白虎編 第十一話 【白虎の依代】
皇都に、朝の汽笛が戻ってきた。
中央通りを走る路面蒸気車が、白い蒸気を吐きながら停留所へ滑り込む。
商家は戸板を外し、露店には色鮮やかな果物や焼き菓子が並ぶ。職人たちは軒先で槌を鳴らし、皇都川を行く小舟からは船頭の歌が聞こえてきた。
橋の上では、仕事へ急ぐ者たちが肩をぶつけ合う。
往来を駆け抜けた子どもが叱られ、店先では値切りを巡って客と商人が声を張り上げている。
どこにでもある、皇都の朝だった。
つい数日前まで、町の至るところで死者の声がしていたことなど、嘘のように思える。
御影石は元の場所へ戻された。
黄泉へ通じかけた道は閉じ、夜ごと人々を呼んでいた声も、今はもう聞こえない。
少なくとも、人々の目にはそう見えていた。
「おい、見ろよ。新しい団子だってさ」
中央通りの一角で、若い男が屋台の看板を指差した。
そこには大きな筆文字で、
『黄泉帰り団子』
と書かれている。
黒胡麻を練り込んだ団子と白餡の団子を、交互に串へ刺しただけのものだったが、物珍しさもあって朝からよく売れていた。
「食ったら、帰ってこられなくなるんじゃねえか?」
「馬鹿。帰ってきたから売ってんだろ」
客たちが笑う。
少し離れた屋台では、炎の形に焼いた煎餅が『神火焼き』の名で並べられていた。
「やっぱり、あの旅人のおかげなんだろ?」
「羅馬って男か。変わった楽器を鳴らしたら、死人がみんな帰ったって話だぜ」
「いやいや、秘乃湯の女将だよ。空まで燃やしたっていうじゃないか」
「涅央様もいたんだろう? あの方に声を聞いてもらえば、妖か死人か、すぐに分かるさ」
「警邏隊も忘れちゃいけねえよ。ましろ隊長は、何日も寝ずに町を走り回ったらしい」
「毒島って時計屋もだ。あいつ、死者の声を止めるからくりを作ったって噂だぞ」
「本当かよ」
「知らねえよ。でも、あの連中がいりゃあ、また何か出たって平気だろ」
誰かがそう言った。
周囲の者たちが、疑うことなく頷いた。
その言葉には感謝があった。
敬意もあった。
悪意など、どこにもなかった。
ただ、人々は恐ろしかったのだ。
自分たちには理解できないものが、再び暗闇から現れることが。
だから、安心できる名を求めた。
その名を口にすれば、次もきっと助けてもらえる。
そう思いたかった。
賑やかな会話の背後を、貨物用の蒸気機関車が横切っていく。
何両も連なる貨車には、採掘されたばかりの天礎石が積まれていた。
青い結晶が朝日を受け、無数の星のように輝く。
町の者たちはそれを見上げ、皇都の繁栄を讃えた。
重い車輪が鉄路を踏む。
規則正しい振動が枕木へ伝わり、その下の大地へ沈んでいく。
さらに深く。
人の目が決して届かぬ場所へ。
地中を走る古い地脈の一部に、細い亀裂が残されていた。
御影石が戻った後も、その傷は塞がっていない。
車輪の振動が届くたび、亀裂の奥から青白い光が滲んだ。
皇都は、平穏を取り戻したのではない。
異変が、再び人の目から隠れただけだった。
◇
旅籠ひぐらしの縁側に、軽やかな弦の音が響いていた。
羅馬は膝の上へ載せた風見鶏の和音を、布で丁寧に磨いている。
弦を一本ずつ確かめ、音の濁りを聞き分け、歯車仕掛けの共鳴板へ少量の油を差す。
その周囲を、近所の子どもたちが取り囲んでいた。
「羅馬兄ちゃん、あの曲やって!」
「どの曲?」
「黄泉を追い払った曲!」
「死人を全部やっつけたやつ!」
「空が光ったやつ!」
羅馬は手を止め、少し困ったように笑った。
「追い払ったんじゃないよ」
「じゃあ、倒したの?」
「倒してもいない」
「じゃあ何したの?」
子どもたちが一斉に首を傾げる。
羅馬は風見鶏の和音を抱え直した。
「帰り道を作ったんだ」
今度は子どもたちが、互いの顔を見合わせた。
「同じじゃないの?」
「だいたい同じ!」
「全然違うんだけどなあ」
羅馬は苦笑する。
帰るべき場所へ帰ったのだと説明したところで、黄泉の理を知らない子どもたちには伝わりにくい。
けれど、彼らが知らずに済んだのなら、それはそれでよいのかもしれなかった。
「怖い曲は嫌だよ」
小さな女の子が言った。
「じゃあ、明るい曲にしようか」
「速いやつ!」
「踊れるやつ!」
「転ばない程度の速さにしよう」
羅馬が弦を弾く。
今度の音は、死者を送り返した夜の鎮魂の調べではない。
朝の風に似た、明るく軽やかな旋律だった。
子どもたちはたちまち縁側から庭へ飛び出し、音に合わせて走り回る。
一人が足をもつれさせて転べば、別の一人が腹を抱えて笑う。
転んだ子も、すぐさま立ち上がって追いかけた。
しばらくして、奏々世が盆に茶と菓子を載せて現れた。
「まあまあ。旅籠がすっかり芝居小屋のようですね」
「僕は静かに道具の手入れをしていただけなんだけど」
「皇都の英雄が縁側にいれば、子どもたちも放ってはおきませんよ」
「英雄は困るなあ」
奏々世が、羅馬の隣へ湯呑みを置く。
「ずいぶん有名になられましたね」
「旅人って、もっと気楽なものだと思ってた」
「皆さま、安心できるお名前を探していらっしゃるのでしょうね」
羅馬は、奏々世を見た。
「安心できる名前?」
「何か恐ろしいことが起きたとき、その名を思い出せば大丈夫だと思える。そういうお名前です」
庭では、子どもたちが羅馬の曲を真似て、調子外れの声で歌い始めていた。
「僕の名前が?」
「羅馬様だけではございません。涅央様も、幽解夏様も、毒島様も、警邏隊の方々も」
「ずいぶん重そうだね」
「ええ」
奏々世は穏やかに微笑んだ。
「ですから、ときどきは下ろしてもよろしいのですよ」
「名前を?」
「背負っているものを、です」
羅馬は湯呑みを手に取り、立ちのぼる湯気を見つめた。
それから、庭で笑う子どもたちへ視線を戻す。
彼らは、あの夜どれほど危うい場所に立っていたのか知らない。
黄泉の声に連れていかれれば、二度と戻れなかったかもしれないことも。
それでよいのだろう。
子どもたちが怪異を知らずに笑っていられるのなら、それはきっと、誰かが守れたということなのだから。
羅馬は再び弦へ指を置いた。
今度は先ほどよりも少しだけ、肩の力が抜けた音がした。
◇
皇都歌舞伎座には、開演前から長い列ができていた。
涅央の舞台復帰を待ちわびていた者たちだ。
だが、列に並ぶすべての者が、芝居だけを目当てにしているわけではなかった。
「本当に、死人の声を聞き分けたのかしら」
「役へ入れば、死んだ者の声まで出せるらしいぞ」
「今日の舞台でも、何か起こるんじゃないか?」
客たちが、期待とも恐れともつかない声で囁き合う。
涅央は楽屋で白粉を塗りながら、その声を聞いていた。
鏡の中には、まだ涅央自身の顔がある。
衣装を纏い、鬘を整え、舞台へ足を踏み出せば、その顔は物語の登場人物へ変わる。
声も、仕草も、眼差しも。
だが、役になることは、死者を蘇らせることではない。
まして、誰かの記憶を奪うことでもなかった。
開演前。
楽屋口へ向かう涅央を、一人の男が呼び止めた。
「涅央さん」
五十を過ぎた頃だろうか。
粗末な着物を着た、疲れた顔の男だった。
「何でしょう」
「あんた、どんな声でも出せるそうだな」
「役に必要な声でしたら」
「娘の声もか」
涅央は答えなかった。
男は懐へ手を入れ、小さな髪飾りを取り出した。
赤い布で作られた、古びた花の飾りだった。
「去年、病で逝っちまった。まだ十二だった」
髪飾りを握る指が震えていた。
「一度だけでいい」
男の目が、涅央へ縋りつく。
「死んだ娘の声で、父ちゃんと呼んでくれ」
楽屋口の喧騒が、遠ざかったように感じられた。
かつての涅央なら、できるかどうかを考えたかもしれない。
声の高さ。
年齢。
息の混ぜ方。
父を呼ぶときの感情。
役者として、その声を作り上げる方法を。
だが今は、違う。
声は形だけの器ではない。
声には、その者が生きた時間が宿っている。
誰かがよく似た声を出したところで、失われた者が戻ってくるわけではない。
偽りの声は、残された者を一時だけ慰めるかもしれない。
だが同時に、その心を、帰ってこない者の幻へ縛りつける。
涅央は深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
男の指が、わずかに強く髪飾りを握った。
「できねえのか」
「いいえ」
涅央は顔を上げた。
「できるかもしれません」
男の目に、希望が灯りかける。
「ですが、その声は、私がお借りしてよいものではありません」
灯りかけたものが消えた。
男は髪飾りへ目を落とした。
「……そうか」
「お嬢様があなたを呼ばれた声は、あなた様だけのものです」
「もう、聞けねえんだ」
「はい」
涅央は逃げずに答えた。
慰めのための嘘もつかなかった。
「だからこそ、ほかの誰かが代わってはならないのだと思います」
男は長い間、何も言わなかった。
やがて髪飾りを懐へ戻し、背中を丸めて歩き出す。
数歩進んだところで足を止めた。
「娘は、あんたの芝居が好きだった」
振り返らずに言う。
「今日は、見ていくよ」
涅央はもう一度、深く頭を下げた。
舞台に上がれば、誰かになる。
だが、誰かになれるからこそ、決して奪ってはならない人生がある。
やがて拍子木が鳴った。
幕が上がる。
涅央は一歩、舞台の光の中へ踏み出した。
◇
神興区警邏隊本部では、ましろが書類の山に埋もれていた。
怪異発生時の被害報告。
避難所の使用記録。
負傷者への見舞金。
壊れた街灯や水道管の修繕申請。
御影石周辺の警備計画。
机の端には、町民から届けられた菓子折りが積み上がっている。
「隊長、もう少し休まれては」
若い隊士がおそるおそる声をかけた。
「休みました」
「いつですか」
「今朝、椅子で半刻ほど」
「それは眠ったのではなく、気を失っていたのでは」
ましろは答えず、書類を一枚めくった。
若い隊士はなおも何か言おうとしたが、その前に、ましろが数枚の報告書を差し出した。
「北区分は、あなたに任せます」
「自分に、ですか?」
「倒壊した塀と、避難誘導時の混乱について、現場の聞き取りをお願いします」
隊士は書類を受け取ったものの、不安そうにましろを見る。
「自分の判断で、よろしいのでしょうか」
「現場を最もよく知っているのは、あなたです」
「ですが、判断を間違えたら」
「迷った時点で持ってきてください」
ましろは次の書類を開く。
「最後まで一人で抱える必要はありません」
以前のましろなら、すべて自分で確認していただろう。
他人へ任せることを、責任から逃げる行為だと思っていた。
自分の弱さを見せれば、指揮官としての信頼を失うとも。
だが、一人で抱え込んだ結果、見落としたものがあった。
救えなかった者もいた。
その事実は消えない。
ならば、せめて同じ過ちを繰り返してはならなかった。
「承知しました」
隊士が姿勢を正える。
「ただし」
ましろは菓子折りの山を指差した。
「戻るときに、これを詰所へ持っていってください」
「全部ですか?」
「全部です」
「隊長宛てですよ」
「私一人では食べ切れません」
「一箱くらい残してもよいのでは」
「甘い物は苦手です」
ましろの足元には、すでに封を切られた最中の箱があった。
隊士が箱を見る。
ましろも隊士を見る。
「何か」
「いえ。何も」
隊士は菓子折りを抱え、足早に部屋を出た。
扉が閉じた後。
ましろは周囲を見回し、最中へ手を伸ばした。
◇
「だから、ここは時計屋だと言ってるだろうが!」
毒島時計店から、怒鳴り声が響いた。
「でも、亡くなった婆さんの声が井戸の底から――」
「坊主に聞け!」
「寺の和尚には、毒島さんへ聞けと」
「あの野郎……!」
毒島は客の背中を店の外へ押し、勢いよく戸を閉めた。
「ったく。怪異相談所じゃねえんだぞ」
店内へ戻る。
壁には大小さまざまな時計が掛かり、それぞれ異なる周期で時を刻んでいる。
振り子の音。
歯車の擦れる音。
ぜんまいが解けていく音。
いくつもの音が重なっているにもかかわらず、毒島にとっては、これが最も落ち着く静けさだった。
表の気配が遠ざかったことを確かめると、作業机の下から木箱を取り出す。
中に収められていたのは、小型の地脈計だった。
蓋を開く。
円盤の上で、細い針がかすかに震えている。
「……まだ下がらねえか」
御影石が元の位置へ戻って以来、数値は一度も基準まで落ちていなかった。
大きな揺らぎは消えた。
だが、細かな振動が、眠る者の呼吸のように続いている。
毒島は記録帳を開いた。
『御影石復位後も歪曲値低下せず』
そこまで書き、もう一度針を見る。
針が大きく揺れた。
円盤の上を半周し、ひとつの方角を指す。
西。
数呼吸の後、針は何事もなかったかのように中央へ戻った。
毒島は眉をひそめた。
『西方より周期的な干渉あり』
書き加える。
外からは、物売りの陽気な声が聞こえていた。
町は日常へ戻っている。
だが毒島の机の上では、大地が今も、誰にも聞こえぬ声を上げ続けていた。
◇
秘乃湯は、朝から大勢の客で賑わっていた。
「あの夜の火柱、ここから上がったんだろう?」
「皇都中が真っ赤になったって話だよ」
「女将さん、もう一度見せておくれよ」
湯気の向こうで、幽解夏が煙管をくわえた。
「見世物じゃないよ。湯に入りに来たんなら、黙って肩まで浸かりな」
客たちが笑う。
誰も本気で怒られているとは思っていない。
幽解夏は普段と変わらぬ顔で湯加減を見て回り、薪を足し、湯口の詰まりを確かめている。
その傍らを、亜呂が桶を抱えて歩いていた。
客足がひと段落した頃。
亜呂は湯殿の隅で、幽解夏へ尋ねた。
「幽解夏様」
「何だい」
「あの神火で、どれほどのお力を使われたのですか」
幽解夏は煙を吐いた。
少し考えるように天井を見てから、何でもないことのように答える。
「二割ってところかねえ」
亜呂は言葉を失った。
近くにいた客たちは、冗談だと思って笑った。
「女将さんも言うねえ!」
「二割で空まで燃やしたってのかい!」
「残り八割なら、皇都が丸ごと焼けちまうな!」
幽解夏も口元を緩めた。
だが、その目は笑っていなかった。
客たちが湯殿を出た後、亜呂は裏庭へ移った。
掌の上に、小さな神火を灯す。
淡い朱色の火だった。
亜呂はそれを球の形へ整えようとする。
だが、火は指の隙間から逃げるように揺れ、風へ向かって細長く伸びた。
「違うね」
背後から幽解夏の声がした。
「力で押さえつけるんじゃないよ」
「ですが、形を保たなくては」
「火には、火の行きたい方がある」
幽解夏は亜呂の手へ、自分の指をそっと添えた。
「火が行きたいところと、お前さんが行かせたいところを、同じにしてやるんだ」
「同じに……」
「言うことを聞かせるんじゃない。一緒に行くのさ」
亜呂は目を閉じた。
火の熱。
小さな揺れ。
風へ伸びようとする先端。
その動きを止めようとせず、進みたがる方向を受け入れながら、緩やかに導く。
やがて神火は、小さな鳥の形になった。
翼を広げ、亜呂の掌の上で静かに揺れる。
「そうそう」
幽解夏が煙管をくわえ直す。
「火も人も、縛りつければ暴れるもんさ」
亜呂は掌の火を見つめた。
朱い鳥は一度だけ羽ばたくように形を変え、静かに消えた。
◇
その夜。
皇都は、久しぶりに静かな眠りへ落ちていた。
死者の声はしない。
路地の隅で猫が鳴き、遠くで夜回りの拍子木が響く。
仁虎は眠っていなかった。
灯りもつけず、暗い部屋の中で胡坐をかいている。
上半身には何も纏っていない。
背中が熱かった。
これまでの痛みは、発作のようなものだった。
何の前触れもなく、白い光が皮膚の下を走り、焼けるような痛みが襲う。
だが、しばらく耐えていれば治まった。
そういうものだった。
今は違う。
痛みが消えない。
ずっと、そこにいる。
熱く、重く、何かが背骨の内側へ爪を立てている。
仁虎は目を閉じた。
屋敷の外を、誰かが歩いている。
夜回りの者だ。
草履が地面へ触れる音が、すぐ耳元で鳴っているかのように鮮明に聞こえる。
さらに遠く。
塀の上を猫が歩いた。
爪が瓦へ当たる音。
庭木の葉へ身体を擦りつける音。
風に混じった獣の匂いまで分かる。
仁虎は目を開けた。
灯りのない部屋。
それにもかかわらず、柱や襖の輪郭が、昼間のようにはっきりと見えていた。
「……気色悪ぃ」
立ち上がろうとした。
その瞬間、身体が勝手に西を向いた。
仁虎は足を止める。
西。
何がある。
なぜ、そちらを向く。
胸の奥から、低い呼吸が聞こえた。
自分のものではない。
仁虎が息を止めても、その呼吸は続いている。
深く。
長く。
巨大な肺が、彼の身体の内側で空気を吸い込んでいるような音だった。
仁虎は鏡を取り出し、背中へ向けた。
暗がりの中。
白虎の形をした紋様が、淡く光っている。
以前よりも輪郭が鮮明になっていた。
皮膚へ墨で描かれたものではない。
肉の奥。
骨の内側から、白い光が透けて見えている。
「てめえ……」
仁虎は鏡越しに、白虎の顔を睨んだ。
「いつまで黙って居座る気だ」
返事はない。
白虎の瞳だけが、わずかに光を増したように見えた。
次の瞬間。
胸の奥で、低い唸り声が響いた。
仁虎の喉から出たものではなかった。
◇
翌朝。
仁虎は、何事もなかったように食卓へついていた。
亜呂は秘乃湯での稽古を終え、向かい側に座っている。
卓上には白飯、味噌汁、焼き魚。
いつもと変わらぬ朝だった。
少なくとも仁虎は、そう見せようとしていた。
「幽解夏様に、火の扱い方を教わりました」
「ああ」
「押さえつけるのではなく、火の行きたいところと、行かせたいところを同じにするのだそうです」
「そうか」
「小さな鳥の形を作れました」
「よかったな」
返事はある。
だが、亜呂の顔を一度も見ていない。
「父上」
「何だ」
「お味噌汁へ、まだ一度も箸をつけておられません」
仁虎の手が止まる。
「猫舌なんだよ」
「昨日までは違いました」
「昨日からだ」
「それに、随分と汗をかいておられます」
「暑いだけだ」
春先の朝である。
亜呂は何も言わず、仁虎を見つめ続けた。
「何だ、その目は」
「何でもございません」
「なら飯を食え」
仁虎は湯呑みへ手を伸ばした。
指が触れた瞬間、背中の印が脈打った。
「ぐっ……」
手から湯呑みが滑る。
床へ落ちる寸前。
仁虎の腕が、消えたように動いた。
次に見えたときには、湯呑みは彼の掌に収まっていた。
一滴の茶もこぼれていない。
亜呂は、その動きを見ていた。
そして、その直後に仁虎の顔が痛みに歪んだことも。
「父上」
「何だ」
「お背中を見せてください」
「藪から棒に何を言ってやがる」
「以前から、痛んでおられたのでしょう」
「何の話だ」
「御影石を戻したあの夜にも、背を押さえておられました」
「刀を振ったんだ。筋を違えただけだ」
「では、先ほどの動きは何ですか」
「俺が素早いのは昔からだ」
「そのような速さではありませんでした」
亜呂は引かなかった。
仁虎が立ち上がる。
「つまらねえ心配をするな。俺は何とも――」
再び、印が脈打った。
背骨を内側から砕かれるような痛みが走る。
仁虎は膝をついた。
「父上!」
亜呂が駆け寄り、その背中へ手を触れる。
触れた瞬間。
亜呂の胸元から、朱色の火が立ち上った。
襲うための火ではない。
仁虎を焼こうとする気配もない。
火は細い帯となって仁虎の背へ伸び、白い光の上で静かに揺れた。
何かを確かめるように。
遠い昔から知っている存在へ、呼びかけるように。
仁虎の背中で、白虎の輪郭が浮かび上がる。
もはや衣の下へ隠しておける光ではなかった。
「父上……」
亜呂の声が震えた。
◇
仁虎は何も言わず、上衣を脱いだ。
亜呂へ背を向ける。
背中一面に、白虎の紋様が広がっていた。
かつては墨色の線にしか見えなかったものが、今は白い光を帯びている。
毛並み。
爪。
牙。
瞳。
背骨に沿って伸びる縞模様。
そのすべてが、皮膚の下で生き物のように脈打っていた。
「白虎の印が……広がっています」
亜呂が呟く。
「刺青みてえなもんだ。気にするな」
「刺青は、呼吸しません」
仁虎は黙った。
紋様は、仁虎の呼吸とは異なる間隔で明滅している。
仁虎が息を吸う。
それとは別に、白虎の胸元が光る。
仁虎が息を吐いている最中にも、虎の紋は独自の周期で脈打っていた。
まるで、同じ身体の中で、二つの命が呼吸しているかのように。
「毒島様に診ていただきましょう」
「断る」
「父上」
「こんなもんを見世物にする気はねえ」
「見世物ではありません」
「放っときゃ治る」
「昨夜から、一度も痛みが引いていないのでしょう」
仁虎の眉が動いた。
「知ったようなことを言うな」
振り返った仁虎を、亜呂は真っ直ぐに見返した。
「これは娘として申しているのではありません」
「では何だ」
「朱雀に守られた者としてです」
亜呂の胸元で、小さな神火が揺れる。
「あの印を、放置してはいけないと感じます」
「お前の勘か」
「いいえ」
亜呂は首を振った。
「この火が、そう申しております」
朱い火が、再び仁虎の背へ向かって揺れた。
呼びかけるように。
あるいは、目覚めかけたものを警戒するように。
◇
「何で俺まで呼ばれたんだろう」
毒島時計店の奥。
羅馬は、足の踏み場も少ない工房を見回しながら言った。
「お前の耳が必要なんだよ」
毒島が、ぶっきらぼうに答える。
「耳なら君にもあるだろ」
「そういう耳じゃねえ」
仁虎は椅子へ座り、腕を組んでいた。
上衣は脱いでいたが、背中を見られている者とは思えないほど、周囲を威圧する顔をしている。
「さっさと済ませろ」
「診てもらう奴が偉そうにすんじゃねえ」
「誰が診てもらうと言った」
「背中光らせて店まで来た奴が言うな」
「喧嘩なら買うぞ」
「店を壊したら修理代は倍で取る」
亜呂が二人の間へ視線を走らせる。
「お二人とも、お静かに願います」
毒島は舌打ちし、作業台の上へ器具を並べた。
天礎石の欠片。
小型の地脈計。
数本の音叉。
細い導力線。
そして、布に包まれた白き牙。
まず毒島は、天礎石の欠片を仁虎の背へ近づけた。
青く光っていた結晶が、紋様へ引かれるように明滅する。
結晶の内部から糸のような光が伸び、白虎の印へ向かっていった。
「吸い寄せられてる」
羅馬が呟く。
「正確には、こいつの中にある何かが引っ張ってやがる」
毒島は天礎石を遠ざける。
光の糸が途切れた。
次に地脈計を仁虎の足元へ置く。
円盤の針が激しく回転した。
右へ。
左へ。
何度も方角を見失うように揺れた末、ひとつの場所で止まる。
西。
「また西か」
毒島が眉を寄せる。
「何が、またなんだ」
仁虎が問う。
「店の地脈計も、ときどきそっちを指す」
「何がある」
「分かってりゃ、もう調べに行ってる」
毒島は音叉を一本取り上げ、机の角へ軽く当てた。
澄んだ音が工房へ広がる。
仁虎の背中で、白い紋様が同じ間隔で脈打った。
もう一本。
先ほどより高い音を鳴らす。
今度は反応しない。
毒島は太さの異なる音叉を、順番に試していった。
その中の一本。
低く、獣の唸りにも似た音が響いたときだけ、白虎の印が強く光った。
「外から付けられたものじゃねえな」
毒島が言う。
「どういう意味だ」
「皮膚に刻まれた印なら、反応は表面で止まる」
毒島は仁虎の背ではなく、胸を指差した。
「こいつは逆だ」
「逆?」
「中にある何かが、外へ滲み出してる」
亜呂が息を呑む。
仁虎は無意識に、自分の胸へ手を当てた。
その内側では今も、自分とは別の呼吸が続いていた。
◇
「少し、音を聞かせて」
羅馬は風見鶏の和音を構えた。
「痛えことはすんなよ」
「音で殴ったりはしないよ」
「お前の場合、ありそうだから言ってんだ」
「信用がないなあ」
羅馬は小さく笑い、弦へ指を置いた。
一音。
工房の空気が震える。
二音。
仁虎の身体を流れるものへ、羅馬の意識が触れていく。
人には、それぞれ固有の流れがある。
呼吸。
心臓の鼓動。
血の巡り。
積み重ねた記憶。
言葉にならない感情。
それらが重なり、ひとつの旋律のように身体の中を巡っている。
仁虎の流れは強かった。
岩を削る川のように太く、荒々しい。
容易には曲がらず、押し戻されても前へ進もうとする。
仁虎そのものを思わせる流れだった。
だが、その奥に、もうひとつある。
人のものではない。
あまりにも巨大で、あまりにも古い。
ひとつの身体へ収まっていること自体が、不自然に思えるほどの流れ。
それは深い場所で眠りながら、少しずつ目を覚まそうとしていた。
羅馬の指が止まりかける。
「何かが、入ってこようとしてる」
亜呂の顔が強張った。
だが羅馬は、すぐに首を振る。
「違う」
「何だ」
仁虎が低く問う。
「外から入ろうとしてるんじゃない」
羅馬は仁虎を見る。
「最初から、中にいたんだ」
白虎の印が、ゆっくりと光る。
「それが今、どこかへ戻ろうとしてる」
工房が静まり返った。
「どこへだ」
羅馬にも分からない。
ただ、音の流れだけは、はっきりと一つの方角を示していた。
羅馬は西を向く。
「あっち」
地脈計の針と、同じ方角だった。
◇
毒島は、作業台の上に置かれた布包みへ手を伸ばした。
白き牙。
白虎に縁のある、古い太刀。
布を解いた瞬間、仁虎の背中が強く光った。
「ぐっ……!」
仁虎が椅子の背を掴む。
木が軋み、指の下へ亀裂が入った。
「やっぱり反応するか」
「しまえ」
「触ってみろ」
「断る」
「怖いのか」
仁虎が毒島を睨む。
「てめえ、よほど殴られてえらしいな」
「怒る元気があるなら触れるだろ」
毒島は白き牙を差し出した。
仁虎は動かない。
だが刀が近づくほど、印の痛みは強くなっていく。
逃げることを許さないように。
何かが、早く手に取れと急かすように。
仁虎は舌打ちし、柄を握った。
その瞬間。
工房の中を、風が吹き抜けた。
窓は閉まっている。
扉も開いていない。
それでも強い風が床から立ち上がり、机の紙を巻き上げ、壁に掛けられた時計を一斉に揺らした。
天礎石の青い光が、白へ変わる。
仁虎の背中から、眩い光が溢れた。
巨大な虎の影が、その背後へ立ち上がる。
天井へ届くほどの白虎。
鋭い牙。
大地を裂くような爪。
白い風を纏い、工房そのものを押し潰しかねない存在感を放っている。
亜呂の胸元から、朱雀の火が自然に立ち上った。
朱い光と、白い光。
二つは衝突しなかった。
互いの周囲を巡り、相手の存在を確かめるように揺れる。
遠い昔に別れた者同士が、ようやく相手の姿を見つけたかのように。
羅馬の弦が、触れてもいないのに鳴った。
白虎が口を開く。
咆哮。
工房の空気が震え、時計の硝子が一斉に鳴る。
亜呂には、獣の声にしか聞こえなかった。
毒島にも。
羅馬にも。
だが、仁虎だけには違った。
咆哮が、言葉となって胸の奥へ届く。
――依代。
仁虎の目が見開かれる。
――西へ来い。
声は白虎の影からではなく、仁虎自身の内側から響いていた。
――時がない。
仁虎は白き牙から手を放した。
刀が床へ落ちる前に、毒島が受け止める。
風が消えた。
白虎の影も、朱雀の火も。
工房には再び、時計の音だけが残った。
「何が聞こえた」
毒島が問う。
仁虎は答えなかった。
「仁虎」
羅馬が呼ぶ。
仁虎は三人へ背を向けた。
「……何も聞こえちゃいねえ」
だが、その拳は、爪が掌へ食い込むほど強く握られていた。
◇
毒島は机へ向かい、測定結果を書き留めていた。
「亜呂の場合とは違う」
紙から目を離さずに言う。
「何がですか」
「お前の神火は、朱雀から与えられた力だ」
毒島は音叉の反応を書き加える。
「お前自身の中に根づいちゃいるが、朱雀そのものがお前の身体へ入り込んでるわけじゃねえ」
筆を置く。
今度は仁虎を見た。
「こいつは、同じじゃない」
「何が言いてえ」
「お前は、白虎の加護を受けてるだけじゃねえ」
毒島は一度、言葉を切った。
「白虎に由来する何かが、お前の中にいる」
仁虎の目が細くなる。
「さっきの反応を見る限り、ただ力を借りてるって話じゃ済まねえ」
「では、父上は……」
亜呂が、言葉を探す。
「白虎の依代なのでしょうか」
その言葉に、仁虎の眉が動いた。
毒島はすぐには頷かなかった。
「仮説だ」
白き牙を布の上へ戻す。
「天礎石も、地脈計も、この刀も、全部こいつの内側にある何かへ反応した。白虎の力を宿してるのか、魂の一部を抱えてるのか、それとも別の仕組みなのか。そこまでは分からねえ」
「白虎が父上のお身体を、器としている可能性は」
「ある」
毒島は、慎重に答えた。
「だが、決めつけるには早い」
仁虎は笑わなかった。
誇る様子もない。
むしろ顔を歪め、白き牙を睨んでいる。
「ふざけるな」
皆が黙る。
「守護の神獣だか何だか知らねえが、勝手に人の中へ居座って、勝手に来いと喚いてやがる」
「仁虎……」
「それに――」
仁虎の声が止まった。
口にするつもりのなかった言葉が、喉まで出てしまったかのように。
「守れなかった男を、何で白虎が選ぶ」
亜呂が顔を上げた。
「父上、それは……」
「何でもねえ」
仁虎は床へ置かれた上衣を掴んだ。
それ以上、誰にも問わせない顔だった。
亜呂は父の背中を見る。
守れなかった男。
誰を。
何を。
仁虎はこれまで、一度もそのことを話したことがない。
亜呂の知らない場所に、父が今も背負い続けている傷がある。
亜呂は袖を、そっと握った。
「ひとつ、聞かせてください」
毒島へ向き直る。
「仮に、白虎が父上の内側から出ようとしているのなら……そのとき、父上はどうなるのですか」
毒島は答えなかった。
「白虎が外へ現れれば、父上のお身体は」
「分からねえ」
「傷つくのでしょうか」
「分からねえ」
「父上の魂と入れ替わることは」
「それも、分からねえ」
「共に生きることはできますか」
毒島はすぐに答えられなかった。
羅馬も、風見鶏の和音へ目を落とす。
やがて毒島が、低く言った。
「今の測り方じゃ、そこまでは見えねえ」
亜呂は袖を握る指へ力を込めた。
助けを求めているらしい白虎。
守らなければならない仁虎。
二つが、同じ身体の中にいる。
白虎を解放すればよいという話ではない。
かといって、眠らせ続ければよいとも限らない。
どちらかを救おうとすることで、もう片方を失うかもしれなかった。
「御隠居様なら」
亜呂が言った。
「何か、ご存じかもしれません」
◇
一行は旅籠ひぐらしを訪れた。
だが、御隠居の姿はなかった。
「御隠居様でしたら、今朝早くお出かけになりました」
奏々世が答える。
「行き先は?」
毒島が問う。
「伺っておりません」
「何か言い残してなかったか」
「いいえ」
奏々世は少し考え、やがて視線を西へ向けた。
「ただ……」
「ただ?」
「お出かけになる前、西のお山を長いことご覧になっておられました」
羅馬と毒島が顔を見合わせる。
地脈計が指した方角。
仁虎の内側を流れる力が向かおうとしている場所。
白虎の声が呼んだ方角。
すべて西だった。
「気づいてやがったのか」
毒島が呟く。
「なら、何で何も言い残さねえ」
「御隠居らしいと言えば、らしいけどね」
羅馬が苦笑した。
答えを知っていても、すぐには教えない。
自ら辿り着かなければ意味のない答えを、御隠居は決して先回りして渡そうとはしない。
仁虎は旅籠の軒先から、西の空を見た。
山々の上には、厚い雲がかかっている。
風は東へ吹いているはずだった。
それなのに仁虎の髪だけが、西へ引かれるように揺れていた。
◇
夜。
仁虎は屋敷の一室に、一人で座っていた。
目の前には、白き牙が置かれている。
毒島から、ひと晩だけ借りてきたものだった。
襖の向こうに、亜呂がいる。
足音も声もない。
だが、気配で分かる。
部屋へ入ろうとはしない。
呼びかけもしない。
ただ、そこにいる。
仁虎が何を決めるとしても、一人にはしないために。
仁虎は白き牙を睨んだ。
「てめえが白虎だろうが何だろうが」
返事はない。
「ここは俺の身体だ」
白き牙は沈黙している。
「勝手に喰うことも、勝手に使うことも許さねえ」
刀身の奥で、淡い光が灯った。
胸の内側から、低い唸り声がする。
――来い。
仁虎は目を閉じた。
「命令するな」
――西へ。
「黙れ」
――時がない。
仁虎は、ゆっくりと目を開いた。
「だから何だ」
白き牙を手に取る。
「てめえの都合で、俺の身体を明け渡す気はねえ」
立ち上がり、白き牙を腰へ差した。
「だが、話はつける」
西へ向いた窓を開く。
冷たい夜風が部屋へ吹き込んだ。
背中の印が、白く脈打つ。
「西へ行けばいいんだな」
仁虎の背後に、巨大な白虎の影が現れた。
白虎は仁虎と同じ方角を見ている。
しかし、二つの輪郭は重なり切っていない。
仁虎は、仁虎のまま。
白虎は、白虎のまま。
まだ、一つではない。
「てめえが何者だろうと、俺を好きにはさせねえ」
白虎の影が、低く唸る。
「俺の身体で、俺の娘を泣かせることだけは許さねえぞ」
襖の向こうで、亜呂が小さく息を呑んだ。
仁虎は振り返らなかった。
ただ白き牙の柄へ手を置き、暗い山の向こうを睨む。
その頃。
皇都の西。
人の立ち入らぬ山中で、古びた石柱に一本の亀裂が走った。
柱へ刻まれた虎の目が、白く光る。
地の底から、重い音が響いた。
一度。
二度。
何かが、内側から扉を叩いている。
皇都では、人々が安らかな眠りについていた。
羅馬も。
涅央も。
ましろも。
毒島も。
幽解夏も。
怪異の夜を越え、束の間の休息を得ていた。
ただ一人。
仁虎だけが、次の危機へ向かって
歩き始めていた。




