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からくり道中浪漫譚―白詰草異聞―  作者: ロマリアス
白虎編

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白虎編 第十話 【黄泉の声】


最初の報せは、朝の鐘が鳴るよりも早く届いた。

神興区の裏長屋で、亡くなった母親の声を聞いた者がいる。

続いて港湾区では、三年前に水難で死んだ夫が、戸口の外から妻の名を呼んだという。

市場区では、幼くして亡くした娘の歌声が、井戸の底から聞こえた。

それだけならば、皇都では珍しくない怪異として処理されていただろう。

死者への未練が形を取ることもある。

妖が人の声を真似ることもある。

古い家や井戸に、声だけが残ることもある。

だが、その朝は違った。

同じような報告が、皇都のあらゆる場所から一斉に届いた。

亡くなった父の声。

帰らぬ兄の声。

病で失った妻の声。

名を与える前に亡くした子の泣き声。

聞こえる声は人によって異なった。

しかし、どの声も最後には同じことを告げた。

――こちらへおいで。

――もう一度、会いにおいで。

神興区警邏隊の詰所には、朝から伝令が途切れなかった。

扉が開くたび、報告書が机の上へ積み上がっていく。

「北町で新たに三名!」

「水門付近でも五名です!」

「市場区の報告、先ほどの倍に増えました!」

黒葛原ましろは、次々と差し出される紙へ目を走らせた。

場所も、年齢も、聞いたという声の主もばらばらだった。

共通しているのは、相手がすでに亡くなっていることだけ。

「声を聞いた者は、最寄りの詰所か寺社へ保護してください」

ましろは即座に命じた。

「井戸、地下道、古い祠、空き家はすべて封鎖。聞こえた方向へ近づけてはいけません」

「各区の警邏隊にも同じ指示を?」

「お願いします。保護した方々は単独にせず、人目のある場所へ集めてください」

隊員たちが一斉に動き出した。

ましろは報告書を握ったまま、窓の外を見た。

いつもと変わらない皇都の朝だった。

蒸気車の汽笛が鳴り、店先では商人が暖簾を掛けている。

それでも街のあちこちで、人々が足を止めていた。

誰かに名を呼ばれたように。

聞こえないはずの声へ、耳を傾けるように。

「副隊長!」

振り向くと、若い隊員が青ざめた顔で立っていた。

「保護所でも、声が聞こえ始めました」

「……場所を移したのに?」

「はい。声がついてきた、と」

「何人です」

「今のところ二十七名です。ただ……」

隊員は言いよどんだ。

「増えています」

毒島の時計店では、作業台の上に皇都全域の地図が広げられていた。

羅馬は地図の端へ身を乗り出し、亜呂は腕を組んで赤い印の数を見つめている。

「多いね」

羅馬が呟いた。

「多いなんてもんじゃねえ」

毒島は赤鉛筆の先で地図を叩いた。

「怪異には普通、偏りが出る。井戸の周辺、墓地のそば、地脈の弱い場所。何かしら共通する土地がある」

地図には皇都の東西南北を問わず、無数の印が散っていた。

「だが今回は、それが見えねえ」

「見えていないだけではありませんか」

亜呂が地図へ顔を寄せる。

「異なる場所で起きているように見えても、地下ではつながっている可能性があります」

「だから調べてる」

毒島はぶっきらぼうに答えた。

その時、店の外から慌ただしい足音が近づいた。

扉が勢いよく開き、警邏隊員が駆け込んでくる。

「毒島殿! 本部より、至急お越しいただきたいとのことです!」

「何があった」

「保護した者たちが、一斉に声を聞き始めました」

毒島の手が止まった。

「一か所に集めたのか」

「はい」

「まずいな」

「何がです?」

毒島は答えず、地図を丸めた。

「羅馬、亜呂。来い」

「俺たちも?」

「声の怪異だ。お前の耳が役に立つかもしれねえ」

歩き出しかけてから、毒島は足を止めた。

「いや……もう一人要る」

「もう一人?」

「声の奥まで聞ける奴だ」

涅央が警邏隊本部へ呼び出されたのは、それから半刻ほど後だった。

舞台衣装ではなく、落ち着いた色の着物をまとっている。

突然の召集にもかかわらず、その佇まいには乱れがない。

「お呼びとのことで参りました」

ましろが一礼する。

「突然のお願いで申し訳ありません」

「いえ。事情は道中で伺いました」

涅央は広間の奥へ目を向けた。

声を聞いた者たちが、そこへ集められていた。

老人。

母親。

職人。

商人。

幼い子どもまでいる。

誰もが別の方向を見つめ、それぞれ異なる名を呼んでいた。

「お母さん……」

「待ってくれ。今、そっちへ行く」

「父ちゃん?」

声は幾重にも重なり、広間全体を満たしている。

涅央はそのざわめきの中へ、静かに耳を澄ませた。

一人一人の声ではない。

彼らが聞いているもの。

そのさらに底にある響きを探る。

やがて、涅央の表情が変わった。

「これは……」

ましろがすぐに振り向く。

「何か分かりましたか」

涅央は答えず、一人の老爺の前へ膝をついた。

老爺は震える手を宙へ伸ばしていた。

「お春……そこにいるのか」

「お春様とは?」

「四十年前に死んだ、わしの女房だ」

「声は、昔と同じでしたか」

「同じだとも」

老爺は涙を浮かべた。

「いや……少し違うかもしれん。だが、お春なんだ」

「その方は、あなたを何と呼ばれていましたか」

老爺の口が止まった。

「……何と?」

「長く連れ添った方なら、皆と同じ呼び方ではなかったのではありませんか」

老爺は何かを思い出そうとした。

だが、答えられない。

聞こえるのは確かに妻の声。

けれど、その声は彼にしか分からないはずの呼び方を知らない。

涅央は立ち上がった。

「皆さまは、異なる方の声を聞いたと仰っています」

静かな声だった。

それでも不思議と、広間のざわめきを抜けて届いた。

「ですが、息の間も、言葉の長さも、響きの底も同じです」

ましろが眉を寄せる。

「同じなのですか」

「はい」

涅央は床の下へ耳を向けた。

「これは、死者の声ではございません」

広間にいた者たちが一斉に涅央を見た。

ある者は怒り、ある者は怯えた。

「嘘をつくな!」

「俺には聞こえている!」

「娘なんだ!」

涅央は彼らの思いを否定しなかった。

「皆さまが聞いている声を、偽物だとは申しません」

その言葉に、叫び声がわずかに静まる。

「ですが、その声を発しているのは、皆さまが会いたいと願う方々ではない」

涅央の視線が、床のさらに下へ落ちた。

人の耳には届かないほど深い場所で、何かが同じ呼吸を繰り返している。

「誰かが呼んでいるのではありません」

涅央は低く告げた。

「黄泉そのものが、人の懐かしさを真似ているのです」

その言葉が落ちた直後。

広間にいた者たちが、一斉に立ち上がった。

誰かに糸で引かれたようだった。

「お母さん」

「待ってくれ」

「今、行くから」

全員が出口へ向かって歩き始める。

「止めてください!」

ましろが叫んだ。

隊員たちが押しとどめようとする。

だが、人々は尋常ではない力で前へ進んだ。

老人も、子どもも、足の悪い者さえ。

ましろは凍りついた。

一人にしてはいけない。

危険な場所から遠ざけなければならない。

そう判断して、一か所へ集めた。

その結果、声は弱まるどころか、互いの悲しみを足場にして強くなった。

「私が……」

ましろの指が震えた。

「私が、集めました」

その時、広間の扉が開いた。

羅馬が風見鶏の和音を抱えて入ってくる。

亜呂と毒島が続いた。

羅馬は人々ではなく、広間を満たす見えない流れへ耳を澄ませた。

床下から伸びる無数の細い糸。

それらが一人一人の胸へ入り込み、記憶へ絡みついている。

「羅馬!」

毒島が叫ぶ。

「流れを切れるか!」

羅馬は弦へ手を掛けた。

一音。

広間の空気が震え、黄泉から伸びる糸が一瞬だけ揺らいだ。

同時に、人々の身体まで大きくよろめく。

羅馬はすぐに演奏を止めた。

「駄目だ」

「なぜです!」

亜呂が問う。

「声だけじゃない。あの人たちの記憶と絡まってる」

黄泉から流れ込む力の道は分かる。

しかし、その道はすでに悲しみや思い出の中へ深く食い込んでいた。

力任せに断てば、声だけではなく、大切な記憶まで傷つけてしまうかもしれない。

「どれを動かしていいか、分からない」

羅馬が呟く。

その言葉を聞き、涅央が顔を上げた。

「私には分かります」

羅馬が振り向く。

「誰が、どの声へ深く引かれているのか。どの声が今、その方を黄泉へ連れていこうとしているのか」

「でも、涅央の声だけじゃ届かない」

「はい」

涅央は頷いた。

「私の声は、黄泉の響きに呑まれてしまいます」

二人は互いを見た。

涅央が人を見極める。

羅馬が、その者へ流れ込む黄泉の力だけを弱める。

弱まった一瞬へ、涅央の声を届ける。

言葉にする前に、役割は決まっていた。

「最初は、あの女性です」

涅央が広間の奥を指した。

幼い子を抱いたまま、出口へ向かっている女だった。

「亡くされたお子さまの声を聞いておられます。今、最も深く引かれている」

羅馬が弦を鳴らす。

無数の流れの中から、女へつながる一本を探る。

高すぎる。

少し下げる。

違う。

もう一音。

涅央が耳を澄ませる。

「今です」

羅馬が弦を弾いた。

女の足が止まった。

その一瞬へ、涅央の声が届く。

「その方を忘れる必要はございません」

女の肩が震えた。

「ですが、今あなたを呼んでいるのは、その方ではない」

「違う……あの子よ」

「お子さまなら、あなたを暗い場所へ連れてはいかないでしょう」

女は立ち尽くした。

腕の中に抱かれた、今を生きる子どもが泣き始める。

その現実の泣き声が、黄泉の声へ重なった。

女は腕の中を見下ろした。

「……ここに」

「はい」

涅央の声が柔らかくなる。

「今、あなたを必要としている方は、ここにおられます」

女の目から涙が溢れた。

膝から力が抜け、隊員が身体を支える。

一本。

黄泉の糸が消えた。

羅馬が息を吐く。

「次は」

涅央はすでに別の者を見ていた。

「右手の老爺です」

羅馬が音を変える。

涅央が呼ぶ。

一人。

また一人。

羅馬が黄泉の流れを弱め、涅央が現世へ呼び戻す。

羅馬だけでは、誰の記憶に触れてよいか分からない。

涅央だけでは、黄泉の声を押しのけられない。

音が道を空け、声が人を連れ帰る。

やがて、広間にいた最後の一人が床へ膝をついた。

声は止んだ。

だが、羅馬は風見鶏の和音を下ろさなかった。

「まだある」

ましろが問う。

「何がですか」

「ここへ流れ込んできた道がある」

毒島が地図を広げる。

「追えるか」

羅馬は目を閉じた。

一つではない。

皇都のあちこちから細い流れが地の下を伝い、この広間へ集まっている。

涅央も耳を澄ませた。

「声の響きが、各地でわずかに異なっています」

「異なる?」

「強く漏れている場所と、弱い場所がございます」

毒島が地図へ印を付けていく。

涅央が示す地点。

羅馬が流れを感じる地点。

報告のあった場所。

三つを重ねたところで、毒島の手が止まった。

「……御影石だ」

「御影石?」

亜呂が尋ねる。

毒島は地図の上に記された古い印を指した。

「祠の礎、橋のたもと、古井戸の脇、道標。皇都の各所に置かれてる」

「ただの石ではないのですか」

「違う」

毒島の声が低くなる。

「地脈の点穴を塞ぐための石だ」

皇都の地下を巡る地脈には、力が噴き出しやすい箇所がある。

現世、常世、黄泉。

三界の境が薄くなる場所を、古くから御影石で押さえてきた。

「どうして今になって」

ましろが地図を見る。

毒島は観測記録を確認した。

「数日前、小さな地震があった」

眠っていた者なら気づかなかったほどの揺れ。

棚の器が、かすかに鳴っただけの地震だった。

「その揺れで石がずれた可能性がある」

「では、ずれた石を戻せば」

亜呂の言葉に、毒島は首を振った。

「一つじゃねえ」

地図へ印を付ける。

一つ。

二つ。

五つ。

十。

印は皇都全域へ広がっていった。

「全部だ」

ましろの顔色が変わる。

「皇都中の御影石が?」

「ほんの数寸ずつな。だが皇都全体で見れば、封じの配置が崩れてる」

「一つずつ戻したら?」

羅馬が尋ねる。

「塞いだ場所へ流れてた黄泉の力が、別の点穴へ押し寄せる」

毒島は即答した。

「下手に一か所だけ戻せば、ほかの場所が裂ける」

「では、どうすれば」

ましろが問う。

「同時に戻すしかねえ」

部屋が静まり返った。

皇都全域に散らばる御影石。

それらを、同じ瞬間に本来の位置へ戻す。

正しい位置を割り出す者。

石を動かす人手。

すべての区を動かす指揮。

そして、皇都のどこからでも確認できる、一つの合図が必要だった。

ましろは地図を見つめた。

先ほどの失敗が、まだ胸へ刺さっている。

自分が人々を集めた。

守るつもりだった。

その判断で、怪異を強めた。

「副隊長」

隊員が不安そうに呼んだ。

ましろは目を閉じた。

失敗したからといって、次の判断を誰かへ譲ればよいわけではない。

目を開く。

「各区の警邏隊へ伝令を」

声には、もう震えがなかった。

「御影石の場所を確認。石工、鳶、消防組、運搬夫を集めてください」

「はい!」

「ただし、石はまだ動かしてはいけません」

ましろは地図を指した。

「一つでも早く動かせば、黄泉の力が別の点穴へ集中します。全区、合図があるまで待機」

「その合図は、どうやって」

隊員の問いに、誰もすぐには答えられなかった。

伝令では遅い。

鐘や大砲の音も、距離によって届く時刻がずれる。

花火は不発や煙の危険があり、建物の陰では見落とされる。

毒島が腕を組む。

「皇都のどこからでも見える光が要る」

亜呂が顔を上げた。

「……幽解夏殿なら」

羅馬が続ける。

「秘乃湯の?」

「はい。火の扱いにおいて、あの方の右に出る者はいないと聞いております」

毒島は少し考え、頷いた。

「呼べ」

幽解夏は事情を聞き終えると、煙管を口元から離した。

「つまり、皇都中へ同じ刻を知らせればいいんだね」

「一呼吸でも大きくずれれば、戻した点穴へ別の漏れが押し寄せます」

ましろが答える。

幽解夏は、皇都中央の火の見櫓を見上げた。

「それで、あの上から火を出せと」

「できますか」

問いかけたましろに、幽解夏は少しだけ眉を上げた。

「できるかどうかじゃないよ」

煙管の灰を軽く落とす。

「どのくらいの高さなら、皇都の端からでも見やすいかって話さ」

亜呂が思わず口を挟んだ。

「幽解夏殿。皇都の全域から目視できる火柱となれば、相当な量の神火が必要です」

「そうだろうね」

「しかも、合図が訪れるまで維持しなければなりません」

「それも聞いたよ」

「火の見櫓(みせやぐら)や周囲の建物へ、熱害を出すわけにも――」

幽解夏は笑った。

「亜呂ちゃん」

「はい」

「火は、大きいから言うことを聞かなくなるんじゃない」

幽解夏は煙管を腰へ差した。

「どこへ行けばいいか、教えてやらないから暴れるのさ」

それだけ言うと、火の見櫓の階段へ足を掛けた。

日が傾く頃、皇都全域で準備が整った。

橋のたもと。

神社の裏。

井戸端。

古い道標。

御影石へ縄が掛けられ、梃子が差し込まれている。

各区の高所には見張り役が立ち、火の見櫓を見つめていた。

神火の柱が上がれば準備。

その柱が上空で大きく開けば、御影石を動かす。

事前に定められた、ただ一つの合図だった。

声はまだ聞こえていた。

亡き母。

亡き子。

失った友。

作業員たちは耳を塞ぎながら、梃子から手を離さずに待った。

警邏隊員が支え、神職が祈り、河童族が水路の流れを見張っている。

皇都中央の火の見櫓。

その頂に立った幽解夏は、片手を天へ向けた。

掌に、小さな火が灯る。

秘乃湯の湯釜へ火を入れる時と変わらない、穏やかな炎だった。

幽解夏が指先をわずかに持ち上げる。

火が伸びた。

一丈。

十丈。

さらに高く。

爆発も、轟音もなかった。

ただ一本の巨大な神火の柱が、静かに皇都の空へ立ち上がった。

赤い光が街並みを照らす。

屋根瓦が朱に染まり、川面へ炎の影が映る。

それほどの火でありながら、火の見櫓の木材一本焦げない。

火の粉一つ、街へ落ちない。

熱さえも、すべて上空へ向けられていた。

亜呂は櫓の下から、その光景を見上げていた。

朱雀の火とは違う。

朱雀の火は強い意志へ呼応し、時に感情と共に燃え上がる。

幽解夏の火は、最初から最後まで彼女の掌中にあった。

巨大でありながら乱れない。

風に煽られても、わずかにも傾かない。

火を生み出すことよりも、生み出した火を一寸も狂わせず従わせること。

それこそが、幽解夏が火の天才と呼ばれる理由だった。

毒島が、呆然とする亜呂の横で呟く。

「量だけなら、燃やせる奴はほかにもいる」

「……はい」

「あれだけの火を、必要な場所だけに置き続けられる奴は、そうはいねえ」

幽解夏は火柱を支えたまま、櫓の上から声を落とした。

「まだなのかい?」

息一つ乱れていない。

ましろが思わず声を張る。

「もう少しだけ、維持をお願いします!」

「はいよ」

返事は、湯加減を頼まれた時と変わらなかった。

警邏隊本部では、羅馬が風見鶏の和音を奏でていた。

一音ごとに、皇都の地下を巡る流れが浮かび上がる。

だが、各地の漏れはまだばらばらだった。

一つが強まれば、別の一つが弱まる。

同じ時にすべてを戻せる瞬間が来ない。

涅央は目を閉じ、皇都中に響く声の底へ耳を澄ませていた。

無数の声。

無数の悲しみ。

だが、その奥には一つの大きな呼吸がある。

黄泉の脈動。

「羅馬殿」

涅央が呼ぶ。

「もう少し、低く」

羅馬が音を下げた。

地脈の流れが緩やかになる。

「次は、わずかに速く」

羅馬が拍を変える。

各地の漏れが、同じ周期へ近づいていく。

涅央は、いつ脈動が揃うかを聞く。

羅馬は、その瞬間へ流れを導く。

音だけでは届かない。

声だけでは動かせない。

二人の力が重なり、皇都中の黄泉の響きが一つへ寄っていく。

「来ます」

涅央が目を開いた。

羅馬は演奏を続けながら頷く。

「あと三つ」

黄泉の脈動が重なる。

「二つ」

ましろが火の見櫓へ向ける信号旗を握った。

「一つ」

涅央が叫んだ。

「今です!」

ましろは旗を大きく振り下ろした。

火の見櫓の上で、幽解夏が信号を確認した。

「ようやくかい」

彼女は天へ向けていた手を、軽く握った。

皇都の空へ伸びていた神火の柱が、一度だけ大きく脈打つ。

次の瞬間。

柱の先端が、夜空に咲く巨大な花のように開いた。

東へ。

西へ。

南へ。

北へ。

四方へ広がった神火の枝が、皇都全域の空を朱に染める。

どの街区からでも見間違えようのない光だった。

高所の見張り役が一斉に綱を引く。

各地の鐘が、ほぼ同じ瞬間に鳴った。

ましろが伝声管を掴み、声を張り上げる。

「全区――御影石を戻せ!」

皇都中で、掛け声が上がった。

縄が軋む。

梃子が沈む。

巨大な御影石が、本来の位置へ動き始める。

羅馬が風見鶏の和音を強く鳴らした。

ずれていた地脈の流れが、元の道へ戻っていく。

亜呂が両手を合わせる。

朱の火が各地の御影石へ走り、まとわりつく黄泉の穢れだけを焼いた。

石が収まる。

一つ。

また一つ。

皇都全体で、御影石が本来の場所へ戻った。

その瞬間。

街中に響いていた死者の声が、途切れた。

あまりにも突然だった。

声を聞いていた者たちは、しばらく誰も動けなかった。

そして、現実の音が戻ってくる。

子どもの泣き声。

人を呼ぶ声。

蒸気機関の唸り。

川の流れ。

風。

皇都は、ようやく息を吐いた。

幽解夏は、空へ立てていた神火の柱をすっと消した。

あれほどの炎が、初めから存在しなかったかのように夜空が戻る。

火の見櫓の上に、焦げ跡は一つもない。

幽解夏は欄干へ寄りかかると、何事もなかったように煙管を取り出した。

火皿へ指先を近づける。

小さな神火が灯った。

一服。

白い煙が、夜の風へ細く流れていく。

遅れて櫓へ上がってきた亜呂は、しばらく言葉を失っていた。

「幽解夏殿……」

「何だい」

「お身体は、本当に何ともないのですか」

幽解夏は煙を吐きながら、亜呂を見た。

「この程度で倒れてちゃ、皇都中の湯釜なんて預かれないよ」

「この程度……」

亜呂が呟く。

幽解夏は、まだ驚いている亜呂へ煙管の先を向けた。

「火に怒鳴るんじゃないよ」

「え?」

「押さえつけるんでもない。どこへ行けばいいか、ちゃんと教えてやるんだ」

幽解夏はもう一度煙管をくわえた。

「そうすりゃ、火は案外素直なもんさ」

まるで今日も無事に湯を沸かした、とでも言うような顔だった。

夜。

警邏隊本部の外では、報告を終えた隊員たちが座り込んでいた。

大きな怪我をした者はいない。

黄泉へ連れ去られた者もいなかった。

ましろは地図を見つめたまま、動かなかった。

羅馬が隣へ来る。

「終わったね」

「終わってはいません」

ましろは答えた。

「私の判断で、人々を一か所へ集めました」

「うん」

「そのせいで、声を強くした」

「うん」

ましろが羅馬を見る。

責められると思ったのかもしれない。

しかし羅馬は、ただ続けた。

「でも、そのあと皇都中の人を動かしたのも、ましろでしょ」

「……それで失敗が消えるわけではありません」

「消えないよ」

羅馬は地図の上に並ぶ御影石の印を見た。

「でも、失敗したあとに何をするかは、残ると思う」

ましろは答えなかった。

「ましろが全区を同時に動かしたから、誰も黄泉へ行かなかった」

「羅馬さん」

「それに」

羅馬は少し笑った。

「途中で逃げなかった」

ましろはしばらく黙っていた。

やがて、小さく息を吐く。

「あなたは時々、ずるいことを言いますね」

「ずるい?」

「何でもありません」

ましろは地図を畳んだ。

そこへ毒島が入ってくる。

「喜んでるところ悪いが、話がある」

全員の表情が引き締まった。

毒島は御影石の観測記録を机へ置く。

「位置は戻った」

「では」

亜呂が期待を込めて見る。

「地脈の傷は残ってる」

毒島は言った。

「今回は、蓋を元へ戻しただけだ」

部屋が静まる。

「皇都の地下で、何かが少しずつ壊れてる」

羅馬は風見鶏の和音へ触れた。

死者の声は、もう聞こえない。

だが地の奥には、不穏な響きが残っている。

怪異が一件、起きたのではない。

現世と黄泉の境そのものが、皇都の各所で薄くなり始めている。

同じ頃。

仁虎は屋敷の廊下で、突然足を止めた。

背中に熱が走る。

次の瞬間、それは痛みへ変わった。

刃を押し込まれたような痛みだった。

仁虎は柱へ手をつく。

「……っ」

息が詰まる。

着物の下で、白虎の印が白く浮かび上がっていた。

日を追うごとに、その反応は強くなっている。

最初は熱だけだった。

次は疼き。

今では、身体の内側から何かが外へ出ようとしている。

仁虎は歯を食いしばった。

地の底から、低い唸りが響いた気がした。

声ではない。

言葉でもない。

それでも、意味は分かった。

急げ。

もう時間がない。

仁虎は背へ手を回そうとした。

だが、その印へ触れることはできない。

「……分かっている」

誰もいない廊下で、低く呟いた。

「俺にも、もう猶予がないことくらいはな」

白虎の印が、もう一度脈打った。

皇都の夜の底で。

眠り続けていた白き獣が、封印の内側から牙を立てていた。


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