白虎編 第五話 【呼び水】
亜呂の瞼が、ゆっくりと開いた。
だが、その目に宿っていたものは、羅馬の知る亜呂ではなかった。
深い水底から、長い年月を越えて誰かを見上げているような、冷たく濡れた眼差し。
亜呂の唇が、かすかに動く。
「……やっと、来てくれた」
羅馬は息を呑んだ。
「亜呂?」
その名を口にした瞬間、女の表情が歪んだ。
「その名で呼ばないで」
声は亜呂のものだった。
だが、その奥には、別の誰かの怒りと悲しみが沈んでいる。
羅馬は思わず身を乗り出した。
「君は誰なんだ」
女は答えなかった。
ただ、懐かしいものを見るように羅馬の顔を見つめる。
「変わらないのね」
「何が?」
「そうやって、何も知らない顔で笑うところ」
羅馬の眉が寄った。
女は亜呂の頬へそっと手を添えた。
その仕草だけが、妙に優しかった。
「遅かったのよ」
声が震える。
「ずっと待っていたのに」
幽解夏が壁際から低く言った。
「羅馬。近づきすぎるな」
「でも」
「亜呂の意識も、まだ中にいる。こいつを刺激すれば、巻き込まれるぞ」
女の目が幽解夏へ向く。
その瞬間、枕元に置かれた髪飾りの赤い石が淡く明滅した。
幽解夏は亜呂の開きかけた霊脈を押さえ込む。
「また開きかけてる」
毒島は、布の上に置かれた髪飾りを見下ろしていた。
細い器具で金具の裏側を調べ、赤い石を光へ透かす。
「念は籠もってる」
羅馬が振り返る。
「やっぱり、髪飾りが原因なのか」
「原因の一つだ」
「一つ?」
「これだけじゃ、ここまでの力にはならねえ」
毒島は石を布の上へ戻した。
「古い代物なのは間違いない。金具も石の削り方も、今の皇都のものじゃない」
「じゃあ、どこから……」
「それが分かれば苦労しねえ」
女が、ふっと笑った。
「何も知らないのね」
その笑い方は寂しげで、それでいてどこか歪んでいた。
「また忘れたのね」
女は再び羅馬を見る。
「私に何を約束したのかも」
「俺は君を知らない」
女の顔から笑みが消えた。
「嘘」
「本当だ」
「また、そうやって逃げるのね」
「逃げてない。俺は――」
「なら、なぜ来なかったの!」
女の声が部屋を震わせた。
髪飾りの赤い石が、ひときわ強く光る。
室内の空気が急に冷えた。
「夜になれば、橋で待っていろと言った」
「必ず迎えに行くと」
「それなのに、あなたは来なかった」
羅馬は言葉を失った。
女の顔には怒りがあった。
けれど、その怒りの奥にあるものは、長く待ち続けた者の絶望だった。
「私は朝まで待った」
「次の日も、その次の日も」
女の目が濡れる。
「なのに、あなたは別の女を選んだ」
「俺じゃない」
「違わない!」
「違う!」
羅馬の声が、女の怒声を押し返した。
「俺は君を知らない!」
女の瞳が揺れる。
「でも、亜呂は傷つけさせない!」
女の顔が、ひどく歪んだ。
「……その女を、守るの?」
「当たり前だ!」
その一言に呼応するように、髪飾りの赤い石が激しく瞬いた。
「どうして」
女の声が震える。
「どうして、その女なの」
亜呂の身体の周囲に、青白い火が滲んだ。
同時に、その奥から赤い火が噴き出しかける。
「まずいな」
幽解夏が舌打ちした。
「羅馬、呼びかけるな。今はどっちもお前に反応する」
「でも、亜呂は」
「いる」
幽解夏は短く答えた。
「奥で押し返してる。だから、まだ身体を持っていかれてねえ」
その時。
亜呂の唇が、かすかに震えた。
「……羅馬……殿」
女のものではない。
弱く、途切れそうな声。
羅馬が顔を上げる。
「亜呂!」
「逃げ……て……」
次の瞬間、亜呂の表情が苦痛に歪んだ。
「黙って!」
女の声が室内を震わせる。
青白い火が跳ね、障子が激しく鳴った。
「この人は、私を迎えに来たの!」
幽解夏が亜呂の霊脈を押さえながら言う。
「長くは保たねえぞ」
毒島が髪飾りを睨んだ。
「外から引き剥がすのは」
「無理だ。亜呂の魂まで持っていかれる」
「焼くのは」
「もっと駄目だ。中にいる火まで暴れ始めてる」
羅馬は拳を握りしめた。
目の前に亜呂がいる。
それなのに、何もできない。
自分が贈った髪飾りが、亜呂を苦しめている。
だが、それだけではなかった。
淀喰いの時もそうだった。
自分が皇都へ戻ってから、止まっていたものが動き始めた。
今度もまた。
羅馬は、自分の手を見下ろした。
自分は、いったい何を動かしている。
◆
廊下を慌ただしく走る足音が聞こえた。
「亜呂!」
障子が開き、涅央が飛び込んでくる。
その後ろから、源六が息を切らして続いた。
「大変であります!」
「遅え」
幽解夏が振り返りもせずに言う。
「呼ばれてすぐ来たんだけど」
涅央はそう返しながら、布団の上の亜呂を見た。
すぐに表情が変わる。
「……亜呂じゃないね」
女が涅央を見た。
「誰」
「今のところ、通りすがりの役者かな」
涅央は冗談めかして答えたが、その目は笑っていなかった。
女の視線が、源六へ移る。
源六は部屋へ入った途端、動きを止めていた。
鼻をひくつかせるように、小さく息を吸う。
「どうした」
毒島が尋ねる。
「水の匂いがするであります」
「水?」
「はい」
源六は亜呂と髪飾りを交互に見た。
「でも、この御方だけではないであります」
部屋の空気が静まる。
「もう一つ、いるであります」
「もう一つ?」
羅馬が聞き返した。
源六は目を閉じ、耳を澄ませるように首を傾ける。
「とても小さいであります」
「怒っている気配ではありません」
「ただ、ずっと何かを待っているであります」
女の目がわずかに揺れた。
「何を言っているの」
源六は答えず、部屋の隅へ視線を向けた。
そこには何もない。
だが、源六には見えているらしい。
皇都の水脈を伝い、何かがここまで来ている。
形も持たず、言葉も持たず。
ただ消えきれずに漂い続けた、魂のひとかけら。
「ちょっと待つであります」
そう言うと源六は、腰に下げていた小さな瓢箪を取り出した。
皿が乾いた時のため、いつも持ち歩いている川の水だった。
栓を抜き、自分の頭の皿へ静かに注ぐ。
水面が皿いっぱいに広がり、わずかに青く揺れた。
「何をするつもりだ」
毒島が尋ねる。
「河童の皿の水は、呼び水とも呼ばれているであります」
源六は皿へ両手を添えた。
「魂を呼ぶことはできないであります」
「ただ、近くまで来ているものに、少しの間だけ岸を貸すことはできるであります」
そう言って、源六は低い声で何かを唱え始めた。
誰にも聞き取れない、古い河童の言葉。
最初は静かだった皿の水に、細かな波紋が生まれる。
一つ。
また一つ。
やがて水面の中央に、小さな渦ができた。
源六の肩が震える。
「……来たであります」
誰も声を出さなかった。
源六はしばらく水面を見つめていたが、やがて困ったように眉を下げた。
「あっしにできるのは、ここまでであります」
そして涅央を見上げる。
「涅央様」
「うん」
「あっしの皿の水に、触れてみてほしいであります」
涅央は源六の目を見た。
何かを確かめるように、しばらく黙る。
舞台の上で、誰かの役へ深く入り込んだ時。
自分のものではない感情が、胸の奥から湧いてくることがある。
あれに似ている。
だが、今度はもっと遠い。
水の向こう側から、声になれない何かが手を伸ばしている。
涅央は、わずかに微笑んだ。
「なるほど」
源六の前へ膝をつく。
「俺が、声を貸せばいいんだね」
指先を伸ばし、源六の皿に溜まった水へそっと触れた。
その瞬間。
波紋が大きく広がった。
涅央の身体がわずかに強張る。
部屋の景色が、彼の視界から消えた。
◆
雨が降っている。
暗い夜。
古い橋。
一人の男が、欄干に手を置いている。
衣は雨に濡れ、髪は頬へ貼りついていた。
手の中には、折られた手紙。
閉ざされた門。
怯えた誰かの顔。
男の腕を掴む手。
低い声。
――行けば――
そこで記憶が途切れる。
次に見えたのは、黒い川だった。
男は水面を見下ろしている。
恐怖。
後悔。
謝罪。
そして、消えきらない一人の女への想い。
男の唇が動いた。
声にならないほど、小さく。
◆
「……澪花」
涅央の口から、誰も知らない名が零れた。
亜呂の身体を借りた女の表情が止まる。
「……何を」
涅央は目を閉じたまま、かすかに眉を寄せた。
「澪花……」
もう一度、その名を口にする。
だが、すぐに首を横へ振った。
「……いや」
涅央の声が、わずかに柔らかくなる。
「澪」
その呼び方を聞いた瞬間。
女の顔から、怒りが消えた。
「……その名で」
亜呂の唇が震える。
「私を呼ぶのは……」
声が続かない。
目に涙が溜まっていく。
「あの人だけだった」
女は涅央を見つめた。
「じゃあ……本当に」
涙が頬を伝う。
「あなたなのね……」
涅央はゆっくりと目を開いた。
「違う」
声は涅央自身のものだった。
「俺は、あの人じゃない」
女の表情に失望が走る。
「ただ……声が聞こえる」
涅央は、水へ触れた指を動かさぬまま続けた。
「俺の中へ入ってきたわけじゃない」
「水の向こうから、声と記憶が流れてくる」
「魂……なの?」
「たぶん、その欠片だ」
涅央は胸へ手を添えた。
「全部は見えない」
「何があったのかも分からない」
暗い川。
濡れた手紙。
橋の欄干。
そして、身を投げる男の背中。
「でも、彼も川へ身を投げている」
女の呼吸が止まった。
「……嘘」
「嘘じゃない」
「あの人は私を捨てた!」
青白い火が激しく揺れる。
幽解夏が亜呂の霊脈を押さえ込んだ。
「別の女を選んだのよ!」
羅馬が涅央を見る。
「涅央」
「まだ、何かある」
涅央は水面を見つめた。
男の感情が流れ込んでくる。
恐怖。
無念。
そして、澪花への想い。
「事情は分からない」
涅央は苦しそうに眉を寄せる。
「でも、これは君を忘れた人間の想いじゃない」
「そんなはずない……」
「死ぬ時まで、君の名を呼んでいた」
女の顔が歪んだ。
「嘘よ」
「澪」
涅央の声に、ほんの一瞬だけ別の響きが混じった。
遠い昔の男の声が、水面を通して届く。
「迎えに行けなくて……すまなかった」
女の身体が震えた。
髪飾りの赤い石が、強く光る。
「違う」
女は首を振った。
「違う……」
何度も、何度も。
けれど、その声にはもう怒りよりも怯えが混じっていた。
長い年月、彼女を支えてきたもの。
自分は捨てられた。
愛されていなかった。
その確信が、今、音を立てて崩れ始めている。
◆
源六の皿の水が、わずかに濁った。
「長くは保たないであります」
「分かってる」
涅央の額には汗が浮かんでいた。
毒島は髪飾りと源六の皿を見比べた。
「髪飾りに女の念。川に男の欠片……そういうことか」
「本来なら、交わるはずのなかったものか」
源六が頷く。
「はい」
「でも、今の皇都の水脈は乱れているであります」
「男の欠片は、近くまで来ていたであります」
「なぜ今になって、ここまで来たのかは……あっしにも分からないであります」
羅馬は黙って聞いていた。
近くまで来ていた。
止まっていたものが、動き始めた。
淀喰いの時もそうだった。
今回もまた。
「……またか」
毒島が顔を上げる。
「何がだ」
「淀喰いも」
羅馬は、源六の皿に揺れる水を見た。
「今回もだ」
「何が言いてえ」
「俺が来てからだ」
「決めつけるな」
幽解夏が低く言う。
「でも、偶然にしては」
「分からねえものを、勝手に自分へ結びつけるな」
毒島も続ける。
「お前のせいだと決まったわけじゃねえ」
「そういうことじゃない」
羅馬は自分の手を見つめた。
怒りとも恐怖ともつかないものが、声に滲んだ。
「俺が悪いとか、そういう話じゃなくて」
言葉が続かなかった。
自分の知らない何かが、自分を通して動いている。
それが救いなのか、災いなのか。
何ひとつ分からない。
羅馬は拳を握りしめた。
「……俺、何なんだよ」
誰も答えられなかった。
◆
「私は……」
女の声が聞こえた。
先ほどまでの怒りは、もうそこにはなかった。
代わりに残っていたのは、ひどく弱く、幼い響きだった。
「私は、ずっと待っていた」
涅央が静かに見つめる。
「迎えに来ると言ったの」
「夜になれば、橋で待っていろと」
女は涙を流し続けていた。
「でも、来なかった」
「私は朝まで待った」
「次の日も、その次の日も」
呼び水の波紋が、小さく揺れる。
「あの人が、別の女と暮らしていると聞いた」
「笑っていたと」
「幸せそうだったと」
女は羅馬を見た。
だが、その眼差しはもう、彼を昔の男として見てはいなかった。
「だから、分かったの」
唇が震える。
「私では、駄目だったのだと」
亜呂の目から、また一筋の涙が落ちた。
それが澪花のものなのか。
奥にいる亜呂のものなのか。
誰にも分からない。
女は声を絞り出した。
「私は……」
赤い石の奥で、黒い影が揺れる。
「私は、選ばれなかった」




