白虎編 第八話 【雷獣】
皇都の猫たちが、妙に騒がしい夜だった。
裏路地では、塀の上に座った猫が、揃って西の空を見上げている。
屋根の上にも一匹。
軒下にも一匹。
どの猫も鳴かず、ただ何か遠い音を拾うように、耳だけを小刻みに動かしていた。
月は出ている。
風も穏やかだった。
それなのに、猫たちの髭は同じ方角へ向かって微かに震えている。
やがて、そのうちの一匹が屋根へ飛び移った。
尾は二つに分かれていた。
猫又は後ろ脚で立ち上がり、くるりと一度回った。
続いて、別の屋根でも一匹。
また一匹。
人目の届かぬ皇都の屋根で、猫又たちが踊り始める。
不吉なものを恐れている様子ではなかった。
むしろ、待ちわびていた誰かの帰りを祝っているようだった。
その光景を、さらに高い場所から見つめる影があった。
古びた社の棟に、一匹の狐が座っている。
尾は一本ではない。
狐は踊る猫又たちには目もくれず、ただ西を向いていた。
空気の奥で、何かが動いている。
まだ小さい。
まだ遠い。
けれど、確かに以前とは違う。
狐は目を細めた。
その時だった。
低い轟きが、皇都の空を渡った。
雲一つなかった夜空へ、墨を垂らしたような黒い雲が滲み出す。
次の瞬間。
白い稲妻が、皇都の一角へ落ちた。
*
「雷だ!」
誰かが叫んだ。
市場通りの中央に立つ電信柱へ、青白い光が突き刺さる。
耳をつんざく音とともに火花が散り、周囲の看板が一斉に揺れた。
通りを歩いていた者たちが悲鳴を上げる。
「火事だ!」
「水を持ってこい!」
「近づくな! まだ電気が流れているぞ!」
人々が右往左往する中、落雷を受けた柱の上で、何かが動いた。
丸い影。
猫ほどの大きさ。
だが、猫ではない。
長い尾が、青白い火花をまとっている。
獣は柱のてっぺんで身体を震わせると、空へ向かって甲高い声を上げた。
それに呼応するように、別の屋根からも声がした。
一匹ではない。
二匹。
三匹。
家々の屋根や蒸気管の上へ、次々と小さな獣が現れる。
「なんだ、あれは……」
「鼬か?」
「いや、猫だろう」
「手足の間に、何か付いているぞ」
獣の一体が大きく跳んだ。
前脚と後脚の間に薄い膜が広がり、通りの上を滑るように飛んでいく。
その姿を見た老人が、震える声を漏らした。
「雷獣だ……」
その名を聞いた瞬間、人々の間に動揺が走った。
雷とともに現れ、木や屋根を駆け、時に人へ災いをもたらすという妖。
だが、現れた雷獣たちは、人間へ牙を剥いているようには見えなかった。
むしろ楽しげだった。
屋根から屋根へ飛び移り、互いを追いかけ回している。
尾を振るたびに火花が散る。
一匹が蒸気管へ飛び乗った。
ばちん、と大きな音が響く。
雷気が管を伝い、近くの街灯が一斉に弾けた。
「うわっ!」
破片を避けようとした男が転ぶ。
そのすぐそばへ、雷獣が降り立った。
獣は首を傾げた。
男を襲おうとしているのではない。
目の前で動くものを、面白がっているだけだ。
しかし、その身体から漏れた青白い光が男へ触れる。
男の身体が、びくりと跳ねた。
「お、おい!」
仲間が駆け寄る。
だが、男は起き上がらない。
目は開いている。
息もしている。
それなのに、声をかけても何の反応もなかった。
「しっかりしろ!」
その騒ぎに興奮したのか、雷獣たちは一斉に鳴き声を上げた。
青白い光が、通りのあちこちで弾ける。
一人、また一人と、人々が地面へ崩れ落ちていった。
「逃げろ!」
「子供を先に!」
狭い通りへ人が殺到する。
倒れた者を避けようとして、別の者が転ぶ。
荷車が横倒しになり、積まれていた木箱が道を塞いだ。
その混乱が、雷獣たちをさらに昂らせていく。
一匹が家の軒から飛び降り、泣き叫ぶ子供へ向かった。
殺すつもりなどない。
ただ、その声と動きに反応しただけだ。
だが、まとった雷気は、人の身体にはあまりに強い。
誰も間に合わない。
雷獣が跳ぶ。
その瞬間。
屋根の上から、小さな影が舞い降りた。
*
影は風を切り、雷獣と子供の間へ滑り込んだ。
柔らかな膜を広げた、小さな獣。
見た目だけなら、ただのモモンガだった。
モモンガは空中で身体を翻す。
その前脚から、細い針が飛んだ。
一本。
二本。
三本。
針は雷獣の足元や首元へ突き刺さった。
雷獣は地面へ着地すると同時に身体を震わせる。
まとっていた光が、ふっと消えた。
その場へ力なく倒れる。
モモンガは地面へ降りることなく、横転した荷車の上を蹴った。
さらに一匹。
屋根の上にいた雷獣へ針が飛ぶ。
青白い光が消える。
別の一匹が尾を振り、雷を放とうとする。
モモンガは壁を蹴り、軒下をくぐり抜けた。
雷が放たれるより先に、針が雷獣の腹部へ打ち込まれる。
獣は小さく鳴いて、屋根の上へ伏した。
通りを駆けていた雷獣たちが、次々と動きを止めていく。
人々には、何が起きているのか分からなかった。
小さな影が通り過ぎるたびに、雷獣の光が消えていく。
それは戦いというより、決められた仕掛けを順番に止めて回っているようだった。
最後の一匹が空へ跳んだ。
モモンガも屋根から飛び出す。
二つの小さな影が、夜空で交差した。
細い針が、雷獣の胸元へ吸い込まれる。
雷獣は空中で力を失い、ゆっくり落ちていった。
モモンガはその背を前脚で押さえ、近くの布張りの屋台へ着地する。
布が大きく沈み込み、雷獣の身体を受け止めた。
辺りに、静けさが戻った。
残っているのは、壊れた街灯から落ちる火花の音と、人々の荒い呼吸だけ。
モモンガは屋台の上で立ち上がる。
小さな身体で額を拭うような仕草をして、息を吐いた。
「ふうっ! 危ないところだった」
倒れている雷獣を見回す。
一体、二体。
通りの先まで含めれば、七体ほどいる。
どの雷獣も息はしていた。
ただ、身体から雷気が消え、眠ったように動かない。
「これだけいれば、さすがに骨が折れますねえ」
モモンガが独り言を漏らした時、通りの奥から足音が近づいてきた。
大きな鞄を抱えた男が、人々を押し分けて現れる。
毒島だった。
「退け! 倒れている奴には触るな!」
毒島は道の中央まで来ると、動かなくなった雷獣を一目見た。
次に屋台の上へ目を向ける。
「……お前か」
「ご無沙汰しています」
モモンガは軽く頭を下げた。
毒島は雷獣の一体へ近づき、手袋をした手で針の位置を確かめる。
「雷脈を止めたのか」
「ええ。一時的に」
「どれくらい保つ」
「一刻ほどでしょうか。それ以上は保証できません」
「十分だ」
毒島は大きな鞄を地面へ置き、留め金を外す。
中には銅線や工具、奇妙な計測器が詰め込まれていた。
モモンガはその様子を見て、満足そうに頷く。
「あとは頼みますよ。毒島さん」
「待て」
モモンガが屋根へ飛び移ろうとしたところで、毒島が呼び止める。
「こいつら、どうしてこんなに集まった」
「さあ」
「陰陽寮は何か掴んでいるんじゃないのか」
「私は通りすがりのモモンガですから」
「通りすがりが封妖針なんぞ持ち歩くか」
「皇都は物騒ですからねえ」
モモンガは屋台の屋根を蹴った。
手足の膜を広げ、風に乗る。
「それでは」
「百――」
毒島が名前を呼びかけた時には、もう小さな影は屋根の向こうへ消えていた。
「……相変わらず、面倒だけ置いていきやがる」
毒島は舌打ちすると、倒れた雷獣へ向き直った。
一刻。
それまでに町民を避難させ、雷獣の中に溜まった雷気を逃がさなければならない。
しかも、ただ逃がせばよいわけではない。
雷獣同士の雷気は、地下の蒸気管や電信線を通じて複雑に絡み合っていた。
一つを誤れば、別の場所で暴発する。
毒島は計測器を地面へ置き、針の振れを確認した。
「……なんだ、これは」
針が一方向へ定まらない。
右へ振れたかと思えば、突然左へ戻る。
地面の下で、何本もの流れが互いに引っ張り合っている。
雷獣の興奮だけでは説明できない。
もっと大きな力が、皇都の地下で動いている。
その時。
通りの向こうから、笛の音が響いた。
警邏隊の到着を知らせる音だった。
「道を空けてください!」
若い女の声が、混乱した通りへよく通る。
「動ける方は、倒れた人を通りの端へ! 雷獣には絶対に触れないで!」
短い桃色の髪を揺らし、一人の警邏隊員が駆けてくる。
その後ろには数名の隊員。
そして、見覚えのある二人の姿もあった。
亜呂と羅馬である。
羅馬は走りながら、屋根の向こうへ消えていく影を一瞬だけ見た。
小さく、手足を広げて空を滑っている。
「……モモンガ?」
「羅馬殿?」
隣を走る亜呂が振り返る。
羅馬は目を瞬かせ、もう一度屋根を見上げた。
だが、そこには何もいなかった。
「いや。なんでもない」
目の前には、倒れた町民と雷獣たち。
羅馬はすぐに表情を改め、毒島のもとへ駆け寄った。
「毒島さん!」
「遅い!」
「これ、毒島さんが一人でやったの?」
毒島は計測器から目を離さずに答えた。
「違う。まあ、いろいろあってな。話せば長い」
「誰が――」
「それより今は、町民の避難と雷獣の後処理が優先だ」
桃色の髪の警邏隊員が、すぐそばで指示を飛ばす。
「警邏隊は二手に分かれてください! 負傷者の確認と、通りの封鎖!」
「はい!」
「動かない方も呼吸はあります! 乱暴に運ばないでください!」
言葉に迷いがない。
彼女は現場全体を一目で見て、必要なことを即座に判断していた。
ましろは倒れた町民の間を素早く見回した。
「そちらの二人、意識のある方から順に通りの外へ運んでください!」
「はい!」
「頭を打っている方は動かさないで。呼吸だけ確かめて!」
隊員たちが一斉に動き出す。
ましろ自身も横倒しになった荷車へ駆け寄り、下敷きになりかけていた子供を抱き起こした。
「痛いところはありますか?」
子供は泣きながら首を横に振る。
「よかった。あちらのお姉さんのところへ行けますね」
ましろが指した先では、亜呂が放心した町民の脈を診ていた。
子供を隊員へ預けると、ましろは改めて現場を見渡す。
倒れた雷獣。
地面へ這わせた銅線。
見慣れない計測器。
そして毒島の隣に立つ、旅装の男。
「あなた」
羅馬が振り返る。
「俺?」
「そうです。警邏隊の者ではありませんね」
「うん」
あまりにも素直な返事だったため、ましろは一瞬だけ言葉に詰まった。
「では、危険ですから封鎖線の外へ下がってください」
「でも、毒島さんに手伝えって言われたんだけど」
「毒島さん?」
ましろが毒島を見る。
毒島は銅線を雷獣の周囲へ巡らせながら、面倒そうに答えた。
「そいつはいい。俺が呼んだ」
「ですが、民間人でしょう」
「民間人であることと、役に立つかどうかは別だ」
「事故が起きてからでは遅いんです」
「そいつがいなけりゃ、事故が起きる」
ましろの眉がわずかに動いた。
羅馬は二人の間で視線を往復させる。
「俺、邪魔?」
「今のところは」
ましろが即答する。
「そっか」
羅馬は少しだけ困った顔をした。
毒島が苛立ったように舌打ちする。
「話は後だ。時間がない」
雷獣の一体から、青白い火花が弾けた。
封妖針の根元で、微かな雷光が脈打っている。
毒島は計測器の針へ目を落とした。
「術が弱まり始めてる」
「まだ一刻には早いのでは?」
亜呂が尋ねる。
「雷気が強すぎるんだ。こいつら一体ずつなら問題ねえ。だが七体分の流れが、地下で全部つながってやがる」
ましろが足元を見る。
石畳の下には、蒸気管や電信線、水路が複雑に通っている。
「このまま目を覚ませば?」
「一体が放電した瞬間、残りも引っ張られる。下手すりゃ通り一帯が吹き飛ぶ」
ましろの顔から険が消えた。
代わりに、現場を預かる者の表情になる。
「警邏隊!」
「はい!」
「封鎖範囲を二本先の通りまで広げてください! 家屋内に残っている方も全員避難!」
「承知しました!」
ましろは羅馬へ向き直る。
「あなたは何ができるんですか」
羅馬は少し考えた。
「流れを戻せる」
「流れ?」
「俺もよく分からないけど。散らばったものを、元いたところに戻したり」
「説明になっていません」
「だよね」
羅馬は困ったように笑う。
ましろはますます警戒した。
毒島が割って入る。
「詳しい説明は俺にもできねえ。ただ、こいつは目に見えない力を動かせる」
「それを信じろと?」
「信じなくていい。結果だけ見ろ」
毒島は銅線の先を地面へ打ち込んだ。
「まず雷獣の中に溜まった雷気を抜く。ただし一度に流すな。地下の電信線へ逆流する」
羅馬がしゃがみ込み、雷獣へ手をかざす。
青白い光が、薄い糸のように見えた。
いや。
見えているというより、そこにあることが分かる。
雷獣の身体から伸びる複数の流れが、地面の下で互いに絡み合っている。
羅馬は息を整えた。
「これを、あっちへ流せばいいんだね」
毒島が指した先には、銅線を束ねた放電器が置かれている。
「ただ流すだけじゃ駄目だ」
「え?」
「中央の三体から抜く雷気は放電器へ送れ。だが外側の四体は一度それぞれの身体へ戻せ」
「戻す?」
「今抜けば、雷気の偏りで身体が壊れる。外側は逆向きに巡らせて安定させろ」
羅馬は黙った。
毒島はさらに続ける。
「中央を外へ逃がしながら、外側は内へ戻す。ただし流れを交差させるな。交われば暴発する」
「ちょっと待って」
羅馬が両手を上げる。
「中央を外にやりながら、外側は中に戻して?」
「そうだ」
「でも流れは混ぜちゃ駄目で?」
「そうだ」
「しかも同時に?」
「そうだ」
羅馬は地面の下を見つめた。
「無理じゃない?」
「無理でもやれ」
「毒島さん、たまに言うことが乱暴だよね」
「今さら気づいたのか」
雷獣の身体が一度大きく痙攣した。
火花が飛ぶ。
封妖針の一本が、わずかに浮いた。
毒島の表情が変わる。
「急げ!」
羅馬は両手をかざした。
中央の雷気へ意識を向ける。
引く。
流れが動き始める。
だが同時に外側の雷獣へ意識を向けた瞬間、中央の流れが乱れた。
青白い光が地面の下で衝突する。
銅線が跳ねた。
「止めろ!」
毒島が叫ぶ。
羅馬は慌てて力を緩めた。
雷気が雷獣の身体へ戻り、辺りに火花が散る。
「ごめん」
「謝ってる場合か!」
「だって、一個ずつなら分かるんだけど」
「一個ずつやってる時間がねえんだ!」
羅馬は額に汗を浮かべた。
もう一度試す。
右の流れを外へ。
左の流れを内へ。
中央を速く。
外側をゆっくり。
頭の中で何度も整理する。
だが、考えれば考えるほど、流れの輪郭が崩れていく。
右と左が分からなくなる。
外と内が入れ替わる。
何本もの力が、騒音のように一つへ重なっていく。
「羅馬殿」
亜呂が心配そうに声をかける。
「大丈夫」
そう答えたものの、羅馬自身にも自信はなかった。
ましろは周囲を確認した。
避難は進んでいる。
それでもまだ、負傷者を運び出している隊員がいる。
ここで暴発すれば、全員は逃げ切れない。
「毒島さん」
ましろが低い声で尋ねる。
「他の方法は?」
「ねえ」
「なら私たちが、雷獣を一体ずつ引き離します」
「動かすな。流れが切れた瞬間に放電する」
「では、この方に任せるしかないと?」
「そう言ってる」
ましろは羅馬を見る。
羅馬は目を閉じたまま、何度も手の向きを変えている。
どう見ても、自在に力を操っているようには見えなかった。
また雷気が乱れる。
地面の下で鈍い音が響き、近くの街灯が明滅した。
羅馬は力を止めた。
「駄目だ」
小さく呟く。
「全部一緒になっちゃう」
毒島が歯を食いしばる。
「分けて考えろ」
「分けてるよ」
「ならもっと細かく見ろ。速度、向き、強さ、深さ。全部別々に制御するんだ」
「そんなに一度に言われても分からないよ!」
羅馬の声が、珍しく荒くなる。
毒島も言い返しかけた。
だが、そこで羅馬は何かに気づいたように黙った。
速度。
向き。
強さ。
深さ。
互いに違うものを、同時に動かす。
混ざらせず、それでも一つの流れとしてまとめる。
羅馬の視線が、背負っていた荷へ向いた。
「……もしかしたら」
「なんだ」
羅馬は答えず、荷を下ろした。
布を解く。
中から取り出したのは、旅の間ずっと持ち歩いてきた弦楽器――風見鶏の和音だった。
ましろが目を見開く。
「何をしているんですか」
羅馬は地面へ座り込み、弦を一本ずつ弾いた。
低い音。
少し高い音。
さらにもう一本。
耳を澄ませ、糸巻きをわずかに回す。
「おい」
毒島が呼ぶ。
羅馬はもう一度弦を鳴らした。
「毒島さん。中央の流れは、外へ速く送るんだよね」
「ああ」
「外側は、中へ戻す」
「そうだ」
「戻す方は、少し遅くてもいい?」
毒島は計測器を見る。
「構わん。ただし止めるな」
「深いところを通しても?」
「電信線より下ならな」
羅馬は頷いた。
一本の弦を低く調整する。
別の弦は高いまま残す。
毒島の要求が、少しずつ羅馬の中で別の形へ変わっていく。
速く外へ向かう流れは、軽く駆け上がる旋律。
ゆっくり内へ戻る流れは、その下を逆向きに進む低い音。
交わらせてはいけないなら、同じ拍で重ねなければいい。
片方をわずかに先へ。
もう片方を後から追わせる。
羅馬は弦を鳴らした。
短い音が、騒然とした通りへ響く。
次に低い音。
二つは別々に鳴りながら、やがて一つの和音になる。
だが、指先だけでは二つの旋律を保ちきれない。
一方を弦へ。
もう一方を、自分の声へ。
羅馬は大きく息を吸った。
そして、歌い始めた。
それは、誰かに聞かせるために作った歌ではなかった。
旅の途中で何度も口ずさんだ旋律でもない。
その場にある流れを、そのまま音へ置き換えたものだった。
最初の旋律が高く伸びる。
中央の雷獣から、青白い光が細い糸となって抜け始めた。
毒島が計測器を見る。
針が放電器の方向へ振れる。
「そのままだ!」
羅馬は返事をしない。
歌を途切れさせれば、流れも途切れる気がした。
高い旋律を保ったまま、指先で低い弦を鳴らす。
低音はゆっくりと下降し、また元の高さへ戻る。
外側の雷獣を包んでいた雷気が、身体の奥へ静かに沈み始めた。
「戻ってる……」
亜呂が息を呑む。
中央からは外へ。
外側では内へ。
二つの流れが、同じ場所にありながら互いに触れず、別々の方向へ動いている。
羅馬は歌いながら、初めてそれをはっきりと感じていた。
流れを直接掴もうとすると、全部が絡まってしまう。
だが、音にすれば分かる。
速すぎる流れは、拍を落とせばいい。
沈みすぎた力は、音を少し持ち上げればいい。
別々の方向へ向かわせたいなら、旋律を二つに分ければいい。
羅馬の指が弦を滑る。
主旋律が外へ進む。
その下で、低い反旋律が逆向きへ巡る。
一瞬、二つの音が近づいた。
地面の下で雷気がぶつかりかける。
羅馬は声の高さをわずかに変えた。
旋律が半音だけ上がる。
それに引かれるように、中央の流れが少し浅い位置へ移った。
低い流れは地中深くを進み、交差を避ける。
「……分離した」
毒島は計測器から目を離した。
初めて、歌う羅馬の手元を見る。
羅馬はさらに歌う。
放電器へ流れ込んだ雷気が、銅線を青白く輝かせる。
一度。
二度。
三度。
激しい火花が空へ逃げていく。
それとは逆に、外側の雷獣の身体からは荒々しい光が消え、呼吸が穏やかになっていった。
やがて、最後の雷気が放電器から夜空へ放たれる。
眩い光が通りを照らした。
羅馬が弦を押さえる。
歌が終わる。
遅れて、辺りへ静けさが戻った。
雷獣たちは眠ったまま、もう火花を散らしていない。
計測器の針も、中央で止まっていた。
羅馬はしばらく楽器を抱えたまま、動かなかった。
自分が何をしたのか、まだ完全には理解できていない。
毒島が計測器と雷獣を交互に見る。
「……お前」
羅馬が顔を上げる。
「なに?」
「今、どうやった」
「歌った」
「それは見りゃ分かる」
毒島が苛立ったように言う。
羅馬は少し考えた。
「毒島さんが言ってたことを、曲にしたんだよ」
「曲に?」
「うん。言葉だと全然分からなかったけど」
羅馬は風見鶏の和音の弦へ指を置く。
「音なら、どっちへ行きたいか分かった」
毒島は答えなかった。
計測器へ目を落とし、針の記録を確かめる。
ましろは羅馬をじっと見ていた。
先ほどまで、事情も分からず現場へ入り込んだ旅人だと思っていた。
だが目の前の男は、雷獣を傷つけず、町民を危険へ晒すこともなく、複数の雷気を同時に鎮めた。
それも、歌によって。
「あなたは……」
ましろが口を開く。
羅馬が振り返る。
「はい?」
「いったい何者なんですか」
羅馬は少し困った顔をした。
「旅人だけど」
「旅人は、普通こんなことをしません」
「そうなの?」
「そうです」
羅馬は亜呂を見る。
亜呂も少しだけ笑った。
「少なくとも、私の知る旅人の中では羅馬殿だけです」
「そっか」
羅馬は納得したように頷いた。
ましろはさらに何か言おうとしたが、背後から隊員の声が飛んだ。
「副隊長! 放心した方々の容態が変わりません!」
ましろの表情が、すぐに仕事のものへ戻る。
「分かりました。すぐ行きます」
毒島も立ち上がる。
「まだ終わりじゃねえ。雷気は抜けたが、妖気にあてられた連中がいる」
亜呂が尋ねる。
「先ほどの、トウモロコシを?」
「ああ」
羅馬が周囲を見回す。
「市場なら、どこかにあるんじゃない?」
ましろが即座に隊員へ指示を出す。
「近隣の穀物店と屋台を確認してください。代金は警邏隊で記録します。勝手に持ち出さないように!」
「はい!」
羅馬が小声で呟く。
「そこはちゃんとしてるんだ」
ましろは聞き逃さなかった。
「当然です」
「ごめん」
「謝る必要はありません。ですが当然です」
「はい」
亜呂が口元を少し緩める。
ほんの一瞬だけ、張り詰めていた空気が和らいだ。
ほどなく集められたトウモロコシを煎じて飲ませると、放心していた町民たちは少しずつ意識を取り戻していった。
羅馬は目を丸くした。
「本当に効くんだ……」
毒島は腕を組んだまま答える。
「俺も驚いてる」
町民たちの救護が進む中、毒島は先ほどの計測結果を手帳へ書き留めていた。
羅馬の発声と演奏に同期し、雷気の流れが変化した。
複数の流れを、異なる方向と速度で同時に制御。
毒島はそこまで記すと、筆を止めた。
羅馬が歌った瞬間。
雷気だけではない。
地面のさらに深いところにあった別の何かまで、僅かに動いた。
計測器の針は、それを確かに捉えていた。
毒島は石畳を見下ろす。
「……今のは、雷だけじゃねえな」
誰にも聞こえない声で呟いた。
そのはるか上。
市場通りを見下ろす屋根の棟に、一匹の狐が座っていた。
狐は眠る雷獣にも、倒れた町民にも興味を示さない。
ただ、風見鶏の和音を抱える羅馬を見ていた。
歌とともに巡り始めた、目に見えない流れ。
その流れの先。
皇都の西で、眠っていた何かが微かに応えた。
狐の耳が立つ。
確かめるべきことは、もう十分だった。
狐は静かに身を翻す。
その姿は夜の屋根へ溶け、誰にも気づかれないまま消えた。




