。

「白虎!」

「分かってるよ」

 白虎が石畳を一歩踏み出した。

 たった、それだけだった。

 風が吹いた。

 強い風ではない。

 人の髪を乱すほどでもない。

 だが、黒い魔瘴気だけが揺れた。

「……あ?」

 仁虎が目を細める。

 白虎を中心に、白い風が細く渦を巻いている。

 それは魔瘴気へ触れると、無理に吹き散らすのではなく、黒い靄だけを掬い取るように巻き込んでいった。

 一筋。

 また一筋。

 地を這っていた魔瘴気が浮き上がる。

 黒い渦が、白い風の中へ吸い込まれていく。

 仁虎の右目が、淡い金色を帯びた。

「……見える」

 思わず呟いた。

 黒い靄の中。

 細い流れがいくつも絡まり、水路のさらに奥へと続いている。

「そっちだ、白虎!」

「そっちって?」

「右だ!」

「僕から見て?」

「俺からだ!」

「先に言ってよ!」

「ややこしいんだよ、お前は!」

 白虎が右前脚を振る。

 ふわりと風向きが変わった。

 水路の側壁へ溜まっていた魔瘴気まで、一気に引き剥がされる。

 黒い塊が宙へ持ち上がった。

 次の瞬間。

 白虎の瞳が、鋭く細くなる。

「――消えて」

 風が鳴った。

 黒い靄が内側からほどける。

 墨を水へ落としたように薄まり、やがて白い粒となって空へ消えていった。

 静寂。

 仁虎が辺りを見回す。

 石畳にはもう、魔瘴気の痕跡はない。

「……終わりか?」

「うん」

 白虎が答えた。

 何事もなかったように、仁虎の足元へ戻ってくる。

 仁虎はその小さな姿を見下ろした。

「お前」

「何?」

「その姿でも、そんなことできんのか」

 白虎が首を傾げる。

「僕、白虎だよ?」

「……」

「小さくなったからって、猫になったわけじゃないからね」

「誰が猫だっつった」

「今そういう顔してたよ」

「してねえ」

 白虎は楽しそうに笑った。

 だが、すぐにもう一度、水路を振り返る。

「……でも」

「まだ何かあるのか」

「さっきのは変だった」

 白虎の声が少し低くなる。

「流れてきたものにしては、勢いが強すぎる」

「……」

「何かが、流れを変えたのかな」

 仁虎も、水路の暗がりを見た。

 そこにはもう、何も見えなかった。

     ◇

 その日の午後。

 旅籠ひぐらしは、いつもとは少し違う空気に包まれていた。

「裏手、異常ありません」

「地下への通路も確認済みです」

 館内を行き交う人影が多い。

 浜岡隊長は玄関側の警備を確認し、凛堂は建物の裏手から地下へ続く経路を見回っている。

 地下会議室へ続く廊下には、ましろの姿もあった。

「ここから先は関係者だけです。荷物の出入りも、今日は一度確認してください」

 普段とは違う、仕事の顔だった。

 今日、ひぐらしを訪れるのは安藤重臣。

 そして、その息子である安藤理一郎。

 白虎復活の報告を受け、重臣自身が面会を申し出た。

 伝承に残る四神の顕現。

 その意味を、神獣本人へ直接尋ねる。

 そんな機会は、二度とないかもしれない。

 だからこそ、重臣は自ら足を運ぶことを選んだ。

「はぁ……堅苦しいねぇ」

 廊下の端から、気だるそうな声がする。

 幽解夏だった。

「今日は仕方ありませんよ」

 隣を歩いていた涅央が笑う。

「重臣殿がお越しになるんですから」

「偉い人だろうが神様だろうが、来るなら勝手に来りゃいいさ」

「それを本人の前では言わないでくださいね」

「あたしを何だと思ってんだい」

「言いそうな人です」

「失礼な役者だねぇ」

 涅央が笑う。

 その横顔を見ていた幽解夏が、ふと目を細めた。

「涅央」

「はい?」

「ちょっとこっち来な」

「何です?」

「いいから」

 幽解夏が手招きする。

 涅央が近づくと、その頬へ顔を寄せた。

「……ここ」

「ああ」

 涅央が頬へ手をやる。

 小さな擦り傷があった。

「今日の稽古で、ちょっと足を滑らせまして」

「役者が顔に傷つけてどうすんだい」

「この程度なら、明日には消えますよ」

「知ったこっちゃないねぇ」

 幽解夏は懐から小さな薬入れを取り出した。

「あたしが気になるんだよ」

「……」

 涅央が一瞬、黙る。

「何ぼさっとしてんだい。顔こっち向けな」

「あ、はい」

 指先に薬を取り、傷へ塗る。

「痛っ」

「動くんじゃないよ。塗りにくいだろ」

「……近いですね」

 幽解夏の手が止まった。

「傷見てんだから当たり前だろ」

「そうですけど」

「何だい」

「……いえ」

「変な奴だねぇ」

 薬入れを閉じる。

「これでいい。次は顔から転ぶんじゃないよ」

「転ぶ前提なんですか?」

「うるさいねぇ」

 幽解夏はひらひらと手を振り、そのまま歩いていった。

 涅央は、その背中を見送る。

 頬に手を伸ばしかけ――

 やめた。

     ◇

 地下会議室。

 仁虎は椅子に座っていた。

 隣にはご隠居。

 そして机の上には、小さな白虎。

「仁虎くん」

「あ?」

「さっきから背中まっすぐだね」

「うるせえ」

「いつもそんな座り方してないよね」

「黙れ」

「緊張してる?」

「してねえ」

「じゃあ、なんで?」

「知らねえよ」

 ご隠居が湯呑みに口をつけながら、ほっほ、と笑った。

「仁虎にも苦手なものがあったとはのう」

「苦手じゃねえ」

「怖いの?」

「白虎、お前は黙ってろ!」

 ちょうどその時。

 扉の外から、ましろの声がした。

「安藤重臣様、安藤理一郎様がお見えです」

 仁虎がぴたりと黙った。

 白虎が小声で言う。

「ほら、また姿勢よくなった」

「……あとで覚えてろ」

 扉が開く。

 先に入ってきたのは、安藤重臣だった。

 大柄でもなければ、威圧するような振る舞いもない。

 ただ、歩みは静かで迷いがなかった。

 その後ろに、理一郎が続く。

 ご隠居が立ち上がる。

「これはこれは。ようお越しくだされた」

「本日はお時間をいただき、感謝します」

 重臣は静かに頭を下げた。

 それから仁虎を見る。

「先ほどの旧水路での件も聞いています。ご苦労でした」

「……おう」

 一拍。

「……ございます」

 言い直した。

 白虎が吹き出す。

「仁虎くんが敬語使った」

「聞こえてんぞ」

 重臣の口元が、わずかに緩んだ。

 そして視線が机の上へ向く。

 小さな白い獣。

 重臣は笑わなかった。

 軽んじることもしなかった。

 静かに向き直り、頭を下げる。

「お会いできたこと、光栄に存じます。白虎様」

 白虎が少し目を丸くした。

「君が安藤重臣?」

「はい」

「僕のこと、知ってるんだ」

「報告では伺っております」

 重臣は白虎をじっと見る。

「しかし……なるほど」

「何?」

「見た目とは裏腹に、とてつもない力を秘めておられるようですな」

 白虎が首を傾げた。

「人間の君に分かるのかい?」

「人を見る目はあるつもりです」

「僕、神獣だけどね」

 しばし沈黙。

 重臣がふっと笑った。

「これは一本取られましたな」

 理一郎が横で、ほんの少し意外そうな顔をした。

 仁虎もそれを見ている。

 怒鳴らない。

 威張らない。

 それでも、この男を軽く扱ってはいけない。

 理由は分からないが、仁虎の身体はそう感じていた。

「本日、私が直接こちらへ伺ったのには理由があります」

 重臣が姿勢を正す。

「白虎様に、お尋ねしたいことがございました」

「僕に?」

「はい」

 重臣は一呼吸置いた。

「古い記録には、四神の顕現や復活は、大きな災厄に先立って起こることがあると記されています」

 部屋の空気が静まった。

「あなたが再びこの世へ姿を現されたことにも、何か意味があるのでしょうか」

 白虎はすぐには答えなかった。

 机の上で座り直し、少しだけ考える。

「人間は、それを“前触れ”って呼んでるんだね」

「はい」

「うーん」

 尻尾がゆっくり揺れる。

「間違いじゃないけど、ちょっと順番が違うかな」

 重臣の目が細くなる。

「順番?」

「僕たちが出てきたから、災いが起きるわけじゃない」

 白虎は言った。

「何かが大きくおかしくなった時に、僕たちが目を覚ますことがあるんだよ」

 理一郎が口を開く。

「では、四神の顕現そのものが災いを呼ぶのではなく……」

「うん」

「すでに何かが起こり始めているから、四神が現れる」

「そういう方が近いかな」

 白虎が答える。

「人間から見れば、いつも災いの前に僕らが現れる。だから“前触れ”って話になったんじゃない?」

「……なるほど」

 重臣は静かに頷いた。

 ご隠居は何も言わず、茶を飲んでいる。

「では」

 理一郎が続けた。

「白虎様が今回復活されたことにも、何らかの異変が関係している可能性があると?」

「それは分からないよ」

 白虎はあっさり答えた。

「僕が起きた理由が、一つだけとは限らないから」

「一つだけではない?」

「仁虎くんが僕を必要としたのかもしれない。僕が仁虎くんを必要としたのかもしれない」

 白虎は仁虎を見る。

「それに、この土地そのものが僕を必要としたのかもしれない」

 仁虎の右目が、わずかに金色を帯びた。

 重臣はその変化を見逃さなかった。

「……本日の旧水路での魔瘴気についても、お聞きしてよろしいでしょうか」

「いいよ」

「報告では、白虎様が魔瘴気を鎮められたと」

「大した量じゃなかったからね」

 仁虎が横から口を挟む。

「大した量じゃねえって、お前」

「僕にとっては、だよ」

「先に言え」

 重臣がわずかに笑う。

「その際、何か気になることがあったそうですな」

 白虎の表情が変わった。

「うん」

「あれは、その場所で生まれた魔瘴気じゃないと思う」

 理一郎が身を乗り出す。

「根拠は?」

「根拠って言われてもなあ」

 白虎が前脚で耳の後ろを掻いた。

「人間でいう匂いとか、手触りみたいなものかな」

「感覚的なものですか」

「そう」

「どこか別の場所から?」

「流れてきた」

 白虎が答える。

「それも、自然に流れてきた感じじゃない」

「……」

「溜まってたものが、急に押し出されたみたいだった」

 理一郎と重臣が視線を交わす。

「何者かが意図的に?」

 理一郎が問う。

「そこまでは分からないよ」

 白虎は首を振った。

「“誰か”とも限らない」

 重臣の指が、膝の上でわずかに動いた。

「白虎様」

「何?」

「もう一つ、伺ってもよろしいでしょうか」

「どうぞ?」

「四神の力というものは」

 重臣は慎重に言葉を選んだ。

「加護者本人が、それを使おうと意識して初めて働くものなのでしょうか」

 仁虎が重臣を見る。

 白虎は少しだけ考えた。

 それから。

「仁虎くん」

「あ?」

「今、自分で心臓動かしてる?」

「……は?」

 部屋の空気が一瞬止まった。

「何言ってんだお前」

「いいから。動かそうって考えてる?」

「考えるわけねえだろ」

「でも動いてるよね」

「そりゃな」

「血は?」

「あ?」

「今、右腕に血を流そう、とか考えてる?」

「考えてねえ」

「でも流れてる」

 仁虎が眉間に皺を寄せる。

「何が言いてえ」

「じゃあ息は?」

「息?」

「少し止められる?」

「まあな」

「速くしたり、ゆっくりしたりは?」

「できる」

 白虎が重臣を見る。

「四神の力も、それに近いんだよ」

 重臣も理一郎も、黙って聞いている。

「本人が意識して動かせるところもある」

 白虎は続けた。

「でも、本人が何もしなくても勝手に働いてるところもある」

「……加護者の生命活動のように?」

「うん。そんな感じ」

「では」

 理一郎が口を開いた。

「加護者本人が、自分の力が働いていることを知らない場合もあり得る」

「あるよ」

 即答だった。

 重臣の目が僅かに鋭くなる。

「例えば――」

 言葉を置く。

「青龍の加護者である羅馬君も?」

 仁虎の表情が少し変わった。

 ご隠居だけが、変わらず湯呑みを持っている。

 白虎は不思議そうに瞬きをした。

「あると思うよ」

「本人が何もしていないと言っていても?」

「うん」

 白虎は答えた。

「君が知らないからって、身体の中で血が止まるわけじゃないでしょ?」

「……」

「だから羅馬くんが知らないからって、青龍が何もしてないとは限らないんだ」

 沈黙。

 重臣も。

 理一郎も。

 何も言わなかった。

 白虎が、すぐに付け加える。

「でも」

 二人が見る。

「青龍が羅馬くんの中で、何をしてるのかまでは僕にも分からないよ」

「白虎様にも?」

「僕、白虎だからね」

 先ほどと同じ調子だった。

「青龍のことなら、青龍に聞いてよ」

 仁虎が呆れたように言う。

「それができりゃ苦労しねえだろ」

「じゃあ仕方ないね」

「軽いな、お前」

 ほんの少しだけ、部屋の空気が緩んだ。

 だが。

 重臣の表情から、考える色は消えなかった。

     ◇

 会談を終え、重臣と理一郎は地下から地上へ向かっていた。

 前を歩くましろが、一定の距離を取って二人を案内している。

 階段の途中。

「父上」

 理一郎が小さな声で呼んだ。

「何だ」

「百地の報告と、今日の話」

 重臣は足を止めなかった。

「羅馬君が自覚なく周囲へ影響している可能性は、やはり――」

「理一郎」

 静かな一言で遮られた。

「はい」

「可能性と事実を混同するな」

「……」

「白虎様が話されたのは、四神の力についての一般的な理だ」

 重臣は前を向いたまま続ける。

「羅馬君が皇都で何をしているのかを証明したわけではない」

「はい」

「百地にも言ったはずだ」

 階段を上がる。

「先入観はいらん」

 理一郎は少し黙った。

「……承知しました」

 重臣は、それ以上何も言わなかった。

     ◇

 夕刻。

 皇都の別の一角。

 羅馬は、一人で橋を歩いていた。

 行き先があるわけではない。

 いつものように、気の向くまま歩いているだけだった。

 橋の中央まで来たところで。

「……ん?」

 足を止める。

 川の流れる音。

 遠くを走る市電。

 店じまいを始めた商人の声。

 どれも、いつもの皇都の音だ。

 羅馬はしばらく耳を澄ませた。

「……なんか変だな」

 橋の向こうを見る。

 細い路地が一本、夕暮れの町へ伸びている。

「こっちかな」

 理由はない。

 ただ、何となく気になった。

 羅馬は橋を渡りきると、その路地へ入っていった。

 少し遅れて。

 橋の上を、風が渡った。


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