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からくり道中浪漫譚―白詰草異聞―  作者: ロマリアス
白虎編

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白虎編 第二話 【淀喰い】

 その朝、川は流れていた。

 水面には朝の光が揺れ、橋の下では魚の群れがゆるやかに身を翻している。

 いつもと変わらない。

 少なくとも、人の目にはそう見えた。

 源六は川岸にしゃがみ込み、じっと水面を見つめていた。

「……おかしいのであります」

 皿の上で、白詰草が小さく揺れた。

 風はない。

 それでも花は、何かに怯えるように細かく震えている。

 源六は水へ手を伸ばした。

 指先が触れる。

 冷たい。

 濁ってもいない。嫌な臭いもしない。

 だが、何かが足りなかった。

 水は確かに流れている。

 なのに、その中を巡っているはずのものがない。

 魚の尾が、ひどく重そうに動いた。

 岸辺の水草は、水に浸かっているにもかかわらず、葉先を力なく垂らしている。

 源六はゆっくり立ち上がった。

「これは……」

 喉の奥が乾いた。

 皿には十分な水がある。

 それなのに、身体の内側から水気が抜けていく。

 源六は振り返った。

 川の上流。

 水路の奥。

 そこには何も見えない。

 ただ、水面の一部だけが、流れの中で不自然なほど静止していた。

 波紋ひとつない、黒い鏡。

 源六の皿から、一滴の水が浮かび上がった。

 地面へ落ちることなく、細い糸のように川へ引かれていく。

「……淀喰い」

 源六の顔から血の気が引いた。

 皿の白詰草が、一本、頭を垂れた。

 知らせなければ。

 亜呂へ。

 毒島へ。

 皆へ。

 源六は川岸を蹴った。

     *

 みつば茶屋へ向かう道は、いつもより遥かに遠く感じられた。

 一歩進むたび、足が重くなる。

 息を吸っても、胸の奥まで届かない。

 皿の水はまだ残っている。

 それでも身体の内側だけが乾き続けていた。

「急がなければ……」

 源六はよろめきながら、石畳を進んだ。

 通りを行き交う人々は、忙しそうに彼の横を通り過ぎていく。

 誰も、川の異変には気づいていない。

 魚が水面近くへ浮かび始めていることも。

 水草の色が薄くなっていることも。

 水路沿いの草花が、朝露を残したまま萎れ始めていることも。

 まだ、人間には分からない。

 だからこそ、知らせなければならなかった。

 源六は橋の欄干へ手をついた。

 視界が揺れる。

 皿の白詰草が、また一本、力なく倒れた。

「もう少し……なのであります」

 みつば茶屋の暖簾が、通りの先に見えた。

 いつもなら、そこまで来れば茶の香りがする。

 きゅうりの漬物を切る音も聞こえる。

 だが、その日は何も感じ取れなかった。

 足先の感覚がない。

 源六は石畳を這うように進み、ようやく茶屋の前まで辿り着いた。

 戸へ手を伸ばす。

 指先が、木枠へ触れる。

「亜呂……殿……」

 それが限界だった。

 源六の身体は、その場へ崩れ落ちた。

     *

 戸の向こうで、湯飲みの割れる音がした。

「何の音?」

 亜呂が振り返る。

 返事はない。

 店の者が顔を見合わせる中、亜呂は戸へ近づいた。

 ガラリと開ける。

「源六!」

 白詰草を皿に咲かせた河童が、通りに倒れていた。

 亜呂はすぐに駆け寄り、源六の身体を抱き起こした。

「源六、しっかりして!」

 返事はない。

 瞼は固く閉じられ、呼吸は浅い。

 皿の水は残っている。乾いてはいない。

 それなのに、皿から自生していた白詰草は、すべて萎れきっていた。

「誰か、毒島を呼んで! それから涅央も!」

     *

「水不足じゃねえ」

 毒島は源六の皿へ水を足し、すぐにそう言った。

 みつば茶屋の奥。

 畳の上へ寝かされた源六を、亜呂、毒島、涅央が囲んでいる。

 水を与えても、身体を冷やしても、源六の状態は変わらなかった。

「皿は乾いてねえ。呼吸も止まりかけちゃいない。だが、力が抜け続けてやがる」

 毒島は源六の腕を取り、皮膚の張りを確かめた。

「どういうこと?」

「それが分からねえから困ってんだ」

 涅央は源六の胸元へ手をかざした。

 目を閉じ、静かに呼吸を整える。

 だが、しばらくして首を横へ振った。

「何かが外へ流れているような感覚はあります。ただ……どこへ流れているのか、何が引いているのかまでは」

「怪異なの?」

「可能性はあります。ですが、源六さんの身体そのものには何も入り込んでいません」

 亜呂は源六の手を握った。

 冷たい。

 まるで水底へ沈めた石のようだった。

「源六、聞こえる? 何があったの?」

 源六の嘴が、わずかに動いた。

「……よど……」

「何?」

「……淀……喰い……」

 それきり、また意識が沈む。

「淀喰い?」

 亜呂が毒島を見る。

「知らねえ」

「私も聞いたことがありません」

 涅央も眉を寄せた。

 毒島は立ち上がり、店の外へ出ようとした。

「川を見てくる」

「待って。源六を置いていくの?」

「ここに三人固まってても何も変わらねえ。原因が外にあるなら、そっちを探すしかない」

 そのとき、店の戸が開いた。

「その前に、こやつを診てもらう方が先じゃろう」

 御隠居が立っていた。

 その後ろには、気怠そうに煙管をくわえた女がいる。

 乱れた黒髪。

 胸元をゆるく覆う晒し。

 濃い色の着物をぞんざいに羽織り、片足を引きずるような気の抜けた歩き方。

「医者を連れてきてやったぞ」

 女は煙管を口から離した。

「医者じゃねえって、何度言わせんだよ」

「人を診て、治す者を世間では医者と呼ぶ」

「治せる時だけな」

 亜呂が立ち上がる。

「幽さん!」

「よぉ。朝っぱらから騒がしいねえ」

「源六が大変なの。お願い、診て!」

 幽解夏(ゆうけけ)は返事をせず、源六の前へしゃがみ込んだ。

 先ほどまでの気怠そうな表情が消える。

 指先で首筋へ触れ、次に手首、脇腹、背中へと順に手を当てていく。

 瞼を開き、舌を見て、皿の水へ指を浸す。

 最後に、萎れきった白詰草をつまんだ。

 しばらく沈黙したあと、幽解夏は低く言った。

「なるほどな……」

 全員が息を呑む。

「こりゃ駄目だ。死ぬわ」

「ええ!?」

 源六が目を開けた。

「ぼ、ぼく、死んじゃうんですか!?」

 亜呂が幽解夏を睨む。

「幽さん! そんなはっきり……!」

「だって、どうしようもねえしよぉ」

「だからって!」

 毒島が割って入る。

「ふざけてねえで説明しろ。こいつの症状は何なんだ」

「症状じゃねえ」

 幽解夏は源六の胸へ指を当てた。

「霊脈が開きっぱなしになってる」

「霊脈?」

「人間で言やあ、ツボみてえなもんだ。妖力も生気も、その道を通って身体を巡る」

 幽解夏は指先をゆっくりと移動させた。

「だが今のこいつは、身体の内側へ巡るはずの流れが、全部外へ向いてやがる」

 涅央が源六を見る。

「だから、いくら水を与えても……」

「そういうこと。穴の開いた水袋へ、上から水を足してるようなもんだ」

「塞げないのか」

 毒島が聞く。

「閉じることはできる」

 亜呂の表情が明るくなる。

「じゃあ!」

「でも、治りゃしねえよ」

 幽解夏は冷たく言った。

「外から無理やり押さえるだけだ。手を離せば、また開く」

「どれくらい保つ?」

「やってみなきゃ分からねえ。こいつの残り次第だな」

 源六が小さな声で聞いた。

「痛いのでありますか……?」

 幽解夏はにやりともせず答えた。

「痛い」

「やっぱり……」

「でも死ぬよりましだろ」

「はい……」

 幽解夏は煙管を脇へ置いた。

 源六の首筋へ二本の指を当てる。

 息を吐く。

 指先に、赤い火が灯った。

 炎というより、針の先ほどの光。

 それを源六の皮膚へ押し当てる。

「ひゃあっ!」

「動くな」

 次に脇腹。

 背中。

 手首。

 足首。

 源六の霊脈を繋ぐ要所へ、次々と火を打ち込んでいく。

 赤い光が皮膚の下を走り、やがて線となって閉じていく。

 源六は歯を食いしばった。

「あと……いくつでありますか……」

「数えると余計痛いぞ」

「もう痛いのであります!」

「元気じゃねえか」

「幽さん!」

 最後に幽解夏は、源六の胸元へ掌を押し当てた。

「閉じろ」

 低い声と同時に、赤い火が一瞬だけ広がった。

 源六の身体が跳ねる。

 それから、力なく畳へ沈んだ。

「源六!」

「騒ぐな。止まった」

 幽解夏が手首へ指を当てる。

 呼吸はまだ浅い。

 しかし先ほどまで抜け続けていたものは、確かに弱まっている。

「治ったの?」

「言ったろ。閉じただけだ」

 幽解夏は萎れた白詰草を見る。

 花は一輪も起き上がっていない。

「原因をどうにかしなきゃ、また開く。次に同じ手が使える保証もねえ」

 毒島が立ち上がった。

「淀喰いってのは何だ」

 御隠居がゆっくり口を開く。

「水辺の者たちが使う古い呼び名じゃ」

「知ってるのか」

「名だけはな」

 源六が苦しそうに息を吸う。

「淀喰いは……生き物では……ありません」

 皆の視線が集まる。

「水は流れているのに……水の中の命だけが、淀みへ引かれていくのであります」

「現象、ということですか」

 涅央が尋ねる。

 源六はかすかに頷いた。

「霊力の多い、水辺の者ほど……強く引かれます。だから、ぼくが……最初に……」

「次はどうなる」

 毒島の問いに、源六は目を伏せた。

「魚が……弱ります。水草が枯れます。その次は、水辺に近い場所にいるものが……」

 茶屋の中が静まり返る。

 幽解夏が煙管を拾い上げた。

「近いもんからじゃねえ。濃いもんから喰うってわけか」

「放っておいたら?」

 亜呂が聞いた。

 御隠居が答える。

「水路に沿って広がるじゃろうな。井戸も、田畑も、蒸気機関も無関係では済まん」

「そんな……」

「なら、元を探すしかねえ」

 毒島が工具箱を掴む。

「涅央、来い。源六が見た場所まで案内できるか?」

 源六は起き上がろうとした。

「ぼくが……」

 幽解夏が額を指で押し、畳へ戻す。

「動いたら閉じた霊脈が開くぞ」

「でも……」

「死にてえなら好きにしな」

「死にたくないのであります……」

「なら寝てろ」

 亜呂は源六のそばへ座った。

「私が残る。何か変わったらすぐ知らせるわ」

 毒島が頷いた、そのときだった。

 茶屋の通りに、一陣の風が吹いた。

 暖かくも冷たくもない、不思議な風。

 閉じた戸の隙間から入り込み、畳の上を滑るように抜けていく。

 源六の皿で、萎れていた白詰草が揺れた。

 一本。

 また一本。

 今にも枯れそうだった茎が、

 ぴんっ。

 と立ち上がった。

「……え?」

 亜呂が目を見開く。

 幽解夏の顔から、気怠さが消えた。

 源六の胸へ手を当てる。

「流れが……戻ってる?」

 店の外で、暖簾が大きくはためいた。

 ガララ……。

 戸が開く。

「よ!」

 旅装束の男が、片手を上げて立っていた。

「みんな久しぶり。元気だった?」

 誰も答えなかった。

 羅馬は店内を見回した。

 御隠居。

 毒島。

 涅央。

 そして、畳へ横たわる源六と、そのそばで目を見開いている亜呂。

「……元気ではなさそうだな」

「羅馬……?」

 亜呂の声は、ひどく小さかった。

「ただいま」

 羅馬は何でもないことのように笑った。

 その瞬間、源六が大きく息を吸った。

「くっ……」

「源六!」

 亜呂が振り返る。

 先ほどまで冷たかった手に、わずかな温もりが戻っている。

 皿の白詰草は、すべてまっすぐに立っていた。

 幽解夏が源六の霊脈を確かめる。

「閉じたはずの流れが、内側へ戻ってやがる」

「何?」

 毒島が羅馬を見る。

 羅馬は戸口に立ったまま、首を傾げた。

「俺?」

     *

 川では、水面を覆っていた黒い淀みが揺れていた。

 波紋ひとつ立たなかった水面へ、細かなさざ波が走る。

 止まっていたものが、少しずつ動き始める。

 黒い鏡は輪郭を失い、薄い霧のように崩れた。

 溜め込まれていた霊気が、水路へ戻っていく。

 力なく浮いていた魚が、尾を振った。

 伏せていた水草が、ゆっくりと葉を起こす。

 淀喰いは、誰に斬られることも、祓われることもなく霧散していった。

     *

 しばらくして、源六は自力で身体を起こせるまで回復していた。

 羅馬が差し出したきゅうりを、両手で受け取る。

「ありがとうございます」

「河童には、やっぱりこれだろ」

「羅馬は源六と初対面でしょう」

 亜呂が言う。

「そういや、ちゃんと名乗ってなかったな」

 羅馬は源六の前へしゃがみ込んだ。

「俺は羅馬。よろしく」

「源六であります。こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 二人が頭を下げ合う横で、毒島は懐中時計を開いていた。

「羅馬」

「ん?」

「お前、皇都へ入ったのは何刻だ」

「久しぶりに会って最初の質問がそれ?」

「答えろ」

「ええと……鐘が二つ鳴った少し後くらいかな」

 毒島は時計の針を見る。

 幽解夏が源六の霊脈の変化を感じた時刻。

 外へ見に行った者が、水路の魚が泳ぎ始めたのを確認した時刻。

 ほぼ一致している。

「帰る途中で何かしたか」

「何かって?」

「川に触った。妙なものを踏んだ。機械を動かした。何でもいい」

「いや。普通に歩いてきただけだけど」

「……普通に、ねえ」

「俺、疑われてる?」

「疑ってんじゃねえ」

 毒島は時計の蓋を閉じた。

「調べてんだよ」

「同じじゃない?」

「違う」

 幽解夏が横から口を挟む。

「でもよぉ、こいつが戸口まで来た瞬間、河童の霊脈が内向きに戻ったぞ」

「え、俺?」

「それに淀喰いも消えた」

 毒島が続ける。

「偶然にしちゃ出来すぎてやがる」

「俺、本当に何もしてないって」

 毒島は羅馬を睨み続けた。

 御隠居は湯飲みを傾けながら、その様子を黙って見ている。

 涅央が、ぱん、と両手を叩いた。

「まあ、いいじゃないの!」

 全員が振り向く。

「何はともあれ解決したんだし、羅馬も帰ってきてくれたんだしね!」

「話を終わらせんな」

 毒島が言う。

「続きはお茶を飲みながらでもできるでしょう? せっかくの再会なんですから」

「そうそう」

 羅馬が頷く。

「涅央だけだよ。素直に歓迎してくれるの」

「……私だって」

 亜呂がぼそりと言った。

「え?」

「何でもない!」

 そのとき、幽解夏が声を上げた。

「ちょっと待ちな!」

 羅馬が振り返る。

「え? 俺?」

 幽解夏は羅馬を上から下まで眺めた。

 そして、口元を歪める。

「あんた、よく見たらいい男じゃないの」

「はあ」

「どうだい、今夜?」

「今夜って……何が?」

「野暮な男だねえ。あたしに言わせる気かい?」

「幽さん! ちょっと!」

 亜呂が立ち上がった。

「なんだい」

「なんだいじゃないでしょう!」

「もしかして、あんたの男かい?」

「違います!」

 あまりに勢いよく否定され、羅馬が少しだけ肩を落とした。

「そこまで力いっぱい言わなくても……」

「今はそういう話じゃないでしょう!」

「どういう話ならいいんだ?」

「知りません!」

 涅央が面白そうに笑う。

 ご隠居は何も言わず茶を飲んだ。

 毒島は額を押さえる。

「おい。淀喰いの話はどうなった」

「固い男だねえ」

 幽解夏が煙管をくわえる。

「だから老けるんだよ」

「誰が老けてんだ!」

 源六が、おそるおそる手を上げた。

「あの……ぼくは、もう死なないのでありますか?」

 幽解夏は源六を見る。

「たぶんな」

「たぶん!?」

 茶屋に笑い声が広がった。

 その中で、毒島だけが笑っていなかった。

 手の中の懐中時計へ視線を落とし、静かに針を確かめる。

 安藤が置いていった封筒。

 そこに記されていた、皇都各所の観測値の乱れ。

 淀喰いが生じた時刻。

 羅馬が皇都へ戻った時刻。

 すべてが、一本の線でつながり始めていた。

「……偶然なわけがねえ」

 誰にも聞こえない声で呟く。

 その向こうでは、羅馬が源六の皿を珍しそうに覗き込んでいた。

「これ、頭から生えてるの?」

「はい。なぜか」

「抜ける?」

「抜かないでください!」

 再び笑いが起きる。

 ご隠居は湯飲みの縁越しに羅馬を見た。

 そして、ほんのわずかに目を細める。

「帰るべき時に、帰ってきたか」

 茶屋の外を、また一筋の風が吹き抜けた。

 暖簾が揺れる。

 源六の皿の白詰草も、風に合わせて小さく揺れた。

 皇都のどこかで止まりかけていたものが、再びゆっくりと動き始めていた。


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