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からくり道中浪漫譚―白詰草異聞―  作者: ロマリアス
白虎編

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白虎編 第十三話 【鬼、舞台に立つ】



 皇都歌舞伎座の朝は早い。

 客の姿がまだない薄暗い舞台に、拍子木の乾いた音が響いていた。

 花道を駆ける足音。

 衣擦れ。

 木刀が空を切る、鋭い音。

「もう一度、お願いします」

 涅央は舞台中央へ戻ると、稽古用の木刀を静かに構えた。

 額には薄く汗がにじんでいる。それでも、呼吸はほとんど乱れていなかった。

 向かいに立つ立師が、半ば呆れたように肩を落とす。

「もう十分だろう、涅央。今夜も本番だぞ」

「今の間では、客の心が動きません」

「客には分からんさ。ほんの一呼吸の違いだ」

「だからこそです」

 涅央は穏やかに笑った。

「気づかれないところまで整えて、初めて舞台になるのでしょう」

「まったく。お前は芸のことになると、途端に頑固になるな」

「よく言われます」

 再び、拍子木が鳴る。

 涅央は一歩を踏み込んだ。

 先ほどまでの柔らかな気配が消える。

 重心が沈み、背筋が伸び、眼差しが別人のように鋭くなる。

 声も、呼吸も、立ち姿さえも。

 舞台の上で、涅央は涅央であることをやめる。

 木刀が振り下ろされた。

 刃のないはずの一閃に、立師が思わず半歩退く。

 その瞬間だった。

 舞台の床が、かすかに揺れた。

 吊られた大道具が軋み、天井から細かな埃が落ちる。

「地震か?」

 誰かが呟いた。

 だが揺れは、すぐに止まった。

 涅央は木刀を下ろし、舞台の奥へ目を向けた。

「……聞こえませんでしたか」

「何がだ?」

 涅央は答えず、耳を澄ませた。

 泣き声が聞こえる。

 男とも女とも、老人とも子どもともつかない。

 地の底から染み出してくるような、細い声。

「今日の稽古は、ここまでにしましょう」

「おい、涅央」

「少し、外を見てきます」

 衣装の上から羽織を掛け、涅央は足早に歌舞伎座を出た。

 その直後、再び建物が揺れた。

「全員、外へ出ろ! 大道具から離れろ!」

 立師の怒声に、役者や裏方たちが一斉に動き始めた。

     ◇

 異変は、歌舞伎座からほど近い芝居河岸で起きていた。

 通りの一部が、大きく陥没している。

 石畳は割れ、地下を走る蒸気管が剝き出しになり、白い蒸気を激しく噴き上げていた。

 傾いた街灯が明滅し、青白い天礎石の光が煙の向こうで不規則に瞬いている。

「下がれ!」

「穴へ近づくな!」

 警邏の声が飛び交う。

 しかし、人々が怯えている理由は陥没だけではなかった。

 穴の底から、黒い靄が噴き出している。

 煙ではない。

 苦悶に歪んだ顔が、いくつも浮かんでは消えていく。

 怒り。

 恨み。

 悲しみ。

 未練。

 名すら残らなかった者たちの思念が、濁流となって地上へ這い上がっていた。

 黒い靄に触れた男が、突然、隣にいた者へ殴りかかる。

「俺の店を返せ!」

「何を言っているんだ!」

「お前が奪ったんだ! 全部、お前が!」

 男の顔には黒い筋が浮かび、目は自分のものではない怒りに染まっている。

 少し離れた場所では、女が幼い子どもを抱き締め、誰もいない空間へ泣き叫んでいた。

「ごめんなさい……置いていかないで……!」

 涅央はその肩へ、そっと手を置いた。

「こちらを見てください」

 女の虚ろな瞳が、涅央を捉える。

「あなたが抱いている子は、ここにいます」

 涅央は静かに言葉を重ねた。

「その悲しみは、あなたのものではない。どうか、心まで渡さないでください」

 女の瞳が揺れる。

 やがて大きく息を吐くと、その身体から薄い影が剝がれ落ちた。

 影は呻き声を残し、再び穴の方へ引き寄せられていく。

「この通りを離れてください。大通りへ出れば、警邏の方が誘導してくれます」

「涅央さん……」

「大丈夫です。ゆっくりで構いません」

 涅央は母子を係の者へ預けると、別の男のもとへ駆け寄った。

 取り憑いた影へ呼びかけ、男の呼吸を整え、身体から引き剝がす。

 だが、解き放たれた怨霊は消えなかった。

 黒い靄へ戻り、今度は逃げ遅れた老人へ襲いかかる。

 涅央がそれを止める。

 また別の怨霊が地上へ出る。

 一人を救う間に、二人が憑かれる。

 さらに穴の底から、新たな声が湧き上がってくる。

 泣き声は、少しずつ大きくなっていた。

「きりがない……」

 警邏の男が、青ざめた顔で呟いた。

 涅央は陥没した穴へ近づいた。

 穴の周囲では、何人もの人間が怨霊に憑かれている。

 笑い続ける者。

 地面を掻きむしる者。

 遠い昔の名を呼びながら、川へ向かおうとする者。

 そして穴の底には、数えることすらかなわぬほどの魂が渦巻いていた。

 涅央は目を閉じた。

 声を聞く。

 死んだことさえ、誰にも気づかれなかった者。

 帰りを待つ者を残したまま、土の下へ消えた者。

 忘れられ、名を失い、それでも消えることのできなかった者。

「……随分、長く待っていたんですね」

 涅央の声に、黒い渦が一瞬だけ静まった。

 背後から警邏の男が叫ぶ。

「涅央さん、下がってくれ! 白詰草同盟へ使いを出した。じきに来る!」

「それでは間に合いません」

「だが、あんたに何ができる!」

 涅央は穴の底を見つめた。

 舞台の上で、幾人もの人生を借りてきた。

 武士の怒りも。

 母の悲しみも。

 罪人の悔恨も。

 役の心を否定せず、その呼吸へ自分を重ねる。

 それが涅央の芸だった。

 舞台ならば、幕が下りれば戻ることができる。

 しかし目の前にいるのは、役ではない。

 行き場を失った、本物の魂である。

 それでも、このまま都へ散らせるわけにはいかない。

「俺が受け入れます」

 警邏の男が息を呑んだ。

「何を言っている」

「一度、あの魂たちを俺の中へ集めます」

「あんた一人で受け止められる数じゃない!」

「分かっています」

「なら、なぜ!」

 涅央は穏やかに笑った。

「今ここで、ほかに間に合う方法がないからです」

 その笑みを見た警邏の男は、言葉を失った。

「それに」

 涅央は再び穴の底へ目を向ける。

「あの人たちにも、話を聞いてもらう権利くらいはあるでしょう」

「待て!」

 制止の声を背に、涅央は穴の中へ飛び降りた。

     ◇

 落下の感覚は、すぐに消えた。

 足が触れたのは、陥没した穴の底ではなかった。

 黒い岩肌の間を、どこまでも下っていく坂。

 空も地もなく、遠くでは青白い鬼火が揺れている。

 道の両側には、亡者たちが立っていた。

 顔のない者。

 手足の数が合わぬ者。

 獣の頭を持つもの。

 身体の半ばを失い、それでも這い続けるもの。

 名も形も失い、ただ恨みだけとなった影。

 さらに奥では、人とも獣ともつかぬ魑魅魍魎が、涅央の気配を嗅ぎつけるように闇の中で蠢いている。

 涅央の脳裏に、かつて舞台で演じた黄泉下りの一幕がよみがえった。

 黄泉へと続く、果ての見えぬ坂。

 生者と死者を隔てる境。

 亡者と魑魅魍魎が巣食う、黄泉の入り口。

「まさか……」

 涅央は呟いた。

黄泉比良坂(よもつひらさか)……」

 踏み越えてはならない場所へ迷い込んだのだと悟る。

 だが、引き返すことはできなかった。

 背後に道はない。

 代わりに、現世へ昇ろうとする亡者たちの影が、涅央を取り囲んでいた。

 冷たい。

 いや、熱い。

 凍えるような孤独と、身を焼く憎しみが同時に押し寄せてくる。

 涅央は息を整えた。

「大丈夫です」

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

「一人ずつで構いません。聞かせてください」

 最初の影が、涅央の胸へ飛び込んだ。

 知らない男の人生が見えた。

 崩落事故。

 届かなかった助け。

 地上の光を見上げながら、少しずつ冷たくなっていく指。

 一。

 次の影。

 幼い娘を残した母親。

 二。

 名もない工夫。

 三。

 流行病で死んだ旅芸人。

 四。

 だが、魂たちは順番を待ってはくれなかった。

 影が次々と涅央の中へ流れ込む。

 帰りたい。

 殺したい。

 助けてほしい。

 忘れないで。

 恨みたくない。

 それでも、許せない。

 十を越えた頃には、足の感覚が薄れていた。

 五十を越えた頃には、自分の呼吸さえ誰のものか分からなくなった。

 それでも涅央は、数え続けた。

 数だけが、かろうじて自分を自分へ繋ぎ止めていた。

 やがて、百を越えた。

 もう、指先は動かない。

 肺へ空気が入っているのかも分からない。

 それでも、黒い影は途切れなかった。

 次。

 百五。

 焼け落ちる家。

 炎の向こうで、誰かが自分の名を呼んでいる。

 次。

 百六。

 深い川の底。

 差し込む光へ、届かない手。

 次。

 百七。

 暗い坑道。

 潰れた足。

 遠ざかっていく仲間の声。

 涅央の膝が崩れた。

 黒い坂へ手をつく。

 百七人分の記憶と感情が重石となり、身体は指一本動かなかった。

 百七人分の声が、頭の中で一斉に泣き、怒り、笑っている。

 涅央。

 その名さえ、もう遠い。

 舞台。

 拍子木。

 客席の灯り。

 幼い頃から見上げてきた、歌舞伎座の天井。

 すべてが黒い波の中へ沈んでいく。

 それでも涅央は、かすかに顔を上げた。

「……まだ、いるんでしょう」

 その時。

 坂のさらに奥。

 鬼火さえ近づかぬ闇の中から、低い笑い声が響いた。

『ほう……面白い器よ』

 暗闇の中から、一人の男が姿を現す。

 大柄な身体。

 燃えるような髪。

 額から伸びた二本の角。

 手には、赤黒い酒で満たされた大盃。

 周囲に蠢いていた魑魅魍魎が、一斉に道を空ける。

 男は盃を傾けながら、楽しげに涅央を見下ろしていた。

『百七もの魂を抱え、なお次を招くか』

 涅央は、かすむ目で男を見上げた。

「……あなたも、話を聞いてほしいのですか」

 男は一瞬、黙った。

 やがて腹の底から、愉快そうに笑い始める。

『気に入った』

 盃から赤黒い酒が溢れ、坂を伝って広がっていく。

 酒の匂いが満ちた瞬間、涅央の中で喚いていた百七の魂たちの声が、一斉に途切れた。

 静寂。

 亡者たちだけではない。

 道の両側に巣食っていた魑魅魍魎さえ、鬼を恐れるように息を潜めている。

「……あなたは、誰です」

『名も知らずに招き入れたか』

「あなたを招いた覚えはありません」

『同じことよ』

 男は笑う。

『拒まず、否定せず、何もかも受け入れる』

 盃をさらに傾ける。

『なるほど。随分と広い屋敷ではないか』

 涅央は立ち上がろうとした。

 だが、身体は動かない。

 百七人分の記憶と感情が、涅央の意識を押し潰している。

「出ていってください」

 男の笑みが深くなる。

『ならば、門を閉じてみよ』

 涅央は息を呑んだ。

『どうした』

 男が一歩、近づく。

『門番がおらぬのか?』

 涅央の胸へ、男の手が触れた。

 焼けるような痛みが走る。

『門を閉じられぬ屋敷など、主なきも同じよ』

「……違う」

 涅央は、消え入りそうな声で言った。

「ここは……俺の、身体です」

『そうか』

 鬼は楽しげに目を細める。

『ならば我が、最後の一席をもらおう』

 男の姿が崩れた。

 赤黒い霧となり、涅央の口、鼻、目、傷口から身体の中へ流れ込んでくる。

「……っ!」

 涅央は胸を押さえた。

 百八。

 最後に入ったものだけは、怨霊ではなかった。

 黄泉比良坂が、大きく揺れる。

 地の底とも空の果てともつかぬ場所から、低い轟音が響いた。

 涅央の鼓動が止まる。

 一度。

 二度。

 そして次の瞬間、別の何かが心臓を内側から打ち鳴らした。

 どくん。

 どくん。

 骨が軋む。

 筋肉が引き絞られ、爪が伸びる。

 額に熱が集まり、皮膚を割って黒い角が姿を現した。

 涅央の喉から、押し殺した呻きが漏れる。

「俺は……まだ……」

『もうよい』

 内側から、男の声が響いた。

『器は壊れる寸前が、最も馴染む』

「まだ……終わって、いない」

『終わったとも』

 涅央の右目が、鬼のような赤に染まる。

 左目には、涅央本来の色が、かすかに残っていた。

 口元が、彼自身の意思とは無関係に吊り上がる。

『ここからは、我が演じてやろう』

 鬼は得たばかりの身体を立ち上がらせた。

 そして現世へ続く裂け目を見上げると、黒い坂を一歩、力強く踏み抜いた。

 黄泉比良坂の闇が弾ける。

 次の瞬間。

 現世の陥没穴から、赤黒い光が噴き上がった。

     ◇

 白詰草同盟へ異変の報が届いた頃には、芝居河岸一帯はすでに騒乱に包まれていた。

「怨霊が出た?」

 報告を聞いた羅馬が、すぐに立ち上がる。

「数は?」

「分かりません。ですが、今も増え続けていると」

 毒島が作業台の上に広げていた図面を丸め、工具箱を掴んだ。

「陥没した場所はどこだ」

「芝居河岸です。歌舞伎座のすぐ近くで――」

 亜呂の表情が変わる。

「歌舞伎座……涅央さんが」

「行こう」

 羅馬が言った。

 それ以上の言葉は必要なかった。

     ◇

 羅馬たちは、芝居河岸へ向かって走った。

 通りへ近づくほど、悲鳴と蒸気の噴き出す音が大きくなっていく。

 やがて、崩れた街並みが見えた。

 その瞬間。

 穴の底から、赤黒い光が立ち上った。

 轟音。

 石畳が大きく割れ、周囲の者たちが地面へ伏せる。

「何だ、あれは……!」

 毒島が目を細めた。

 穴の底から、一つの影がゆっくりと浮かび上がってくる。

 涅央だった。

 だが、その姿を見た誰もが声を失った。

 白と藍の衣は、まとわりつく妖気によって黒く沈んで見えた。

 金の刺繍には、血管のような赤い光が走っている。

 長い髪は風もないのに逆巻き、額には二本の角。

 右目は鬼のような赤。

 左目には、涅央本来の色がわずかに残っている。

 伸びた爪。

 口元から覗く牙。

「……涅央さん?」

 亜呂の声が、かすかに震えた。

 半妖となった涅央が、ゆっくりとこちらを振り返る。

 その顔は、確かに涅央だった。

 だが、浮かべている笑みは彼のものではない。

「涅央!」

 羅馬が叫んだ。

 一瞬。

 ほんの一瞬だけ。

 左目の奥で、何かが揺れた。

 亜呂は息を呑む。

 鬼の妖気のさらに奥。

 深い闇へ沈みながら、それでも消えてはいない、涅央の気配。

「……涅央さんは、まだそこにいます」

 亜呂が小さく言った。

 涅央の顔をした鬼が、面白そうに目を細める。

「ほう。この器の知己か」

 羅馬が一歩前へ出た。

「そいつから出ろ」

「出ろ、とな」

 鬼は低く笑う。

「それは困る。この身体は実に馴染む」

「涅央を返せ」

「無粋な男よ」

 鬼は口元から牙を覗かせ、肩越しに羅馬を見た。

「我が名は酒呑童子(しゅてんどうじ)

 その名が落ちた瞬間、周囲を漂っていた怨霊たちがざわめいた。

「覚えておけ。今宵、この都に鬼の宴を開く者の名よ」

 酒呑童子は羅馬たちへ背を向けた。

 視線の先には、皇都歌舞伎座がある。

「客となるなら歓迎しよう」

「待て!」

 羅馬が駆け出そうとした。

 その時、地面が大きく震えた。

 黄泉比良坂へ繋がった裂け目から、さらに多くの怨霊が噴き出す。

 黒い影が人々へ襲いかかり、悲鳴が上がった。

 羅馬の足が止まる。

 酒呑童子は、その様子を振り返りもしなかった。

「涅央!」

 呼び声を背に受けながら、鬼は歌舞伎座へ向かって歩き出す。

 穴から新たに溢れた怨霊に憑かれた者たちが、その後を追うように立ち上がった。

 笑いながら。

 呻きながら。

 鬼の行列となって。

「追うぞ!」

 羅馬が言う。

 しかし、毒島がその腕を掴んだ。

「待て!」

「離せ!」

「周りを見ろ!」

 通りには、次々と怨霊が溢れ出している。

 警邏の者たちだけでは抑えきれない。

 怨霊に憑かれた人々が互いへ襲いかかり、避難する群衆が押し合い、今にも将棋倒しになりかけていた。

 亜呂が袖を強く握る。

 目の前では、多くの人が助けを求めている。

 だが遠ざかっていく背中もまた、助けなければならない仲間だった。

「……羅馬さん」

 羅馬は歯を食いしばった。

 分かっている。

 ここを放って涅央を追えば、何人死ぬか分からない。

 そして涅央なら、必ず言う。

 自分ではなく、人々を助けてくれと。

「……先に、こっちを止める」

     ◇

「斬るな!」

 仁虎の声が通りに響いた。

 少し遅れて現場へ到着した仁虎は、暴れる男の腕を掴み、その勢いを利用して地面へ伏せさせる。

「中身は皇都の民だ! 傷つけずに押さえろ!」

 警邏の者たちが声を上げて応じた。

 怨霊に憑かれた者が、仁虎へ飛びかかる。

 仁虎は拳を振るわず、その身体を抱えるように受け止めた。

「踏ん張れ。身体を渡すな」

 男が苦しげに呻く。

 その向こうでは、亜呂が神楽鈴を取り出していた。

 澄んだ音が鳴る。

 混乱する芝居河岸へ、静かに広がっていく。

 荒れ狂っていた怨霊たちが、わずかに動きを止めた。

 亜呂は目を閉じ、胸の前で手を合わせる。

「どうか、お鎮まりください」

 声を張り上げることはしない。

 それでも言葉は鈴の音へ乗り、怨霊たちの中へ届いていく。

「皆さんの帰る道は、まだ閉ざされていません」

 怒りに歪んだ影が、亜呂の前へ迫る。

 亜呂は逃げなかった。

「誰かを傷つけなくても、その思いはきっと届きます」

 淡い神火が灯る。

 人を焼く炎ではない。

 迷った魂の足元を照らす、小さく優しい火だった。

「大丈夫です」

 亜呂は、静かに微笑む。

「一緒に、帰る道を探しましょう」

 いくつかの影から、黒い濁りが薄れていく。

 一瞬だけ、生前の姿が現れた。

 老人。

 女。

 子ども。

 工夫。

 旅人。

 誰にも知られず消えていった、多くの人々。

 だが、鈴の音だけでは魂たちは帰れない。

 黒い影は穏やかになりながらも、行き場を失ったまま亜呂の周囲を漂っていた。

「今だ!」

 仁虎が叫んだ。

「あの巫女の鈴の音が届く場所まで運べ!」

 警邏の者たちが、憑かれた人々を亜呂の周囲へ集めていった。

     ◇

 一方、羅馬と毒島は陥没した穴の周囲を調べていた。

「駄目だ。きりがねえ」

 毒島は地面へ器具を当て、計器の針を睨む。

「怨霊を鎮めても、下からまた押し上げられてくる」

 羅馬は穴の奥を見つめた。

 黒い靄のさらに下。

 青白い光が脈打っている。

「怨霊が原因じゃない」

「何?」

「地脈が裂けてる。その先に、別の場所が繋がってるんだ」

 壊れた蒸気管。

 砕けた天礎石。

 切断された導管。

 そして、そのさらに下を流れる地脈。

 本来は閉ざされているはずの境界が、地脈の乱れによってこじ開けられている。

 羅馬の脳裏に、古い記録の一節が浮かんだ。

 現世と黄泉を繋ぐ坂。

 亡者が下り、生者が決して踏み入れてはならぬ場所。

「まさか……黄泉比良坂」

 毒島が羅馬を見る。

「何だと?」

「この穴は、地下へ続いてるんじゃない。黄泉の入り口に繋がってる」

 羅馬は周囲を見回した。

「裂け目を塞ぐだけじゃ駄目だ」

「また別の場所で開くぞ」

「だから、流す」

 羅馬は壊れた蒸気管を指した。

「地脈の力がここへ集中して、境界を押し開いてる。別の道を作って、圧を逃がすんだ」

 毒島が割れた地面と導管を見比べる。

「仮の迂回路を作るってのか」

「できる?」

「誰に聞いてやがる」

 毒島は工具箱を地面へ叩き置いた。

「設計しろ。形にするのは俺がやる」

 羅馬は折れた街灯の支柱を引き抜き、石畳へ構造図を描き始めた。

 毒島が警邏の者たちへ怒鳴る。

「動ける奴は、壊れてねえ蒸気管を探せ! 鎖と鋼板もだ!」

 羅馬が線を引く。

 毒島が部材を組み上げる。

 壊れた蒸気管。

 歯車。

 鋼索。

 天礎石の破片。

 それらが即席のからくりへ組み替えられていく。

「圧を川側へ逃がす!」

「水脈とぶつかるぞ!」

「その手前で二つに分ける!」

 毒島は図面を一瞥した。

「……やってやる。そこを押さえろ!」

 羅馬が装置を支える。

 毒島が最後の留め具を締めた。

「開けるぞ!」

 把手が回る。

 歯車が噛み合い、蒸気が噴き上がった。

 青白い光が導管を走る。

 地面が大きく震えた。

 穴の底へ集中していた力が、左右へ分かれて流れ始める。

 怨霊の噴出が、わずかに弱まった。

「効いてる!」

「まだだ!」

 毒島が計器を見る。

「流れは作ったが、境界そのものが荒れてやがる!」

 その時。

 ごつり、と杖が石畳を打った。

「道は作ったようじゃな」

 振り返ると、ご隠居が立っていた。

「ご隠居!」

「流れが、少し引っ掛かっておる」

 ご隠居は装置の傍らへしゃがみ込み、杖の先で石畳を軽く叩いた。

「そこの歯車を、ほんの少し戻してみい」

 毒島が眉を寄せる。

「戻す?」

「よいから」

 毒島は訝しげな顔をしながらも、歯車をわずかに戻した。

 その瞬間。

 装置の奥で、かちり、と音がした。

 地中を走る青白い光が、滑らかに流れ始める。

 激しく揺れていた計器の針が、ゆっくりと中央へ戻っていった。

「……何で分かった」

 毒島が呟く。

「年寄りはな」

 ご隠居は立ち上がり、穏やかに笑う。

「引っ掛かりというものに、よう気がつく」

 毒島は納得していない顔をしたが、今は問いただしている場合ではなかった。

「羅馬! もう一度、圧を見ろ!」

「安定してきた!」

 装置が低く唸った。

 羅馬と毒島が作った迂回路を、地脈の光が滑らかに走り抜けていく。

 荒れていた流れが整う。

 陥没した穴の底で、赤黒く開いていた裂け目が少しずつ細くなっていった。

 亜呂の鈴が鳴る。

 涅央に取り込まれず、地上へ溢れていた魂たちが、一斉に穴の底へ顔を向けた。

 黄泉へ下る、淡い光の道が開いている。

「……あちらです」

 亜呂は小さく告げた。

「皆さんの帰る道が、開きました」

 泣く者。

 誰かへ頭を下げる者。

 手を取り合う者。

 魂たちは鈴の音へ導かれ、一人、また一人と光の道を歩いていく。

 最後の魂が、振り返った。

 その顔から、怒りも悲しみも消えていた。

 亜呂が静かに頭を下げる。

 魂もまた、わずかに頭を下げた。

 そして、光の向こうへ姿を消した。

 黄泉比良坂へ続く裂け目が、ゆっくりと閉じていく。

 芝居河岸に、静けさが戻った。

     ◇

「羅馬さん」

 亜呂が、息を切らしながら駆け寄った。

「こちらは、もう大丈夫です」

 羅馬は歌舞伎座の方角を見る。

 空が赤黒く染まっている。

「行こう」

 羅馬たちは走り出した。

     ◇

 皇都歌舞伎座は、すでに巨大な結界に覆われていた。

 赤黒い帳が建物全体を包み込み、その表面を生き物のような波紋が走っている。

 帳の向こうから、音だけが遠い世界を渡るように漏れてくる。

 三味線。

 笑い声。

 杯を打ち合わせる音。

 そして時折、獣の咆哮のような歓声。

 羅馬が結界へ近づいた。

「待て」

 ご隠居の声が飛ぶ。

「そいつは、ただの壁ではない」

「どういうこと?」

「中と外を、別の世に分けておる」

 毒島が器具を当てる。

 針が激しく振れ、すぐに振り切れた。

「空間そのものが噛み合ってねえ」

「壊せないのか」

 羅馬が問う。

「壊すだけなら、できよう」

 ご隠居は結界を見上げる。

「じゃが、帳の中にいる者まで無事とは限らん」

 羅馬は拳を握り締めた。

 すぐ目の前にいる。

 それなのに、声さえ届かない。

 亜呂が結界の向こうへ目を凝らす。

「涅央さんの気配は、あります」

「分かるの?」

「とても弱いです。でも、まだ消えてはいません」

 その言葉に、羅馬はわずかに息を吐いた。

 だが安心するには、あまりにも遠い。

 その時。

 亜呂が、ふと歌舞伎座の横手へ視線を向けた。

 幽解夏が、すでに赤黒い結界の前に立っている。

「幽さん!?」

 亜呂が驚いて声を上げた。

「そこで何を……」

「亜呂ちゃんかい」

 幽解夏は肩越しに振り返り、芝居河岸の方を眺めた。

「そっちは、何とかなりそうだね」

「はい。でも、まさか……歌舞伎座へ?」

 亜呂は結界へ目を向ける。

「そこには結界があって、入ることが……」

「結界か」

 幽解夏は赤黒い帳へ指先で触れた。

 表面に波紋が広がり、低い唸り声のような音が返ってくる。

「そうさねぇ。これを破るのは、確かに骨だね」

 幽解夏は指を離した。

「敵はどんな奴だった?」

「酒呑童子と名乗っておりました」

「酒呑童子……」

 幽解夏の目が細くなる。

「なるほど。最強の鬼と謳われた、あの酒呑童子かい」

「最強……」

 亜呂は思わず袖を握った。

 幽解夏は、そんな亜呂の顔を見て笑う。

「まあ、何とかなるだろ」

「何か方法があるんですか?」

「方法ねえ」

 幽解夏は帯へ手を掛けた。

 そして、着物の襟を大きくはだけさせる。

「……幽さん!」

 亜呂の目が丸くなった。

「何をなさって……」

「色仕掛けを仕掛けてやるのさ」

「あれ? 幽さん、なんでそんな格好に――」

「羅馬さんは見ちゃ駄目です!」

 亜呂が慌てて羅馬の前へ立ち、その目を両手で覆った。

 毒島が、呆れたように幽解夏を見る。

「何か勝算でもあるのか」

「さてね。あいつ次第だろうよ」

「お前な……」

「鬼ってのは昔から、酒と女には弱いもんさ」

 そう言うと、幽解夏は歌舞伎座の正面へ歩いていった。

「幽さん!」

 亜呂が呼び止める。

 幽解夏は立ち止まらず、片手だけを軽く上げた。

「亜呂ちゃん」

「はい」

「涅央は、まだ中にいるんだね」

 亜呂は胸へ手を当てる。

「はい。間違いありません」

「そうかい」

 幽解夏は、わずかに笑った。

「なら、何とかなる」

 赤黒い帳の前へ、一人で立つ。

 帳の向こうから、狂った三味線の音が聞こえる。

 鬼たちの笑い声。

 杯が鳴る音。

 幽解夏は結界の向こうを見据えた。

 そして、呆れたように小さく息を吐く。

「つまらん舞台だね、まったく……」

 その瞬間。

 帳の向こうで、三味線の音が止まった。

              ――第十三話 了


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