白虎編 第十七話 【道を塞ぐもの】
夢の中で、明里は何度も仁虎を叱った。
いつも違う場所で。いつも違う言葉で。
けれど今になって思えば、あれはすべて、同じことを伝えようとしていたのかもしれない。
◇
「明里ちゃん、四つ葉です!」
幼い奏代が、白詰草の群れへ両膝をついていた。小さな指で摘み上げた葉を、得意げに明里へ差し出す。
明里は隣へしゃがみ込み、その葉を覗き込んだ。
「三つ葉ですよ」
「いえ、ほら。ここに小さいのがもう一枚」
奏代が葉を傾ける。
大きな三枚の葉の陰に隠れるように、まだ生まれたばかりの小さな葉があった。
「本当ですね」
「きっと、いいことがありますよ」
「では、半分ずつにしましょうか」
「葉っぱをですか?」
「いいことを、です」
奏代はしばらく考えた後、嬉しそうに笑った。
「はい!」
その笑顔を見て、明里も静かに微笑んだ。
二人は幼い頃から、いつも一緒だった。
明里が薬を持って町を歩けば、奏代は食べ物を入れた籠を抱えて隣を歩いた。
病に伏した者がいれば、明里は容体を尋ねる。家族を亡くした者がいれば、奏代は温かい汁物を作る。
何をすべきかを考えるのが明里だった。その場で誰が一人になっているかに気づくのが奏代だった。
二人が町を歩くようになると、やがて人々は明里の名を知るようになった。
「明里様」
道端で老婆が手を合わせる。
明里は困ったように眉を下げた。
「どうか、お顔を上げてください」
「明里様のお薬で、孫の熱が下がりまして」
「薬を作ったのは薬師の先生です。私は運んだだけですよ」
「それでも、明里様が来てくださらなければ、あの子は助かりませんでした」
老婆は何度も頭を下げた。
少し離れた場所で、奏代が苦笑する。
「また明里様と呼ばれていますね」
「何度申し上げても、やめてくださらないのです」
「嫌なのですか?」
明里は少し考えた。
「困りはします」
「では、もう少し強くお断りすれば」
「ですが、あの方々が安心なさるのであれば、無理に否定する必要もないでしょう」
明里は老婆の背を見送った。
「私の名前が、少しでも心を落ち着かせるものになるのでしたら、それも役目なのだと思います」
「明里ちゃんらしいです」
「そうでしょうか」
「はい。とても」
奏代は笑い、明里の荷物を半分持った。
◇
その頃の仁虎は、町で最も関わり合いになりたくない男として知られていた。
気に入らないものは壊す。目障りな相手は殴る。自分が正しいかどうかなど、考えたこともなかった。
そんな仁虎でさえ、明里という名は聞いたことがあった。
病人へ薬を運び、困窮する者の相談に乗り、身分の分け隔てなく人を助けて回る女。年寄りの中には「明里様」と呼び、手を合わせる者までいるという。
仁虎には、よく分からなかった。
善人を名乗る者など、大抵は人目のある場所でしか善い顔をしない。明里という女も、似たようなものだろうと思っていた。
その日、仁虎は路地裏で三人の男を地面へ転がしていた。
路地の隅には、幼い子どもを抱いた女が座り込んでいる。
男たちは、病に伏した夫の借金を理由に、女から薬代まで巻き上げようとしていた。
「返せ」
仁虎は倒れた男の胸ぐらを掴み上げた。
「な、何をだよ……」
「あの女から取った金だ」
「借りたもんを返してもらってるだけだ!」
「だったら、立てねえ病人から直接取れ」
「そんなことしたら死んじまうだろ!」
仁虎の目が細くなる。
「分かってんじゃねえか」
拳が男の顔へ叩き込まれた。
男は地面へ転がった。仁虎はその腹を蹴り、さらに殴ろうと腕を振り上げる。
「やめてください!」
背後から声が飛んだ。
仁虎は振り向いた。
路地の入り口に、二人の女が立っていた。
一人は食べ物の入った籠を抱えている。もう一人は薬箱を手にし、その娘を庇うように半歩前へ出ていた。
派手な装いではない。
だが、仁虎にはすぐに分かった。
町の者たちが口を揃えて語る女。
「……お前が明里か」
女はわずかに目を見開いた。
「はい」
それから仁虎の顔を見て、静かに続ける。
「あなたが、仁虎さんですね」
「知ってんのか」
「お名前は、かねてより」
「ろくな話じゃねえだろ」
「それは、ご想像にお任せします」
後ろの奏代が、明里の袖をそっと引いた。
「明里ちゃん……」
明里の指先は震えていた。
仁虎の評判を知っているのだ。怖くないはずがない。それでも逃げずに、仁虎を真っ直ぐ見ていた。
「その方を離してください」
「こいつらが何をしてたか知ってんのか」
「拝見しておりました」
「なら黙ってろ」
「できません」
明里は即座に答えた。
「この方々がしたことは、決して許されることではありません」
「だったら邪魔すんな」
「ですが、悪いことをした方なら、何をしてもよいのですか」
「少なくとも、俺はそう思ってる」
「私は、そうは思いません」
仁虎は男の胸ぐらを掴んだまま、明里を睨んだ。
「こいつを放せば、また同じことをする」
「ですから、奪ったお金を返していただき、二度と同じことができないよう、町の方々にも事情を知らせます」
「甘えな」
「そうかもしれません」
明里は一歩近づいた。
奏代が息を呑む。
「ですが、あなたがこの方を動けなくなるまで殴ったところで、あちらの親子の暮らしが良くなるわけではありません」
仁虎は路地の隅を見る。
女は子どもを抱き締めながら、怯えた目でこちらを見ていた。
「助けたんじゃねえ」
仁虎が言った。
「こいつらが気に入らなかっただけだ」
「そうですか」
明里は否定しなかった。
「それでも、あの方々が助かったことに変わりはありません」
「善人扱いする気か」
「いいえ」
明里は静かに答えた。
「あなたは今、とても危険な方です」
「正直だな」
「嘘を申し上げる理由がありませんので」
仁虎は鼻を鳴らした。
「その方を離してください」
「断る」
「では、離してくださるまで、ここにおります」
「怖くねえのか」
明里は少しだけ間を置いた。
「怖いですよ」
素直な答えだった。
「ですが、怖いから黙るのは、もっと嫌です」
仁虎は明里を見た。
虚勢ではない。怯えていることを隠そうともしていない。その上で、ここに立っている。
仁虎は今まで、恐怖を見せながら自分から目を逸らさない人間を知らなかった。
しばらく、二人は睨み合った。
やがて仁虎は、男の胸ぐらから手を離した。
「金を返せ」
男は震える手で懐から金を取り出した。
仁虎はそれを奪い、親子の前へ投げる。
「二度とこいつらに近づくな」
三人の男は、転がるように路地から逃げていった。
明里はその背を見送り、それから仁虎へ向き直る。
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「では、次はもう少し早く手を止めてください」
「それは約束できねえ」
「そうですか」
明里は小さく息を吐いた。
「では、次もお止めします」
「勝手にしろ」
「はい。そういたします」
明里は、ほんの少しだけ笑った。
仁虎はその顔を見て、なぜか目を逸らした。
その日、仁虎は初めて、町の噂に聞く「明里様」ではなく、明里という一人の女を見た。
そして明里もまた、町の者たちが恐れる乱暴者ではなく、仁虎という一人の男を見た。
それが、二人が初めて言葉を交わした日だった。
◇
それから仁虎は、何度も明里に叱られることになった。
長屋の立ち退きを迫る役人を追い払った時。労働者を殴った親方を、半死半生にした時。明里を偽善者と笑った男を、町の外まで追い回した時。
「私の名を理由にしないでくださいと、最初に申し上げましたよね」
「覚えてねえ」
「嘘ですね」
「証拠があんのか」
「私の顔を見て、目を逸らしました」
仁虎は舌打ちした。
「二度としないでください」
「それは約束できねえ」
「では、次も叱ります」
「好きにしろ」
「はい。そういたします」
毎回、同じやり取りだった。
それでも仁虎は、少しずつ変わった。
殴る前に明里の顔が浮かぶようになった。壊す前に、その後を考えるようになった。
自分が邪魔だと思ったものと、本当に誰かの道を塞いでいるものが、必ずしも同じではないと知った。
明里は仁虎を善人だとは言わなかった。隠れた優しさがあるとも言わなかった。
ただ、したことの結果を見なさいと言った。
壊したのなら、直しなさい。
傷つけたのなら、責任を取りなさい。
誰かのためだと言うのなら、その誰かの意思を聞きなさい。
仁虎にとって、それはどんな拳よりも厄介だった。
だが、不思議と逃げようとは思わなかった。
◇
明里と奏代の周囲には、少しずつ人が集まり始めていた。
薬師。職人。商人。元武士。警邏隊に居場所を失った者。誰かを助けたいが、何をすればよいか分からない者。
明里は人々の話を聞き、何が必要かを考え、役目を決めた。
奏代は皆が食べられるように鍋を用意し、疲れた者へ座る場所を作った。
仁虎は崩れた橋を直し、荷を運び、時には話の通じない相手を睨みつけた。
「俺だけ雑じゃねえか」
「仁虎さんにしかできないお役目ですよ」
明里が言う。
「便利に使ってるだけだろ」
「はい」
「否定しろ」
奏代が吹き出した。
「明里ちゃん、少し仁虎さんの扱いに慣れてきましたね」
「慣れたくはありませんでした」
「聞こえてんぞ」
それでも仁虎は、頼まれれば来た。
文句を言いながら荷を運び、橋を直し、道を開けた。
やがて彼らは、自分たちを白詰草同盟と呼ぶようになった。
踏まれても、また起き上がる。一人では小さな葉でも、寄り添えば地面を覆う。
明里が掲げた理想を、奏代が暮らしへ変え、仁虎たちが支えた。
◇
ある冬、南区の蒸気工場で火災が起きた。
機関の配管が破裂し、作業場へ熱気と煙が満ちた。
明里と奏代は、負傷者の救護へ向かった。
仁虎は逃げ遅れた作業員を外へ運び出した。
崩れた通路の奥で、明里が一人の男の脚へ添え木を当てていた。
「明里、出るぞ」
「この方を先に」
「歩けねえだろ」
「ですから、肩をお貸しください」
仁虎は男を背負い上げた。
その時、天井から瓦礫が落ち、通路を塞いだ。
仁虎は壁へ拳を当てる。
「壊せますか」
「壊せる」
「その先に人はいませんか」
仁虎は耳を澄ませた。
壁の向こうから、助けを求める声が聞こえた。
「いるな」
「では、そちらを先に」
「お前はどうする」
「ここで待ちます」
「煙が回ってる」
「分かっています」
明里の顔にも、不安が浮かんでいた。
「ですが、仁虎さんなら戻ってきてくださいます」
仁虎は明里を見た。
「勝手に決めんな」
「違います」
明里は静かに答えた。
「信じているのです」
仁虎は舌打ちし、負傷者を背負ったまま別の通路へ向かった。
取り残された者たちを外へ運び、すぐに引き返す。
崩れた壁を慎重に取り除く。
やがて開いた隙間の向こうに、埃まみれの明里が座り込んでいるのが見えた。
「明里」
仁虎が呼ぶ。
明里は顔を上げた。
「仁虎さん……」
その声を聞くなり、仁虎は残った瓦礫を押し退け、明里のもとへ入った。
「怪我は」
「大きなものは、ないと思います」
「立てるか」
「はい」
明里は壁へ手をつき、立ち上がろうとした。
だが、膝から力が抜ける。
仁虎がその身体を抱き留めた。
「どこが大丈夫だ」
「申し訳ありません」
「謝るくらいなら、最初から無茶すんじゃねえ」
「それは、仁虎さんにだけは言われたくありません」
弱々しいながらも、いつもの調子で返された。
仁虎は言い返そうとして、やめた。
腕の中の明里が、かすかに震えていたからだ。
「……怖かったか」
「はい」
明里は誤魔化さなかった。
「とても、怖かったです」
「なら、何で残った」
「あの方を置いてはいけませんでした」
「そうじゃねえ」
仁虎は明里を見下ろした。
「俺が戻らなかったら、どうするつもりだった」
「戻ってきてくださると思っていました」
「だから、勝手に決めんな」
「ですから、決めたのではありません」
明里の手が、仁虎の着物を掴んだ。
「……信じたんだろ、俺を」
仁虎は頭を掻きながら、そう言った。
明里は黙って仁虎に微笑んだ。
「少しだけ、このままでいていただけますか」
「お前が、そんなこと言うのか」
「私も、たまには誰かに支えてほしいのです」
仁虎は明里を抱く腕へ、少しだけ力を込めた。
明里が初めて、自分の弱さを仁虎へ預けた日だった。
そして仁虎が初めて、誰かの意思を信じて戻った日だった。
◇
その縁談が持ち込まれたのは、それからしばらく後だった。
相手は東風国の名家、坂東家。
坂東製鉄を擁し、鉄道や蒸気機関の発展によって急速に勢力を広げていた家だった。
相手の名は、坂東掌一郎。
坂東家の嫡男でありながら、若くして多くの事業を任される人物だという。
話を聞いた明里の両親は、驚き、喜んだ。
「明里。こんな話は二度とないぞ」
「坂東家へ嫁げば、お前はもっと大勢の人を助けられる」
「この町だけで終わる器ではないと、皆が言っているのだ」
明里は両親の言葉を静かに聞いた。
「ありがたいお話です」
「なら」
「ですが、お断りいたします」
両親は言葉を失った。
町の者たちも騒いだ。
仁虎は何も言わなかった。
言えば、自分の望みだけで明里の道を塞ぐ気がした。
だが、明里が東風国へ行く姿を想像するたび、胸の奥が焼けるように痛んだ。
数日後、掌一郎本人が皇都を訪れた。
若いながら落ち着いた佇まいを持ち、言葉にも人を惹きつける力があった。
彼は明里を前にしても、家柄を笠に着なかった。
「あなたほどの方が、この街だけに留まる必要はないと思っています」
掌一郎は率直に言った。
「東風国には、あなたの力を必要としている者が大勢いる。我が家の名と力を使えば、ここで十人を救う間に、百人を救えるでしょう」
「そうかもしれません」
明里は否定しなかった。
「それでも、私はこの街におります」
「理由を伺っても?」
「私は、この街だけに留まっているのではありません」
明里は窓の外を見た。
長屋の屋根。工場の煙突。往来を行き交う人々。
「ここにいる方々と、生きているのです」
「その方々のために、より大きな力を得る道もある」
「それは、坂東様が私のためにお選びになった道です」
掌一郎は黙った。
「自由の風を尊ぶ国の方が、私の意思をお尋ねにならないのですか」
責める口調ではなかった。
だからこそ、その言葉は深く届いた。
掌一郎はしばらく明里を見つめた後、静かに頭を下げた。
「失礼しました」
「いいえ」
「では改めて、お尋ねします。あなたは、何を望んでおられるのですか」
明里は答えた。
「自分で選んだ場所で、自分の大切な方々と生きることを」
◇
掌一郎が明里の家を辞した後、門の外には仁虎が立っていた。
「明里殿が縁談を断った理由は、あなたか?」
掌一郎が尋ねる。
「知らねえ」
仁虎は壁へ背を預けたまま答えた。
「本人に聞け」
「止めなかったのか」
「俺が決めることじゃねえ」
掌一郎は仁虎を見た。
「あなたは、明里殿に東風国へ行ってほしいのか」
「行ってほしくねえ」
仁虎は即座に答えた。
「だが、俺のために残れとは言えねえ」
「なぜだ」
「明里の道は、明里が決める」
掌一郎はしばらく黙っていた。
「あなたが縁談を妨げた男ではないことは、分かった」
「初めからそう言ってんだろ」
「それでも、念のため確かめたかった」
掌一郎はわずかに笑った。
「失礼した」
「分かりゃいい」
「明里殿の意思は尊重する」
それだけ言い残し、掌一郎はその場を去った。
縁談の後、彼は海外へ渡った。
坂東家の事業を異国へ広げるためだった。
その名が東西の新聞を賑わせるようになるのは、それから数年後のことである。
◇
その夜、明里は仁虎を呼び出した。
「縁談をお断りしました」
「聞いた」
「何も言ってくださらないのですね」
「俺が決めることじゃねえ」
「そうですね」
明里はしばらく黙った。
「ですが、私は仁虎さんのお気持ちを聞きたいのです」
「聞いてどうする」
「私が決めるために必要です」
仁虎は拳を握った。
「行ってほしくねえ」
明里が目を上げる。
「ここにいてほしい」
「はい」
「俺の隣にいろと言いてえ」
声がかすれた。
「だが、お前の道まで俺が決めたくねえ」
明里は静かに笑った。
「では、私が決めます」
一歩、仁虎へ近づく。
「私は、仁虎さんの隣にいたいです」
仁虎は何も言えなかった。
明里がその大きな手へ、自分の手を重ねた。
「私の選んだ道です」
◇
二人は結ばれた。
豪華な式ではなかった。
白詰草同盟の者たちと、町の人々に囲まれた小さな祝言だった。
奏代は朝から泣いていた。
「まだ始まってもいないのに、なぜ泣いているのですか」
「明里ちゃんが、お嫁に行ってしまうからです」
「同じ町ですよ」
「それでもです」
「では、毎日会いに来てください」
「はい」
「毎日は来るな」
仁虎が言う。
「仁虎さん」
「冗談だ」
「向いていませんよ」
皆が笑った。
やがて明里の腹に、新しい命が宿った。
◇
出産の日、仁虎は部屋の外を何度も往復した。
柱へ拳を置きかけ、そのたびに手を引っ込める。
戸が少し開き、奏代が顔を出す。
「仁虎さん」
「何だ」
「壊さないでくださいね」
「分かってる」
「明里ちゃんが部屋から出てきた時に、家がなくなっていたら困ります」
「分かってるっつってんだろ」
長い夜だった。
敵なら倒せる。瓦礫ならどかせる。火事なら飛び込める。
だが、明里の苦しむ声を聞きながら、仁虎には何もできなかった。
やがて、赤子の泣き声が響いた。
戸が開く。
奏代の目には涙が浮かんでいた。
「女の子ですよ」
仁虎は部屋へ入った。
寝台には、疲れ切った明里が横たわっている。その腕の中に、小さな命がいた。
「こちらへ」
明里に呼ばれ、仁虎は近づいた。
産婆から赤子を渡される。
大きな腕の中で、あまりにも小さかった。
「……軽すぎる」
「どんどん重くなりますよ」
「早くそうなってもらわねえと」
「どうしてですか?」
「くしゃみしただけで壊れちまいそうだ」
仁虎の手が震えていた。
人を殴り、物を壊し、血にまみれてきた手だった。
明里はその手へ、自分の手を重ねた。
「大丈夫です」
「何がだ」
「その手は、壊すことしかできない手ではありません」
赤子の小さな指が、仁虎の指を握った。
仁虎は息を止めた。
「今、俺を見た」
「まだよく見えていませんよ」
奏代が笑う。
「見た」
「そういうことにしておきましょう」
明里は赤子を見つめた。
「亜呂と名づけたいと思っています」
「亜呂」
「私たちの次に生まれ、この世へ新しい調べを加える子です」
「俺たちと同じ道を歩かせるのか」
「いいえ」
明里は首を振った。
「この子自身の道を歩いてほしいのです」
仁虎は腕の中の亜呂を見た。
「俺が守る」
「はい。守ってください」
明里は優しく言った。
◇
亜呂はよく笑う子に育った。
転べば泣いた。虫を見つければ追いかけた。仁虎の肩へ登ろうとして、明里に止められた。
「父上は山ではありませんよ」
「山より大きい」
幼い亜呂が言う。
「誰が山だ」
「父上」
明里が笑った。
亜呂は母の真似をするのが好きだった。
怪我をした子がいれば、草を摘んで傷へ当てようとした。泣いている者がいれば、頭を撫でた。
「よしよし、怖かったね。もう大丈夫らよ」
舌足らずな声でそう言いながら、自分まで泣きそうになる。
「誰に教わった」
仁虎が尋ねる。
「母上」
「そうか」
明里は少し照れたように笑った。
穏やかな日々だった。
長く続くと、誰もが思っていた。
◇
異変が起きたのは、亜呂が六つになった年だった。
皇都南部で、大地が鳴った。
天礎石を用いた新たな蒸気設備の試運転中、地下で何かが弾けた。
地面に亀裂が走り、建物が沈み、地下から白い霧と怪異が溢れた。
当時、それを地脈崩壊と呼ぶ者はいなかった。
ただの事故。蒸気機関の暴走。地盤の崩落。
人々はそう考えた。
明里と奏代は、負傷者の救護へ向かった。
亜呂は救護所として使われていた寺へ預けられた。
「ここから出てはいけませんよ」
明里は亜呂の目を見て言った。
「はい、母上」
「必ず戻ります」
亜呂は頷いた。
だが、その直後に大きな余震が起きた。
寺の中は混乱に包まれた。
泣き出す子ども。負傷者を運ぶ大人。名を呼び合う声。
その中で、一人の幼い男の子が母親を探して外へ飛び出した。
「待って!」
亜呂は反射的にその後を追った。
寺の者が気づいた時には、二人の姿はなかった。
◇
「仁虎さん!」
崩れた道の向こうから、奏代が走ってくる。
「亜呂ちゃんが寺からいなくなりました!」
仁虎の顔色が変わった。
亜呂は、泣いていた子どもを追って崩れかけた建物へ入っていた。
明里が先に見つけた。
「亜呂!」
「母上……!」
天井が軋む。
床の亀裂から、白い霧が噴き上がった。
明里は亜呂と男の子を抱き寄せ、出口へ向かう。
その時、建物全体が傾いた。
大きな梁が落ち、退路を塞ぐ。
「明里!」
仁虎の声だった。
崩れた通りの向こうから、仁虎が走ってくる。
あと少しだった。ほんの数歩。
だが、二人の間に新たな亀裂が走った。
その下では、避難する人々が細い橋を渡っていた。
仁虎が力任せに踏み越えれば、周囲の地盤ごと崩れる。
「来ないでください!」
明里が叫んだ。
「黙ってろ!」
仁虎は止まらない。
「仁虎さん、橋を!」
「お前が先だ!」
「まだ皆さんが渡っています!」
「知るか!」
「仁虎さん!」
明里の声が、強く響いた。
「私を信じてください!」
かつて、工場で同じ言葉を聞いた。
あの時、仁虎は戻った。そして、間に合った。
仁虎の足が止まる。
その一瞬の間にも、橋は大きく沈んでいく。
仁虎は歯を食いしばり、崩れかけた橋脚へ飛びついた。
両腕で支える。
「早く渡れ!」
人々が走る。
一人。二人。三人。
最後の者が渡り終える。
仁虎は橋脚を放り出し、明里たちへ走った。
間に合う。
今度も、間に合うはずだった。
明里は先に男の子を押し出した。
仁虎の腕が、その小さな身体を受け止める。
次に、亜呂を抱きしめる。
「亜呂」
「母上……」
「大丈夫です」
天井が崩れ始めた。
「父上のところへ」
明里は亜呂を押し出した。
仁虎がその身体を受け止める。
もう一方の手が、明里へ伸びる。
指先が触れた。
あと少しだった。
ほんの少し。
次の瞬間、梁と石が明里の上へ崩れ落ちた。
「明里――!」
◇
明里は、まだ生きていた。
全身に重い傷を負いながらも、瓦礫の下から救い出された。
仁虎は血に濡れた明里を抱え、何度も名前を呼んだ。
「明里。目を開けろ」
明里の瞼がわずかに動く。
「……亜呂は?」
「無事だ」
「男の子は……」
「あいつも生きてる」
明里は小さく息を吐いた。
「よかった……」
「喋るな」
「はい」
「すぐ治してやる」
「はい」
仁虎は、明里が助かると信じた。
信じなければならなかった。
だが、傷を塞いでも熱が下がらなかった。
地脈から噴き出した白い霧を吸い込んだためか、明里の身体は内側から弱っていった。
医師にも、薬師にも、原因が分からなかった。
次の日、明里は目を覚ました。
枕元へ亜呂が来る。
「母上、痛い?」
「少しだけ」
「亜呂が、ふうってしてあげます」
亜呂が傷の近くへ息を吹きかける。
明里は笑った。
「ありがとうございます。少し楽になりました」
二日目、医師は仁虎へ、もう助からないと告げた。
「何でもいい!」
仁虎は医師の胸ぐらを掴みかけ、途中で手を止めた。
「薬でも機械でも東風国からでも持ってこい!」
「仁虎さん」
明里が呼ぶ。
「黙ってろ」
「こちらへ来てください」
「寝てろ」
「仁虎さん」
仁虎は寝台の横へ座った。
明里が、その手を取る。
「この手に、亜呂を預けてよかった」
「預けるな」
仁虎は俯いた。
「お前も一緒に育てろ」
「……はい」
「はいじゃねえ」
明里は弱々しく笑った。
三日目の明け方。
奏代が眠った亜呂を抱いていた。
仁虎は明里の手を握っていた。
「仁虎さん」
「いる」
「亜呂を、守ってください」
「分かってる」
「ですが、あの子の道まで決めないでください」
仁虎は答えなかった。
「この子が進むと決めた時は、信じてあげてください」
「……難しい」
「そうですか」
明里は微笑んだ。
「では、少しずつで」
それから奏代を見る。
「奏ちゃん」
「はい」
「仁虎さんと亜呂を、お願いします」
「嫌です」
奏代の声が震えた。
「自分でお願いします」
「……そうですね」
「明里ちゃんが言ってください」
「はい」
明里は、仁虎の手を握ったまま目を閉じた。
東の空が白み始めていた。
鳥の声が聞こえた。
「明里」
返事はなかった。
「明里」
仁虎は何度も呼んだ。
けれど、明里のいない最初の朝は、何事もなかったように始まった。
◇
仁虎は泣かなかった。
葬儀の手配をした。亜呂へ食事を与えた。白詰草同盟へ指示を出した。町の復旧にも出た。
皆は、仁虎は強いと言った。
だが、葬儀が終わり、町が日常へ戻り始めると、仁虎は家へ帰らなくなった。
酒場へ入り浸り、事故に関係した者を探し、殴った。
役人。工事の責任者。採掘業者。
誰かを責めなければ、自分を責め続けるしかなかった。
昔の無法者へ戻ったように見えた。
だが、昔とは違った。
昔は、気に入らないから壊した。
今は、自分を壊すために暴れていた。
ある夜、仁虎は傷だらけで家へ戻った。
戸口には奏代が立っていた。
「どけ」
「どきません」
「俺に構うな」
「いつまで明里ちゃんを言い訳にするつもりですか!」
奏代の声が、屋敷へ響いた。
仁虎の目が鋭くなる。
「……何だと」
「明里ちゃんが亡くなったから、誰を傷つけてもよいのですか」
「お前に何が分かる」
乾いた音がした。
奏代の手が、仁虎の頬を打っていた。
打った方の手が、赤く震えている。
「分かります!」
奏代の目から涙が溢れた。
「私も、明里ちゃんを失ったんです!」
仁虎が黙る。
「私だって帰ってきてほしい!」
「……」
「誰の食事も作りたくありません。誰の世話もしたくありません。何も考えず、ずっと泣いていたいです!」
奏代は手で涙を拭った。
「でも、亜呂ちゃんは毎晩、戸口であなたを待っているんです」
「……」
「お母さんが帰ってこないのに、お父さんまで帰ってこないんです!」
仁虎は、屋敷の奥を見た。
「明里ちゃんの代わりになれとは言いません」
奏代の声が弱くなる。
「明里ちゃんを忘れろとも言いません」
一歩、仁虎へ近づく。
「ただ、亜呂ちゃんのお父さんまで死なないでください」
廊下の奥から、小さな足音がした。
「父上……?」
亜呂が立っていた。
眠そうな目で仁虎を見ている。
「父上、おかえりなさい」
仁虎の膝から力が抜けた。
床へ膝をつく。
亜呂の小さな身体を抱きしめた。
初めは、声を出すまいとしていた。
だが、抑えきれなかった。
明里を失ってから初めて、仁虎は泣いた。
大きな肩が震える。
亜呂は驚いたように父を見た。
仁虎が泣く姿など、初めて見たのだろう。
やがて、小さな手が仁虎の頭へ伸びた。
「よしよし、怖かったね」
亜呂は背伸びをしながら、必死に父の頭を撫でようとする。
「もう大丈夫らよ」
仁虎は、その言葉を知っていた。
亜呂が泣いている子どもへ、何度もそうしている姿を見てきた。明里に教わったのだと、本人の口からも聞いていた。
だが、その小さな手が自分へ向けられたのは、初めてだった。
明里から亜呂へ渡されたものが、今度は自分へ返ってきた。
仁虎は、人に頭を撫でられた記憶がなかった。
慰められたこともなかった。
頭を押さえつけられれば、その腕をへし折ってきた。
そんな男が、幼い娘の手の下で、声を上げて泣いた。
奏代は口元を手で覆った。
けれど、こみ上げる涙も嗚咽も、止めることはできなかった。
◇
それからしばらくして、仁虎は再び町へ出るようになった。
以前のように、酒場で喧嘩をするためではない。
崩れた家を直し、荷を運び、行き場を失った者のために空き家を探した。
言葉の通じない相手には、以前と変わらぬ顔で睨みを利かせた。
ただし、拳を振るう前に、一度だけ立ち止まるようになった。
昔から仁虎の周囲をうろついていた男たちも、いつの間にか戻ってきていた。
喧嘩っ早い者。仕事が長続きしない者。家族から見放された者。町のどこにも居場所を持たない者たちだった。
明里が生きていた頃、彼らは仁虎に言われるまま、白詰草同盟の荷運びや復旧作業を手伝っていた。
仁虎が荒れてからも、完全に離れていった者は少なかった。
ある朝、仁虎が屋敷を出ると、門の前に十人ほどの男たちが座り込んでいた。
「何してやがる」
仁虎が低い声で言う。
男たちは一斉に顔を上げた。
「待ってました」
「何をだ」
「親分が戻ってくるのを」
「誰が親分だ」
「じゃあ、兄貴で」
「気色悪い」
「だったら組長でどうです」
仁虎は眉間へ深い皺を寄せた。
「勝手なこと言ってんじゃねえ」
「でも、俺たちはあんたについていくしかありませんから」
「好きでついてきたんだろうが」
「はい」
「だったら、俺のせいにすんな」
男たちは笑った。
仁虎は一人ずつ顔を見た。
どいつもこいつも、昔の自分と大差のない顔をしている。
力はある。だが、使い方を知らない。どこへ行けばよいのかも分からず、気に入らないものを壊すことだけを覚えた者たちだった。
「先に言っとくぞ」
男たちの笑いが止まる。
「喧嘩がしてえだけの奴は失せろ」
誰も動かなかった。
「弱え奴から金を取るな。女子供に手ぇ出すな」
男たちは黙って聞いている。
「食えねえ奴がいたら食わせろ。寝る場所がねえ奴がいたら連れてこい」
「どこへです」
「奏代のところだ」
「また叱られますよ」
「俺も一緒に叱られてやる」
誰かが吹き出した。
仁虎が睨むと、男は慌てて口を閉じた。
「それから」
仁虎は続けた。
「壊したら直せ」
男たちの中から、小さな声が上がる。
「明里様みてえですね」
仁虎の目が鋭くなる。
「何か言ったか」
「何も」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、年長の男が口を開いた。
「で、俺たちは何と名乗ればいいんです」
「知らねえ」
「名がないと仕事を頼まれた時に困ります」
「勝手につけろ」
「では、仁虎組で」
「ふざけんな」
「もう決まりました」
「決めてねえ」
その日のうちに、町では仁虎組という名が広まり始めた。
仁虎本人が認めたわけではない。
だが、否定しに行くには、頼まれる仕事が多すぎた。
道を塞いだ瓦礫を片づける。荷車の通れない橋を直す。悪質な貸金業者から町人を守る。行方不明になった子どもを探す。祭りの日には露店の揉め事を収める。
仁虎組は、任侠の看板を掲げながら、いつしか皇都の裏側を支える者たちとなった。
仁虎は組長と呼ばれるたびに嫌そうな顔をした。
それでも、自分のもとへ集まった者を追い払うことはなかった。
明里のように、人を正しい場所へ導くことはできない。
だが、力の使い方を知らない者へ、役目を与えることならできた。
かつて明里が仁虎へしたように。
◇
奏代が奏々世と名を改めたのは、その頃だった。
最初の奏は、自分。もう一つの奏は、隣にいた明里。
世は、二人が少しでも穏やかにしたいと願った、人の暮らす世界。
奏々世は旅籠を開いた。
名は、ひぐらし。
日が暮れた時、人が帰る場所を失わないように。
食べ、休み、傷を癒やし、また歩き出せるように。
それは明里の墓ではなかった。
明里が望んだものを、日々の暮らしの中で生かし続ける場所だった。
仁虎組の者たちは、ひぐらしの修繕や荷運びを手伝った。
壊れた戸を直し、井戸を掘り、裏庭へ薪を積んだ。
「置き方が乱雑です」
奏々世が言う。
「燃えりゃ同じだろ」
仁虎が答える。
「倒れて誰かが怪我をしたら、同じではありません」
「お前、明里に似てきたな」
「そうでしょうか」
「ああ。面倒なところがな」
「では、きちんと積み直してください」
「俺がやんのかよ」
「組長なのですから」
「誰が組長だ」
仁虎組の男たちは、少し離れた場所で笑いを堪えていた。
奏々世は帰る場所を作った。
仁虎は、その場所を守る者たちをまとめた。
二人は違うやり方で、明里のいない日々を生きていった。
仁虎と亜呂も、ひぐらしで何度も食事をした。
奏々世は仁虎を叱り、亜呂の髪を結い、帰ってきた者へ「おかえりなさい」と言った。
日が暮れても、帰る場所は残っていた。
◇
仁虎は、屋敷の寝間で目を覚ました。
見慣れた天井だった。
しばらく、何も考えられずに見つめていた。
頬に冷たいものが触れている。
手を伸ばすと、枕が濡れていた。
眠りながら、泣いていたらしい。
「……まったく」
仁虎は低く息を吐いた。
「なんて夢だ」
身を起こし、深く息を吸う。
これまでの人生を、夢の中でもう一度生きたような感覚だった。
明里と出会った。何度も止められた。明里を信じて戻った。明里が自分の道を選ぶ姿を見た。亜呂が生まれた。明里を失った。小さな手に頭を撫でられた。自分のもとへ集まった者たちに、役目を与えた。
忘れたことなどなかった。
だが、思い出さずに生きることには、随分と慣れてしまっていたらしい。
仁虎は濡れた枕を見つめた。
夢の中で、明里は何度も同じことを言っていた。
――悪いことをした方なら、何をしてもよいのですか。
――信じているのです。
――私の選んだ道です。
――この子自身の道を歩いてほしいのです。
――あの子の道まで決めないでください。
言葉は違っていた。
だが、今なら分かる。
仁虎が道を決めるのではない。
進むと決めた者の前に立つものを、退ける。
「……そういうことかよ」
仁虎は背へ手を回した。
白虎の依代紋が、微かに熱を帯びている。
明里の声が、遠い夢の底から聞こえた気がした。
「遅えんだよ」
誰に言うでもなく呟く。
障子の向こうでは、朝の光が庭を白く染め始めていた。
明里のいない朝を、幾度迎えてきただろう。
それでも今日も、朝は来る。
仁虎は立ち上がった。
背中の紋が、もう一度だけ脈打つ。
――進む者の道を塞ぐ障害を、取り除く。
今度は、その言葉が消えることはなかった。




