白虎編 第十六話 【帰る道】
翌朝、ひぐらしの地下では、まだ昨夜の茶の香りが残っていた。
円卓の上には、毒島が夜のうちに書き散らした紙が何枚も広がっている。
朱雀。
青龍。
白虎。
玄武。
その四つの名の周囲へ、矢印や疑問符が幾重にも書き込まれていた。
「まずは、分かっているところから確かめる」
毒島は鉛筆の先で、朱雀と青龍の文字を順に叩いた。
「亜呂と羅馬。お前ら二人の力が、何をするためのものなのかだ」
「確かめると言われてもなあ」
羅馬は自分の左手を眺めながら、困ったように眉を下げた。
「俺、風を起こせるってことしか分かってないよ」
「それが分かってりゃ十分だろ。後は使いながら考えろ」
「ずいぶん雑だね」
「神獣の取扱説明書なんざ、どこにも売ってねえからな」
毒島は亜呂へ視線を移した。
「お前は?」
「私も、朱雀さんが共にいてくださることは分かります」
亜呂は胸元へ手を添えた。
「ですが、この神火が何を成すためのものなのかまでは……」
「火なんだから、燃やすんじゃねえのか」
仁虎が言った。
「父上」
「冗談だ」
そう答えた顔は、あまり冗談を言っているようには見えなかった。
羅馬が小さく笑う。
「仁虎さん、冗談に向いてないよね」
「黙れ」
その時だった。
地下の壁に掛けられていた鈴が、けたたましく鳴った。
棚の上に置かれた地脈計の針が大きく跳ねる。
直後、床の下から低い音が響いた。
ごう、と。
地の底で、巨大なものが身じろぎしたような音だった。
「南だ」
毒島が地脈計を掴む。
針は南を指したまま、細かく震えている。
「旧蒸気水路の辺りだな」
階段へ向かおうとした時、ましろが息を呑んだ。
「奏々世さんが……」
全員が振り向く。
「今朝、南区へ向かわれました。水路沿いの長屋へ、お薬と食べ物を届けると」
仁虎が即座に立ち上がる。
「行くぞ」
ましろも後を追おうとした。
だが、階段へ足をかけたところで、その動きが止まった。
わずかな沈黙の後、ましろは唇を結び直す。
「私は地上で避難と救護を指揮します」
声はいつもどおり落ち着いていた。
「地下は皆さんにお願いします」
「分かった」
仁虎が短く答える。
ましろは小さく頷いた。
その指先が、強く握り締められていることに気づいた者はいなかった。
「急ぐぞ」
毒島は地脈計を抱え直した。
◇
皇都南区。
古い蒸気水路の周囲には、すでに大勢の人が集まっていた。
石畳には幾筋もの亀裂が走り、地下へ続く階段の入り口から白い蒸気が漏れ出している。
入り口付近では、警邏隊の者たちが住民を下がらせていた。
ましろは現場へ着くなり、隊士たちへ指示を飛ばした。
「住民を亀裂から離してください。負傷者は北側の空き家へ。歩けない方を優先して運んでください」
「了解!」
「地下から戻った方をすぐに診られるよう、担架と水も用意してください」
声は乱れていない。
表情にも迷いはなかった。
ただ一度だけ、ましろは白い蒸気が漏れる地下への入り口を見た。
そしてすぐに視線を戻し、目の前の仕事へ向き直った。
仁虎は近くにいた隊士を捕まえる。
「中の状況は」
「水路の点検夫が三人、それと長屋の住人が数人、まだ戻っていません」
「奏々世という女を見なかったか」
「見ました」
隊士が地下への入り口を指す。
「子どもの声が聞こえたんです。警邏隊が到着する前で、あの方が真っ先に入り口付近まで探しに入りました」
「それで?」
「子どもは見つかったそうです。ですが、連れて戻ろうとした直後に地面が揺れて、退路が塞がれました」
仁虎の顔が険しくなる。
「無茶をしやがる」
「奏々世さんらしいです」
亜呂が静かに言った。
毒島は地脈計を入り口へ向ける。
針は激しく回り続け、方角を定めない。
「中で地脈が歪んでる」
「どういう意味だ」
「道のつながり方が狂ってるってことだ。真っ直ぐ進んだつもりでも、別の通路へ出るかもしれねえ」
「それでも行く」
「止めてねえよ」
毒島は測定器を背負い直した。
「ただし、俺の指示から外れるな。中ではぐれたら、見つける手段がねえ」
亜呂、羅馬、仁虎、毒島。
四人は崩れた階段を下りていった。
ましろはその背中を見送った。
最後まで地下へ向かう足音が聞こえなくなると、静かに息を吐く。
「副隊長!」
隊士の声が飛ぶ。
「負傷者がもう一人!」
「今、行きます」
ましろは振り返らなかった。
◇
地下水路は、地上よりも濃い霧に包まれていた。
壁の蒸気灯はすべて消え、天井から落ちる水滴の音だけが響いている。
毒島は壁へ白い印をつけた。
「まず真っ直ぐだ」
四人は一列になって歩き出す。
しばらくすると、前方に分かれ道が現れた。
毒島は左を選び、また壁へ印をつける。
二度曲がり、さらに長い通路を進んだ。
やがて毒島が足を止めた。
「待て」
目の前の壁に、先ほど自分でつけた白い印があった。
「戻ってきた?」
羅馬が周囲を見回す。
「一度も引き返してはいません」
亜呂が言う。
「空間のつながりが折れてやがる」
毒島は舌打ちした。
仁虎は目を閉じ、大きく息を吸う。
「人の匂いはする」
「どっちだ?」
「全部だ」
濡れた石、鉄錆、泥、人の汗。
同じ匂いが、すべての通路から流れてきていた。
「匂いまで回されてるのか」
羅馬は背負っていた風見鶏の和音を下ろした。
「音ならどうだろう」
弦へ指を触れる。
一音。
澄んだ響きが水路へ広がった。
だが、すぐに幾つもの方向から同じ音が返ってくる。
右。
左。
前。
背後。
すべての通路に、同じ空間が続いているかのようだった。
「反響じゃない」
羅馬はもう一度、弦を鳴らした。
今度は低く、長い音。
返ってきた響きの奥へ意識を澄ませる。
「……いる」
「奏々世さんですか?」
「分からない。でも、何人かいる」
羅馬は目を閉じたまま答えた。
「泣いてる子どももいる。だけど……」
顔をしかめる。
「どこにいるのか分からない。音だけが、あちこちから返ってくる」
亜呂が前へ出た。
「では、私が」
手のひらへ神火を灯す。
朱い炎は霧の中で揺れた後、細く伸びて一本の線となった。
その光は床を這い、暗闇の奥へ続いていく。
「道だ」
羅馬が目を見開いた。
「こちらです」
亜呂が歩き出す。
四人は朱い線を追った。
だが、しばらく進むと、その光は厚い石壁の前で途切れた。
「行き止まりだな」
仁虎が壁へ手を当てる。
向こう側から、かすかな音が聞こえた。
「……誰か……」
子どもの声だった。
「ここにいる!」
羅馬が壁を叩く。
「奏々世さん!」
返事はない。
ただ、遠くから泣き声だけが響いてくる。
「光は、この向こうへ続いています」
亜呂は壁の前へ膝をついた。
神火の線は確かに石壁の下へ潜り込み、その向こうへ伸びている。
「道そのものはある。でも、私たちの場所とはつながっていない」
仁虎は拳を握った。
「壊せる」
「待て」
毒島が止める。
「壁の向こうに人がいる。力任せに壊せば、瓦礫が全部向こうへ落ちるぞ」
仁虎は拳を下ろした。
「なら、どうする」
「考えてる」
その時、天井が大きく軋んだ。
細かな石片が落ちてくる。
仁虎が即座に前へ出た。
三人を庇いながら、落ちてきた梁を片腕で受け止める。
「早くしろ」
腕がわずかに震える。
「ここは長くもたねえ」
亜呂は神火を見つめた。
道は見えている。
けれど、そこへ辿り着けない。
「火を強くすれば……」
亜呂が両手を重ねる。
朱い炎が一気に燃え上がった。
強い熱が通路を満たし、霧を押し退ける。
だが、床を走っていた光の線は乱れ、幾筋にも枝分かれしてしまった。
「道が……!」
亜呂が慌てて火を弱める。
同時に羅馬が弦を強く掻き鳴らした。
「だったら、俺の風で壁を押し抜く!」
青い風が水路を駆け抜ける。
石壁へ激突した瞬間、壁は崩れず、反対に風が跳ね返った。
「うわっ!」
羅馬が後方へ弾き飛ばされる。
亜呂が腕を掴んで支えた。
「羅馬さん!」
「大丈夫……」
羅馬は立ち上がり、石壁を睨んだ。
「強くしても駄目なのか」
「私も同じでした」
亜呂は乱れた神火を見つめる。
「力を増せば増すほど、道が見えなくなってしまいました」
毒島が言う。
「二人とも、自分の力で無理やりどうにかしようとしてるだけだ」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
毒島は地脈計へ目を落とした。
「答えが分かってりゃ、とっくに教えてる」
「毒島でも分からないのか」
「自分の力だろ。自分で見つけろ」
突き放すような口調だった。
だが、毒島自身も地脈計の針から目を離していなかった。
羅馬は何か言い返しかけたが、やめた。
再び壁の向こうへ耳を澄ませる。
かすかな呼吸。
子どものすすり泣き。
その中に、誰かを励ます柔らかな声が混じっていた。
「大丈夫ですよ」
奏々世の声だった。
「皆さんが、必ず迎えに来てくださいますから」
羅馬は唇を噛んだ。
出口が見つからなくても、奏々世は誰かを安心させようとしている。
「奏々世さんは、いつも待ってくれてた」
羅馬が呟く。
「俺たちが帰ったら、笑って『おかえりなさい』って」
亜呂が神火へ目を落とす。
「今日は、私たちがお迎えする番です」
「ああ」
羅馬は壁の向こうを見つめる。
「俺たちが向こうへ行けないなら……」
床を走る朱い線を見る。
「向こうから、来てもらえばいい」
亜呂が顔を上げる。
「亜呂。その火を消さないでくれ」
「羅馬さん?」
「俺が運ぶ」
羅馬は風見鶏の和音を構え直した。
「火も、声も、ここへ戻るための道も」
亜呂は静かに息を吸った。
神火を強めるのではなく、その形を整える。
一本の道として。
迷わぬよう、真っ直ぐに。
「分かりました」
亜呂は両手を前へ差し出した。
「私が、道を示します」
朱い光が伸びる。
今度は燃え上がらない。
細く、穏やかに。
確かな一本の道となって、石壁の向こうへ続いていく。
羅馬が弦を鳴らした。
青い風が足元から生まれ、亜呂の神火へ寄り添った。
炎は風に煽られることなく、より鮮やかに輝く。
「行け」
羅馬が静かに言った。
青い風が朱い光を包み、その道の上を走る。
石壁に触れた瞬間、風と火は砕けることなく、その向こうへ吸い込まれていった。
◇
奏々世は、救い出した子どもを胸に抱いていた。
周囲には水路の作業員と長屋の住人が数人。
何度歩いても同じ場所へ戻り、誰も出口を見つけられずにいた。
疲労で一人が座り込み、また一人が壁へ背を預ける。
「もう歩けない」
「ここから出られないんじゃないか」
奏々世自身も、足が重くなっていた。
それでも子どもの背を撫で続ける。
「大丈夫ですよ」
声だけは穏やかに。
「皆さんが、必ず迎えに来てくださいますから」
「本当に?」
「はい」
奏々世は笑った。
確かな根拠はない。
それでも信じていた。
白詰草同盟の皆が、自分たちを探していることを。
その時だった。
足元に、朱い光が現れた。
細い炎の線が、暗闇の先へ伸びている。
「これは……」
続いて、柔らかな風が吹いた。
淀んでいた空気が動き、霧がゆっくりと左右へ分かれていく。
風に乗って、弦の音が届いた。
『奏々世さん!』
羅馬の声だった。
奏々世が顔を上げる。
『その光を辿ってください!』
そこへ、亜呂の声が重なる。
『奏々世さん。帰ってきてください』
朱い光が、奏々世たちの足元を照らす。
『今度は私たちが、お迎えいたします』
奏々世の目に涙が浮かんだ。
抱いていた子どもが顔を上げる。
「迎えに来たの?」
「はい」
奏々世は頷いた。
「皆さんが、迎えに来てくださいました」
立ち上がる。
まだ動けずにいる者へ、奏々世が手を差し伸べる。
その身体を、青い風が柔らかく支えた。
背を押すのではない。
倒れぬよう寄り添い、足を前へ運ぶための力を渡している。
「立てる……」
作業員の一人が驚いたように声を漏らした。
「行きましょう」
奏々世は皆へ呼びかけた。
「皆さんのところへ、帰りましょう」
◇
「来るぞ」
毒島が声を上げた。
石壁の表面に朱い線が浮かび上がる。
その周囲を青い風が巡り、壁が水面のように揺れ始めた。
「壁が……」
羅馬が息を呑む。
毒島は地脈計へ目を落とした。
「壁じゃねえ」
「え?」
「ずれてた二つの通路が、今だけ重なってるんだ!」
揺らぐ石壁の向こうに、人影が見えた。
「奏々世さん!」
羅馬が叫ぶ。
奏々世が子どもの手を引いて現れる。
一人。
また一人。
取り残されていた人々が、朱い道に導かれ、青い風に支えられながらこちら側へ渡ってくる。
最後の一人が通り抜けた直後、壁は再び固い石へ戻った。
同時に、天井を支えていた梁が折れる。
「伏せろ!」
仁虎が梁を横へ投げ捨て、落ちてきた瓦礫を拳で打ち払った。
「道は開いた! 走れ!」
全員が出口へ向かう。
亜呂の神火が、地上へ続く道を照らす。
羅馬の風が、その道を進む人々の身体を支える。
その最中、亜呂の首筋に微かな熱が生まれた。
同時に、羅馬の左腕にも小さな疼きが走る。
二人とも気づいてはいた。
だが、足を止めなかった。
仁虎は後方に立ち、崩れ落ちる石や鉄材を次々と打ち払う。
前へ進む者たちの道を塞ぐものだけを。
「父上!」
「振り返るな!」
仁虎は怒鳴った。
「お前は前を照らせ!」
亜呂は一瞬だけ父を見た後、前へ向き直った。
「はい!」
◇
地下から地上へ出ると、朝の光が眩しく感じられた。
救出された人々へ、待っていた家族や警邏隊の者たちが駆け寄る。
子どもは母親の胸へ飛び込み、作業員たちは互いの無事を確かめ合った。
ましろは負傷者の状態を確認しながら、隊士たちへ次々と指示を出していた。
「その方は横に寝かせてください。足を痛めています。無理に立たせないで」
「副隊長、こちらにも一人!」
「今、行きます」
ましろは負傷者のもとへ向かおうとした。
その時、地下への階段から最後の一人が姿を現した。
奏々世だった。
衣服は埃と泥で汚れていた。
それでも、自分より先に救出された人々の姿を見て、ほっとしたように微笑んでいる。
ましろの足が止まった。
「奏さん……」
誰にも届かないほど、小さな声だった。
手にしていた布が、指の間から落ちた。
奏々世が声に気づき、ましろを見る。
「ましろさん」
その名を呼ばれた瞬間、ましろの表情が崩れた。
一歩、奏々世へ近づく。
最初の歩みは、まだ落ち着いていた。
二歩目。
三歩目。
歩みは次第に速くなる。
そして、ましろは駆け出した。
「奏さん!」
そのまま奏々世の胸へ飛び込む。
細い腕が、奏々世の身体を強く抱き締めた。
「よかった……」
震える声が漏れる。
「よかった……本当に……無事で、よかった……!」
次の瞬間、ましろの瞳から堪えていた涙が一気に溢れ出した。
奏々世の胸へ顔を埋め、幼い子どものように泣きじゃくる。
その姿を見た警邏隊の者たちは、誰からともなく帽子を深くかぶり直した。
目元を隠すように。
俯いた隊士の頬を、涙が一筋だけ伝っていた。
誰も何も言わなかった。
やがて一人の隊士が、奏々世とましろへ向き直る。
静かに敬礼した。
それに続き、周囲の隊員たちも一斉に姿勢を正す。
無事に帰ってきた奏々世へ。
そして、最後まで地上を守り続けた副隊長へ。
短く、深い敬礼だった。
その中の一人が周囲を見回し、副隊長に代わって声を張った。
「各自、持ち場へ戻るぞ!」
「了解!」
隊員たちは声を揃えると、何事もなかったかのように踵を返した。
負傷者のもとへ。
避難誘導の続きをする者のもとへ。
それぞれの持ち場へ、足早に戻っていく。
その場には、泣きじゃくるましろと、彼女を抱き締める奏々世だけが残された。
「奏さんが地下にいるのに……私、本当は……私も行きたくて……!」
言葉が嗚咽に崩れていく。
「でも、ここに残らなきゃいけなくて……皆さんを守らなきゃいけなくて……!」
「はい」
「何かあったらって……帰ってこなかったらって……ずっと……!」
奏々世はましろの背へ、そっと腕を回した。
「ましろさん」
「怖かった……」
副隊長として張り詰めていた声が、今はひどく弱く震えていた。
「奏さんが帰ってこなかったらって……怖かったんです……!」
「ご心配をおかけしました」
奏々世は、泣きじゃくるましろの髪を何度も優しく撫でた。
「ですが、ましろさんはご自分の役目を立派に果たしてくださいました」
ましろは首を振る。
「何もしてません……私は、ただここにいただけで……」
「いいえ」
奏々世は静かに言った。
「地上で待つ人を守ることも、帰ってくる人を迎えることも、大切なお役目です」
ましろは奏々世の胸から離れようとしなかった。
奏々世も急かすことなく、その身体を抱き締め続けた。
「奏さん……」
「はい」
「もう、勝手に危ないところへ行かないでください……」
「それは……努力いたします」
「努力じゃ駄目です……!」
「困りましたね」
奏々世は少しだけ笑う。
その声に、ましろはさらに涙をこぼした。
「ただいま戻りました」
奏々世が囁く。
ましろは顔を埋めたまま、何度も頷いた。
「おかえりなさい……」
涙に濡れた声で答える。
「おかえりなさい、奏さん……!」
少し離れた場所で見守っていた羅馬が、柔らかく笑った。
亜呂も目元を和らげる。
奏々世はましろを抱いたまま、二人へ顔を向けた。
「ただいま戻りました」
羅馬が答える。
「おかえり、奏々世さん」
亜呂は深く頭を下げた。
「おかえりなさいませ」
奏々世の目にも、今度こそ涙が浮かんだ。
「はい。ただいまです」
その瞬間、地下にいる間から続いていた熱が強くなった。
亜呂の首筋から朱い光が漏れる。
「……っ」
「どうした?」
仁虎がすぐに近づく。
ましろは涙を拭いながら奏々世から離れ、亜呂を見る。
奏々世がそっと亜呂の髪を持ち上げた。
白い首筋に、炎の翼を広げた鳥のような紋様が浮かび上がっていた。
「朱雀……」
亜呂がその名を口にする。
続いて羅馬の左腕へ、青い風が巻きついた。
袖の下から青い光が走る。
羅馬が袖を捲ると、左腕に長い龍が昇るような紋様が刻まれていた。
「青龍だ」
二つの紋様は強く輝いた後、ゆっくりと肌へ馴染んでいった。
毒島がすぐに二人へ近づく。
「痛みは?」
「ありません」
「俺も」
「火傷でも刺青でもねえな」
毒島は亜呂の首筋と羅馬の腕を見比べた。
「皮膚の表面じゃない。もっと内側から浮かんでる」
「これは、何なのでしょう」
奏々世が尋ねる。
亜呂は紋へ指を触れた。
胸の奥に、朱雀の気配がある。
けれど、答えとなる言葉は聞こえない。
「分かりません」
亜呂は正直に答えた。
「ですが……忘れてはならないものだと感じます」
羅馬も左腕を見つめる。
「何のためにこの力を使うのか」
紋へそっと手を重ねる。
「それを、刻まれたような気がする」
毒島は顎へ手を当てた。
「力の性質を理解しただけじゃなく、その性質に合った使い方をしたことで現れた……のかもしれねえな」
「名前も分からないんだよね」
「ああ。今はまだな」
奏々世は二人の紋を見つめ、穏やかに笑った。
「とても綺麗ですね」
亜呂と羅馬が奏々世を見る。
「お二人が、私たちの帰る道を作ってくださった証しのようです」
羅馬は自分の左腕を眺める。
「亜呂の火が、道を示した」
「羅馬さんの風が、その道を進む皆さんを支えました」
「一人じゃ、助けられなかったな」
「はい」
亜呂は小さく笑う。
「私一人では、道を示すだけでした」
「俺一人じゃ、声を聞くことしかできなかった」
二人は顔を見合わせた。
朱い火が石畳を柔らかく照らし、その上を青い風が静かに通り過ぎていった。
◇
少し離れた場所で、仁虎が崩れた地下への入り口を見ていた。
そこへ毒島が近づく。
「お前のその強化された身体や拳なら、今日みたいに道を塞ぐ壁を壊すこともできるし、邪魔な岩をどかすことも可能だな」
「何が言いてえ」
「これから引っ張りだこだぞ、多分」
毒島は仁虎の腕を軽く叩いた。
「いっそ警邏隊に入ったらどうだ?」
仁虎は無言で毒島を見る。
「……俺が作ったんだが」
「お、じゃあ採用確実だな」
「殴るぞ」
「その拳でか? 勘弁してくれ」
毒島は笑いながら先に歩いていった。
仁虎も後を追おうとする。
だが、その足が止まった。
――道を塞ぐ壁を壊す。
何気ないはずの言葉が、妙に耳へ残っていた。
道を塞ぐ、壁。
邪魔な岩を、どかす。
どくん。
胸の奥で、何かが脈打った。
背中に刻まれた白虎の紋が、わずかに熱を帯びる。
「……何だ」
仁虎は背へ手を回した。
だが、熱はすぐに消えた。
「仁虎、置いてくぞ」
毒島が遠くから声をかける。
「今行く」
仁虎は歩き出した。
それでも、その言葉だけは消えなかった。
――進む者の道を塞ぐ障害を、取り除く。
背中の紋が、もう一度だけ脈打った。




