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からくり道中浪漫譚―白詰草異聞―  作者: ロマリアス
白虎編

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白虎編 第十二話 【西の牙】


 夜明け前。

 仁虎は屋敷の門を、音もなく開いた。

 旅支度というほどのものではない。

 羽織の下へ着物を重ね、腰に太刀を差し、肩へ小さな荷を掛けただけだ。

 行き先を告げるつもりはなかった。

 告げれば、止められる。

 止められれば、振り払わなければならない。

 それが面倒だった。

 何より、亜呂の顔を見れば、決意が鈍る気がした。

 門を閉め、振り返る。

 白み始めた道の真ん中に、人影が立っていた。

「おはようございます、父上」

 白衣に緋袴。

 その上から裾を押さえる旅用の羽織を着込み、亜呂は小さな包みを両手で抱えていた。

 足元には草履と脚絆(きゃはん)。髪も動きやすいよう、いつもより固く結われている。

 仁虎はしばらく黙っていた。

「……何してやがる」

「お見送りです」

「そうか。じゃあ戻れ」

「道中、ご一緒しながらお見送りいたします」

「それは同行って言うんだ」

 亜呂はにこりと笑った。

 仁虎は舌打ちし、その横を通り過ぎようとした。

 亜呂も並んで歩き始める。

「帰れ」

「帰りません」

「危ねえぞ」

「存じております」

「遊びじゃねえ」

「それも存じております」

 仁虎が足を止めた。

 亜呂も止まる。

 朝靄の中で、父娘は向き合った。

「これは俺の身体の話だ」

 仁虎の声は低かった。

「お前が首を突っ込むことじゃねえ」

 亜呂の微笑みが消えた。

 だが、その目は逸れなかった。

「父上のお身体であるなら、娘である私にも無関係ではございません」

「関係ねえ」

「ございます」

「ねえ」

「ございます」

 仁虎の眉間へ深い皺が寄る。

「頑固になりやがって」

「どなたに似たのでしょう」

「知らねえよ」

「私も存じません」

 亜呂は静かに続けた。

「父上が一人で行かれるのでしたら、私は一人で後を追います」

「脅しか」

「お願いでございます」

「同じだ」

「では、親孝行と思ってお連れくださいませ」

「親孝行な娘は、親の言うことを聞くもんだ」

「娘思いの父親なら、黙って危険な場所へ行ったりはいたしません」

 仁虎の口が止まった。

 亜呂はその隙を見逃さなかった。

「それに、私の火が父上の印へ反応しました。私にも確かめる責任がございます」

 仁虎は亜呂の旅支度を上から下まで見た。

「……いつから気づいてやがった」

「昨夜、いつもより念入りに太刀を磨いておられましたので」

「見てたのか」

「はい」

「悪趣味だな」

「娘が父親を見るのは、悪趣味でございましょうか」

 理屈まで用意してやがる。

 仁虎がそう言おうとしたとき、道の向こうから欠伸が聞こえた。

「朝っぱらから仲がいいな」

 背に荷を負い、羅馬が歩いてくる。

 いつもの弦楽器も一緒だった。その横には、小さな桐箱が括りつけられている。

 毒島の検査を終え、見つけた本人である羅馬へ戻された白い牙が、中に収められていた。

 仁虎の目が桐箱へ止まる。

「……何でお前までいやがる」

「鍵かもしれないものを持ってるから」

 羅馬は桐箱を軽く叩いた。

「置いてけ」

「嫌だ」

「俺が持つ」

「もっと嫌だ」

「何でだ」

「今の仁虎に渡したら、白虎に反応して何が起きるか分からないから」

「なら、なおさら俺が持つべきだろ」

「それを判断するために、俺が持つんだよ」

 仁虎が桐箱へ手を伸ばした。

 羅馬は一歩下がる。

 仁虎がさらに踏み込む。

 羅馬は身体をひねってかわした。

「てめえ」

「病人が暴れるなよ」

「誰が病人だ」

「昨夜倒れた奴」

「倒れてねえ。少し寝ただけだ」

「床の上で?」

「眠くなった場所が悪かっただけだ」

「便利な言い訳だな」

「朝から喧嘩すんな!」

 怒鳴り声とともに、大きな箱が地面へ下ろされた。

 三人が振り返る。

 毒島が背負い箱の紐を締め直していた。

 箱の中には地脈計、音叉、導力線、方位盤、天礎石の小片、その他名前も分からない器具が詰め込まれている。

 腰にも工具袋が幾つも吊られ、歩くたびに金物が

がちゃがちゃと鳴った。

 両目の下には濃い隈がある。

「お前は何だ、その荷物」

「必要なもんだ」

「何に」

「何が必要か分からねえから、必要そうなもん全部持ってきた」

「帰れ」

「断る」

 毒島は即答した。

「訳の分からねえ神獣が、人間の身体を勝手に変えてんだぞ。放っておけるか」

「俺の身体を研究材料にすんな」

「壊れる前に止める。そのために来た」

 仁虎がわずかに目を細めた。

 毒島は構わず続ける。

「外から何かが入り込んだ形跡はねえ。なのに感覚と反応だけが変わってる。調べなきゃ、止めようもねえだろうが」

 言いながら毒島は頭を掻いた。

 すでに乱れていた髪が、さらに大きく逆立つ。

「御隠居も、西へ向かった可能性がある」

 毒島が言った。

「朝早く出て、西の山を見てたんだろ。見つけたら、今度こそ何を知ってるか吐かせる」

「見つけりゃ話は聞く」

 仁虎は背を向けた。

「だが、目的はあの爺さんじゃねえ」

「分かってる」

「置いていっても、ついてくるんだろ」

「当然だ」

「好きにしろ。ただし、足手まといになるな」

 亜呂が小さく笑った。

 羅馬も肩をすくめる。

 こうして四人は、朝日が皇都の屋根を照らし始める前に、西へ向かった。

     ◇

 皇都の西門を抜けると、町の音は急速に遠ざかっていった。

 石畳はやがて土の街道へ変わり、煉瓦造りの建物は低い民家へ、民家は畑へ、畑は林へと変わる。

 空はよく晴れていた。

 旅立ちだけを見れば、穏やかな朝だった。

 だが、仁虎には静かすぎた。

 鳥の羽ばたきが聞こえる。

 まだ姿も見えない木立の向こうで、野鼠が落ち葉を踏んだ音まで拾えた。

 湿った土の匂い。

 木々の皮の青臭さ。

 遠くで湧く水。

 亜呂が包みに入れてきた握り飯の梅干しまで、布越しに分かる。

 耳も鼻も、何もかもが開きすぎている。

 世界の方から、身体の中へ押し寄せてくるようだった。

「父上」

 亜呂が横から顔を覗き込む。

「何だ」

「お加減はいかがですか」

「悪くねえ」

「本当でございますか」

「ああ」

 その答えと同時に、右手の林で小枝が折れた。

 仁虎は反射的に亜呂の前へ出た。

 腰へ手を掛ける。

 だが現れたのは、痩せた野兎だった。

 野兎は一行を見ると、慌てて藪の中へ消えた。

 毒島が仁虎の腕を見た。

「今の、音がする前に動いただろ」

「聞こえただけだ」

「俺には聞こえなかった」

「耳が悪いんじゃねえか」

「お前の耳が良くなりすぎてんだよ」

 毒島は背負い箱を地面へ置き、小型の音叉を取り出した。

「仁虎、こっち向け」

「道の真ん中で始めるな」

「いいから」

 毒島が音叉を指で弾いた。

 澄んだ音が響く。

「聞こえるか」

「ああ」

 毒島は布を巻き、もう一度弱く弾く。

「これは」

「聞こえる」

 さらに布を重ねる。

「これは」

「聞こえる」

 毒島は今度は音叉を構えただけで、鳴らさなかった。

「……これは?」

「鳴らしてねえだろ」

 毒島が黙った。

「何で分かる」

「指の力が抜けてた」

 毒島は音叉を下ろした。

「耳だけじゃねえ。目も、反射も、それに耐える身体まで変わってる」

 手帳へ走らせていた鉛筆が止まる。

「白虎は力を貸してるんじゃねえ」

 羅馬が振り返った。

「どういうことだ?」

「仁虎を、白虎が使える身体へ作り替えてやがる」

 仁虎の足が一瞬止まった。

 背中の奥で、もう一つの呼吸が深くなる。

 どくん。

 心臓とは違う場所で、何かが脈打った。

「勝手な真似しやがって」

 仁虎が吐き捨てる。

「そいつに悪意があるかは分からねえ」

「悪意がなきゃ、人の身体を弄っていいのか」

「そうは言ってねえ」

 毒島は眉間へ指を当てた。

「仁虎と白虎が、別々に身体を動かそうとすれば――どっちかが壊れる」

「どちらが、でございますか」

 亜呂が尋ねた。

 毒島は答えなかった。

 答えられなかった。

     ◇

 昼を過ぎた頃から、街道の様子が変わった。

 道そのものは続いている。

 だが木々が深くなり、枝葉の隙間から差す光が薄くなった。

 鳥の声が消えた。

 虫の音もない。

 風だけが、山の奥から一定の間隔で吹いてくる。

 吸って。

 吐いて。

 まるで山全体が、巨大な肺で呼吸しているようだった。

 羅馬が立ち止まった。

「風が変だ」

「向きか?」

 毒島が方位盤を取り出す。

「向きじゃない」

 羅馬は目を閉じた。

 背負っていた弦楽器を下ろし、風見鶏の和音を一度だけ鳴らす。

 細い弦の音が、林の中へ伸びていった。

 普段なら、音は空気へ溶ける。

 だが今は違った。

 山の奥まで進んだ音が、何かに触れたように歪み、低い震えとなって戻ってきた。

 羅馬が目を開く。

「流れてない」

「何がだ」

「西へ流れてるんじゃない。山の奥へ引かれてる」

 毒島が地脈計を取り出した。

 針は細かく震え、一定の位置を指そうとしては弾かれる。

「磁気じゃねえ。天礎石の反応でもない」

 毒島は地脈計を傾け、裏蓋を開け、内部の歯車へ耳を近づけた。

「違う……いや、待て」

 頭を掻きむしる。

「引かれてるだけじゃねえ。押し返されてもいる。前提から間違ってんのか?」

 そのとき、仁虎が西を向いた。

 自分の意思ではなかった。

 首が引かれたように動き、木々の間へ視線が固定される。

 白い霧が見えた。

「こっちだ」

「何が見えるのですか」

「道だ」

 亜呂が仁虎の見ている先へ目を凝らす。

「私には、木しか……」

 仁虎は街道を外れた。

 藪へ足を踏み入れる。

「父上!」

「待て」

 羅馬が亜呂を止めた。

 桐箱の中で、硬いものが小さく鳴っている。

 かた、かた、と。

 羅馬が箱を開く。

 白い牙が、淡い光を帯びていた。

「同じ方向だ」

 四人は仁虎を追った。

 道などないはずの林の中で、不思議と枝は身体へ触れなかった。

 仁虎が進むたび、絡み合っていた草木がわずかに左右へ退く。

「おい」

 毒島が立ち止まった。

「今のは、お前がやったのか」

「知らねえ」

 仁虎は振り返らなかった。

 その答えが、本当であることだけは分かった。

 やがて木々が途切れた。

 小さな谷間に、古い石段が現れた。

 苔に覆われ、半分以上が土へ沈んでいる。

 石段の先には、崩れかけた鳥居。

 その奥へ、岩壁に穿たれた洞があった。

 洞の入口には、巨大な石の壁がはめ込まれている。

 中央には、何かが欠けたようなくぼみがあった。

 毒島が息を呑む。

「牙の形だ」

 羅馬が白い牙を見る。

 根元の黒ずんだ金具と、くぼみに残る金属の輪。

 形も大きさも一致していた。

「鍵ってのは、本当だったみたいだな」

「待て」

 毒島が二人の前へ出る。

「入れる前に調べる」

「まだ調べるのか」

 仁虎が苛立った。

「当たり前だ。鍵穴に見えるからって、触っていいとは限らねえ」

 毒島は導力線を石面へ這わせ、地脈計と繋いだ。

 天礎石の小片を置き、音叉を鳴らす。

 針が激しく振れた。

「何だ、これ……」

「分かったのか」

「分からねえから困ってんだ!」

 毒島は石面と地脈計を交互に見る。

「向こうに何かはある。だが、それだけじゃねえ」

 針が東西の間を震え続ける。

「皇都へ続く流れまで、ここへ絡んでやがる」

 羅馬は石面へ手を当てた。

 目を閉じる。

「二つ聞こえる」

「何がだ」

「地表に近いところで、たくさんの音が軋んでる。皇都の方だと思う」

 羅馬はさらに奥へ意識を向けた。

「その下に、もっと大きなものがある」

 低く、遅く。

 気の遠くなるほど長い間隔で、山の底が鳴っている。

「眠ってる。でも、呼吸してる」

 亜呂の指先に、小さな火が灯った。

 神火は赤ではなく、青白く細長く揺れている。

「火が、下へ引かれています」

「下?」

「はい。ですが、父上の印は……」

 仁虎の背中から白い光が漏れた。

 羽織越しにも、虎の輪郭が浮かび上がる。

「こちらではありません」

 亜呂が洞の奥ではなく、東――皇都の方角を見る。

「父上の中の白虎は、山の奥ではなく、皇都の方へ反応しています」

 毒島が顔を上げた。

「山の下の何かを警戒してるんじゃねえのか?」

「違う」

 羅馬が呟いた。

「もっと近い。白虎が焦っているのは、山の奥じゃない」

 その瞬間、遠くで地鳴りがした。

 足元の石が震える。

 鳥居から苔が落ち、洞の天井から細かな砂が降った。

 揺れは短かった。

 だが、皇都の方角から届いた。

 毒島が地脈計を見る。

 針は西ではなく、東へ大きく振り切れていた。

「……皇都だ」

 毒島の顔から血の気が引く。

「皇都の歪みが、ここまで響いてやがる」

「牙を入れるぞ」

 仁虎が言った。

「待て。何が起こるか――」

「分からねえから来たんだろ」

 仁虎は羅馬へ手を差し出した。

「貸せ」

 羅馬はすぐには渡さなかった。

「白虎に持たされるんじゃなくて、自分の意思で持つんだな」

「俺以外の誰が持つ」

「……そうか」

 羅馬は白い牙を渡した。

 仁虎がそれを握る。

 冷たい。

 そう感じたのは一瞬だった。

 次の瞬間、牙は焼けた鉄のように熱を帯びた。

 背中の印が脈打つ。

 仁虎の腕を白い筋が駆け上がり、肩から胸へ、全身へ広がっていく。

「ぐっ……!」

「父上!」

 亜呂が支えようとする。

「触るな!」

 仁虎が叫んだ。

 その声に、人のものではない唸りが重なった。

 洞の中へ風が吹き荒れる。

 木々が軋み、石段を覆っていた落ち葉が一斉に舞い上がった。

 仁虎は歯を食いしばり、牙を石面のくぼみへ押し込んだ。

 金具が噛み合う。

 重い音が山へ響いた。

 石面は開かなかった。

 代わりに、表面へ刻まれていた無数の線が白く輝き始めた。

 それは虎の輪郭だった。

 四肢を大地へ踏ん張り、東を睨む、巨大な白虎。

 仁虎の背中にあるものと、同じ姿。

 白虎の目が開いた。

 洞の中へ、巨大な気配が満ちる。

 亜呂は息を呑んだ。

 羅馬だけが、その気配の中へ耳を澄ませていた。

 その瞬間。

 白虎の両眼から放たれた光が、仁虎だけでなく、亜呂と羅馬をも包み込んだ。

「父上――」

 亜呂の声が途中で途切れる。

「これは……」

 羅馬が何かを言い終えるより早く、三人の身体から力が抜けた。

 倒れはしなかった。

 立ったまま、その瞳から意識だけが消えた。

「おい?」

 毒島は地脈計から顔を上げた。

「仁虎」

 返事はない。

「亜呂?」

 動かない。

「羅馬!」

 三人とも、目を開けたまま石像のように静止している。

 地脈計の針は狂ったように震え、音叉は誰も触れていないのに甲高い音を鳴らしていた。

「おい、冗談じゃねえぞ」

 毒島は仁虎の肩を掴んだ。

 身体は温かい。

 脈もある。

 だが呼びかけに反応しない。

 亜呂も、羅馬も同じだった。

「三人まとめてどこへ行きやがった!」

 毒島の怒鳴り声だけが、洞の中へ虚しく響いた。

     ◇

 白い大地だった。

 雪ではない。

 何もない場所に、風だけが吹いている。

 仁虎の隣には、亜呂と羅馬が立っていた。

「父上」

 亜呂が仁虎の腕へ手を添える。

「ご無事ですか」

「俺より、自分の心配をしろ」

「私は大丈夫です」

 羅馬は周囲を見回した。

「毒島がいない」

「あいつだけ置いてきたみたいだな」

「今頃、すごく怒ってそうだ」

「知るか」

 風が止んだ。

 三人の前に、一頭の虎が現れた。

 あまりにも大きい。

 白い体毛は風と混じり、どこまでが身体で、どこからが空なのか分からない。

 片方の目には深い傷があった。

 虎は仁虎を見た。

 仁虎も睨み返す。

「てめえか」

 虎の口は動かなかった。

 だが声は、三人の骨の内側から響いた。

 ――間に合わぬ。

「何にだ」

 ――都が裂ける。

 三人の脳裏へ、見たことのない景色が流れ込む。

 皇都の地下。

 無数の蒸気管。

 地脈を断ち切る鉄路。

 掘り抜かれた大地。

 空洞になった天礎石の鉱床。

 裂け目から、黒いものが噴き出している。

 煙でも泥でもない。

 その中では、無数の声だけが蠢いていた。

 亜呂が小さく息を呑む。

「これは……黄泉のものなのでしょうか」

 白虎は答えない。

 羅馬は黒いものの向こうへ耳を澄ませるように目を細めた。

「声が重なってる」

「何だ、あれは」

 仁虎が尋ねる。

 白虎は答えなかった。

「おい。説明しろ」

 白虎の視線が、ゆっくりと動いた。

 まず、亜呂を見る。

 亜呂の胸元に、小さな炎が灯った。

 青白かった神火が、その瞬間だけ鮮やかな朱へ染まる。

 炎は激しく燃え上がることなく、暗い先を示す灯火のように、真っ直ぐ立っていた。

「朱雀さん……?」

 亜呂が胸元へ手を添える。

 白虎は何も答えない。

 次に、その目が羅馬へ向いた。

 白い大地に吹いていた風が、羅馬の周囲へ集まった。

 肩から下げていた弦楽器が、誰も触れていないのに低く鳴る。

 一つの音が風へ乗り、白い世界の遥か先まで流れていった。

 その音は消えなかった。

 どこかへ向かい、何かを運ぶように、長く伸び続けた。

「俺に、何かあるのか?」

 羅馬が問いかける。

 白虎はやはり答えない。

 最後に、その視線が仁虎へ戻る。

 ――現し世に立つ身が要る。

「俺のか」

 ――守るために。

「勝手に使うなと言ったはずだ」

 白虎の風が強くなる。

 ――我に、その身はない。

「だから俺の身体を寄越せってか」

 ――立たねばならぬ。

「なら、頼み方ってもんを覚えろ」

 白虎の目が、わずかに細くなった。

 怒ったのか。

 呆れたのか。

 仁虎には分からなかった。

「てめえが何を守ろうとしてるかは知らねえ」

 仁虎は白虎の前へ一歩出る。

「だが、俺の身体で守るなら、俺を置いていくな」

 風が止まった。

「俺を追い出すつもりなら、この身体ごと、てめえの好きにはさせねえ」

 白虎は長く仁虎を見ていた。

 その傍らで、亜呂は黙って父を見つめている。

 羅馬も口を挟まなかった。

 やがて、再び声が響く。

 ――玄武を探せ。

「玄武?」

 仁虎が眉を寄せる。

 亜呂と羅馬も白虎を見る。

 ――探せ。

「誰だ、それは」

 白虎の姿が風へ崩れ始める。

「待て。皇都にいるのか。人なのか。そもそも――」

 ――時がない。

「青龍や朱雀のことは――」

 羅馬が問いかける。

 しかし白虎は答えない。

 亜呂の炎が消える。

 羅馬の周囲を流れていた風も途切れた。

 白い世界が砕けた。

     ◇

「戻ってこい!」

 毒島の声で意識が戻った。

 仁虎は石面の前へ片膝をついていた。

 右手は牙を握ったまま。

 亜呂がその場へ膝をつき、羅馬も大きくよろめいた。

 毒島が慌てて羅馬の肩を掴む。

「立てるか」

「……何とか」

「何とかじゃねえ。三人まとめて急に動かなくなりやがって」

 亜呂はすぐに仁虎へ駆け寄り、その肩を支えた。

「父上」

「離せ」

「嫌です」

「大丈夫だ」

「大丈夫な方は、口から血を流したりいたしません」

 仁虎は手の甲で口元を拭った。

 確かに赤い。

 毒島が牙を掴み、くぼみから引き抜いた。

 光が消える。

 石面に浮かんでいた白虎の姿も、再び石の中へ沈んだ。

「何があった」

 毒島が三人を順に見る。

「白虎がいた」

 仁虎が答えた。

「姿を見たのか」

「ああ」

「俺には何も見えなかったぞ!」

「知らねえよ」

「何で俺だけ置いていかれた!」

「白虎に聞け」

「聞けるなら、とっくに聞いてる!」

 毒島は乱れた髪をさらに掻き回した。

「三人とも同じものを見たのか?」

「はい」

 亜呂が頷いた。

「白い場所に、父上と羅馬さんと私がおりました」

「本当に俺だけかよ……」

 毒島は心底納得がいかないという顔をした。

 だがすぐに表情を引き締める。

「そこで何を見た」

「皇都だ」

 仁虎が答えた。

「皇都?」

「地下が裂ける。黒い何かが出てくる」

「何だ、それは」

「知らねえ」

「白虎は何て言った」

 仁虎はゆっくり立ち上がった。

 足元がわずかに揺れる。

 亜呂が腕を離さない。

「玄武を探せ」

 風が止まった。

 四人の間へ、沈黙が落ちた。

 最初に口を開いたのは毒島だった。

「……玄武?」

「ああ」

「四神の玄武か?」

「他に玄武がいるなら、そいつかもな」

「誰だ」

「それを俺に聞くな」

 毒島は両手で頭を抱えた。

「何で神獣ってのは、どいつもこいつも肝心なことを言わねえんだ!」

 髪を掻き回しながら、洞の前を行ったり来たりする。

「玄武を探せって、どこをだ。皇都か、北か、川か、山か。人なのか、獣なのか、石なのか!」

「大地を調べ、支えておられる方ということでしたら……毒島さんではございませんか」

 亜呂が言った。

 毒島の動きが止まる。

「俺?」

「地脈の乱れを調べておられます」

「待て待て待て。俺のどこに玄武がいる」

「見えない場所にいらっしゃるのかもしれません」

「仁虎の白虎も見えなかっただろ」

 羅馬が真顔で付け加える。

 毒島は自分の胸を見下ろした。

 袖を捲り、手の甲を見る。

 首元まで探り始める。

「……何してやがる」

 仁虎が尋ねた。

「念のためだ!」

「期待してんのか」

「してねえ!」

 毒島は地脈計を自分の胸へ当てた。

 針は動かない。

 天礎石の小片も光らない。

「……普通だ」

「何で少し残念そうなんだよ」

「残念じゃねえ!」

 毒島は器具を乱暴に箱へ戻した。

 しばらく黙り込み、頭を掻く。

「……俺じゃねえなら、ほかに力を身へ通せる奴は」

 毒島は顔を上げた。

「涅央かもしれねえ。あいつは、人ならざるものの気配を身へ通せる」

「まだ会ったことのない人物かもしれないな」

 羅馬が言う。

「そもそも、人とは限らない」

「手がかりが少なすぎます」

 亜呂は白虎の刻まれた石面を見た。

「白虎は、なぜ玄武を必要としているのでしょう」

 毒島はしばらく黙っていた。

「白虎が前へ立つために肉体を必要としてるなら、玄武には別の役目があるのかもしれねえ」

「別の役目?」

「白虎が斬るものなら、玄武は支えるものかもしれない」

 毒島は牙が抜かれたくぼみへ手を触れた。

 そして眉を寄せる。

「……こいつ、扉じゃねえ」

 羅馬が振り返る。

「少なくとも、人が通るためのもんじゃない」

 毒島は石面へ耳を当てた。

「牙を持つ者の意識を、どこかへ通す仕掛けかもしれねえ」

 毒島はそこで一度、三人を見た。

「もっとも、何でお前ら三人だけ通したのかは分からねえがな」

「白虎の気まぐれじゃねえのか」

 仁虎が言った。

「神獣の気まぐれで置いていかれる身にもなれ」

「毒島さんも来たかったのですか?」

 亜呂が尋ねる。

「そういう話じゃねえ!」

「では、この奥には入れないのですか」

「話を戻すな!」

 毒島は咳払いを一つして、改めて石面を見た。

「今はな。別の開け方があるのか、それとも開ける必要すらねえのか。そこから調べ直しだ」

 毒島は東を向いた。

「だが、白虎が見せたものが皇都の地下なら、この山を調べ続けても答えは出ねえ」

「戻るのか」

 仁虎が聞く。

「ああ」

 毒島は地脈計を握り直した。

「手がかりもなしに山を歩き回っても、玄武どころか遭難者が四人増えるだけだ」

 仁虎は石面を見た。

 そのさらに下。

 白虎が見せなかった、巨大な何かの呼吸がある。

 しかし今、それを追うべきではない。

 白虎が見ていたのは皇都だった。

「戻るぞ」

     ◇

 四人が山を下り始めた頃。

 さらに北寄りの山中に、地図へ記されていない古い社があった。

 朽ちかけた鳥居。

 崩れた石灯籠。

 人の手が入らなくなって久しいはずの境内に、落ち葉は一枚も積もっていない。

 金色の狐火が、音もなく宙を漂っていた。

 拝殿の屋根には、九本の尾を持つ影が腰を下ろしている。

 影は振り返らない。

「相変わらず、随分とのんびりだねえ。あんた」

 石段の下から、杖をつく音が聞こえた。

 ご隠居は一段ずつ、ゆっくりと上ってくる。

「老体には、この山はきついでのう」

「その割には、随分遠くまで来たじゃないか」

「たまには足腰を動かさねば、ますます鈍ってしまうからの」

「とっくに鈍り切ってると思ってたよ」

「口の悪さは、昔から変わらんのう」

 九尾が喉の奥で笑う。

 ご隠居はようやく石段を上り切ると、杖へ両手を重ねた。

 その顔はいつもと変わらない。

 穏やかで、少し眠たげな老人の顔だった。

「虎が目を覚ましたね」

 九尾が言った。

「ようやく、というところかの」

「気づいていたくせに」

「気づくことと、動くことは別じゃよ」

「相変わらず理屈が多い」

 九本の尾がゆっくりと揺れ、金色の火の粉を散らした。

 ご隠居は山の向こうへ目を向けた。

 その先には、見えない皇都がある。

「まだ動くには、時期尚早じゃ」

 九尾が笑った。

「それを決めるのは、あんたかい」

 影がそこで初めて、わずかに顔を振り向ける。

「あの虎かい。それとも――」

 金色の瞳が細められた。

 視線はご隠居を通り越し、大地の遥か下へ注がれている。

「山の下で、目を覚ましかけてる何かかい」

 山の奥深くで、低い音がした。

 地鳴りではない。

 それはあまりにも遠く、あまりにも大きく、人の耳では音として捉えられない。

 ご隠居は答えなかった。

 ただ、杖を握る手に、ほんの少しだけ力を込めた。

     ◇

 日が沈む頃、四人は皇都の西門へ戻った。

 外から見る皇都は、いつもと変わらなかった。

 蒸気塔から煙が上がり、路面蒸気車が鐘を鳴らし、商店の軒先には灯りがともっている。

 夕餉の匂い。

 子どもたちの笑い声。

 仕事を終えた人々の足音。

 誰も、自分たちの足元で何が起きているのか知らない。

 仁虎は門の前で足を止めた。

 白虎が見せた黒いものを思い出す。

 あれが何なのかは分からない。

 いつ現れるのかも分からない。

 だが白虎は、間に合わぬと言った。

「まず工房へ行く」

 毒島が言った。

「牙と地脈計の記録を調べ直す。古文書も片っ端から当たる。玄武に関するものなら何でもいい」

「亀を飼っている方まで調べるのですか」

「必要ならな」

「皇都中の亀が迷惑するな」

「うるせえ、羅馬」

 毒島はすでに歩きながら手帳を開いている。

「涅央にも話を聞く。幽解夏にもだ。何か知ってそうな奴は全員だ」

「俺は風見鶏の和音で、皇都の流れをもう一度聴いてみる」

 羅馬が答える。

「山から戻ってきた音と比べれば、裂け目の場所が分かるかもしれない」

「私は、父上のお側におります」

 亜呂が言った。

「必要ねえ」

「必要ございます」

「ねえ」

「ございます」

「また始まったな」

 羅馬が笑う。

 仁虎は舌打ちしながらも、それ以上は拒まなかった。

 四人は門をくぐった。

 皇都の灯りが、彼らを迎え入れる。

 その足元を、かすかな震えが走った。

 だが、行き交う誰一人として足を止めなかった。

 仁虎の背中で、白虎の印がかすかに疼く。

 ――玄武を探せ。

 その名だけが、答えのないまま仁虎の内側に残っていた。

 白虎がなぜ、あの白い場所へ三人だけを招いたのか。

 亜呂も、羅馬も、仁虎も。

 そして、ただ一人取り残された毒島も。

 この時はまだ、その意味に気づいていなかった。

 四人が西から持ち帰ったものは、答えではない。

 皇都の底で迫る災いへ続く、新たな問いだった。



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