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無能な父ですが、世界が壊れても娘だけは手放しません  作者: そらのことのは


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第7話 日常

 結局、その“泣き声みたいな音”の正体はわからなかった。


 エドとミレナが耳を澄ませても、街道の先に人影はない。獣の気配もない。ただ風が草を撫で、遠くで鳥が鳴いているだけだった。

 けれどリリアはしばらくのあいだ、何もない空の向こうを見ていた。


「まだ聞こえるか」


 エドが聞くと、リリアは少し迷ってから首を横に振った。


「……もう、ない」


「そうか」


 それならそれでいい、とエドは言わなかった。

 この子の“もうない”は、本当に消えた時もあれば、言葉にするのが嫌になった時もある。


 だが今は追及しないほうがいいだろうと、エドは思った。


 日が傾きかけている。今から次の町を目指すには遅い。街道を外れ、少し奥へ入ったところで休める場所を探すほうが現実的だった。


「今日はこのへんで泊まる」


 エドが言うと、ミレナが周囲を見回した。


「見張りは交代でやる?」


「ついてくる気満々だな」


「途中までだから」


「便利な言い方だ」


 そう言うと、リリアがぽつりと呟く。


「まだ、途中なんだ」


「らしいな」


「いつまで?」


「本人にもわかってないんじゃないか」


 それを聞いたミレナが、小さく鼻で笑った。


「失礼ね」


「違うのか」


「……少しは合ってる」


 その返事に、リリアがほんの少しだけ口元をゆるめた。


 街道脇の林を抜けた先に、小さな広場のような場所があった。木が円を描くように立っていて、真ん中だけ地面が開けている。近くに細い水場もある。野営には悪くない。


「ここ、おうち?」


 リリアが聞く。


「今日だけのな」


「また、きょうだけ」


「そのうち何日か使える場所も見つかる」


「たぶん?」


「そこは頑張る」


 リリアは少し考えてから、「がんばって」と言った。


 エドは荷袋を下ろし、枝を集め始める。ミレナは慣れた手つきで水場を確かめに行った。リリアは倒れた丸太の上に座り、二人を交互に見ている。


「じっとしてられるか」


 エドが聞くと、リリアはうなずいた。


「ちゃんと、いる」


「偉い」


「……えらい?」


「もう偉い」


 そう言うと、リリアは少しだけ背筋を伸ばした。


 焚き火はすぐについた。乾いた枝が多かったのが助かった。火が安定すると、夕方の冷えが少し和らぐ。

 ミレナも戻ってきて、水は飲めると短く告げた。


「毒草も少ないし、今日はましな場所ね」


「昨日も似たようなこと言ってたな」


「昨日よりはちゃんとしてる」


「基準が低い」


「旅の基準なんてそんなものよ」


 ミレナはそう言って焚き火の向こうに腰を下ろした。

 リリアはそのやり取りを見て、小さく首を傾げる。


「ふたり、なかよし?」


「違う」

「違うな」


 ぴったり同時に返したせいで、リリアが目を丸くした。


「いま、おなじだった」


「たまたまだ」

「たまたまよ」


 また同時だった。


 今度こそリリアが、ふっと吹き出した。


 ほんの短い笑いだった。声も小さい。

 それでもここ数日の中では、いちばん自然な笑い方だった。


 エドは思わず手を止める。

 ミレナも少しだけ驚いた顔をしたあと、視線を逸らした。


「……笑うんだ」


 ぼそりと呟く。


「そりゃ笑うだろ」


 エドが返す。


「娘だからな」


 ミレナは何も言い返さなかった。


 夕食は、干し肉と硬いパン、それに湯で少しやわらかくした豆だった。豪華さとは縁遠いが、温かいだけ昨日よりましだ。


 エドが木椀に豆をよそって渡すと、リリアは両手で受け取った。


「あつい」


「落とすなよ」


「がんばる」


 慎重にひとくち食べてから、少しだけ目を丸くする。


「……おいしい」


「ほんとか?」


 ミレナが疑わしそうに聞く。


「おいしい」


「豆よ?」


「きょうは、あったかい」


 その答えに、ミレナが少しだけ黙った。

 エドも何も言わず、焚き火に枝を足す。


 たぶん、そういうことなのだろう。

 味がいいわけじゃない。立派な食事でもない。ただ温かくて、座って食べられて、怒鳴る大人が近くにいない。それだけで、この子にとっては十分なのだ。


「おとうさん」


「ん?」


「これ、すきかも」


 木椀を持ったまま、リリアが言う。


「豆が?」


「まめと、あったかいやつ」


「それは汁だな」


「しる」


「覚えなくていいわよ、どうせ毎日は飲めないし」


 ミレナが言うと、リリアは真面目な顔で聞き返した。


「じゃあ、きょうはすごい?」


「……まあ、ちょっとは」


「すごい」


 リリアは満足そうに、またひとくち食べた。


 エドはその様子を見ながら、自分のぶんの椀を手に取った。

 火の明かりに照らされた娘の横顔は穏やかだった。昼間、あんなふうに不安定になっていたとは思えないくらいに。


「おとうさん」


「ん?」


「きょう、ちゃんとできた?」


 やっぱり聞くのか、とエドは思う。


「できたよ」


「なにが?」


「泣かなかったし、ちゃんと戻れた」


「……うん」


「それに、今はちゃんと食ってる」


 そう言うと、リリアは少しだけ胸を張った。


「えらい?」


「すごくえらい」


「そっか」


 その“そっか”が少し嬉しそうで、エドはようやく少しだけ笑った。


 ほんのわずかだったが、ミレナはそれを見逃さなかったらしい。


 少しだけ意外そうに、


「……あんた、笑えるのね」


「失礼だな」


「もっと無愛想かと思ってた」


「それはお互いさまだろ」


「否定はしない」


 焚き火が、ぱち、と鳴る。


 空はもうかなり暗くなっていた。木々の隙間に、薄い紫の名残が見える。夜が落ちるのは早い。


 食事を終えると、リリアは火のそばで膝を抱えた。温かいのが気に入ったのか、ぼんやりと炎を見ている。


「ねむいか」


 エドが聞くと、リリアは首を振った。


「ちょっとだけ」


「それは眠いって言うんだ」


「ちがう。まだ、おきてる」


「強いな」


「つよい?」


「少なくとも、さっきよりは」


 するとリリアは少しだけ考えてから、隣に座るミレナのほうを見た。


「ミレナも、つよい?」


「私は強いわよ」


 即答だった。


「剣も使えるし、寝なくても少しは平気」


「すごい」


「そうでもない」


「おとうさんは?」


 その問いに、エドは少し黙った。


「俺は普通だ」


「ふつう」


「無能寄りの普通だな」


 ミレナが吹き出した。


「自分で言うのね」


「事実だ」


 リリアはその言葉に、少しだけ眉を寄せた。


「おとうさん、むのうじゃない」


「そうか?」


「ちゃんといる」


 エドは返事に困った。


 火の向こうで、ミレナが何も言わずに視線を落とす。

 こういう時だけ、この子は妙にまっすぐだ。


「……それは、まあ」


 エドは咳払いしてから言う。


「そこは頑張ってる」


「うん」


 リリアは満足そうにうなずいた。


 しばらくして、ミレナが見張りは自分が先にやると言い出した。エドは断ったが、押し切られた。リリアも少し眠そうだったので、毛布をかけて丸太にもたれさせる。


「おとうさん」


「ん?」


「まだ、いる?」


「いるよ」


「ちゃんと?」


「ちゃんとだ」


「じゃあ、ねる」


 目を閉じる前に、リリアは小さく呟いた。


「きょう、ちょっとだけ、たのしかった」


 その言葉に、エドの手が止まる。


 たのしかった。

 こんな逃げるみたいな旅の途中で、豆の汁を飲んで、焚き火の前に座っただけの夜に、そんなふうに言うのかと。


「……そうか」


 それ以上、うまく返せなかった。


 リリアはすぐに眠った。

 寝息は浅いが、苦しそうではない。


 焚き火の向こうで、ミレナが静かに言う。


「……ほんとに、普通の子どもみたい」


「普通の子どもだよ」


 エドが返す。


「少なくとも、俺にはな」


 ミレナは火を見つめたまま、小さく息をついた。


「その言い方、たまにずるいわね」


「知らん」


 夜は深くなっていく。

 木々が風に揺れ、枝の影が地面をゆっくり這う。さっきまで穏やかだったはずの空気に、ふいに違和感が混じったのは、その少しあとだった。


 眠っているリリアが、かすかに眉を寄せた。


「……やだ」


 寝言みたいな、小さな声だった。


 次の瞬間、焚き火の火が、ふっと横に揺れた。


 風向きがおかしい。

 いや、それだけじゃない。火の輪郭そのものが、誰かに指でなぞられたみたいに薄く歪んでいる。


 ミレナがすぐ立ち上がった。


「エド」


「ああ」


 エドは眠るリリアのそばへ寄り、肩に手を置く。


「リリア」


 娘は眠ったまま、小さく首を振る。


「やだ……」


 何か夢でも見ているのか。

 ――それとも。


 焚き火の火が、もう一度だけ不自然に揺れた。

 けれどそれ以上は広がらず、やがて何事もなかったみたいに戻る。


 エドはしばらくその場を動かなかった。


「今の……」


 ミレナが低く言う。


「見た」


「寝てても起きるの?」


「知らない」


 エドは本当に知らなかった。


 ただ、リリアの額に触れると、少し冷たかった。熱はない。呼吸も落ち着いている。

 眠りは浅そうだが、苦しんでいる様子まではない。


「……大丈夫だ」


 そう言って撫でると、リリアの眉が少しだけゆるんだ。


 ミレナはその様子を見ていたが、もう何も言わなかった。


 火は再び穏やかに燃え、夜の林は静けさを取り戻す。

 けれどその静けさは、昨日までのものとは少し違っていた。


 そんな気配だけが、火の向こうに薄く残っていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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