青龍編 第二話 『静かな尾行者』
青龍編
第二話 『静かな尾行者』
昼前の皇都は、人と音で溢れていた。
石畳を叩く下駄。
荷車の軋み。
店先から飛び交う呼び声。
遠くで響く蒸気機関車の汽笛。
羅馬は、そんな喧騒の中をいつものように歩いていた。
「羅馬さん!」
向こうから声をかけられ、片手を上げる。
「や。元気?」
「昨日も会ったでしょうが」
「昨日元気でも、今日元気とは限らないだろ」
「そりゃそうだけどさ」
そんなやり取りをして、また歩く。
どこへ行くとも決めていない。
ただ、歩く。
しばらくして。
羅馬は、ふと足を止めた。
「……?」
人々がその横を流れていく。
草履の音。
下駄の音。
靴底が石畳を擦る音。
子どもの駆ける足音。
羅馬は一度振り返った。
何もおかしなものはない。
買い物籠を下げた女。
荷を担いだ男。
商人。職人。学生。
羅馬は首を傾げ、また歩き始めた。
十歩。
二十歩。
そしてまた止まる。
今度は、後ろをじっと見た。
何かがいるのではない。
何かが、ない。
大勢の人間が歩いているのに、ひとつだけ、ぽっかりと音の抜けた場所がある。
羅馬が歩く。
その静けさも動く。
羅馬が止まる。
それも止まる。
「なるほど」
羅馬は突然振り返った。
そして人混みの中の一人へ目を向ける。
「ねえ」
男が足を止めた。
「さっきから俺の後ろだけ、静かなんだけど」
一瞬。
男の眉がわずかに動いた。
「……私に、おっしゃっていますか」
「多分」
「多分?」
「だって」
羅馬は男の足元を見る。
「歩いてるのに、音しないの君だけだし」
男は黙った。
「姿ではなく、音で気づかれたのですか」
「いや」
羅馬は首を振る。
「音がしたからじゃない。しないから」
「……」
「こんだけ人がいるのに、そこだけ静かなんだもん。逆に気になるよ」
男は小さく息を吐いた。
「……参りました」
「で、君は誰なのかな?」
「百地と申します」
「百地?」
「姓です」
「ああ。そっちか」
あまりにも普通の反応だった。
百地は逆に戸惑う。
「……驚かないのですか」
「何が?」
「見ず知らずの人間に、尾行されていたのですよ」
「ああ」
羅馬は少し考える。
「まあ、こういうのは初めてじゃないからね」
「以前にも?」
「何度か」
「理由を問いただしたりは?」
「昔はしたよ」
羅馬は笑った。
「なんで俺なんだよ、って」
それだけ言って、また歩き出す。
百地は一瞬迷い、その隣へ並んだ。
「俺を調べてるんだろ?」
「……はい」
「何を?」
「現時点では、詳しく申し上げられません」
「そっか」
それ以上、羅馬は訊かなかった。
「気にならないのですか」
「言えないんだろ?」
「はい」
「じゃあ聞いてもしょうがない」
「……ずいぶん慣れていらっしゃる」
「そうかな」
「普通は、もっと警戒します」
「警戒したって、調べるんだろ?」
百地は答えなかった。
羅馬は笑った。
「なら、好きにすればいいよ」
その時だった。
羅馬が足を止めた。
「……ん?」
百地も止まる。
「どうしました」
「ここ、変だな」
「何がです?」
「静かすぎる」
大路から一本外れた細い路地。
人通りは少ない。
だが、無人ではない。
軒先では風鈴が揺れている。
奥では犬がこちらを見て吠えている。
井戸端では、老人が滑車を回していた。
百地も気づく。
風鈴が鳴らない。
犬の声が聞こえない。
滑車の軋みも、ない。
「……これは」
「やっぱり変だろ?」
羅馬は路地の奥へ進もうとする。
「待ってください」
「ん?」
「怪異の可能性があります」
「じゃあ、見に行こう」
「普通は避けるところです」
「でも、いるんだろ?」
「まだ断定は――」
言い終える前に、何かが動いた。
古い板塀の陰。
黒い毛玉のようなものが蠢いている。
猫ほどの大きさ。
煙のようでもあり、獣のようでもある。
中央には、口のような裂け目だけがあった。
百地が札を取り出す。
「小型の怪異ですね」
「こいつが音を吸ってるのか?」
「おそらく」
怪異がこちらを向く。
裂け目が開いた。
次の瞬間、黒い塊が羅馬へ飛びかかった。
「羅馬さん!」
百地が動く。
その直前。
羅馬の衣の裾が、ふっと揺れた。
まだ風は吹いていない。
百地の目がわずかに細くなる。
次いで、羅馬の足元を風が抜けた。
強くはない。
ただ、何か詰まっていたものがほどけるような風。
怪異の輪郭が揺らいだ。
黒い煙が剥がれていく。
ちりん。
風鈴が鳴った。
犬の声が戻る。
井戸の滑車が、ぎい、と軋む。
路地へ音が戻ってきた。
「お」
羅馬が辺りを見回す。
「戻った」
百地はすぐに札を投げた。
「封」
怪異は小さく縮み、そのまま消えた。
あとには、普通の路地が残った。
「……羅馬さん」
「ん?」
「今、何をしました」
「何って?」
「怪異が崩れました」
「俺、何もしてないけど」
「ですが、あなたが近づいた直後です」
「偶然じゃない?」
「では、なぜ怪異が現れる前に足を止めたのです」
「音がおかしかったから」
「どう、おかしかったのです」
羅馬はしばらく考えた。
「……詰まってる感じ?」
「音が?」
「いや」
羅馬自身、うまく言えないらしい。
「何かが」
百地は答えなかった。
怪異が現れる場所へ羅馬は向かう。
羅馬が近づくと怪異へ変化が起きる。
そして、本人にはその自覚がない。
百地は、先ほどよりもさらに羅馬という人物が分からなくなっていた。
同時に。
先ほどの一瞬。
風が吹くより先に、羅馬の衣だけが揺れたことが頭から離れなかった。
「変な顔してるよ」
「……いえ」
百地は札の残滓を拾う。
尾行は露見した。
本人とも直接話した。
そして怪異との不可解な関係も、一件ではあるが自分の目で確認した。
今日一日の観察としては、十分だった。
「今日のところは、これで任務を終えます」
「もういいの?」
「はい。尾行を見破られた以上、同じ方法を続けても意味がありません。それに、四六時中あなたを監視するよう命じられているわけでもない」
「それは助かる」
「本日の任務は、ここまでとします」
「お疲れさま」
羅馬は気軽に言った。
百地は小さく苦笑する。
「……本当に変わった方ですね」
「よく言われる」
二人はそこで別れた。
羅馬は百地の背中を少しだけ見送った。
やがて、いつものように歩き出した。
◇
気がつけば、いつもの茶屋へ向かっていた。
いつも来るから。
それだけだった。
「いらっしゃいませ」
聞き慣れた声。
羅馬が顔を上げる。
亜呂だった。
羅馬に気づくと、いつものように笑う。
「羅馬殿」
「や」
「今日はお一人ですか?」
「さっきまで一人増えてた」
「……どういうことです?」
「今日知り合った」
「またですか」
「またって何だよ」
羅馬がいつもの席へ座る。
「団子」
「何本です?」
「三本」
「今日は控えめなのですね」
「昨日食べすぎた」
「ようやく学習されたのですね」
「俺だって学習くらいするよ」
「では明日は二本ですね」
「減ってるじゃん」
亜呂が笑った。
羅馬も笑う。
「今日はどこへ行っていたのですか?」
「散歩」
「またですか」
「また」
「何かありました?」
「変なのがいた」
「怪異?」
「小さいやつ。百地って人が倒したよ」
「百地殿?」
亜呂が少し首を傾げる。
「お知り合いだったのですか?」
「今日知り合った」
「……やはり、またではありませんか」
団子が運ばれてくる。
羅馬は一本取った。
「うまい」
「いつもそれですね」
「美味いんだからしょうがない」
「もう少し感想はないのですか?」
「じゃあ……すごく美味い」
「ほとんど変わっていません」
亜呂がまた笑った。
羅馬は、その顔を見る。
「……」
「羅馬殿?」
「ん?」
「どうかされました?」
「いや」
少しだけ、間があった。
羅馬は皿へ視線を落とす。
団子が、まだ一本残っている。
「……ごめん」
亜呂が目を瞬かせた。
「やっぱり今日は帰るよ」
「え……もうお帰りに?」
「うん」
「でも、まだ団子が」
「今日はいいや」
羅馬が団子を残す。
亜呂は少し驚いていた。
それでも、いつもの笑顔で言う。
「……はい。また待ってますね」
羅馬は一瞬だけ黙った。
「うん」
立ち上がる。
「またね」
そのまま茶屋を出ていった。
亜呂は、しばらくその背中を見送っていた。
◇
「なんだ、あいつもう帰ったのか」
少し遅れて茶屋へやって来た毒島が、羅馬の空いた席を見る。
「はい」
亜呂は皿を片づけていた。
「珍しいですよね……」
皿には、団子が一本残っている。
「団子食いすぎて腹でも壊したんじゃねえか」
「もう! 真面目に言ってるのに!」
「冗談だよ」
毒島は腰を下ろす。
「……まあ、そんな日もあるんだろうよ」
そう言いつつ、残された団子を見る。
確かに珍しい。
「こんにちは」
そこへ百地が入ってきた。
「ん?」
毒島が顔を上げる。
「百地じゃねえか。何してんだ」
「毒島さん」
「珍しいな、お前が茶屋なんて」
「本日の任務を終えましたので。少し休憩を」
「そうか」
毒島は何気なく尋ねた。
「何の任務だったんだ?」
百地が僅かに黙る。
「……実は、尾行をしていました」
「へえ」
「途中で見つかってしまいましたが」
毒島の顔が止まる。
「……は?」
「尾行が露見しました」
「何!? 誰に!」
「羅馬さんです」
「……は?」
毒島は数秒、百地を見る。
「アイツがお前の尾行を見破った!?」
「はい」
「冗談だろ」
「それが……音がしないから気になった、と」
「音がしない?」
「人混みの中で、私のいる場所だけ音が抜けているように感じたそうです。それがずっと自分の後ろをついてくる、と」
毒島は腕を組む。
「……逆にか」
「はい」
「なるほどな」
鼻を鳴らす。
「音を聴くことに関しちゃ、アイツは妙に秀でてる」
「耳が良いということでしょうか」
「それだけかどうかは知らねえ」
毒島は少し考えた。
そして。
「っていうか」
百地を見る。
「なんでアイツを尾行なんかしてたんだ?」
百地は答えなかった。
亜呂の手が止まる。
「百地殿」
静かな声だった。
「羅馬殿が、何か?」
「……」
百地は少し迷った。
「申し訳ありません」
「何がです」
「現時点では、詳しく申し上げることはできません」
亜呂の表情が曇る。
「何もない方を、尾行するのですか」
「亜呂」
毒島が止める。
「百地に噛みつくな。こいつは命令で動く立場だ」
「ですが――」
「分かってる」
毒島もすでに笑っていなかった。
百地は静かに続けた。
「少なくとも、羅馬さんを罪人として扱っているわけではありません」
「……」
「事実を確認するよう命じられているだけです」
亜呂は何も言わなかった。
視線が、皿へ落ちる。
団子が一本。
残っている。
「……だからだったのでしょうか」
「何がだ?」
毒島が聞く。
「今日の羅馬殿です」
亜呂は小さく言った。
「少し……いつもと違いました」
毒島と百地が顔を見合わせる。
茶屋の奥。
今まで何も言わず話を聞いていたご隠居が、湯呑みを持ち上げた。
ずず、と茶を啜る。
窓の外には、よく晴れた皇都の空が広がっていた。
ご隠居は静かに湯呑みを置く。
「……雲行きが」
小さく呟いた。
「怪しくなってきたかの」




