第8話 小さな破綻
翌朝、リリアが目を覚ましたとき、焚き火はもう灰になっていた。
夜のあいだに何度か目を覚ましたような気もしたが、はっきりとは覚えていないらしい。少なくとも、起きた時の顔は昨日ほど悪くなかった。
「おはよう」
エドが声をかけると、リリアは毛布から半分だけ顔を出した。
「……おはよう」
「ちゃんと寝たか」
「たぶん」
「便利な言い方覚えたな」
そう言うと、少し離れた場所で水を飲んでいたミレナが振り返った。
「それ、完全にあんたのせいでしょ」
「人のせいみたいに言うな」
「事実じゃない」
そのやり取りを聞いて、リリアが小さく笑う。
笑えているなら、たぶん今は大丈夫だ。
エドはそう判断して、残りの干し肉と硬いパンを分けた。
朝食を終えたあと、三人は再び歩き出した。
街道を少し外れた先に、小さな水場のある休憩所があるとミレナが言う。旅人や近くの農家が使うくらいの場所らしい。人が多すぎる町よりはましだし、水の補充もしたかった。
「ひと、いる?」
リリアが聞く。
「いても少しだ」
ミレナが答える。
「町よりはずっと少ない」
「すくないなら、だいじょうぶかも」
その“かも”が本当ならいい、とエドは思った。
昼前に着いた休憩所は、思っていた通り小さな場所だった。屋根付きの東屋がひとつ、井戸がひとつ、あとは荷車を止められるだけの広場がある。
旅人が二組。農具を積んだ荷車が一台。子どもの声もするが、町の喧騒に比べればずっと静かだ。
「ここなら少し休める」
エドが言うと、リリアはほっとしたように息をついた。
井戸の近くで水袋に水を入れていると、広場の反対側から笑い声がした。五つか六つくらいの男の子が、木の枝を剣みたいに振り回して遊んでいる。近くに母親らしい女もいたが、洗い物に気を取られているらしい。
リリアはちらりとその子を見て、すぐ視線を戻した。
「きにするな」
エドが言う。
「うん」
とはいえ、気になるものは気になるのだろう。
同じくらいの年頃だ。村ではほとんど他の子どもと遊ばせる機会もなかった。あっても、うまくいかなかった。
エドが水袋の口を締めていると、背後で小さな足音がした。
振り返ると、さっきの男の子がリリアのすぐ前まで来ていた。
「ねえ」
何の悪気もない声だった。
リリアがびくっと肩を震わせる。
「その髪、きれいだね」
男の子はただ興味本位で言っただけなのだろう。
けれど、急に近づかれるのは駄目だ。
リリアは言葉を返せず、エドのほうを見る。
その目がもう不安に揺れている。
「リリア」
エドが声をかけようとした、その前に、男の子がさらに一歩近づいた。
「きみ、どこから来たの?」
返事はない。
代わりに、空気がわずかに冷えた。
ミレナがすぐ異変に気づいて顔を上げる。
「エド」
「ああ」
広場のざわめきが少しだけ薄くなる。井戸のつるべの軋みが遠くなる。陽の下なのに、景色の輪郭がほんの少しだけ滲んだ。
男の子はまだ何もわかっていない。
ただリリアが怯えていることだけは感じたのか、少しだけ不思議そうな顔になる。
「えっと……ごめん?」
その瞬間だった。
男の子の右腕が、肘の先から少しだけ薄くなった。
透けた、というより、そこだけ世界から削られかけているような感じだった。陽の光が歪み、輪郭があやふやになる。
完全には消えていない。だが、次の一瞬で消えてもおかしくない、不安定な欠け方だった。
ミレナの顔色が変わる。
「まずい!」
男の子が自分の腕を見て、遅れて悲鳴を上げた。
「え、なに、なにこれ!?」
広場の空気が一気に張り詰める。
母親が顔を上げ、旅人たちも何事かと立ち上がる。
リリアは真っ青だった。
肩が震えている。呼吸が浅い。自分が何をしているのかも、もうわかっていない顔だ。
「リリア!」
エドはすぐに二人の間へ割って入った。
男の子を後ろへ下がらせ、リリアの前にしゃがみこむ。
「見て。俺だ」
「おとうさん……っ」
もう涙がにじんでいる。
「だいじょうぶ、じゃない……!」
「うん」
「きえちゃう……!」
男の子の腕はまだ薄いままだ。完全に失われてはいないが、境目が曖昧に揺れている。母親が駆け寄ろうとしたが、ミレナがとっさに止めた。
「今近づかないで!」
「で、でもあの子の腕が……!」
「だから止まって!」
ミレナの声にも緊張が混じる。
エドはそれを聞きながらも、リリアから目を離さない。
「リリア」
両肩に手を置く。
「俺を見ろ」
「でも……でも……」
「大丈夫」
空気の揺れが少し強くなる。
井戸の縁がかすかにぶれ、桶の影が薄くなる。
まずい。
ここでリリアが完全に崩れたら、男の子の腕だけでは済まない。
エドは息をひとつ吸った。
「いい子だ」
はっきり言う。
リリアの目が揺れる。
「……え」
「いい子だよ」
エドはできるだけいつもの声で続ける。
「怖いのに、ちゃんと止まろうとしてる」
リリアの唇が震えた。
「でも、あのこ……」
「まだ大丈夫だ」
「ほんと……?」
「ほんとだ。だから俺だけ見てろ」
数秒。
リリアの呼吸が、少しずつ戻ってくる。
「おとう、さん……」
「うん」
「……いいこ?」
「そうだ」
その言葉と一緒に、張りつめていた空気がゆっくりほどけた。
遠のいていた音が戻る。井戸の軋み、旅人のざわめき、風に揺れる草の音。
男の子の腕も、境目の曖昧さを残しながら、少しずつ元の輪郭を取り戻していく。
完全に戻ったのを見て、エドはようやく息をついた。
男の子は泣き出し、母親が慌てて抱きしめる。
旅人たちは青ざめた顔で距離を取っていた。何が起きたのか理解できていないが、理解したくもない、そんな顔だった。
ミレナが低く呟く。
「……消えかけた」
エドは答えない。
答えたところで何も変わらない。
ただ、間に合った。それだけだ。
「リリア」
改めて呼ぶと、娘は泣きそうな顔で見上げてきた。
「ごめんなさい……」
「うん」
「また……」
「うん」
「わたし、だめ……?」
その言葉に、エドは少しだけ眉を寄せた。
「だめじゃない」
即答する。
「怖かっただけだ」
「でも、あのこ……」
「戻った」
エドはそう言って、リリアの頭を撫でた。
「ちゃんと戻った」
リリアはまだ震えていた。
涙はこらえていたが、指先の力だけが抜けていない。
そこへ、男の子の母親が怯えた顔のまま口を開く。
「あなたたち……何を……」
責めたいのか、聞きたいのか、自分でもわからない声だった。
エドは立ち上がり、短く頭を下げた。
「悪かった」
それ以上は言えない。
説明しても意味がないし、納得させられるとも思えなかった。
母親は息子を抱えたまま、何かを言いかけてやめて、後ずさる。
旅人たちも何も言わず、ただ親子から距離を取る。
それで十分だった。
もうここにはいられない。
「行くぞ、リリア」
エドが言うと、リリアはこくりとうなずいた。
涙は落ちなかった。だが顔色はまだ悪い。
ミレナも無言で荷物を持ち上げる。
三人が広場を離れようとしたとき、背後で誰かが小さく言った。
「……やっぱり普通じゃない」
聞こえないふりをした。
それが今できる、いちばんましなことだった。
休憩所を離れてしばらく歩いたあと、街道脇の林に入ったところで、リリアが足を止めた。
「おとうさん」
「ん?」
「……ごめんなさい」
またそれか、とエドは思う。
「何回言うんだ」
「だって、あのこ、きえそうだった」
「消えなかった」
「でも、きえそうだった」
確かにそうだ。
今までは物や魔物ばかりだった。人間が、しかも同じくらいの子どもが、あんなふうに欠けかけたのは初めてだった。
エドはそれを重く感じていた。
感じていたが、それをそのまま返すわけにはいかない。
「リリア」
しゃがんで目を合わせる。
「お前、止まっただろ」
「……うん」
「ちゃんと戻した」
「おとうさんが……」
「お前もだ」
リリアは目を丸くした。
「お前が俺を見たから、止まったんだ」
それは嘘ではなかった。
エドの言葉だけで全部が収まるわけじゃない。リリア自身がしがみついて戻ってきている。たぶん、その力も必要なのだ。
「だから、だめじゃない」
ゆっくり言う。
「危なかったけど、戻れた。そこは偉い」
リリアの目に、やっと少しだけ光が戻る。
「……えらい?」
「えらい」
「ほんと?」
「ほんとだ」
するとリリアは小さく息をついて、また服の裾を掴んだ。
そのやり取りを少し離れたところで見ていたミレナが、低く言う。
「これ、前より悪くなってる」
エドは立ち上がる。
「わかってる」
「魔物や物じゃない。今度は子どもだった」
「ああ」
「次は戻らないかもしれない」
その言葉は重かった。
だが、否定できない。
エドが黙っていると、ミレナは少しだけ視線を落とした。
「……ごめん。今のは言い方が悪い」
「いや」
悪いのは言い方じゃない。
たぶん、事実のほうだ。
林を抜ける風が、ざわりと枝を揺らす。
リリアはその音に肩をすくめたが、さっきほどではない。
エドは娘の手を握り直した。
「今日はもう人のいる場所に近づかない」
「うん……」
「少し休めるところを探す」
「うん」
歩き出そうとしたとき、ミレナがふと後ろを見た。
休憩所のほうではない。もっと遠く、街道の先。
そこに、小さな人影があった。
灰色の外套。丸眼鏡。
ユリウスだった。
遠目にもわかるほど、こちらを見ていた。
見て、迷いなく手帳に書きつけている。
ミレナの顔が険しくなる。
「……最悪」
エドも振り返り、その姿を確認した。
ユリウスは追ってこなかった。
ただ、観測する者の顔で、去っていく三人を静かに見送っていた。
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