白虎編 第七話 【白き牙】
仁虎の屋敷は、以前と変わらず静かだった。
門をくぐると、よく掃き清められた白砂の庭が広がっている。
松の枝が風に揺れ、その影が敷石の上をゆっくりと動いていた。
羅馬は肩に担いでいた荷を持ち直し、庭を見回した。
「ここ、変わってないね」
「羅馬殿」
先を歩いていた亜呂が振り返る。
「くれぐれも、父上に失礼のないようお願いいたします」
「分かってるよ」
「本当に分かっておられますか?」
「うん」
にこやかに答える羅馬を見て、亜呂の胸にはむしろ不安が増した。
屋敷の者に案内され、二人は奥の座敷へ通された。
床の間を背に、仁虎が座っている。
黒い着流しに羽織を重ね、太い腕を組んでいた。
ただそこにいるだけで、座敷の空気が幾分重く感じられる。
羅馬は仁虎の正面へ腰を下ろすと、いつもの調子で笑った。
「久しぶり、仁虎さん」
「ああ」
仁虎は短く答え、羅馬を頭から足元まで眺めた。
「随分と長い旅だったようだな」
「いろいろ寄り道したからね」
「お前の旅は、寄り道の方が長えんじゃねえか」
「そうかもしれない」
悪びれる様子もなく答える羅馬に、仁虎は呆れたように鼻を鳴らした。
その視線が、羅馬の傍らに置かれた荷へ移る。
「それは何だ」
「ああ、土産」
羅馬は包みの中から、一本の酒瓶を取り出した。
「山あいの村で造ってる酒。新米で仕込んだんだって」
「旨いのか」
「旨いらしいよ」
「らしい?」
「俺はまだ飲んでないから」
仁虎は酒瓶と羅馬の顔を交互に見た。
「飲んでもいねえ酒を土産に持ってきたのか」
「村の人が自信ありそうだったから、大丈夫だと思う」
「お前は相変わらず調子が狂う奴だな」
「そうかな」
羅馬が首を傾げる。
その様子を見ていた亜呂の脳裏に、ふと、二人が初めて顔を合わせた日のことがよみがえった。
◇
羅馬を仁虎の屋敷へ連れてきたのは、彼が初めて皇都を訪れてから、まださほど日が経っていない頃だった。
仁虎一家の名を、この辺りで知らぬ者はほとんどいない。
弱い者から奪うことを嫌い、困っている者を見れば手を差し伸べる。
その一方で、仁虎の名と眼光だけで震え上がる者も少なくなかった。
だが羅馬は、座敷へ通されても普段と何も変わらなかった。
庭を眺め、床の間の掛け軸を見て、最後には仁虎の顔をまじまじと見ている。
「お前が羅馬か」
「うん」
「亜呂と一緒に、皇都をうろついてるそうだな」
「うろついてるというか、案内してもらってる」
「同じようなもんだ」
仁虎の声が一段低くなる。
「この都じゃ、妙なことが増えてやがる。怪異に巻き込まれねえとも限らん」
「そうだね」
「亜呂を危険に巻き込まねえと言い切れるのか」
亜呂は息を止めた。
問いの形をしてはいるものの、ほとんど警告に近い。
普通ならば、ここで頭を下げる。
もう亜呂には近づかないと約束する者もいるだろう。
羅馬は少し考えてから答えた。
「それは言い切れないよ」
亜呂の背筋が凍った。
「羅馬殿……?」
仁虎の目が細くなる。
「だったら、亜呂には近づくなと俺が言ったらどうする」
「それは亜呂が決めることじゃない?」
座敷の空気が、ぴたりと止まった。
庭で鳴いていた蝉の声さえ、遠くなったように感じられた。
亜呂は羅馬を見た。
彼は仁虎へ挑みかかっているわけではない。
虚勢を張っている様子もない。
ただ、ごく当たり前のことを口にしただけ。
そんな顔をしていた。
「羅馬殿」
亜呂は小さな声で呼びかけた。
今すぐ謝ってください。
そう目で訴えたつもりだったが、羅馬にはまるで伝わっていない。
「仁虎さんが亜呂を心配してるのは分かるよ」
よりにもよって、さらに続けた。
「でも、亜呂は自分のことを自分で決められるから。嫌だったら、ちゃんと嫌だって言うと思う」
「お前に亜呂の何が分かる」
「全部は分からないよ」
羅馬はすぐに答えた。
「だから、亜呂に聞くんだ」
仁虎の顔から、わずかに感情が消えた。
亜呂は覚悟した。
羅馬殿が死ぬ。
少なくとも、二度とこの屋敷の敷居をまたぐことはできない。
どうしてこの方は、こんな時まで平然としていられるのだろう。
仁虎は、しばらく羅馬を見つめていた。
羅馬も目を逸らさない。
ただし、睨み返しているわけではない。
怯えず、媚びず、侮らず。
仁虎という男を、その立場や噂ではなく、一人の人間として見ていた。
やがて仁虎が、ふっと肩の力を抜いた。
「……亜呂」
「はい……」
「随分と面倒な男を連れてきたな」
「申し訳ございません……」
「いや、謝るな」
仁虎の口元が、わずかに緩んだ。
「見ていて飽きん」
亜呂は恐る恐る隣を見た。
羅馬は、自分がどれほど危うい橋を渡ったのかも知らず、仁虎に向かってにこにこと笑っている。
その顔を見た途端、亜呂の胸の内に、小さな悪戯心が芽を出した。
――明日の団子に、唐辛子でも混ぜてしまおうかしら。
真っ赤な顔で口を押さえ、
『か、辛い……! 亜呂、水……!』
と涙目になる羅馬の姿が、あまりにも鮮明に浮かんだ。
「ふふっ……」
思わず、声が漏れた。
「どうした」
仁虎が眉を上げる。
「亜呂?」
羅馬まで、不思議そうにこちらを見た。
「……! な、なんでもありません!」
亜呂は慌てて顔を伏せた。
◇
「亜呂?」
聞き覚えのある声に呼ばれ、亜呂は我に返った。
目の前には、あの時と変わらぬ顔でこちらを覗き込む羅馬がいる。
「何笑ってんだ?」
仁虎まで怪訝そうに見ていた。
「……! な、なんでもありません」
亜呂は慌てて口元を引き締めた。
「そう?」
「そうです」
「まだ笑ってるぞ」
「父上まで!」
仁虎は小さく鼻を鳴らした。
それ以上追及するつもりはないらしい。
酒瓶を脇へ置き、改めて羅馬へ向き直った。
「それで、頼んでおいた件はどうだった」
羅馬の表情が、わずかに真面目なものへ変わる。
「見つかったよ。たぶん、仁虎さんが探してたものに関係あると思う」
「どこでだ」
「西の山を越えた先の、小さな村」
「随分と遠くまで行ったな」
「途中で道が崩れてたから、迂回したんだ。そこからさらに水車を直してたら、何日か延びて」
「待て」
仁虎が片手を上げる。
「なぜ水車を直す話になる」
「壊れてたから」
「頼んだ物を探してたんじゃねえのか」
「探してたよ」
「なら、なぜ水車を直してる」
「村の田んぼに水が流れなくなってたんだ。放っておいたら収穫できなかったから」
「お前は頼まれ事の途中で、また別の頼まれ事を拾うのか」
「頼まれたわけじゃないよ」
「もっと悪いじゃねえか」
仁虎は呆れたように息を吐いた。
「それで?」
「水車を直して、用水路に水が戻った。その礼に、村の長老が古い包みを見せてくれたんだ」
「それが、探していた物だったと」
「たぶんね」
「村の連中は、そいつが何なのか知ってたのか」
「詳しいことは分からないみたいだった。昔、旅の者が村へ預けていったらしい」
「旅の者?」
「いつか、これが帰るべき時が来る。それまでは守ってくれって」
「ずいぶん曖昧な話だな」
「昔の話だからね」
「その村へ行けば見つかると、最初から分かってたのか」
「いや。白虎の言い伝えが残ってるって聞いて、寄ってみただけ」
「そうか」
「でも、仁虎さんに頼まれてなかったら、たぶん見ても持って帰ろうとは思わなかったかも」
「まあ、そうだろうな」
二人のやり取りを、亜呂は黙って聞いていた。
だが、その表情は次第に硬くなっていく。
やがて堪りかねたように、口を開いた。
「……父上」
「何だ」
「父上はいずれ、羅馬殿が皇都に戻る事を知っておられたのですか」
仁虎は一瞬、目を瞬いた。
「必ず戻ってくると約束してたわけじゃねえが……」
仁虎は羅馬へ目をやる。
「こいつなら、見つけたら戻ってくると……ん?」
言いながら、ようやく気づいた。
亜呂のまとっている空気が、明らかに変わっている。
仁虎はわずかに眉を動かした。
どうやら答え方を誤ったらしい。
そんな顔だった。
しかし羅馬は、まるで何も察していなかった。
「見つけたら、勿論帰るつもりだったよ」
さも当然のように言う。
亜呂が、ゆっくりと羅馬へ顔を向けた。
「……なぜ、それを言わなかったのです」
「え?」
「戻ってこられるおつもりがあったのでしょう」
「うん」
「でしたら、なぜ私には何も仰らなかったのです!」
「……なんか亜呂、怒ってない?」
「怒ってます!!」
羅馬は目を丸くした。
仁虎は、そっと視線を逸らした。
「父上もです!」
「俺もか」
「当然です!」
「いや、確証はなかったと言っただろう」
「そういう問題ではございません!」
仁虎は困ったように頭を掻いた。
一方の羅馬は、まだ本当に理由が分からないらしい。
「でも、帰ってきたよ?」
「結果の話をしているのではありません!」
「そうなの?」
「そうです!」
亜呂の声が座敷に響く。
仁虎はしばらく黙っていたが、やがて羅馬へ低く言った。
「お前、しばらく余計なことは言わねえ方がいいぞ」
「うん」
「今の返事も、たぶん良くねえ」
「難しいね」
「お前がな」
亜呂は大きく息をつき、どうにか気持ちを鎮めようとした。
「……それで、その品はどちらに」
声音にはまだわずかな怒りが残っている。
羅馬は素直に頷き、荷の奥から古びた布包みを取り出した。
「これ」
何重にも巻かれた布を、畳の上で慎重にほどいていく。
現れたのは、掌ほどの長さを持つ白い牙だった。
獣の牙にも見える。
しかし表面は、石とも骨ともつかない不思議な質感をしており、根元には黒ずんだ金具が嵌められていた。
側面には、細い線で奇妙な文様が刻まれている。
仁虎の目が鋭くなった。
「こいつは?」
「村では、白虎牙って呼ばれてた」
「白虎牙……」
「本物の虎の牙かどうかは分からない。昔、白虎を祀る時に使われてたものらしいよ」
亜呂も身を乗り出した。
「この文様……」
「うん。仁虎さんが言ってた、背中の白虎に似てるんじゃないかと思って」
羅馬は白虎牙の隣に、傷んだ紙片を置いた。
紙は変色し、端の大半が失われている。
墨も薄れ、文章のすべてを読み取ることはできない。
「これも一緒に包まれてた。読めるところは少ないけど、白虎と皇都について書いてあるみたいだ」
仁虎は紙片へ目を落とした。
白き獣。
西の守り。
災いを退ける。
判別できるのは、その程度だった。
「それだけか」
「村に残ってたのはね」
仁虎は白虎牙へ手を伸ばしかけ、わずかに止めた。
ある時を境に、突然背中へ現れた白虎の紋様。
刺青を入れた覚えなどない。
傷でも、痣でもなかった。
その印が現れたのは、仁虎が守りたかったものを守れなかった、その後のことだった。
刺青師に見せても、自分たちの技ではないと言われた。
医師にも正体は分からず、怪異に通じる者ほど妙に口を濁した。
そして近頃。
皇都で怪異が増え始めた頃から、白虎の紋様は時折、熱を持つようになっていた。
まるで、皮膚の奥で何かが脈打っているかのように。
「触ってみる?」
羅馬が白虎牙を差し出した。
仁虎はその顔を一度見たあと、牙を受け取った。
その瞬間だった。
ひどく冷たいはずの白虎牙が、掌の中でかすかに震えた。
「……っ」
仁虎が息を呑む。
背中に熱が走った。
皮膚の表面ではない。
もっと深いところ。
骨の内側から何かが駆け上がり、肩を抜け、腕を伝って掌へ流れ込んでくる。
白虎牙に刻まれた文様が、一瞬だけ青白く光った。
「父上!」
亜呂が身を乗り出す。
仁虎は反射的に牙を畳へ置いた。
光はすぐに消えた。
座敷に、再び静けさが戻る。
「今の、見た?」
「ああ」
羅馬は白虎牙をじっと見ている。
亜呂は仁虎の隣へ膝を進めた。
「父上……お身体は?」
「なんともねえ」
「本当に?」
「ああ。少し背中が熱くなっただけだ」
「……左様ですか」
亜呂はそれ以上問い詰めなかった。
ただ、仁虎の顔色と呼吸を静かに確かめている。
仁虎は自分の掌を見た。
火傷も傷もない。
だが、あの感覚はまだはっきり残っていた。
白虎牙が反応したのか。
それとも、自分の背中の印が反応したのか。
どちらなのかは分からない。
「以前から、このようなことが?」
亜呂が静かに尋ねた。
「同じことはねえ。ただ、近頃は背中の印が熱を持つことがある」
亜呂の目に心配が浮かぶ。
「皇都の怪異が増え始めた頃からだ」
「関係があるとお考えなのですか」
「分からん。だから調べてた」
仁虎は畳の上の白虎牙へ目を向けた。
「白虎にまつわる古い記録、祀られていた場所、この印と似た紋様。だが、まともな手掛かりはほとんどなかった」
「それで羅馬殿に」
「ああ。こいつなら、皇都の外も勝手に歩き回るからな」
「まあね」
「褒めちゃいねえ」
羅馬は少し笑った。
亜呂はしばらく黙っていた。
父には父の領分がある。
仁虎一家を預かる者として、人知れず調べねばならないこともある。
亜呂は、それをすべて自分へ話すべきだとは思っていない。
心配でないわけではない。
だが、その心配を理由に、父の領分へ無遠慮に踏み込むつもりもなかった。
「私にできることがございましたら、お申し付けください」
「必要になりゃ頼む」
「はい」
短いやり取りの中に、父娘の信頼があった。
羅馬は白虎牙と紙片を交互に見た。
「白虎の印。この牙。それに、増えてる怪異」
「まだ、つながったとは限らねえ」
「うん」
羅馬は素直に頷いた。
「でも、全部関係ないって考えるのも難しそうだね」
仁虎は答えなかった。
もう一度、慎重に白虎牙を手に取る。
今度は光らない。
ただ、遠くの山から吹いてきたような冷たい風が、指の隙間を抜けた気がした。
風など入るはずのない、閉じた座敷の中で。
「偶然にしちゃ、出来すぎてやがる」
仁虎が低く呟く。
背中の白虎の印
遠い村から戻ってきた白き牙。
皇都で増え続ける怪異。
三つの謎は、まだ一つには結ばれていない。
白虎牙が何なのか。
背中の印が何を意味するのか。
その二つが怪異の増加と、本当に関係しているのか。
答えは、まだどこにもなかった。
だが少なくとも。
長く動かなかった調査の歯車が、この日、確かにひとつ回り始めたのである。




