白虎編 第三話 【旅人、宿をとる】
淀喰いの騒ぎが落ち着いた頃には、陽はすっかり西へ傾いていた。
みつば茶屋の軒先には、夕餉の支度を始める家々から漂ってきた煙が、薄くたなびいている。
卓の上では、冷めかけた茶が湯呑みの縁を静かに曇らせていた。
「それで羅馬殿。今夜はどちらに泊まられるのですか?」
亜呂に尋ねられ、羅馬は湯呑みを口元へ運びかけたまま止まった。
「今夜?」
「はい」
「あ」
羅馬は、しばらく虚空を眺めた。
亜呂の眉がわずかに寄る。
「まさか、決めていないのですか」
「前に泊まったところへ行けばいいかなって」
「空いているか、確認は?」
「してない」
「……羅馬殿」
「大丈夫だって。空いてなかったら、どこか探すよ」
悪びれもせず笑う羅馬を見て、亜呂は小さく息を吐いた。
この男は、旅の支度に抜かりがないように見えて、肝心なところが時折ひどく大雑把だった。
「でしたら、旅籠ひぐらしへ行きましょう」
「ひぐらし?」
「奏々世さんが営んでいる宿です。お部屋が空いているか、聞いてみます」
「亜呂の知り合い?」
「はい。とても頼りになる方です」
「じゃあ、行ってみよう」
妙なところで迷いがない。
亜呂は呆れながらも、少しだけ嬉しそうに立ち上がった。
◆
旅籠ひぐらしは、皇都の賑わいから一本奥へ入った通りにあった。
二階建ての木造で、深い庇の下には丸い提灯がいくつも吊られている。格子戸の向こうからは、煮物の甘い香りと、人の話し声が漏れていた。
派手さはない。
けれど、長旅を終えた者が戸口を見ただけで肩の力を抜けるような、柔らかな明かりがあった。
「いい宿だね」
羅馬が言った。
「まだ中へ入ってもいないでしょう」
「見れば分かるよ」
亜呂が格子戸を開けると、帳場で帳面をつけていた女が顔を上げた。
「あら、亜呂ちゃん」
奏々世は筆を置き、二人へ目を向けた。
穏やかな顔立ちに、よく人を見ている目をしている。しかし、相手を探るような鋭さは感じさせない。
「こんばんは、奏々世さん」
「こんばんは。そちらの方は?」
「羅馬殿です。以前お話しした、旅のお方で」
「ああ。この方が」
奏々世は羅馬を見て、にこりと笑った。
「いらっしゃいませ」
「羅馬です。急にすみません。部屋って空いてます?」
「空いてますよ。お一人で?」
「はい。ただ、何日になるかまだ決めてなくて」
「大丈夫です。決まってからで」
「助かります」
「荷物、先に置いてきます? お茶も出しますよ」
話は驚くほど早くまとまった。
亜呂が間へ入る必要すらなかった。
奏々世は帳場から出ると、羅馬の荷物を見た。
「それ、重いでしょう。持ちますよ」
「いやいや、これは大丈夫です」
「そうですか? 無理しないでくださいね」
「ありがとう」
羅馬が笑うと、奏々世も自然に笑い返した。
亜呂は、その様子を見て密かに納得した。
羅馬は、どこへ行ってもこうなのだろう。
初めて会った相手との間にあるはずの壁を、本人も気づかぬうちに低くしてしまう。
部屋へ荷物を置き、再び階下へ戻ってくると、奏々世が湯呑みを二つ並べていた。
「前に来た時とは、皇都もだいぶ変わったでしょう」
「まだ全然です。着いた途端にひと騒ぎあって、それどころじゃなかったんです」
「それなら、せっかくだし、亜呂ちゃんが案内してあげたら?」
「私がですか?」
「羅馬さんも、その方が気楽でしょう」
「うん。お願いしてもいい?」
羅馬がすぐに乗ってくる。
亜呂は一瞬だけ目を瞬いたあと、姿勢を正した。
「……はい。もちろんです」
「よかった」
奏々世はそれ以上、何も言わなかった。
ただ二人分の茶を置き、夕餉までには戻るよう告げただけだった。
◆
旅籠ひぐらしを出て大通りへ戻ると、ちょうど高架の上を天礎石機関車が通り過ぎていった。
青い結晶炉を腹に抱えた車体が、白い蒸気を吐きながら鉄路を滑っていく。
車輪が継ぎ目を踏むたび、重い音が皇都の屋根へ響いた。
「ここまで線路が延びたんだ」
羅馬は足を止め、高架を見上げた。
「以前は、この先で終わっていましたよね」
「うん。あっちの街区まで行くなら、ずいぶん楽になりそうだ」
「便利にはなりました」
亜呂の返事は、どこか歯切れが悪かった。
羅馬が横を見る。
「何かあった?」
「事故が増えました。それに、工事が少し急すぎるのではないかと、御隠居も心配しています」
高架の橋脚には、新しい煉瓦と古い石垣が不自然に継ぎ合わされている。
その下を流れる細い水路には、工事で削られた土砂がまだ残っていた。
「急ぎすぎ、か」
「皇都は、止まることを怖がっているように見える時があります」
羅馬はもう一度、遠ざかる機関車を眺めた。
白い蒸気は風にほどけ、すぐに街の煙へ紛れていった。
「亜呂は、変わるのが嫌?」
「いいえ」
亜呂は少し考えてから首を振った。
「変わること自体は、悪いことではないと思います。ただ……変わった先で、大切なものを見失うのは怖いです」
「そっか」
羅馬は静かに頷いた。
それから少し歩いて、ふと思い出したように言った。
「そういえばさ」
「はい」
「亜呂、まだ俺に敬語なんだね」
亜呂の足が止まりかけた。
「……変…ですか?」
「いけなくはないけど。羅馬殿って、ちょっと堅くない?」
「そうでしょうか」
「うん。もう少し普通に呼んでくれていいのに」
「最初からそうお呼びしていたので、急には無理ですよ」
「ゆっくりでいいからさ」
羅馬は前を向いたまま笑っている。
亜呂は答えず、その半歩後ろを歩いた。
けれど、しばらくしてから小さく呟いた。
「……努力は、します」
「うん」
◆
異国商通りへ入ると、街の空気が一変した。
軒先には見慣れぬ布や香辛料が並び、店先では異国の言葉と皇都の言葉が入り混じっている。
真鍮の器具、色鮮やかな硝子瓶、奇妙な形の仮面。
羅馬は目を輝かせ、あちこちの店へ顔を向けた。
「ここ、前にもあった?」
「通り自体はありましたが、店が増えたのは最近です」
「へえ。面白いなあ」
羅馬が露店の歯車細工を覗き込んでいると、向かいの店から若い女が顔を出した。
「あら、羅馬さん?」
羅馬が振り返る。
「お久しぶりです。戻っていらしたんですね」
「ああ。久しぶり」
「この前は本当にありがとうございました。あのからくり、今もちゃんと動いてますよ」
「よかった。あれ、軸が少し曲がってただけだから」
「父も喜んでました。また寄ってくださいね」
「うん。そのうち」
女は亜呂にも会釈し、店へ戻っていった。
羅馬は何事もなかったように歩き出す。
その後も、乾物屋の女将が手を振り、花売りの娘が声をかけ、露店の老婆が羅馬の名を呼んだ。
羅馬はそのたびに足を止め、相手の顔だけでなく、前に交わした話まで覚えていた。
亜呂の知らない羅馬の時間が、皇都のあちこちに残っているようだった。
「羅馬殿は、随分とお顔が広いのですね」
「そうかな」
「何人もの方から声をかけられていました」
「前に困ってたから、ちょっと手伝っただけだよ」
「羅馬殿にとっては、そうなのでしょうね」
亜呂は笑った。
皆が羅馬を好いていることが、少し嬉しかった。
同時に、自分の知らない場所でも、羅馬は誰かに笑いかけ、誰かの記憶に残ってきたのだと知った。
その事実が、胸の奥に小さな隙間を作った。
「そうだ」
羅馬が背負い袋を軽く叩いた。
「みんなに土産があるんだ」
「皆さんに?」
「うん。毒島には、珍しい工具。涅央には、変な顔の仮面」
「変な顔の仮面……」
「本人、面白がると思う」
「怒られませんか」
「涅央はたぶん大丈夫。毒島には怒られるかも」
羅馬は楽しそうだった。
「仁虎さんには酒を買ってきた」
「父に?」
「異国の珍しいやつ。一緒に飲もうと思ってね」
亜呂は目を丸くしたあと、ふっと表情を緩めた。
「父は、あまり顔には出さないと思いますが、きっと喜びます」
仁虎と羅馬は、前回の滞在時に一度顔を合わせている。
寡黙な仁虎を前にしても羅馬は普段と変わらず、仁虎もまた、そんな羅馬を追い返しはしなかった。
親しい間柄とは、まだ言えない。
それでも羅馬は、次に会った時、一緒に杯を交わすつもりで酒を選んだらしい。
「亜呂にもあるよ」
「私にも?」
「うん。でも、これはもう少し静かなところで渡そうかな」
羅馬はそう言って、先へ歩き始めた。
亜呂は、その背中を見つめた。
◆
日が沈みかける頃、二人は水路に架かる古い石橋へ出た。
大通りの喧騒は遠く、橋の下では細い流れが夕空の色を揺らしている。
川沿いの街灯に、ひとつずつ火が入っていった。
羅馬は橋の中央で立ち止まると、背負い袋の中へ手を入れた。
「これ」
差し出されたのは、小さな包みだった。
亜呂が受け取り、布を解く。
中には、赤い石をあしらった髪飾りが入っていた。
朱を深く沈めたような色の石は、光を受けるたび、内側に小さな火を宿しているように見えた。
「これは……」
「異国の闇市で見つけたんだ」
「闇市?」
「毒島と涅央に、何か面白い土産がないかなって探しててさ」
「闇市で探す必要があったのですか?」
「面白いものは、普通の店にはあんまりないから」
「毒島さんに叱られますよ」
「もう叱られる前提なんだ」
羅馬は笑ったあと、髪飾りへ目を落とした。
「でも、それを見た時にさ」
亜呂が顔を上げる。
「亜呂に似合うと思った」
水音だけが、二人の間を流れた。
亜呂はすぐに返事をしなかった。
指先で、赤い石の表面へそっと触れる。
他の土産は、面白そうだから選んだ。
けれどこれは、見た瞬間に自分を思い浮かべて選んだのだという。
先ほど胸の奥に生まれた小さな隙間が、静かに埋まっていく。
「ありがとうございます」
亜呂は髪飾りを胸元へ寄せた。
「とても嬉しいです」
「気に入ってくれてよかった」
「今度……」
亜呂は言葉を止めた。
羅馬が待っている。
「今度……つけて見せるね」
最後だけ、敬語ではなかった。
言った本人が一番驚いたように目を伏せる。
羅馬は少し目を丸くしたあと、穏やかに笑った。
「うん。楽しみにしてる」
橋の下で、水が揺れた。
その時、水面の暗がりに、
青白い火が一つ浮かんだ。
音もなく、熱もなく。
まるで誰かが、深い水の底から二人を見上げているように。
火は一度だけ細く揺れ、亜呂の手にある髪飾りへ向かって身を伸ばした。
しかし二人は気づかない。
そのまま橋を渡り、旅籠ひぐらしの明かりへ向かって歩いていった。
その少し下流、川岸の石段に腰を下ろし、煙管をふかしていた女がいた。
幽解夏は細めていた目をわずかに開き、水面へ視線を向ける。
青白い火は、もう消えていた。
「……ありゃ、火じゃねえな」
水路には再び、夕暮れの残光だけが揺れていた。
だが水の底では、長く淀んでいた何かが、ゆっくりと目を覚まし始めていた。




