白虎編 第四話 【陰火】
数日後の昼下がり。
みつば茶屋には、穏やかな陽が差し込んでいた。
軒先では風鈴が鳴り、通りを行き交う人々の声が、湯気のようにゆるく混ざり合っている。
羅馬は縁台に腰を下ろし、卓の上へ広げた小さな機械部品を指先で弄っていた。
旅籠ひぐらしに腰を落ち着けてからというもの、朝になると皇都のどこかへ出かけ、夕方には戻る。そんな暮らしが、少しずつ馴染み始めている。
その日は亜呂が休みで、店先には代わりに和歌が立っていた。
「また何か直してるんですか」
茶を運んできた和歌が、卓の上を覗き込む。
「いや。壊れた留め具を直してるだけ」
「それ、うちの戸棚のですか?」
「うん。昨日、閉まりにくそうだったから」
「頼んでないのに」
「気になったんだよ」
和歌は呆れたように笑い、羅馬の前へ湯呑みを置いた。
「本当に、よく見てますねえ」
「そうかな」
「そうですよ。この前直してもらった風車も、子供たちが喜んでました」
「それはよかった」
羅馬は顔を上げ、いつもの調子で笑った。
その時、店の入口に人影が差した。
「こんにちは」
聞き慣れた声に、羅馬が振り返る。
亜呂が立っていた。
いつもの装い。
けれど、今日は一つだけ違うものがある。
黒髪の脇に、赤い石をあしらった髪飾りが挿されていた。
夕暮れの橋で、羅馬が渡したものだった。
羅馬の手が止まった。
「あれ? 今日は休みだよね?」
「はい。ですが……約束しましたから」
亜呂は少し落ち着かない様子で、髪へ触れた。
「今度、つけて見せると」
「うん」
羅馬はまだ髪飾りを見ていた。
「おかしいでしょうか」
「全然! ね、和歌ちゃん。いいよね?」
急に話を振られ、和歌は一度目を瞬いた。
それから亜呂を見て、素直に頷く。
「はい。すごくお似合いです」
「ほら」
羅馬は嬉しそうに言った。
「やっぱり似合ってる」
亜呂の指先が止まった。
「……ありがとうございます」
「思ってたより、ずっと」
「そんなに見ないでください」
たしなめる声だったが、怒ってはいない。
むしろ、ほんの少しだけ嬉しそうだった。
羅馬がようやく視線を外すと、亜呂は安堵したように息を吐き、彼の向かいへ腰を下ろした。
軒先の風鈴が、もう一度鳴った。
◆
「羅馬さん」
しばらくして、通りから声が飛んできた。
見ると、以前羅馬にからくりを直してもらった商家の娘が、店先から手を振っている。
「こんにちは。今日はここにいたんですね」
「ああ。どうしたの?」
「父が、また見てもらいたいものがあるって」
「また壊れた?」
「今度は壊したんです」
「誰が?」
「父が」
羅馬は吹き出した。
「分かった。あとで寄るよ」
「お願いします」
娘は笑って頭を下げ、通りの向こうへ戻っていった。
羅馬は何事もなかったように、再び卓の部品へ手を伸ばした。
その時だった。
亜呂の胸の奥に、鋭いものが走った。
痛みではない。
もっと生々しく、もっと醜い。
あの女は、羅馬の名を知っていた。
羅馬も、自然に笑いかけていた。
そのことが、どうしようもなく不快だった。
亜呂は目を伏せた。
自分でも、なぜそう感じたのか分からない。
あの程度の会話なら、これまでも何度も見ている。
羅馬が人に好かれることを、むしろ嬉しいと思っていたはずだ。
「亜呂?」
呼ばれて、顔を上げる。
「どうかした?」
「……いえ」
「顔色悪くない?」
「少し、暑いだけです」
そう答えた瞬間、髪飾りの赤い石が熱を持った。
反射的に手を伸ばす。
「あつ……」
「熱い?」
羅馬が身を乗り出した。
だが、亜呂が指先で触れた石は、外から触れる限り、冷たかった。
「どうした?」
「いえ……何でも」
言いながら、亜呂は手を引いた。
胸の奥では、先ほどの感情がまだ燻っている。
嫌だ。
あの人が、ほかの誰かに笑いかけるのが。
自分ではない誰かを、覚えているのが。
――違う。
亜呂は心の中で否定した。
これは、自分の感情ではない。
そう思おうとした。
けれど、どこまでが自分で、どこからが違うのか。
その境目が、少しずつ曖昧になっていた。
◆
みつば茶屋へ幽解夏が姿を見せたのは、それから間もなくのことだった。
煙管を片手に、いつものように気怠そうな足取りで入ってくる。
「邪魔するぞ」
「幽さん」
羅馬が片手を上げる。
幽解夏は返事もせず、空いている席へ向かいかけた。
だが、亜呂の横を通り過ぎる寸前、その足が止まった。
細められていた目が、髪飾りへ向く。
「亜呂」
「はい?」
「その髪飾り、いつからつけてる」
声音が変わっていた。
亜呂も羅馬も、それに気づく。
「今日からですが……」
「もらったのか」
「羅馬殿から」
幽解夏の視線が、羅馬へ移る。
「どこで手に入れた」
「異国の闇市」
「……お前な」
「やっぱりまずかった?」
「まずいかどうかは、今から見る」
幽解夏は亜呂のすぐ前まで来ると、髪飾りを凝視した。
赤い石の周囲に、薄い青白さがまとわりついている。
火に似ている。
だが、揺らぎ方が違う。
燃えているのではない。
何かが、そこへ縋りついている。
「外せ」
幽解夏が言った。
「え?」
「その髪飾りだ。今すぐ外せ」
亜呂は戸惑いながらも、髪へ手を伸ばした。
指先が赤い石へ触れる。
次の瞬間。
亜呂の身体が大きく跳ねた。
「っ……!」
息が詰まり、卓へ手をつく。
「亜呂!」
羅馬が立ち上がる。
赤い石が、内側から燃え上がった。
実際に火が出たわけではない。
それでも亜呂には、頭の奥へ焼けた針を突き刺されたような痛みが走った。
視界が歪む。
みつば茶屋の景色が消えた。
◆
雨が降っていた。
長い廊下。
濡れた庭。
白い着物の袖。
誰かが、門の向こうを見ている。
来るはずだった。
約束した。
夜になれば迎えに来ると。
ここから連れ出してくれると。
けれど、来なかった。
雨だけが降り続いていた。
場面が変わる。
知らない町。
祝いの声。
男が笑っている。
その隣には、別の女がいた。
幸せそうに、男の腕へ手を添えている。
――どうして。
声が聞こえた。
自分の声ではない。
もっと深く、冷たく、濡れている。
――どうして、その女なの。
胸の奥が裂ける。
悲しみ。
屈辱。
怒り。
それでも、まだ愛している。
だからこそ許せない。
亜呂の意識へ、誰かの感情が濁流のように流れ込んできた。
「やめ……て……」
声が出た。
しかし、自分の口から出たものか分からない。
赤い火が視界を覆う。
消えかけた意識の中で、亜呂はその中心に、巨大な翼が開くのを見た。
燃え盛る翼。
天を覆うほど巨大な、朱色の鳥影。
――朱雀……?
なぜその名が浮かんだのか、亜呂自身にも分からなかった。
亜呂の内に宿る神火の主が、侵入者を焼き払おうとしている。
だが、その炎は侵入者だけを選んではくれない。
このままでは、亜呂自身の魂まで巻き込まれる。
亜呂の意識は、そこで完全に途切れた。
◆
亜呂の身体が大きく揺らいだ。
「危ない!」
羅馬が咄嗟に抱き止める。
亜呂の身体は熱くない。
それなのに、触れた腕へ、内側から焼かれるような痛みが伝わってきた。
羅馬は反射的に、髪飾りへ手を伸ばした。
「触るな!」
幽解夏の声が飛んだ。
羅馬の手が止まる。
「今外せば、中のもんが一気に入り込む」
「じゃあ、どうすれば」
「黙って支えろ」
幽解夏は亜呂の背後へ回ると、首筋へ指を当てた。
次いで鎖骨の下、脇腹、手首。
霊脈の要所へ、素早く指を打ち込んでいく。
亜呂の身体から、低い音が響いた。
人の耳には聞こえないはずの音。
大地の奥で歯車が噛み合うような、鈍い振動。
「何をしてる」
羅馬の問いに、幽解夏は答えない。
額に汗が浮かんでいる。
最後に胸元へ掌を当て、息を吐いた。
「閉じろ」
短い言葉とともに、亜呂の周囲へ薄い青白い線が走った。
絡み合っていた赤と青の火が、一瞬だけ止まる。
亜呂の身体から力が抜けた。
「亜呂!」
羅馬が抱きかかえる。
呼吸はある。
だが、目を閉じたまま動かない。
幽解夏は膝をつき、煙管を脇へ置いた。
「勘違いすんな」
息を整えながら言う。
「治しちゃいねえ」
「じゃあ、今のは」
「入口を塞いだだけだ」
幽解夏は亜呂の髪飾りを睨んだ。
「中に入ったもんは、まだいる」
◆
毒島が呼ばれたのは、日が傾き始めた頃だった。
みつば茶屋の奥座敷。
亜呂は布団へ寝かされている。
枕元には羅馬。
幽解夏は壁際に座り、煙管にも火を入れず、黙って亜呂を見ていた。
毒島は髪飾りへ直接触れないよう布越しに持ち上げ、赤い石を光へ透かした。
「金具は普通だな」
「石は?」
「これも、珍しくはあるが異常じゃない」
「じゃあ、何なんだ」
羅馬の声には、焦りが滲んでいた。
毒島は髪飾りを布の上へ戻す。
「物そのものじゃない」
赤い石の奥に、光とは違う濁りがある。
「長い間、これに触れた人間の念が積もってる」
「念?」
「悲しみ、恨み、執着。そういうものだ」
羅馬は髪飾りを見つめた。
「……俺のせいだ」
「今それを決めつけても、何も進まねえ」
毒島の言葉は冷たく聞こえた。
だが、責める声音ではない。
「必要なのは原因と対処だ。後悔は後でやれ」
羅馬は唇を噛み、黙った。
幽解夏が低く言う。
「こいつは、亜呂を殺したいわけじゃねえ」
「どういうこと」
「身体を借りたいんだろ」
羅馬が顔を上げる。
「何のために」
「さあな。だが、お前の声に反応してた」
部屋の空気が重くなる。
羅馬は眠る亜呂へ目を向けた。
白い頬。
閉じた瞼。
いつもの穏やかな表情はない。
「俺に?」
「お前を、誰かと間違えてるのかもしれねえ」
幽解夏は亜呂の首筋へ指を当て、霊脈の様子を確かめる。
「次に目を覚ました時、中にいるのが亜呂だけとは限らねえぞ」
羅馬の表情が強張った。
その時。
亜呂の指先が、わずかに動いた。
「亜呂?」
羅馬が身を乗り出す。
閉じられていた瞼が、ゆっくりと持ち上がった。
亜呂は羅馬を見た。
けれど、その目には、いつもの温かさがなかった。
深い水の底から、長い間誰かを待ち続けていたような目だった。
そして、亜呂の声で。
亜呂ではない誰かが、囁いた。
「……やっと、来てくれた」




