白虎編 第六話 【選ぶ炎】
「私は……」
澪花の声は、もう怒鳴り声ではなかった。
「私は、選ばれなかった」
亜呂の頬を、一筋の涙が伝った。
それが澪花のものなのか、奥にいる亜呂のものなのか。
誰にも分からない。
源六の皿に浮かぶ水面が、かすかに揺れる。
涅央は水へ触れたまま、目を閉じていた。
男の魂の欠片は、今にも消えそうなほど小さい。
それでも、まだ何かを伝えようとしている。
「……澪」
涅央の口を借りて、男の声が届く。
澪花の瞳が震えた。
「その名で呼ばないで」
「今さら、許せとは言わない」
涅央の呼吸が浅くなる。
水の向こうから流れ込む言葉を、一つずつ拾い上げている。
「待たせたことも」
「迎えに行けなかったことも」
「お前が、そのあとをどう生きたのかも」
男の声は、言い訳を探してはいなかった。
「俺には、償えない」
「……だったら」
澪花の唇が歪む。
「だったら、なぜ今さら現れたの」
「私がどれだけ待ったと思っているの」
「あなたが来なかったあと、私がどんな目で見られたか」
「どんなふうに、笑われたか」
「あなたに分かるの?」
「……分かっているとは言えない」
男は静かに答えた。
「お前の苦しみを、俺は見ていない」
「だから、許せとは言わない」
わずかな沈黙。
男の魂の欠片が、かすかな光を放つ。
「俺の魂を焼いてもいい」
澪花の目が見開かれた。
「え……」
「憎いなら、好きなだけ憎めばいい」
「焼いてしまいたいなら、それでも構わない」
男の声が、亜呂へ向く。
「だが、その娘は関係ない」
「その娘だけは……返してやってほしい」
澪花の表情が止まった。
やがて、その顔に浮かんだのは、喜びでも安堵でもなかった。
深く傷ついた者の顔だった。
「また……」
声が掠れる。
「また、私ではない誰かを選ぶのね」
「違う」
「何が違うの!」
澪花の声が震えた。
「昔も、今も同じではないですか!」
「私を置いて、また別の女を守る!」
青白い火が揺らめく。
だが、その力は先ほどまでとは違っていた。
澪花の心が乱れたことで、亜呂の魂を縛っていた力が緩んでいる。
幽解夏が最初にそれに気づいた。
「待て」
低い声だった。
次の瞬間。
亜呂の身体の奥で、何かが目を覚ました。
◆
炎は、音もなく広がった。
燃え上がるというより、初めからそこにあったものが姿を現したようだった。
亜呂の肩から、朱色の炎が静かに伸びていく。
やがて左右へ広がり、巨大な翼の輪郭を形作った。
障子も、畳も燃えてはいない。
それなのに、部屋の空気が一瞬で乾いた。
呼吸をするたび、喉の奥が焼ける。
羅馬の額に浮かんだ汗は、頬へ流れる前に消えた。
源六の皿から、白い湯気が立ち始める。
「み、水が……!」
源六が両手で皿を守る。
呼び水が失われれば、男の魂の欠片は再び言葉を失う。
毒島が咄嗟に源六の前へ身体を入れた。
「下がれ!」
「でも、離れれば岸が保てないであります!」
「だったら俺の後ろにいろ!」
涅央も水から手を離せない。
熱に顔を歪めながら、必死に男の声との繋がりを保っている。
幽解夏は亜呂の霊脈へ手を当てた。
だが、触れた瞬間に指先が弾かれる。
「っ……!」
幽解夏が自分の手を見る。
火傷はない。
それでも、魂の奥まで灼かれたような痛みが残っていた。
彼女の顔から、いつもの気怠げな余裕が消える。
「なんだい、こいつは……」
炎は荒れ狂ってはいない。
静かだった。
ただ静かに、部屋のすべてを焼き尽くせるほどの熱を満たしている。
澪花を。
男の魂を。
亜呂を。
そして、ここにいる者すべてを。
幽解夏は息を呑んだ。
「これは本気でやばい」
声に、初めて明確な焦りが混じる。
「あたしじゃ抑えられん」
「そんな……」
羅馬が亜呂へ近づこうとする。
「行くな!」
幽解夏が叫んだ。
「今触れたら、魂から焼かれるぞ!」
「でも亜呂が!」
「分かってる!」
炎の中心で、亜呂の身体が小さく震えた。
閉じられていた瞼が、ゆっくりと開く。
そこにあったのは、澪花の濡れた眼差しではない。
強く、澄んだ瞳。
亜呂自身の目だった。
「大丈夫です」
静かだが、はっきりとした声。
「私が抑えますから」
「亜呂!」
羅馬が名を呼ぶ。
亜呂はわずかに彼を見て、安心させるように頷いた。
それから、自分の内側へ意識を向ける。
「朱雀さん」
炎の翼が、ほんのわずかに震えた。
「お願い。静まって」
熱は収まらない。
亜呂は胸元へ手を置く。
「私は大丈夫だから」
幽解夏が目を見開いた。
「……朱雀、だと?」
その名を知っている者の驚きだった。
だが今は、それを問う余裕はない。
亜呂の意識の中で、巨大な朱色の鳥影が翼を広げていた。
その双眸には、澪花へ向けた激しい怒りが宿っている。
言葉ではない。
だが、亜呂には伝わってくる。
――この者は、お前を傷つけた。
――お前の魂へ入り込み、苦しめた。
――焼き払えばよい。
亜呂は静かに首を横へ振った。
「違います」
炎が揺れる。
「この方は、私を傷つけたかっただけではありません」
澪花の悲しみが、亜呂の中にまだ残っている。
雨の冷たさ。
橋で待ち続けた夜。
誰も来なかった朝。
他の女と幸せに暮らしていると聞いた時の、胸が潰れるような痛み。
「ずっと、苦しかったのです」
朱雀の炎は、なおも澪花を焼こうとしている。
亜呂は一歩も引かなかった。
「私を守ってくださるなら」
両手を胸の前で重ねる。
「この方まで焼かないでください」
長い沈黙。
炎の翼が、ゆっくりと揺れる。
まるで朱雀が、亜呂を見定めているようだった。
やがて、亜呂の内側に低い声が響く。
『……主がそこまで言うのであれば』
朱雀の怒りが、わずかに遠ざかる。
『我は退こう』
炎の翼が静かに畳まれていく。
だが、部屋を満たす熱は消えなかった。
『されど、すでに放たれた火は、我にも消せぬ』
朱雀は嘴を、自らの翼へ差し入れた。
そして燃え盛る羽根を一枚、引き抜く。
羽根は炎でできているはずなのに、燃え尽きることなく鮮やかな朱の光を放っていた。
『これを使うがよい』
羽根がゆっくりと舞い降り、亜呂の掌へ収まる。
熱くはなかった。
懐かしいほど、温かい。
『何を残し、何を焼くか』
朱雀の双眸が、亜呂を真っ直ぐに捉える。
『今度は、主が選べ』
◆
朱雀の姿が薄れる。
だが、澪花の念はまだ亜呂の魂へ絡みついたままだった。
幽解夏が状況を見抜く。
「中にいるまま火を使うな」
亜呂が顔を上げる。
「どうしてですか」
「女だけを焼ける保証がない。あんたの魂まで持っていかれる」
「では、どうすれば」
「外へ戻す」
幽解夏は布の上に置かれた髪飾りを見る。
「元いた場所へ」
羅馬も髪飾りへ視線を向けた。
「でも、どうやって」
幽解夏が彼を見る。
「お前だ」
「俺?」
「止まったものを動かすんだろ」
「そんなこと言われても、やり方なんか知らないよ!」
「あたしだって知らねえよ!」
幽解夏は苛立たしげに言い返した。
「だが、今ここでできそうなのは、お前だけだ」
羅馬は亜呂を見る。
その手には、朱雀の羽根が握られている。
亜呂の顔は青ざめていた。
それでも、羅馬へ小さく頷く。
「お願いいたします」
羅馬は拳を握った。
「……分かった」
亜呂の前へ膝をつき、手を差し出す。
「手、借りるよ」
「はい」
二人の指が触れた。
その瞬間。
羅馬の視界に、見えないはずの流れが浮かび上がった。
亜呂自身の澄んだ光。
その奥にある、朱雀の巨大な炎。
そして両者へ黒い蔦のように絡みつく、澪花の念。
「これを……外へ」
羅馬が意識を集中させる。
黒い濁りが、亜呂の腕を伝って動き始めた。
だが、それは髪飾りへ向かわない。
羅馬の手へ流れ込んでくる。
「ぐっ……!」
羅馬の腕に黒い筋が浮かび上がった。
胸の奥へ、冷たい痛みが入り込む。
「馬鹿!」
幽解夏の怒声が飛んだ。
「自分に流すんじゃない!」
「ちょっと黙っててくれ!」
羅馬は歯を食いしばる。
「難しいんだよ!」
「それじゃ背負ってるだけだ!」
「分かってる!」
「分かってねえから、そうなってんだろ!」
羅馬は亜呂の手を離さない。
黒い濁りは、なおも自分の中へ入ろうとしている。
亜呂を助けたい。
その気持ちが強すぎるせいで、自分を出口にしてしまっている。
だが、違う。
自分が受け止めるのではない。
自分が抱えるのでもない。
幽解夏の声が飛ぶ。
「背負うんじゃない!」
「流せ!」
「お前が抱えるな。道を作れ!」
羅馬は髪飾りを見た。
亜呂から、自分へではない。
亜呂から、あそこへ。
「俺を……通すんじゃない」
黒い流れの方向を探る。
掴もうとすれば絡みつく。
止めようとすれば亜呂へ戻る。
ならば、行き先だけを示す。
「ここから……」
羅馬は片方の手を髪飾りへ伸ばす。
「そこへ……」
指先が赤い石へ触れる。
亜呂と髪飾りの間に、細い流れが生まれた。
羅馬の身体を通らない。
ただ二つの場所を結ぶ、目に見えない道。
「……こう、か?」
羅馬の腕を覆っていた黒い筋が止まった。
やがて、亜呂から髪飾りへ向かって流れ始める。
「そうだ!」
幽解夏が叫ぶ。
「掴むな! そのまま道だけ保て!」
羅馬は必死に流れを支える。
「澪花!」
涅央が呼ぶ。
「道ができた!」
亜呂の内側で、澪花が立ち尽くしている。
彼女の前には、髪飾りへ続く細い光の道。
「私が戻れば」
澪花が呟く。
「また、あの中へ閉じ込められるの?」
「違います」
亜呂が答えた。
「あなたを閉じ込めるものは、私が焼きます」
「私を……焼くの?」
「いいえ」
亜呂は朱雀の羽根を握る。
「あなたを縛っているものだけを」
澪花は亜呂を見つめた。
「そんなことが、本当にできるの」
「分かりません」
亜呂は正直に答えた。
「ですが、やります」
澪花の目が、わずかに細められる。
「あなたは、不思議な娘ね」
そして、羅馬の方を見た。
彼は汗を浮かべ、必死に道を保っている。
澪花は少しだけ寂しそうに笑った。
「その人が、いつか来なくなるかもしれないとは思わないの?」
亜呂の胸が痛んだ。
怖くないわけではない。
羅馬は旅人だ。
いつかまた、どこかへ行ってしまうかもしれない。
「怖いです」
亜呂は答えた。
「信じても、願っても、叶わないことはあるのだと思います」
「なら、なぜ」
「まだ起きていない悲しみのために」
亜呂は羅馬を見る。
「今ここにあるものまで、失いたくありません」
澪花はしばらく黙っていた。
その眼差しが、亜呂の奥に隠されたものへ触れる。
亜呂自身が、まだはっきりと名づけてはいない想い。
それが誰へ向けられているのか。
澪花には、もう分かっていた。
やがて、澪花は目を閉じる。
「……分かりました」
彼女の身体が、光へとほどけ始める。
「その娘を返します」
澪花の念が、羅馬の作った道へ乗る。
黒い流れとなって亜呂を離れ、髪飾りの赤い石へ戻っていく。
最後の一筋が抜けた瞬間、亜呂の身体から力が抜けた。
「亜呂!」
羅馬が咄嗟に抱き止める。
「大丈夫です」
亜呂は苦しそうに息をしながらも、朱雀の羽根を手放さなかった。
◆
赤い石の中には、幾重にも絡まった黒い糸が見えた。
亜呂が朱雀の羽根をかざす。
炎が一気に石を包もうとした。
「待ってください」
亜呂の声に、火が止まる。
赤い石の中から、澪花の記憶が流れ込んでくる。
雨の橋。
濡れた袖。
夜明けまで立ち尽くした足。
閉ざされた門。
別の女と笑っていたという噂。
そして、遠い日の声。
――澪。
怒りだけではない。
悲しみだけでもない。
澪花が愛したことも、信じたことも、待ち続けた時間も。
すべてが黒い糸と絡み合っていた。
亜呂は羽根を両手で包む。
「朱雀さん」
炎が静かに揺れた。
「この方が誰かを愛したことは、罪ではありません」
「待ち続けたことも」
「信じていたことも」
赤い石を見つめる。
「苦しみは、消えてもいい」
「ですが、この方が生きたことまで、消してはいけません」
澪花の声が、石の奥から聞こえる。
「それを焼けば」
弱い声だった。
「私は、あの人を憎めなくなるの?」
「いいえ」
亜呂は首を横へ振る。
「許すかどうかは、あなたが決めることです」
「では、何を焼くの」
亜呂は少し考えた。
「あの夜へ、あなたを縛り続けているものを」
朱雀の羽根が、柔らかな朱色へ変わる。
「忘れなくてよいのです」
「許さなくてもよい」
「ですが、もう橋の上で待ち続けなくてもよいのです」
細い炎が、赤い石の中へ染み込んでいく。
黒い糸が一本ずつ浮かび上がる。
それは激しく燃え上がることなく、細かな灰となってほどけていった。
雨の夜は残った。
橋も残った。
男の声も。
澪と呼ばれた記憶も。
ただ、そこから離れることを許さなかった鎖だけが焼けていく。
朱雀の羽根を握る亜呂の指先が赤くなる。
羅馬が手を伸ばしかける。
「亜呂」
亜呂は静かに首を振った。
「大丈夫です」
「これは、私が選ばなければならないことですから」
最後の黒い糸が、炎の中で切れた。
赤い石の濁りが消える。
無色にはならなかった。
澄んだ、深い赤色。
澪花がここにいたことを、静かに残す色だった。
その奥から、柔らかな光がひとつ零れた。
髪飾りを離れた光は、行き先を探すように宙を漂う。
すると、源六の皿に残った呼び水が、静かに波紋を広げた。
迎え入れるように。
もう一度だけ、魂へ岸を貸すように。
赤みを帯びた光は、その波紋へゆっくりと降りていった。
そこにはすでに、男の魂の欠片が待っていた。
朱雀の羽根は、役目を終えたように火の粉へほどける。
そのうち一片だけが光となり、亜呂の胸へ沈んだ。
◆
源六の呼び水から、二つの光が浮かび上がった。
一つは小さく、淡い光。
もう一つは、赤みを帯びた柔らかな光。
澪花と男の魂だった。
二つは近くにありながら、まだ触れ合ってはいない。
「私は、まだあなたを許していません」
澪花の声が響く。
男の魂が、小さく揺れる。
「分かっている」
「聞きたいことが、山ほどあります」
「何度でも聞く」
「きっと、何度も責めます」
「それでも聞く」
澪花の光が、ほんの少しだけ男へ近づいた。
それでも、二つの光は互いを前にしたまま動かなかった。
数百年分の言葉を、どこから話せばよいのか分からないように。
羅馬はしばらく二人を見ていた。
「なあ」
二つの魂が、彼へ向く。
「あんたら、数百年ぶりに再会したんだろ」
羅馬は開いた障子の向こうを見る。
夕暮れの皇都。
遠くから蒸気車の音が聞こえ、人々の声が行き交っている。
「だったらさ」
羅馬は笑った。
「皇都観光でもしてきたらどうだい?」
二つの光が揺れる。
「話しながらさ」
「何百年もあったんだ。聞きたいことだって、山ほどあるだろ」
少し考えてから付け加える。
「まあ、喧嘩するなら人の少ないところで頼むけど」
澪花の光から、かすかな笑い声が聞こえた。
その光は、まず羅馬へ向いた。
それから、彼の傍らにいる亜呂へ向く。
ほんのわずかに、笑った気配がした。
「あんたが、私の髪飾りを見つけた理由が」
羅馬が目を瞬く。
「少し分かった気がするよ」
「え?」
澪花は答えなかった。
その気配が、今度は亜呂へ向く。
「すまなかったね」
亜呂は静かに頭を下げる。
「ありがとう、お前たち」
男の魂も、隣で柔らかく明滅した。
二つの光は、やがて互いを追うように回り始める。
一度。
二度。
淡い螺旋を描きながら、開いた障子の向こうへ抜けていった。
みつば茶屋の軒先を越え、夕暮れの皇都へ。
今度は、どこへ行くのかを自分たちで決めるために。
◆
二つの光が見えなくなると、部屋に静けさが戻った。
源六の皿から、最後の波紋が消える。
「ふうっ!」
幽解夏が肺の中の空気を全部吐き出すように、大きく息をついた。
そのまま膝から力が抜け、畳の上へどさりと座り込む。
「幽、大丈夫?」
羅馬が声をかける。
幽解夏は乱れた髪をかき上げた。
「まったく……あんたらのおかげで、寿命が縮んだよ」
「ごめん」
「謝るくらいなら、詫びの一つもしてもらおうかね」
幽解夏は羅馬を見上げ、疲れ切った顔でにやりと笑った。
「今夜、どうだい?」
「酒でも飲もうじゃないか。あたしの家でさ」
その言葉に、部屋の空気がほんの一瞬だけ止まった。
涅央が目を瞬く。
源六は意味が分からないまま、きょろきょろと皆の顔を見比べていた。
毒島は、やれやれと額を押さえる。
亜呂は何も言わず、羅馬をじっと見つめていた。
「うん、いいよ」
羅馬は、何の迷いもなく答えた。
今度は幽解夏まで目を丸くする。
「……即答かい」
「え? 酒飲むんでしょ?」
「……羅馬殿のばか」
亜呂が小さく呟いた。
「ん? 何か言った?」
「何も申しておりません」
少しだけ強く返された声に、羅馬は不思議そうに首を傾げる。
毒島は額を押さえたまま、深いため息をついた。
涅央はその空気を察したのか、察していないのか。
ぱん、と手を打つ。
「じゃあ今日は僕のおごりで!」
「ひぐらしで、皆でぱーっとやりますか!」
「お、いいね!」
羅馬がぱっと顔を明るくする。
「では、奏々世さんに電話いたしましょう」
亜呂もようやく表情を和らげた。
「私も、ご馳走をたくさん作りますから」
「ご馳走?」
羅馬の目が、見る間に輝く。
「やったー!」
つい先ほどまで神獣だの怨霊だのと向き合っていた男とは思えないほど、子供のように喜んだ。
亜呂はそんな羅馬を見て、呆れたように小さく息をつく。
けれど、その口元はほんの少しだけ緩んでいた。
「きゅうりもあるでありますか!」
源六が期待に満ちた顔で尋ねる。
「奏々世さんにお願いしてみます」
「やったであります!」
幽解夏が肩をすくめる。
「なんだい。二人でしっぽり飲もうと思ったのに」
「幽殿」
亜呂が静かに呼ぶ。
「冗談だよ、冗談」
幽解夏は楽しそうに笑った。
毒島が呆れたように息を吐く。
「酒を飲む前に、全員診ろ」
「無粋な男だねえ」
「お前も含めてだ」
「はいはい」
部屋に、ようやくいつもの空気が戻ってきた。
羅馬はその輪の中で、自分の手を見つめる。
自分の力が、初めて誰かの役に立った。
少なくとも、悪いものばかりを巡らせる力ではない。
それだけは、分かった気がした。
けれど、胸の奥に残った重みは消えなかった。
自分が髪飾りを見つけなければ。
亜呂へ渡さなければ。
自分が皇都へ戻らなければ。
亜呂が、あれほど苦しむことはなかったのではないか。
二つの魂は救われた。
亜呂も戻ってきた。
それでも羅馬の心は、まだ晴れなかった。
◆
数日後。
みつば茶屋のいつもの席で、毒島が髪飾りを布の上へ置いた。
「もう、妙なものは残ってねえ」
赤い石は以前より澄み、窓から差し込む光を柔らかく返している。
羅馬はそれを見つめた。
「その……」
亜呂が顔を上げる。
「無理して持たなくてもいいから」
羅馬は言葉を選ぶように続けた。
「嫌なら、俺が預かるし」
亜呂は髪飾りへ手を伸ばす。
「いいえ」
大切なものを扱うように、そっと持ち上げた。
「これは、羅馬殿が私のために選んでくださったものですから」
そして、自分の髪へ挿す。
澄んだ赤い石が、亜呂の黒髪の中で静かに光った。
羅馬はしばらく見つめたあと、照れくさそうに笑う。
「……やっぱり、似合ってる」
亜呂の頬が、少しだけ赤くなる。
毒島が腕を組んだ。
「羅馬」
「ん?」
「二度と闇市で装飾品を買うな」
「分かった!」
羅馬は大きく頷く。
「覚えとく」
「おう」




