表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無能な父ですが、世界が壊れても娘だけは手放しません  作者: そらのことのは


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/20

第8話 小さな破綻

 翌朝、リリアが目を覚ましたとき、焚き火はもう灰になっていた。


 夜のあいだに何度か目を覚ましたような気もしたが、はっきりとは覚えていないらしい。少なくとも、起きた時の顔は昨日ほど悪くなかった。


「おはよう」


 エドが声をかけると、リリアは毛布から半分だけ顔を出した。


「……おはよう」


「ちゃんと寝たか」


「たぶん」


「便利な言い方覚えたな」


 そう言うと、少し離れた場所で水を飲んでいたミレナが振り返った。


「それ、完全にあんたのせいでしょ」


「人のせいみたいに言うな」


「事実じゃない」


 そのやり取りを聞いて、リリアが小さく笑う。


 笑えているなら、たぶん今は大丈夫だ。

 エドはそう判断して、残りの干し肉と硬いパンを分けた。


 朝食を終えたあと、三人は再び歩き出した。


 街道を少し外れた先に、小さな水場のある休憩所があるとミレナが言う。旅人や近くの農家が使うくらいの場所らしい。人が多すぎる町よりはましだし、水の補充もしたかった。


「ひと、いる?」


 リリアが聞く。


「いても少しだ」


 ミレナが答える。


「町よりはずっと少ない」


「すくないなら、だいじょうぶかも」


 その“かも”が本当ならいい、とエドは思った。


 昼前に着いた休憩所は、思っていた通り小さな場所だった。屋根付きの東屋がひとつ、井戸がひとつ、あとは荷車を止められるだけの広場がある。

 旅人が二組。農具を積んだ荷車が一台。子どもの声もするが、町の喧騒に比べればずっと静かだ。


「ここなら少し休める」


 エドが言うと、リリアはほっとしたように息をついた。


 井戸の近くで水袋に水を入れていると、広場の反対側から笑い声がした。五つか六つくらいの男の子が、木の枝を剣みたいに振り回して遊んでいる。近くに母親らしい女もいたが、洗い物に気を取られているらしい。


 リリアはちらりとその子を見て、すぐ視線を戻した。


「きにするな」


 エドが言う。


「うん」


 とはいえ、気になるものは気になるのだろう。

 同じくらいの年頃だ。村ではほとんど他の子どもと遊ばせる機会もなかった。あっても、うまくいかなかった。


 エドが水袋の口を締めていると、背後で小さな足音がした。


 振り返ると、さっきの男の子がリリアのすぐ前まで来ていた。


「ねえ」


 何の悪気もない声だった。


 リリアがびくっと肩を震わせる。


「その髪、きれいだね」


 男の子はただ興味本位で言っただけなのだろう。

 けれど、急に近づかれるのは駄目だ。


 リリアは言葉を返せず、エドのほうを見る。

 その目がもう不安に揺れている。


「リリア」


 エドが声をかけようとした、その前に、男の子がさらに一歩近づいた。


「きみ、どこから来たの?」


 返事はない。

 代わりに、空気がわずかに冷えた。


 ミレナがすぐ異変に気づいて顔を上げる。


「エド」


「ああ」


 広場のざわめきが少しだけ薄くなる。井戸のつるべの軋みが遠くなる。陽の下なのに、景色の輪郭がほんの少しだけ滲んだ。


 男の子はまだ何もわかっていない。

 ただリリアが怯えていることだけは感じたのか、少しだけ不思議そうな顔になる。


「えっと……ごめん?」


 その瞬間だった。


 男の子の右腕が、肘の先から少しだけ薄くなった。


 透けた、というより、そこだけ世界から削られかけているような感じだった。陽の光が歪み、輪郭があやふやになる。

 完全には消えていない。だが、次の一瞬で消えてもおかしくない、不安定な欠け方だった。


 ミレナの顔色が変わる。


「まずい!」


 男の子が自分の腕を見て、遅れて悲鳴を上げた。


「え、なに、なにこれ!?」


 広場の空気が一気に張り詰める。

 母親が顔を上げ、旅人たちも何事かと立ち上がる。


 リリアは真っ青だった。

 肩が震えている。呼吸が浅い。自分が何をしているのかも、もうわかっていない顔だ。


「リリア!」


 エドはすぐに二人の間へ割って入った。

 男の子を後ろへ下がらせ、リリアの前にしゃがみこむ。


「見て。俺だ」


「おとうさん……っ」


 もう涙がにじんでいる。


「だいじょうぶ、じゃない……!」


「うん」


「きえちゃう……!」


 男の子の腕はまだ薄いままだ。完全に失われてはいないが、境目が曖昧に揺れている。母親が駆け寄ろうとしたが、ミレナがとっさに止めた。


「今近づかないで!」


「で、でもあの子の腕が……!」


「だから止まって!」


 ミレナの声にも緊張が混じる。


 エドはそれを聞きながらも、リリアから目を離さない。


「リリア」


 両肩に手を置く。


「俺を見ろ」


「でも……でも……」


「大丈夫」


 空気の揺れが少し強くなる。

 井戸の縁がかすかにぶれ、桶の影が薄くなる。


 まずい。

 ここでリリアが完全に崩れたら、男の子の腕だけでは済まない。


 エドは息をひとつ吸った。


「いい子だ」


 はっきり言う。


 リリアの目が揺れる。


「……え」


「いい子だよ」


 エドはできるだけいつもの声で続ける。


「怖いのに、ちゃんと止まろうとしてる」


 リリアの唇が震えた。


「でも、あのこ……」


「まだ大丈夫だ」


「ほんと……?」


「ほんとだ。だから俺だけ見てろ」


 数秒。

 リリアの呼吸が、少しずつ戻ってくる。


「おとう、さん……」


「うん」


「……いいこ?」


「そうだ」


 その言葉と一緒に、張りつめていた空気がゆっくりほどけた。


 遠のいていた音が戻る。井戸の軋み、旅人のざわめき、風に揺れる草の音。

 男の子の腕も、境目の曖昧さを残しながら、少しずつ元の輪郭を取り戻していく。


 完全に戻ったのを見て、エドはようやく息をついた。


 男の子は泣き出し、母親が慌てて抱きしめる。

 旅人たちは青ざめた顔で距離を取っていた。何が起きたのか理解できていないが、理解したくもない、そんな顔だった。


 ミレナが低く呟く。


「……消えかけた」


 エドは答えない。


 答えたところで何も変わらない。

 ただ、間に合った。それだけだ。


「リリア」


 改めて呼ぶと、娘は泣きそうな顔で見上げてきた。


「ごめんなさい……」


「うん」


「また……」


「うん」


「わたし、だめ……?」


 その言葉に、エドは少しだけ眉を寄せた。


「だめじゃない」


 即答する。


「怖かっただけだ」


「でも、あのこ……」


「戻った」


 エドはそう言って、リリアの頭を撫でた。


「ちゃんと戻った」


 リリアはまだ震えていた。

 涙はこらえていたが、指先の力だけが抜けていない。


 そこへ、男の子の母親が怯えた顔のまま口を開く。


「あなたたち……何を……」


 責めたいのか、聞きたいのか、自分でもわからない声だった。


 エドは立ち上がり、短く頭を下げた。


「悪かった」


 それ以上は言えない。


 説明しても意味がないし、納得させられるとも思えなかった。

 母親は息子を抱えたまま、何かを言いかけてやめて、後ずさる。

 旅人たちも何も言わず、ただ親子から距離を取る。


 それで十分だった。

 もうここにはいられない。


「行くぞ、リリア」


 エドが言うと、リリアはこくりとうなずいた。

 涙は落ちなかった。だが顔色はまだ悪い。


 ミレナも無言で荷物を持ち上げる。

 三人が広場を離れようとしたとき、背後で誰かが小さく言った。


「……やっぱり普通じゃない」


 聞こえないふりをした。


 それが今できる、いちばんましなことだった。


 休憩所を離れてしばらく歩いたあと、街道脇の林に入ったところで、リリアが足を止めた。


「おとうさん」


「ん?」


「……ごめんなさい」


 またそれか、とエドは思う。


「何回言うんだ」


「だって、あのこ、きえそうだった」


「消えなかった」


「でも、きえそうだった」


 確かにそうだ。

 今までは物や魔物ばかりだった。人間が、しかも同じくらいの子どもが、あんなふうに欠けかけたのは初めてだった。


 エドはそれを重く感じていた。

 感じていたが、それをそのまま返すわけにはいかない。


「リリア」


 しゃがんで目を合わせる。


「お前、止まっただろ」


「……うん」


「ちゃんと戻した」


「おとうさんが……」


「お前もだ」


 リリアは目を丸くした。


「お前が俺を見たから、止まったんだ」


 それは嘘ではなかった。


 エドの言葉だけで全部が収まるわけじゃない。リリア自身がしがみついて戻ってきている。たぶん、その力も必要なのだ。


「だから、だめじゃない」


 ゆっくり言う。


「危なかったけど、戻れた。そこは偉い」


 リリアの目に、やっと少しだけ光が戻る。


「……えらい?」


「えらい」


「ほんと?」


「ほんとだ」


 するとリリアは小さく息をついて、また服の裾を掴んだ。


 そのやり取りを少し離れたところで見ていたミレナが、低く言う。


「これ、前より悪くなってる」


 エドは立ち上がる。


「わかってる」


「魔物や物じゃない。今度は子どもだった」


「ああ」


「次は戻らないかもしれない」


 その言葉は重かった。

 だが、否定できない。


 エドが黙っていると、ミレナは少しだけ視線を落とした。


「……ごめん。今のは言い方が悪い」


「いや」


 悪いのは言い方じゃない。

 たぶん、事実のほうだ。


 林を抜ける風が、ざわりと枝を揺らす。

 リリアはその音に肩をすくめたが、さっきほどではない。


 エドは娘の手を握り直した。


「今日はもう人のいる場所に近づかない」


「うん……」


「少し休めるところを探す」


「うん」


 歩き出そうとしたとき、ミレナがふと後ろを見た。


 休憩所のほうではない。もっと遠く、街道の先。

 そこに、小さな人影があった。


 灰色の外套。丸眼鏡。

 ユリウスだった。


 遠目にもわかるほど、こちらを見ていた。

 見て、迷いなく手帳に書きつけている。


 ミレナの顔が険しくなる。


「……最悪」


 エドも振り返り、その姿を確認した。


 ユリウスは追ってこなかった。

 ただ、観測する者の顔で、去っていく三人を静かに見送っていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

面白いと感じていただけましたら、リアクションや評価、

ブックマークで応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ