白虎編 第十四話 【主役】
「つまらん舞台だね、まったく……」
幽解夏の声が、赤黒い帳の前に落ちた。
その瞬間。
帳の向こうから聞こえていた三味線が、ぴたりと止んだ。
鬼どもの笑い声も、盃を打ち鳴らす音も消える。
静まり返った帳の奥から、低い声が返ってきた。
『ほう……』
涅央の声によく似ていた。
だが、そこに彼の柔らかな響きはない。
腹の底を震わせるような、獣の愉悦が混じっている。
『よい女ではないか』
幽解夏は薄く笑った。
「見る目はあるようだね」
背後で、亜呂が声を上げる。
「幽さん、待ってください!」
幽解夏は振り返らない。
「中に涅央はいるんだね?」
「います。間違いなく」
「なら、それで十分だよ」
赤黒い帳が、中央からゆっくりと左右へ開いていく。
内側から、生温かな風が吹き出した。
酒と血。
焦げた香。
むせ返るような妖気。
帳の内側にあったものは、もはや皇都歌舞伎座ではなかった。
天井からは無数の赤い提灯が垂れ下がり、客席を鬼、妖、亡者たちが埋め尽くしている。
舞台の上では、朱塗りの大盃を手にした涅央――否、酒呑童子が、長椅子へ悠然と腰掛けていた。
右の瞳は血のような赤に染まり、左の瞳には、涅央本来の色がかすかに残っている。
酒呑童子は片膝を立て、幽解夏を見下ろした。
『入れ』
『今宵の宴には、華が足りぬ』
「招いてくれるのかい」
『我の前へ来る度胸があるならな』
「女を誘うのに、随分と偉そうだねぇ」
幽解夏は迷わず、帳の内側へ足を踏み入れた。
背後で赤黒い幕が閉じる。
外の気配が途絶えた。
花道の左右から、亡者たちの顔が一斉に幽解夏へ向けられる。
笑う者。
舌なめずりする者。
爪を鳴らす者。
伸びてきた手が、幽解夏の着物の裾へ触れようとする。
その指先を、青白い火が焼いた。
亡者が悲鳴を上げて手を引っ込める。
「触るんじゃないよ」
幽解夏は足を止めることなく、舞台へ向かった。
深く開いた着物の裾が、歩みに合わせて揺れる。
帯はいつもより低く締められ、胸元から白い肌がのぞいていた。
酒呑童子の目が細くなる。
『ほう』
「酒呑童子と聞いて、どんな化け物かと思えば――」
舞台へ上がった幽解夏は、男の姿をつま先から頭まで眺めた。
そして、唇の端を上げる。
「いい男じゃないか」
『くく……』
酒呑童子は満足げに盃を傾けた。
『我を恐れぬか』
「怖がってほしいのかい?」
『よい』
大きな手が伸びた。
幽解夏の腕を掴み、そのまま力任せに引き寄せる。
幽解夏の身体が、酒呑童子の胸元へ収まった。
客席の鬼どもがどっと沸く。
だが幽解夏は、抵抗しなかった。
酒呑童子の腕の中で、ふふ、と妖しく笑う。
長い睫毛の下から、艶を帯びた瞳で男を見上げた。
「力任せな男は、嫌いじゃないよ」
『言うではないか』
酒呑童子の腕が、幽解夏の腰をさらに強く抱き寄せる。
幽解夏の身体が、男の胸へ押しつけられた。
酒呑童子は大盃を放り捨てると、自らの着物の襟を乱暴に開いた。
『余興じゃ』
『お前を抱いてやろう』
鬼どもが歓声を上げる。
『久方ぶりのおなごの肌よ』
『存分に堪能させてもらうとするか……』
酒呑童子が顔を近づけた。
荒い息が、幽解夏の頬へ触れる。
鼻先が、さらされた首筋へゆっくりと降りていく。
幽解夏は逃げなかった。
むしろ首をわずかに傾け、男を迎え入れるように白い肌をさらした。
「おや、気が早い男だねぇ」
耳元へ唇を寄せ、甘く囁く。
「もう我慢できないのかい?」
酒呑童子の呼吸が、さらに深くなる。
幽解夏はその胸へ手を添えた。
細い指先が、露わになった肌へ触れる。
「あたしを抱きたいなら……」
幽解夏の指が、酒呑童子の胸をつつつ、とゆっくりなぞった。
酒呑童子の視線が、その指先を追う。
甘く細められていた幽解夏の瞳から、ふっと艶が消えた。
「主役になってから出直してきな」
次の瞬間。
指先から白い神火が迸った。
炎は一本の矢となり、酒呑童子の胸の中央へ突き刺さる。
『ぐっ――!』
酒呑童子は反射的に幽解夏の肩を押しのけた。
同時に舞台を蹴り、後方へ大きく飛び退く。
着地した足元から、床板が蜘蛛の巣のようにひび割れた。
幽解夏も二、三歩よろめいたが、倒れない。
片足を引いて姿勢を戻し、乱れた襟をゆっくりと整える。
「おや」
唇には、まだ笑みが残っていた。
「随分と乱暴じゃないか。さっきまで、あれほど熱心だったのにねぇ」
酒呑童子は答えなかった。
胸元を押さえ、その指の隙間から噴き出す白い炎を見下ろしている。
神火は涅央の肉を焼いていなかった。
赤黒い妖気だけを食らい、鬼の魂と涅央の魂が絡み合う境目へ深く食い込んでいる。
やがて、酒呑童子の肩が小さく揺れた。
『くっ……くっくっく』
怒りではない。
低い笑いだった。
『肉を焼かず、我が魂を射たか』
「涅央の身体だからね。傷物にするわけにはいかないだろう?」
『色香で懐へ入り、魂の境目を狙うとは……』
酒呑童子が顔を上げる。
赤い瞳が、愉悦に細められた。
『実によい女よ』
「褒めたって、二度目はないよ」
『ますます欲しくなったわ』
「懲りない男だねぇ」
幽解夏は右手へ新たな神火をまとわせた。
だが酒呑童子は、彼女の手の炎ではなく、自らの胸に刺さった炎へ意識を向けていた。
白い神火は、鬼の魂へ細い亀裂を穿っている。
その裂け目の向こうに、暗く沈んだ何かがある。
『なるほど』
酒呑童子は低く笑った。
『我を射たのは、道を開くためか』
幽解夏の笑みが、わずかに深くなった。
「気づくのが少し遅かったね」
彼女の声が、神火の亀裂を抜けていく。
鬼の妖気を裂き、涅央の魂の奥底へ落ちていった。
「涅央」
◇
暗闇の中で、涅央は目を開けた。
そこには舞台があった。
けれど、舞台と客席の境は失われていた。
百を越える魂が舞台へ押し寄せ、涅央の周囲で一斉に叫んでいる。
泣き声。
怒号。
助けを求める声。
憎しみ。
後悔。
家族の名。
燃える家。
冷たい川。
崩れ落ちる坑道。
百七の記憶と感情が重なり合い、意味を持たない轟音となって、涅央の内側を埋め尽くしていた。
自分がどこにいるのかさえ分からない。
誰の悲しみを感じているのか。
誰の声で泣いているのか。
どこまでが自分で、どこからが彼らなのか。
涅央は暗い舞台袖に膝をついていた。
目の前の舞台では、自分の姿をした酒呑童子が笑っている。
自分の身体。
自分の声。
自分の顔。
それらを使い、鬼が主役を演じていた。
『涅央』
一筋の白い炎が、暗闇を裂いた。
幽解夏の声だった。
涅央は顔を上げる。
「……幽さん」
『いつまで客席にいるつもりだい』
声は決して優しくなかった。
『そこは、あんたの舞台だろう』
「でも……」
涅央は周囲を見た。
百七の魂が、彼の内側で叫び続けている。
「俺が立てば、この人たちを置いていくことに……」
『全部抱えて、一緒に潰れるつもりかい』
「ですが、この人たちを――」
『言い訳は、舞台へ戻ってからにしな』
白い神火が強く輝いた。
『あんたが立たなきゃ、そいつらの幕も下ろせないだろう』
幽解夏の声が遠ざかっていく。
あとに残ったのは、百七の悲鳴だった。
また一つ、声が涅央の頭を貫く。
焼け落ちる家の前で、女が泣いていた。
炎の向こうへ手を伸ばし、戻らない者の名を何度も叫んでいる。
涅央は、その声に引かれるように膝を折りかけた。
だが今度は、目を逸らさなかった。
「あなたの声は、聞こえています」
女の悲しみが、胸の内へ流れ込んでくる。
熱い。
苦しい。
これまでの涅央なら、そのすべてを自分のものとして抱え込んでいただろう。
けれど、それでは女の悲しみと、自分の心との境がなくなってしまう。
涅央は、舞台下の客席へ目を向けた。
「どうか、そこへ座ってください」
女は泣きながら、なお炎の向こうへ手を伸ばしていた。
「忘れろとは言いません」
涅央は静かに続ける。
「泣くのをやめなくても構いません」
客席の最前列に、一つの灯がともった。
「あなたの声は、ここで聞かせてください」
女の姿が揺らぐ。
やがて彼女は、導かれるように最前列へ歩き、空いていた席へ腰を下ろした。
泣き声は消えなかった。
涅央の耳には、まだはっきりと届いている。
しかしもう、それは涅央自身の口からこぼれる悲鳴ではない。
客席から届く、一人の女の声だった。
その隣に、深い川へ沈んだ男が現れた。
濡れた手を伸ばし、息ができないと訴えている。
「あなたも、こちらへ」
涅央が席を示すと、男は水を滴らせながら、女の隣へ座った。
冷たさは残っている。
息苦しさも伝わってくる。
それでも涅央は、もう川底へ引きずり込まれなかった。
次に現れたのは、暗い坑道で脚を潰された男だった。
遠くでは、仲間たちの声が一つずつ途絶えていく。
『置いていくな』
『一人にしないでくれ』
男は涅央の足へ縋ろうとした。
涅央は、その手を振り払わなかった。
しゃがみ込み、土と血に汚れた手を取る。
「一人にはしません」
『なら、ここにいろ』
「それはできません」
男の指へ力がこもる。
『お前も、一緒にいてくれ』
涅央は一瞬、言葉を失った。
その願いを受け入れてしまえば、きっと楽だった。
この場へ倒れ、百七人とともに苦しみ続ければ、誰も見捨てずに済むような気がした。
だが、それでは誰一人として帰せない。
「俺は、あなたの代わりにはなれません」
男の顔が歪む。
「ですが、あなたがここにいたことを、なかったことにはしません」
涅央は客席を示した。
「どうか、そこで見ていてください」
長い沈黙のあと、男は涅央の手を放した。
そして客席へ向かって歩き出す。
一人。
また一人。
子の名を呼び続ける母親。
帰りを待つ妻へ詫びる男。
憎い、許さないと涅央を罵る者。
何も言わず、ただ涙を流す者。
涅央は一つひとつの声へ向き合った。
「聞こえています」
「怒っていて構いません」
「俺を責めても構いません」
「泣きやまなくてもいいんです」
彼らを慰める言葉など、涅央にはなかった。
救えると約束することもできない。
できるのは、声を声として受け取り、その声の持ち主へ席を返すことだけだった。
舞台へ押し寄せていた魂が、一人ずつ客席へ降りていく。
十人。
二十人。
五十人。
席が埋まるほど、声は増えていった。
すすり泣き。
怒号。
呻き。
罵声。
けれど、不思議なことに、涅央の内側には少しずつ余白が戻っていた。
声が小さくなったからではない。
誰の声なのか、分かるようになったからだ。
百六人目が席へ着く。
最後に残ったのは、暗い坑道の奥で仲間の死を見届けた男だった。
百七番目の魂。
男は客席へ向かわず、舞台の下から涅央を見上げている。
『俺たちを、客にするのか』
「ええ」
『追い出さずに』
「今は、ここで声を聞かせてください」
『全部聞いたまま、立つつもりか』
客席から、無数の声が涅央へ降り注いでいた。
優しい声など、ほとんどない。
悲しみも、憎しみも、恐怖も、何一つ消えてはいない。
涅央はそれらを聞きながら、百七番目の男へ手を差し出した。
「俺は、皆さんの声を消すことはできません」
男はその手を見つめる。
「ですが――」
涅央は、誰もいなくなった舞台を見渡した。
「声を聞きながら、立つことならできます」
男はしばらく動かなかった。
やがて、涅央の手を取る。
舞台へ上がるためではない。
涅央に導かれ、客席へ下りるために。
百七番目の魂が席へ着いた。
その瞬間。
意味を持たぬ轟音だった百七の声が、一人ひとりの声へ分かれた。
泣く者。
怒鳴る者。
涅央を責める者。
黙ったまま見つめる者。
百七の声は、何一つ消えていない。
だが、もはや涅央を内側から引き裂く濁流ではなかった。
舞台へ注がれる、百七人の観客の声だった。
涅央は、そのすべてを正面から受けた。
歓声だけが、役者へ向けられる声ではない。
失望も。
嘲笑も。
罵声も。
泣き声も。
舞台に立つ者は、それらを聞きながら己の役を演じる。
静かになったのではない。
涅央が、声の中で立てるようになったのだ。
舞台中央にいた酒呑童子が、ゆっくりと涅央を振り返った。
『声を封じたか』
「いいえ」
涅央は舞台へ続く階段へ足をかける。
「席に着いてもらっただけです」
『歓声も罵声も、すべて受けながら舞台に立つか』
涅央は階段を上り切った。
百七の視線を背に受け、酒呑童子の正面へ立つ。
「役者ですから」
酒呑童子の赤い瞳が、細くなる。
『まだ我へ抗うか』
「ここは、俺の舞台です」
『百七もの魂に押し潰され、我に身体まで奪われたというのにか』
「奪ったのではありません」
『何?』
「俺が、立てなくなっていただけです」
酒呑童子の口元から、笑みが消えた。
涅央は客席へ目を向ける。
「百七人は、さすがに多すぎましたね」
泣き声も、怒声も、今なお聞こえている。
涅央は、それらすべてを受け止めながら、再び酒呑童子を見据えた。
「ですが――」
一歩、前へ出る。
「あなただけなら、収まります」
内なる歌舞伎座から、音が消えた。
酒呑童子は、しばし涅央を見つめていた。
やがて、その口元がゆっくりと歪む。
『……鬼すら喰らう悪食か』
低い笑いが、舞台を震わせる。
『見かけによらず、豪胆な奴だ』
「そうでしょうか」
『その自覚もないときたか』
酒呑童子が右腕を上げる。
涅央の喉元を掴もうと、大きな手が伸びた。
だが。
その腕は、途中で止まった。
酒呑童子の指が震える。
それ以上、前へ進まない。
涅央が止めている。
己の意志で。
己の身体を。
『……なるほど』
酒呑童子は動かぬ腕を見下ろした。
怒ることも、抗うこともなく、愉快そうに笑った。
『もはや、この身体は我の思いどおりにはならぬか』
「この身体は、俺のものです」
『我に役を退けと申すか』
「この役は、あなたには渡しません」
酒呑童子は大きく目を見開いた。
そして――笑った。
『面白い器と思ったが……』
赤黒い妖気が、舞台いっぱいに渦巻く。
酒呑童子は心底愉快そうに、動かぬ両腕を広げた。
『想像より遥かに面白い器だったわ!』
鬼の哄笑が、百七の観客の声を越えて響き渡る。
だが涅央は、もう揺らがなかった。
しばらく笑ったあと、酒呑童子はゆっくりと息を吐いた。
『我を内に置き、役だけを奪い返すか』
笑みが深くなる。
『我を飼うつもりか。くっくっく……』
「飼うつもりはありません」
『同じことよ』
酒呑童子は踵を返した。
舞台の奥へ向かって歩き始める。
『よかろう』
『しばらくは、貴様の中でゆるりと過ごすとするかな』
涅央はその背を見つめた。
「勝手に居座られても困ります」
『何を申す。我が新たな住処として認めてやったのだぞ』
「頼んでいません」
『居心地は、思いのほか良いのでな』
「勝手にくつろがないでください」
『我を内に収めると言ったのは貴様であろう』
「収まるとは言いましたが、好きにしていいとは言っていません」
酒呑童子は振り返らず、低く笑った。
『くく……細かい男よ』
その姿が、赤黒い霧へ変わっていく。
『忘れるな、涅央』
『貴様が役を譲れば、我はいつでも舞台へ戻る』
涅央は静かに答えた。
「譲りません」
赤黒い霧が、舞台奥の暗闇へ消えた。
◇
現実の歌舞伎座で、酒呑童子の身体が止まった。
掲げようとしていた右腕が、力なく下がる。
赤かった右目が揺らぎ、やがて涅央本来の色へ戻っていった。
舞台を覆っていた妖気が崩れ始める。
赤い提灯が一つずつ消え、鬼や亡者の姿が煙のように薄れていく。
客席から聞こえていた笑い声も、盃の音も、三味線の響きも途絶えた。
皇都歌舞伎座が、本来の姿を取り戻していく。
「……涅央?」
幽解夏が呼びかけた。
涅央はゆっくりと顔を上げる。
「……幽さん」
その声は、間違いなく涅央のものだった。
幽解夏は小さく息を吐いた。
「やっと戻ったかい」
「ご迷惑を……」
言い終える前に、涅央の膝が折れた。
幽解夏が素早く腕を伸ばし、その身体を受け止める。
「おっと」
「……申し訳ありません」
「違うだろう」
幽解夏は、涅央の額を指先で軽く弾いた。
「こういう時は、ありがとうって言うんだよ」
涅央は目を瞬かせた。
そして疲れ切った顔で、かすかに笑う。
「……ありがとうございます」
「よろしい」
歌舞伎座を覆っていた赤黒い帳が、音を立てて崩れ落ちた。
夜気が流れ込む。
遠くから、涅央を呼ぶ仲間たちの声が聞こえた。
涅央は胸元へ手を当てる。
百七の魂は、まだ客席にいる。
泣く者。
怒る者。
黙って涅央を見つめる者。
彼らの声は、今も聞こえていた。
だが、もう涅央を押し潰す濁流ではない。
幕が上がるのを待つ、百七人の観客の声だった。
そして舞台袖の暗がりでは、一匹の鬼が、いつの間に持ち込んだのか分からぬ盃を傾けている。
『くく……』
低い笑いが、涅央の胸の奥で響いた。
客席には、百七の魂。
舞台袖には、一匹の鬼。
それでも主役は、涅央だった。




