白虎編 第九話 【朱の灯】
雷獣騒ぎから一夜が明けた。
皇都の朝は、昨夜の雷鳴など初めからなかったかのように訪れた。
商店は戸を開き、蒸気車は白い煙を吐きながら通りを走る。
それでも、人々の口から出る話題は、どこへ行っても同じだった。
昨夜、雲一つない空から落ちた雷。
市場通りを飛び回った七匹の妖獣。
突然現れ、雷獣を次々と眠らせた謎のモモンガ。
そして――歌によって雷を鎮めたという、正体不明の旅人。
朝も早いうちから、号外まで出ていた。
「号外! 号外!」
紙束を抱えた少年が、通りを駆け抜けていく。
「市場通りに雷獣現る! 歌う旅人、七体を鎮圧!」
往来の人々が足を止め、我先にと号外を買い求めた。
茶屋の片隅で、羅馬も一枚の紙を広げていた。
紙面の中央には、稲妻に囲まれながら楽器を高く掲げる男の絵が、大きく描かれている。
実際の羅馬よりも肩幅が広い。
髪は風もないのに激しくなびき、なぜか衣まで英雄のように翻っていた。
その背後では、七匹の雷獣が行儀よく一列に並んでいる。
羅馬は号外の絵と自分の身体を交互に見比べた。
「……俺、こんなに逞しくないよね」
向かいに座っていた亜呂が、口元を隠す。
「絵師の方が、少々勇ましく描かれたのでしょう」
「少々かなあ」
羅馬は紙面へ目を戻した。
見出しの下には、さらに大きな文字が躍っている。
――歌声一つで雷雲を呼び、七体の雷獣を従えた怪人。
「俺、呼んでないけどなあ」
羅馬は心底困ったように呟いた。
隣の卓から、別の客たちの声が聞こえてくる。
「俺が聞いた話じゃ、旅人が歌った途端に雷が止まったらしい」
「いや、違う。あの男が雷獣を七匹まとめて操ったんだ」
「何言ってる。歌で空から呼び寄せたんだよ」
「じゃあ、騒ぎの張本人じゃねえか」
羅馬は号外の陰から、そっと亜呂を見た。
「俺、悪者になってない?」
「今のところ、英雄と怪人が半々ほどでしょうか」
「半分も怪人なんだ」
亜呂は楽しそうに笑った。
その表情には、昨夜羅馬が成し遂げたことへの、わずかな誇らしさが滲んでいた。
けれど羅馬自身は、まだ納得できていない。
雷気を二つの旋律へ分けたこと。
声と弦へ、別々の流れを預けたこと。
音を少し変えただけで、地の下を走る力の深さまで動いたこと。
どれも確かに、自分が行った。
それなのに、どうしてできたのかと聞かれれば、うまく答えられない。
羅馬は号外を畳んだ。
「歌ったら、分かったんだよなあ」
「何がですか?」
「どっちへ行きたいのか」
亜呂は少し考えたあと、静かに答えた。
「羅馬殿にしか分からないことなのかもしれません」
「そうかな」
「はい」
迷いのない返事だった。
羅馬は亜呂を見る。
亜呂は微笑んでいた。
昨夜と同じように、羅馬がまだ自分を信じ切れない分まで、信じているような顔だった。
その時、茶屋の入口から聞き慣れた声が飛んできた。
「朝から随分と呑気だな」
毒島が、不機嫌そうな顔で立っていた。
片手には昨夜の記録帳。
もう片方には、奇妙な器具の入った木箱を抱えている。
羅馬は号外を持ち上げた。
「俺、雷獣使いになったらしいよ」
「知るか。来い」
「どこへ?」
「研究室だ。昨夜の続きを調べる」
毒島はそう言うと、さっさと店を出ていった。
羅馬は亜呂と顔を見合わせる。
「断ってもいいかな」
「おそらく、もう実験の準備は済んでおります」
「だよねえ」
羅馬はため息をつき、残っていた茶を飲み干した。
*
毒島の研究室は、時計店の奥にあった。
表の店には、大小さまざまな時計が整然と並んでいる。
しかし、奥の扉を一枚くぐった途端、その秩序は姿を消した。
歯車。
銅線。
管。
工具。
書きかけの図面。
分解された時計。
用途の分からない硝子器具。
天井からは細い導線が何本も垂れ下がり、壁際では小さな蒸気機関が絶え間なく息をしている。
中央の大きな机には、水を張った三つの器が並んでいた。
その横には細かな砂、小さな風車、方位磁針に似た測定器、熱せられた金属片、そして布に包まれた微量の天礎石が置かれている。
羅馬は部屋を見回した。
「昨日の夜から、ずっとこれやってたの?」
「寝てる暇があるか」
「あると思うけど」
「お前は黙ってそこへ座れ」
亜呂は羅馬の隣へ立ち、机の上を覗き込んだ。
「毒島殿。危険な実験ではありませんよね」
「危険なら先に言う」
「それでは遅いのでは?」
毒島は聞こえなかったふりをした。
三つの器を、羅馬の前へ並べる。
どの器にも、同じ量の水が入っていた。
中央の器だけ、縁に小さな黒い印が付いている。
「真ん中の水だけ、右へ回せ」
羅馬が器を見る。
「器ごと?」
「水だけだ」
「最初から難しいなあ」
「昨夜は七体分の雷気を動かしただろ」
「昨日は必死だったから」
「今日は必死じゃないのか」
「水が爆発しないなら、そこまでは」
毒島は深く息を吐いた。
羅馬は中央の器へ手をかざした。
水面へ意識を向ける。
器の中に、薄い流れがある。
静かに巡り、止まり、また巡ろうとしている。
羅馬はそれへ指を触れるような気持ちで、右へ押した。
中央の水面が、ゆっくり回り始める。
だが同時に、左右の器にも波紋が生じた。
机の上に置かれた砂が、さらりと動く。
小さな風車まで、かすかに回った。
毒島は測定器へ視線を落とした。
「止めろ」
羅馬が手を下ろす。
三つの器の水が、次第に静まっていった。
「動いたよ」
「全部な」
「真ん中も動いた」
「真ん中だけと言っただろ」
「近くにあったから、つられたのかな」
「その『つられた』を調べてるんだ」
毒島は記録帳へ何かを書き込んだ。
亜呂が水面を覗く。
「羅馬殿には、三つの器の水がつながっているように感じられるのですか?」
「つながってるというより……」
羅馬は言葉を探した。
「同じ机の上にいるから、近い感じがする」
「分かるような、分からないような説明だな」
毒島が呟く。
「俺もそう思う」
「お前が言うな」
毒島は顎で、羅馬の背負った荷を示した。
「次は風見鶏の和音を使え」
羅馬は楽器を取り出した。
膝へ置き、弦を一音鳴らす。
低い音が、研究室の中へ広がった。
もう一音。
中央の器を思い浮かべながら、音の輪郭を細く絞る。
三度目の音が鳴った時、中央の水面だけに小さな波紋が生じた。
左右の器は動かない。
砂も、風車も静かなままだった。
毒島の手が止まる。
「もう一度やれ」
羅馬は同じ音を鳴らした。
中央の水だけが、ゆっくり右へ回り始める。
「……やっぱりな」
毒島が測定器を確かめる。
「楽器が力を出してるわけじゃねえ」
「そうなの?」
「お前の中にある力へ、境目を作ってる」
「境目?」
「どこからどこまでを動かすのか。何を動かして、何を動かさないのか。音がそれを分けてるんだ」
羅馬はもう一度弦を弾いた。
中央の水が動く。
音を止めると、水面も静まる。
「それなら、なんとなく分かる」
毒島は眉間を押さえた。
「なんとなくで成功するな。説明できなくなる」
「毒島さんが説明してくれたらいいよ」
「そのために調べてるんだ」
毒島は三つの器を下げ、別のものを並べた。
水。
砂。
熱した金属。
薄い布に包まれた天礎石。
「次は順番に動かせ」
「水以外も?」
「中身が違えば、お前の力も変わるか確認する」
羅馬は風見鶏の和音へ指を置いた。
水は巡り、砂は小さな渦を作った。
熱は金属の端から端へ移り、天礎石の青い光さえ、音に合わせて一方へ偏った。
毒島はそれぞれの測定器を確かめたあと、腕を組んだ。
「水を操ってるんじゃねえ」
「うん」
「砂でも、熱でも、雷でもない」
「うん」
「お前が動かしてるのは、中身じゃない」
羅馬は首を傾げる。
「じゃあ何?」
毒島は紙を引き寄せ、素早く線を描いた。
水が流れる線。
熱が移る線。
雷が走る線。
妖気が巡る線。
「違うものに見えても、全部に向きと速さがある」
毒島は線の上へ矢印を書き足した。
「止まる場所があり、集まる場所があり、逃げる場所がある」
羅馬は紙を覗き込む。
「道みたいだね」
「そうだ。お前は物を直接動かしてるんじゃねえ」
毒島は矢印の向きを変えるように、紙へ新しい線を引いた。
「そいつが進もうとする流れへ触ってる」
羅馬は少し黙った。
川の流れ。
風の流れ。
人の集まり。
熱。
雷。
妖気。
それらはまるで別のものだと思っていた。
けれど、自分が感じていたものは、初めから同じだったのかもしれない。
「流れ……」
羅馬が呟く。
毒島は新しい頁を開いた。
「まだ仮説だ。それに、お前の精度は安定してねえ」
「さっきはできたよ」
「昨夜は、もっと細かく分けられてた」
「必死だったからかな」
「それだけか?」
毒島は机の下から、今度は蓋付きの器を三つ取り出した。
どれも同じ形で、印も付いていない。
「見るな」
「どうやって選ぶの?」
「目を閉じろ」
羅馬は素直に目を閉じた。
毒島が三つの器の位置を入れ替える音がする。
「一つだけ選べ」
「どれを?」
「何でもいい。お前が一つだけだと分かればいい」
「分からないよ。全部同じなんでしょ」
「だから選べと言ってる」
羅馬は目を閉じたまま、風見鶏の和音へ触れた。
三つの器を感じようとする。
どれも同じ。
距離も形も、中にある水の量も変わらない。
一音鳴らす。
三つとも微かに反応した。
「駄目だ。全部動いてる」
毒島が言う。
「だって同じだもん」
「なら、違うものにしろ」
「どうやって?」
「何か意味を持たせろ。ほかと違うと、お前が確信できるものだ」
「意味?」
「何でもいい。名前でも、色でも、記憶でも」
羅馬は少し考えた。
それから、目を閉じたまま中央の器へ手を向ける。
「じゃあ、これは亜呂」
隣で見ていた亜呂が瞬きをした。
「私ですか?」
「うん。一番分かりやすいから」
羅馬は何気なく答えた。
亜呂は何も言えなかった。
羅馬は弦を鳴らす。
先ほどまで三つへ広がっていた音が、今度は真っ直ぐ一つへ向かった。
中央の器だけに、くっきりと波紋が広がる。
左右はまったく動かない。
毒島が測定器を見た。
針は中央の器だけを示している。
「……もう一度」
羅馬が同じ音を鳴らす。
結果は変わらない。
中央だけ。
毒島は羅馬を見た。
「今、何をした」
「亜呂だと思った」
「器を?」
「うん」
「なぜ、それで分けられる」
羅馬は目を開けた。
中央の器を見る。
「分からない。でも、見失わなかった」
亜呂の胸が、わずかに鳴った。
羅馬はいつもの顔をしている。
実験の結果を、そのまま話しただけだ。
けれど亜呂には、その言葉が妙に深く残った。
毒島は記録帳へ書き込む。
――対象への認識が明確であるほど、作用精度が上昇。
――視覚的特徴より、記憶・感情・親和性による識別が優位である可能性。
羅馬が横から覗き込んだ。
「親和性って何?」
「お前が、そいつをどれだけ他と区別してるかだ」
「亜呂は亜呂だから、分かるよ」
「その説明が一番役に立たねえ」
亜呂は横を向いた。
理由もなく、頬が少し熱い。
毒島はそれに気づかなかった。
羅馬も、もちろん気づいていなかった。
*
実験を終え、羅馬と亜呂は研究室を出た。
昼を過ぎた皇都の通りには、昨日と変わらぬ賑わいが戻っている。
露店の呼び声。
蒸気車の警笛。
職人たちが槌を打つ音。
号外を手に、昨夜の出来事を大げさに語る人々。
二人は並んで歩いた。
羅馬は、時折亜呂の横顔を見ている。
一度。
二度。
三度目で、亜呂が気づいた。
「先ほどから、どうされました?」
「いや」
羅馬は少し考えてから答えた。
「亜呂って、どんな音かなと思って」
亜呂は足を止めかけた。
「……私を、音に?」
「うん」
「なぜ、急に」
「さっき、亜呂だと思ったら見失わなかったから」
羅馬は歩きながら、指先で空をなぞる。
「だから、音にしても分かるのかなって」
亜呂には、羅馬が何を考えているのか分からなかった。
けれど、自分を音にしようとしていることだけは分かる。
「私には、音にできるほど面白いところなどありません」
「そうかな」
「はい」
「でも、強い音はしそう」
「それは褒めておられますか?」
「褒めてるよ」
羅馬は真顔だった。
亜呂は困ったように笑った。
そのあと二人は、昨夜の雷獣騒ぎについて報告するため、仁虎の屋敷へ立ち寄った。
*
屋敷の座敷では、仁虎が警邏隊から届けられた報告書へ目を通していた。
その向かいには、見覚えのある桃色の髪の女が座っている。
昨夜、市場通りで警邏隊を指揮していた人物だった。
ましろは羅馬と亜呂が入ってくると、わずかに姿勢を正した。
「昨日の旅人ですね」
「今朝から雷獣使いになったらしいよ」
羅馬は持ってきた号外を広げて見せた。
ましろは紙面を一瞥する。
「警邏隊の報告書には、そのような記載はありません」
「ちゃんとしてるね」
「当然です」
仁虎が報告書から顔を上げ、二人を見比べた。
「そういえば、まだ互いに名乗っていなかったか」
ましろは立ち上がった。
「神興区警邏隊副隊長、黒葛原ましろです」
背筋を伸ばし、羅馬へ一礼する。
羅馬も軽く頭を下げた。
「羅馬。旅をしてる」
ましろは少し待った。
「……それだけですか?」
「歌も歌うよ」
「それは昨日、十分に分かりました」
亜呂が横で、わずかに口元を緩める。
ましろは表情を改め、羅馬へもう一度頭を下げた。
「昨日は、ありがとうございました。あなたがいなければ、被害はさらに大きくなっていたはずです」
羅馬は少し驚いたように瞬きをした。
「昨日は外へ出ろって言ってたのに」
「それとこれとは別です」
「まだ怪しい?」
「今のところは」
ましろは即答した。
羅馬は亜呂を見る。
「昨日から変わってないね」
「信用とは、一日で得られるものではありません」
「そっか」
羅馬は妙に納得したように頷いた。
仁虎が低く笑う。
「お前には、それくらい慎重な相手の方がちょうどいい」
「俺、そんなに怪しいかな」
「昨夜まで、名も素性も知れぬ旅人だったのだぞ」
「今は名前を知ったよ」
ましろが答える。
「名前を知っただけです」
「厳しいね」
「職務ですから」
ましろは再び仁虎へ向き直り、報告書の一部を指した。
「負傷者の多くは軽傷でした。放心状態にあった方々も、今朝までに全員意識を取り戻しています」
「重傷者は」
「倒れた際に骨を折った者が二名。命に別状はありません」
仁虎は静かに頷いた。
「雷獣の方はどうなった」
「陰陽寮の管理下へ移されました。雷気も安定しています」
ましろはそこで、ほんのわずかに羅馬へ視線を向けた。
「少なくとも、昨夜の歌による処置に問題はなかったようです」
羅馬が首を傾げる。
「問題があったら、俺は捕まってた?」
「事情聴取はしていたでしょう」
「昨日より怖くなってない?」
「事実を申し上げただけです」
亜呂は二人のやり取りを見ながら、静かに笑っていた。
しばらくして、ましろは報告を終えた。
「それでは、私は警邏隊へ戻ります」
仁虎へ礼をし、次に亜呂へ頭を下げる。
最後に羅馬を見る。
「羅馬殿」
初めて名前を呼ばれ、羅馬は顔を上げた。
「なに?」
「今後、危険区域へ入る際は、先に現場責任者の許可を得てください」
「昨日みたいな時も?」
「昨日のような時こそです」
「分かった」
羅馬は素直に頷いた。
ましろは少し意外そうな顔をした。
「……本当に分かっていますか?」
「たぶん」
「やはり信用できません」
そう言い残し、ましろは座敷を出ていった。
羅馬はその背中を見送る。
「最後に下がったね。信用」
「自業自得だ」
仁虎が答えた。
亜呂は笑いを堪えながら、父の前へ茶を置く。
「父上。面白がらないでください」
「面白がってなどおらん」
そう言いながら、仁虎の口元は少し緩んでいる。
羅馬は何となく、亜呂の動きを目で追った。
仁虎へ茶を出す時の顔。
使用人が盆を落としかけた時、素早く手を添えた姿。
父の冗談へ、わずかに眉を寄せる表情。
それでも怪我をした使用人へ向ける声は、驚くほど柔らかかった。
強い。
優しい。
少し怒りっぽい。
けれど、その怒りは誰かを責めるためのものではない。
手を伸ばしたのに届かなかった時の、悔しさに似た音。
悲しいのに、泣かない時の顔。
笑う時、ほんの少しだけ緩む目元。
羅馬の中で、いくつもの音が生まれた。
けれど、どれも亜呂のすべてではなかった。
*
夜。
旅籠ひぐらしの一室で、羅馬は風見鶏の和音を抱えていた。
弦を鳴らす。
高く、真っ直ぐな音。
悪くない。
だが、それだけでは亜呂ではない。
少し低い音を重ねる。
今度は重すぎる。
暗く沈んで、亜呂の温かさが消えてしまう。
羅馬は何度も同じ場所を弾いた。
途中で止まる。
最初からやり直す。
また止まる。
部屋の外には、すでに夜の静けさが降りていた。
廊下を歩く足音が止まる。
襖の向こうから、奏々世の声がした。
「今日はずいぶん、同じところでつまずいていらっしゃいますね」
羅馬は弦から指を離した。
「人を曲にするのって、難しいんだね」
襖が少し開き、奏々世が顔を覗かせる。
「誰の曲か、伺っても?」
「亜呂だよ」
奏々世は一度だけ目を細めた。
「……そうでしたか。ふふふ」
「何がおかしいの?」
「いえ。ただ、亜呂さんを一つの音にまとめるのは、難しそうだと思いまして」
羅馬の指が止まった。
「一つじゃなくてもいいのかな」
奏々世は、少し考えるように首を傾げた。
「人は、いつも一つではありませんから」
「一つじゃない?」
「優しい時もあれば、怒る時もあります。強く見える時もあれば、心細い時もあります」
奏々世は穏やかに続ける。
「どれか一つだけを選んだら、その方ではなくなってしまうのかもしれませんね」
羅馬は風見鶏の和音へ目を落とした。
一つにまとめる必要はない。
違う旋律を、違うまま走らせればいい。
ぶつからないように。
けれど、離れすぎないように。
昨夜、雷獣の雷気を分けた時と同じだった。
高い旋律は、亜呂の凛とした強さ。
低い旋律は、胸の奥へ押し込めている怒りと痛み。
その二つの間を結ぶ音は、誰かを守ろうとする優しさ。
羅馬は弦へ指を置いた。
一音。
次に、低い音。
二つは別々の方向へ進みながら、途中で静かな和音になる。
羅馬は息を呑んだ。
そのまま次の音を探す。
高い旋律が伸びる。
低い旋律が、その下を歩く。
一度離れ、また近づく。
どちらかが消えることはない。
それでも、ひとつの曲として流れていく。
羅馬は夢中で弾いた。
奏々世は何も言わず、静かに襖を閉めた。
しばらくして。
最後の音が、部屋の中へ柔らかく残った。
羅馬は弦から指を離す。
余韻を確かめるように耳を澄ませた。
もう一度、最初の音を鳴らす。
今度は途中で止まらなかった。
「……できた」
羅馬は立ち上がった。
書き散らした紙をまとめ、慌ただしく支度を始める。
風見鶏の和音を抱え、部屋を飛び出した。
廊下を駆け、宿の階段を勢いよく降りていく。
帳場にいた奏々世が顔を上げた。
「あら、どちらへ?」
「ちょっと行ってくる!」
「はい。お気をつけて」
羅馬は振り返らずに手を上げ、そのまま旅籠を飛び出していった。
奏々世は戸口まで出ると、遠ざかっていく羅馬の背中へ手を振った。
「いい曲、できましたね」
奏々世は、楽しそうに微笑んでいた。
*
その夜。
亜呂は仁虎の屋敷の縁側に座り、昼間のことを思い返していた。
――これは亜呂。
――分からない。でも、見失わなかった。
羅馬は、実験の結果を話しただけだ。
そこに深い意味などない。
分かっている。
それでも、その言葉は耳の奥に残っている。
自分を思い浮かべることで、羅馬の力が定まった。
同じ形の器が三つあっても、見失わなかった。
そんなことを言われたのは初めてだった。
亜呂は胸元へ手を置いた。
なぜ、これほど気になるのだろう。
その時、門の方から声が聞こえた。
「約束はないけど、亜呂に会いに来たんだ」
「ですから、今はもう門を閉める時間で――」
聞き覚えのある声だった。
亜呂は立ち上がる。
庭を抜け、門へ向かう。
「羅馬殿?」
門前には、風見鶏の和音を抱えた羅馬が立っていた。
かなり急いできたのだろう。
肩で息をしている。
髪も少し乱れていた。
亜呂はすぐに駆け寄る。
「何かあったのですか?」
「うん」
羅馬が息を整える。
亜呂の表情が引き締まった。
「怪異ですか。それとも、毒島殿が何か――」
「違う。曲ができた」
「……曲?」
「うん」
羅馬は風見鶏の和音を少し持ち上げた。
「亜呂に聴いてほしくて」
亜呂は、返事を忘れた。
門番が二人を交互に見る。
屋敷の奥から、仁虎の声が飛んできた。
「何の騒ぎだ」
仁虎が羽織を肩へ掛け、門先へ現れる。
羅馬を見る。
楽器を見る。
そして娘を見る。
「夜分に娘を訪ねて、曲を聴かせに来ただと?」
「うん」
「……本当にそれだけか」
「それだけだけど」
仁虎はしばらく羅馬を見つめた。
羅馬も見返す。
亜呂は、わずかに頬を赤らめながら口を開いた。
「父上。少し庭をお借りします」
仁虎は何か言いたそうに口を開いた。
だが、亜呂の顔を見ると、結局何も言わなかった。
「遅くなるな」
「はい」
亜呂は羅馬を庭へ案内した。
*
屋敷の庭には、灯籠の柔らかな明かりが落ちていた。
風が竹の葉を揺らす。
遠くから、皇都を走る蒸気機関の音が微かに聞こえる。
羅馬は縁側の前へ座り、風見鶏の和音を膝へ置いた。
亜呂は、その少し離れた場所へ腰を下ろす。
「昨夜の、雷獣を鎮めた曲でしょうか」
「違うよ」
「では、旅の途中で作られた曲ですか?」
「今日作った」
「今日?」
羅馬は弦を確かめながら答えた。
「亜呂の曲」
亜呂は息を止めた。
「……私の、曲ですか」
「うん。亜呂を考えて作った」
あまりにも自然に言うものだから、亜呂はどう受け取ればいいのか分からない。
「なぜ、私の曲を」
「今日、毒島さんに、一つだけを選べって言われただろ」
「はい」
「その時、亜呂を思い浮かべたら、すぐ分かったんだ」
羅馬は亜呂を見る。
「一番、見失わなかったから」
昼間と同じ言葉。
けれど今度は、真っ直ぐ自分へ向けられている。
亜呂は目を伏せた。
「それで、私を曲に?」
「うん。でも難しかった」
「私が、ですか?」
「強いだけじゃないし、優しいだけでもないから」
羅馬は少し笑った。
「一つの音じゃ足りなかった」
羅馬の指が、最初の弦へ触れる。
「だから、いくつかの音を一緒にした」
亜呂は何も言えず、ただ羅馬を見ていた。
最初の音が鳴る。
高く、真っ直ぐな旋律。
凛としていて、迷いがない。
けれど、その下から低い音が重なった。
静かで深い。
胸の奥へ沈められた、言葉にならない痛みのような音。
二つの旋律は、同じ方向へは進まなかった。
一度離れる。
違う速さで歩く。
それでも、間に柔らかな和音が生まれ、二つをつないでいく。
羅馬が歌い始める。
それは告白の歌ではなかった。
愛を乞う歌でもない。
亜呂の中にある火を、羅馬が見つめた歌だった。
胸に灯る 朱の火よ
隠さなくてもいい
誰かを焼くためでなく
帰る道を 照らすため
強くあろうと するたびに
ひとりで痛みを 抱かずとも
その手が守ろうとしたものを
火は静かに 覚えている
亜呂は膝の上で手を握った。
自分の内側にある怒りを、亜呂はずっと恐れていた。
それは抑えなければならないもの。
間違えば、誰かを傷つけるもの。
父のように強くあろうとするほど、その火は大きくなる。
だから誰にも見せず、胸の奥へ押し込めてきた。
けれど羅馬の歌の中で、その火は恐ろしいものではなかった。
暗い道を照らしていた。
帰る場所を守っていた。
誰かが寒そうなら、そっと近くへ寄るような、温かな火だった。
歌が終わる。
最後の和音が、庭の夜気へ溶けていく。
竹の葉が、さらさらと鳴った。
亜呂はしばらく何も言えなかった。
羅馬は少し不安そうに顔を覗き込む。
「……変だった?」
亜呂は首を横へ振る。
「いいえ」
「じゃあ、嫌だった?」
「違います」
「よかった」
羅馬は素直に安堵した。
亜呂は言葉を探す。
「私の中にあるものを、私はあまり好きではありませんでした」
「何が?」
「怒りです」
亜呂は胸元へ手を置いた。
「抑えなければ、人を傷つけるものだと思っていました」
羅馬は少し考えた。
「でも、亜呂の火って温かいよ」
亜呂が顔を上げる。
「温かい……?」
「うん」
羅馬は迷いなく頷いた。
「誰かが寒そうだと、すぐ近くへ行くから」
亜呂は目を見開いた。
そして、少しだけ笑った。
「羅馬殿は、不思議な見方をされるのですね」
「そうかな」
「はい」
「でも、俺から見た亜呂はそうだよ」
亜呂の目に、灯籠の明かりが揺れた。
泣くつもりはなかった。
それでも、視界が少し滲む。
羅馬は気づいていないようだった。
亜呂はそれでよかった。
「この曲に、名はあるのですか」
「まだない」
「そうなのですか」
「亜呂が決めてもいいよ」
「私が?」
羅馬は頷いた。
亜呂はしばらく考えた。
庭の灯籠を見る。
小さな火が、夜の中で静かに揺れている。
「……朱の灯、というのはいかがでしょう」
羅馬はその言葉を口の中で転がした。
「朱の灯」
もう一度、最初の旋律を小さく鳴らす。
「うん。いいね」
亜呂は胸元へ手を置いたまま、羅馬を見る。
「もう一度、聴かせていただけますか」
羅馬は笑った。
「もちろん」
二度目の歌が始まる。
一度目は、羅馬から亜呂へ贈られた歌だった。
二度目は、亜呂が自分の意思で受け取った歌だった。
夜風が庭を渡る。
高い旋律と低い旋律が、離れながら、寄り添いながら流れていく。
亜呂は目を閉じた。
この曲なら、きっと忘れない。
どれほど遠く離れても。
どれほど年月が過ぎても。
どこかでこの旋律が聞こえたなら、必ず分かる。
それが誰の音なのか。
亜呂はまだ、そのことを知らなかった。
*
同じ頃。
毒島は一人、研究室に残っていた。
昼間の実験記録と、昨夜の雷獣騒ぎの記録を机へ並べる。
羅馬が水を動かした時。
熱を移した時。
天礎石の光を偏らせた時。
そして、亜呂として選んだ一つの器だけへ力を向けた時。
それぞれの測定器は、確かに異なる反応を示している。
だが、その下。
床下へつないでいた地脈計だけは、同じ方向へ針を振っていた。
西。
毒島は昨夜の紙帯を引き寄せる。
雷獣の雷気を分離した瞬間にも、同じ脈動が記録されている。
完全には一致しない。
けれど、よく似ている。
羅馬が狙った対象とは関係なく、もっと深い場所で何かが動いている。
毒島は二つの記録を重ね合わせた。
「なんで、毎回西へ引っ張られる……」
細い線が重なる。
雷獣騒ぎの地点。
仁虎の屋敷。
皇都西部。
白き牙が見つかった場所。
毒島は新しい紙へ、それぞれの位置を書き込んだ。
そして線で結ぶ。
一本の流れが、地中を通っているように見えた。
「お前が選んだものだけが、動いてるわけじゃねえのか……?」
毒島は椅子へ深く座り直した。
羅馬が局所へ力を向けるたび、地の奥にある大きな流れまで反応している。
いや。
羅馬が動かしているのではないのかもしれない。
羅馬の力へ、何かが応えている。
毒島は手帳へ書き込む。
――作用範囲の限界、未確認。
筆が止まる。
その時。
研究室の西側に置かれた地脈計の針が、ほんのわずかに揺れた。
毒島が顔を上げる。
針は一度だけ西へ振れ、静かに中央へ戻った。
遠く、仁虎の屋敷から歌が聞こえてくるはずはない。
それでも地の底では、何かがその旋律へ耳を澄ませていた。
仁虎の背中。
衣服の下にある白虎の印が、かすかに熱を帯びる。
縁側で腕を組んでいた仁虎は、無意識に背中へ手をやった。
庭から、羅馬の歌が聞こえている。
「……妙な夜だ」
仁虎は小さく呟いた。
西の地中深く。
長い眠りの中にある白きものが、ほんの一度だけ息をした。




